熊本の夜空に消えた花火 | フーリガン通信

熊本の夜空に消えた花火

1月20日、2009年最初の代表戦、2011アジア杯予選の対イエメン戦が熊本で行われた。熊本での代表戦は初めてとのことで、最近すっかり集客力が落ちていた日本代表ではあるが、この晩は前売り完売で久しぶりの満員御礼である。


結果はご存知の通り2-1での勝利。代表とはいえ、海外組や天皇杯組抜きの、いわばBチーム仕様ではあったが、岡崎の代表初ゴール、乾、金崎の初登場等、いつになくフレッシュな日本代表を見させてもらった・・・。


フーリガン通信の読者ならもうお分かりと思うが、ここでの「・・・」の意味は、「で、それでいいの?」という意味である。公式戦で勝ち点3を獲得し、結果以上にゲームを支配していたから、岡田監督のように結果には「満足」すべきであり、選手達には「感謝」すべきなのかも知れない。しかし、本当にそれでいいのだろうか?それではお茶を濁して、茶碗のそこに溜まった何かを見えなくしているだけではないだろうか?


私はサッカーで飯を食っている訳ではないから、システムや戦術をとやかく言うつもりはない。プレイヤーとしても全くイケてなかったから、私から見ればめちゃくちゃ上手い選手達の技術について語る資格もない。そんな私が言いたいのはただ一点、「今回の代表は期待に応えただろうか?」ということである。


いうまでもなく満足の尺度の±ゼロは「期待」である。期待を上回れば満足であり、期待を下回れば不満ということである。評価者によって期待のレベルは違うし、パフォーマンスを構成する要素も一つではないから、その要素ごとに満足・不満はある。だからこそ様々な評価・評論が存在する。そういう事情を考えた上で、イエメン戦は少なくとも私の満足のいく内容でもなかったし、結果でもなかった。


そういうからには、ここで私の「期待」を述べておかなければなるまい。私のイエメン戦への「期待」、それはいつもの代表との「違い」であった。言い換えれば、それは将来に向けての「希望」である。 せっかくいつもの公式戦では見ることのできない新しいメンバー(現在のトップチームでも先発するメンバーは内田と田中位であろう。)なのだから、私はこの代表の中にいつもと違う“何か”を見つけたかったのである。


同じ監督に選ばれ、合宿では同じ哲学を叩き込まれ、同じコンセプトのサッカーを表現するように求められたはずであるから、そんなことを「期待」すること自体が理不尽であるのかも知れない。 いや、恐らく理不尽だったのであろう。その証拠に若くいつもと違う顔ぶれの代表チームは、序盤の素晴らしい先制点で「期待」をさせながら、結局は中央をカチガチに固められた中東チーム相手を攻めあぐねた。いつもの岡田ジャパンと同じように。


ゴール前を人で埋められたため、イエメン陣内で行き所のないパスは足元から足元につながる。必然的に支配率が上がる“偽りのポゼッション・ショー”。「追加点もいずれは入るであろう」という楽観の下に、安心しきったサポーターからは締まりなく繰り返されるワンパターン・チャント。そして空間全体から緊張感が失われた矢先にカウンターを食い、不用意なファール。与えたFKに対し、一瞬の駆け引きに負け、イエメンにとっては狙い通り、日本にとっては予想外の失点・・・。


アウェーで格下のイエメンはこのたった1本のシュートによる1点を得ると、定石通り露骨な引きこもりに入ったため、ボールを“渡された”日本はそこから圧倒的なポゼッション攻撃を再開する。しかし、相手を揺さぶることも、引き出すこともできないまま、焦りの中から放たれたシュートは赤い人壁に弾かれ、空砲としてゴール裏の闇に消えていった。


ゲームはこの後、岡崎のヘディングシュートのミスが、この晩唯一「期待通り」の働きを見せた田中達也に渡り、背の低い彼が身をかがめて当てたヘッドによってイエメンのゴール内に運ばれた。神様の粋な計らいは一度だけ。この1点で、日本は勝ち点3を手にすることができた。


田中と共に輝きを放ったかのように見えたFW岡崎であるが、バーやポストを叩くシュートはこういうゲームでは得点以上に印象に残るもの。結局は彼も歓喜と絶望の分水嶺を越えたのは一度のみである。香川は技術は高くても展開力不足を露呈し、満を持しての交代出場であった乾や金崎という「期待」も、その「若さ」(ここでは未熟を意味する)以外は何の「違い」も見せることはできず、その個性も存在感も、もう一人の交代出場選手“巻”の足元にも及ばなかった。


「世界を驚かそう。」そう言って指導を始めた監督が、自ら選んだ若手メンバー。当然のことながら、彼らこそこれまでの代表に「違い」をもたらすための、新たな素材だったはずだ。なのにどうしてだろう。青いユニフォームの首から出る顔は違うのに、彼らがピッチに描いたFootballは、恐ろしいほどにこれまで見てきた「代表」のままだった。組織を追及してきた日本のサッカーをさらに進歩させるのは、個の力、すなわち個性であるはずなのに・・・


正直に言わせてもらうと俊輔や松井のデビューの時の方が、その個性にもっと明るい“希望”が見えた。私の気のせいであれば良いのだが・・・


都会よりも空気が澄んでいるためであろうか、熊本の夜空はいつも私が眺める夜よりも黒く見えた。


魂のフーリガン