理想と現実-CL決勝を終えて- | フーリガン通信

理想と現実-CL決勝を終えて-

夢の欧州CL決勝が終わった。


誰が何と言おうとマンUを応援する私にとって、完敗という現実と向き合うことは悲しいことであったが、相手が大好きなバルサ、しかもこの夜のような「粋なサッカー」を見せられては仕方がない。せめてもの救いは、マンUサポーターとしても納得せざるを得ない敗北であったということであろう。私に言わせればローマの夜に登場したマンUは明らかに調子を落としていたが、そんな言い訳は許されないほど、バルサは強く、美しかった。


この通信の読者は恐らくLIVEまたは録画でゲームをご覧になっているだろうから、バルサのどこが素晴らしかったかはここで語る必要はあるまい。言いたいことは解説者の風間八宏さんが全て語ってくれた。見ていなかった方は、是非先月の通信「妖精たちの変異(進化)」http://ameblo.jp/becks7whites/entry-10241449395.html をご覧いただきたい。私はそこでバルサのサッカーの素晴らしさについて、風間さんとほぼ同様のことを語っている。もちろんかつてブンデスリーガで活躍し、現在も優秀な指導者である風間さんとは理解の深さが異なるが・・・


では、私は今回何を叫びたいか。多くの評論家やブロガーは今回の決勝について、バルサの素晴らしさ、美しさ、強さについて語っているが、私はあえてマンUについて語りたい。


グアルディオラ監督を始め、多くの人はマンUの序盤の怒涛の猛攻について、想定外だったと語っている。結果論として、マンUがバルサにリズムを掴む間を与えずに一方的に攻め続けた開始後9分間(この間にロナウドは何と3発のシュートを放っている)に得点できずに、イニエスタのセンターサークルからの何気ないドリブルで始まったバルサのこの夜初めての攻撃でエトーに得点を許したことで、このゲームの大勢が決まってしまった訳であるから、マンUのゲームへの入り方については多くの意見があるだろう。


しかし、私自身はファーガソン監督の意図は理解できるし、スターティングメンバーを見ただけで、マンUの攻める姿勢も感じ取れた。それはギグスのスタメン起用である。本来なら出場停止で欠場のフレッチャーが入る位置であるが、ここに冷徹な潰し役もできるスコールズではなく、守備では全く期待できないギグスを入れたということはまずは“攻める”というメッセージであった。とはいってもFWにテベスやベルバトフではなく、守備でも貢献できるパク・チソンを並べたところにファーガソンのリスク管理の意図がある。


今期のバルサは準決勝のチェルシー戦で苦戦した。ホームのカンプ・ノウで、老練なヒディンク監督の作戦によによりスコアレス・ドローに持ち込まれ、敵地スタンフォード・ブリッジでは先制点を奪われ、後半ロスタイムにこの日唯一相手ゴール枠内に飛んだイニエスタの起死回生の同点シュートで、同勝点ながらアウェーゴール・ルールにより、かろうじてこのローマの決勝に駒を進めることが出来たのである。バルサを殺しかけたヒディンクの作戦はバルサが忌み嫌う通称“アンチ・フットボール”。チェルシーは徹底的に守備を固め、攻めは身体能力の高いドログバやアネルカの単騎カウンターのみに委ねた。バルサは攻めているようで“ボールを持たされている”状態、そしてチェルシーは肝心の場面では激しく守り、ゲームを完全に殺したのである。


ファーディナンドやビディッチを擁するマンUも、やろうと思えば“ゲームを殺す”ことはできる。しかも、完璧に。そして、その現実的で冷徹な作戦が、美しさに拘るバルサを苦しめる最も有効な手段であることも知っていた。しかし、ファーガソンは自ら“攻めた”のである。何故か。答えは一つ、それが前回チャンピオンのプライドなのである。


ゲームを殺して、バルサに勝つのではなく、王者として堂々とバルサの挑戦を受ける。マンUで23年間も指揮を執る67歳の大監督は、シーズン終盤に期限付きでチェルシーに来て、しかもロシア代表との掛け持ちの暫定監督と違い、38歳のルーキー監督を堂々と正面から叩く道を選ぶことに、まず迷いはなかったはずである。それを可能にする素晴らしい才能を集め最強のチームを創り作り上げてきたという自信、そしてそういう素晴らしい決勝戦を求める周囲の期待、そして何よりも、ビッグイヤーを含め既にあらゆる栄冠を勝ち取ってきたファーガソン自身にとって、チェルシーが見せた“アンチ・フットボール”での自身3度目のCL制覇を実現したとしても、それはもっとも“面白くない”ことに違いない。


しかし、そんな「老人の楽しみ」も、勝ってはじめて自分のものになる。かつては「瞬間湯沸かし器」と呼ばれ、敗戦への怒りから控え室に置いてあったスパイクを蹴り上げ、ベッカムの美しい顔に傷をつけた男が勝利に拘らない訳がない。そこで執った戦法がゲーム開始直後の猛攻なのである。攻撃は最大の防御。イニエスタとアンリが復帰し、攻撃陣は駒が揃ったバルサであるが、センターのマルケスを怪我で、サイドのアウベスとアビダルを出場停止で失った守備陣は不安が残る。そこをついて、立ち上がりからルーニー、ロナウド、パク、ギグスで前線を掻き回し、中盤からもキャリックの対空砲火、アンデルソン、エブラのオーバーラップでバルサ陣内に混沌をもたらす。そして力技で強引に先制点をもぎ取り、後はチェルシーのスタンフォード・ブリッジで取った準決勝第2戦の戦法に移行する。


冷静に厳しく守りながらバルサの焦りを招き、バルサが前掛かりになったところで、ルーニー、ロナウドがカウンターの槍を刺す。時間の経過と共に、疲れが出るはずのギグスに代わって守備も攻撃も出来るスコールズが中盤で嫌らしい仕事をして、既に十分走っているはずのパクの代わりに前線ではより決定力を備えるテベスが槍のサポートに顔をだし、槍が逸れてもボールを追い続けてバルサの攻撃の根元を断つ。そして最後は追加点・・・。攻撃で明らかにチェルシー以上の選択肢と可能性を持つマンUである。序盤のマンUの猛攻を見て、私の脳裏にはそんな展開と「2-0」でマンUの勝利という結果がすぐに思い浮かんだ。魂が叫んだ。「来たね、ファーガソン!」


しかし、ファーガソンのイメージとピッチの上での出来事はズレが生じていた。その1つは文字通りのズレ、マンUのパス精度の低さである。ファーディナンドがとんでもないバックパスで自陣エンドラインを割ったが、それ以外のパスも序盤から精度を欠いていた。相手に繋がっても、受け手が欲しい場所からズレていたために、チャンスを逸し、展開にスピードを欠いた。あのルーニーまでもがである。理由は不明であるが、私は2節前にプレミアで優勝を決め、直前のゲームには若手に任せて、ほとんどの選手が休養を取ったことにあるかも知れない。大一番に向けて十分な休養は必要であろうが、英国での最後のタイトルとなるFA杯に敗れているため、CL決勝戦が今シーズンの最終試合となる。多少の疲労はあってもむしろ、実戦感覚と緊張感を維持したままこの夜に望んでいたら、このようなイージーなミスを序盤で連発するようなことがあっただろうか?すでにシーズン終盤で身体には疲労が蓄積されており、「調整」と「休養」のバランスを取るのは難しいものである。もちろんこの仮説には全く確証はないが。


そしてもう一つのズレは序盤の猛攻撃の中心人物、C.ロナウドの“気負い”である。「気合」は良いが、「気負い」はNG。今季はポルト戦の一発やアーセナル戦のFKなど、長距離のシュートの精度と威力に磨きが掛かったロナウドであるが、自分の一発で決めてやろうという意識が序盤から強すぎた。全てのシュートは「来るぞ!」と準備が出来るほど力みもので、優秀なGKであれば対処もし易い。おまけに力みが激しいため、ここでも微妙な精度にズレが生じていた。世界最高の選手に何があったのか。何もない。コンディションは良さそうだった。問題はその若さと、さらに高いものを望む個人の欲望であった・・・私はそう思うのだ。


ロナウドは昨シーズンに驚異的な得点力を発揮し、ダントツの評価でバロンドールとFIFA年間最優秀選手を獲得した。しかし、彼自身獲得できなかったものがある。いや、置き忘れてきたといった方が良いだろう。それはCL決勝戦での彼自身の満足感である。チェルシーとの雨中の決勝戦PK戦で彼は失敗した。最後は勝利を収め、クラブはビッグイヤーを手にしたが、彼自身は完璧であるべきシーズンの最後に苦々しい思い出で終えたのだ。だからこそ、今季の決勝への思いは並々ではなかったと思われる。実際にゲーム前のコメントからも、その強い渇望は十分に見て取れた。そして相手にはCL得点王を手中にし、今季の個人賞の本命であるメッシがいる。シーズンオフのひざの手術で序盤出遅れたロナウドであるが、後半には重要な場面で得点を続け、この夜の活躍しだいでは2年連続のバロンドール獲得も夢ではない。彼が気負うには十分すぎるほどの理由があった。若いと言ってしまえばそれまでだが、そういう人一倍強い気持ちがあるからこそ、若くしてトップの座に上り詰めることが出来たのである。そう思うと、これもまた仕方のないことなのであろう。


これらの微妙なズレが、マンUのゲーム・プランの遂行を阻害した。そして、そのような問題を抱えながらも力づくで攻め続け、目標の完遂も時間の問題と思わせた中、前述のエトーの得点が生まれた。しかも実に簡単に。イニエスタがドリブルを開始したときにはマンUのDFがしっかりと迎撃体制を構えていた。しかし、プレミアなら絶対に相手を倒していたであろうアンデルソンは、ほとんど無抵抗でスルスルと上がるイニエスタの侵入を許した。DFを前にしたイニエスタからのパスを右サイドで受けたエトーは、これまた実に容易にヴィディッチの横をすり抜けた。そして次の瞬間にはボールはファン・デル・サールの腕を弾いてネットを揺らしていた。


マンUの落胆は大きかったに違いない。自分たちがあれほど攻めても奪えないゴールを、たった二人でいとも簡単に盗まれたのである。一方のバルサは、この予想外の(失礼)ゴールで、一気に息を吹き返した。マンUとバルサのモチベーションカーブはこの時に一気に交差し、バルサが得点の上でも、精神の上でも優位に立ったのである。後の展開は多くを語る必要はあるまい。技術のある選手が余裕を持った時、どういうことが出来るのか。マンUはゲームの残りの時間、それを嫌というほど味わったはずである。シャビがノーマークで前を向けば、ファーディナンドとオシェイという大型DFの間に侵入した小さなメッシの頭にピンポイントでドライブ・カーブのかかったクロスを入れることができるのである。序盤に先取点を上げたチームが、焦りの中で前がかりになったチームの裏をついてカウンターで追加点を上げ「2-0」・・・皮肉にも、ファーガソンが描いたストーリーがそっくりそのままバルサのものになったのである。


多分に私の思い込みが入っていることは否定しないが、この夜の決勝戦はそんなものだったのではないだろうか。結果としてバルサのパスワークが冴え、王者マンUを手玉に取ったことで、バルサの強さと美しさが印象に残ったゲームではあったが、もし序盤の猛攻でマンUが先取点を挙げていれば、結果まったく逆のものになっていたかもしれないのだ。実際に私はこれまでにそんな「2-0」のゲームを数多く見てきている。勝利と敗北は実は紙一重。フットボールはだからこそ面白い。


前述の過去の通信で、「美しいフットボールは必ず敗れる」というフットボールの真理に言及した。そしてその時の相手は大概「より美しいフットボール」ではなく、「現実的なフットボール」である。バルサより美しくはなく、かといって現実的にも徹し切れなかったマンUが敗れたのは、その意味では必然であったのだろう。今はただ、「絶対に観ておくべき」と推奨したバルサが欧州のクラブの頂点に立ったこと、「美しいフットボール」が敗れなかったことを素直に喜びたい。相手がマンUであったことは残念ではあったが、バルサの最後の相手がマンUであったこともまた事実。他のクラブではなかったことは、私のせめてもの喜びである。


EUROでのスペインの優勝で幕を開けた2008-09のシーズン、その舞台のトリを華麗に舞ったのもまたスペインの攻撃的なパスサッカーであった。このシーズン、フットボールの神様はすこぶる機嫌が良かったようだ。大いに感謝したい。来シーズンもよろしく!


魂のフーリガン


p.s. ローマでの欧州CL決勝戦。この最高の舞台で、マンUのスタメンに朴智星が並んだ。ゲームとは別の次元で嬉しく、そして誇らしく感じた。私だけだろうか。