水色の夕焼けへの想い | フーリガン通信

水色の夕焼けへの想い

ジュビロ磐田がJ2ベガルタ仙台と入れ替え戦を戦っている。仙台での第1戦は仙台に先取点を許すも松浦のゴールにより、1-1で引き分けた。アウェイでの貴重な勝ち点1と、ホームでの第2戦がもし0-0の引き分けであったとしても磐田をJ1残留に導くことになる得点で、磐田が有利になったという・・・


事実はその通り。その報道に誤りはない。しかし、“史実”から見れば、こうして磐田がJ2との入れ替え戦を戦っていること自体が何かの間違いである。しかし、勝負の世界で“史実”、すなわち過去の実績は、何に役にも立たない。そんな当たり前の道理を分かってはいても、やはり頬をつねりたくなる。当事者が、他ならぬあの“強豪”の名を欲しいままにした“ジュビロ磐田”だからである。


磐田の前身は“ヤマハ発動機サッカー部”、1972年の設立である。プロ化前からJFL1部の強豪であったヤマハは、当然Jリーグへの参加に向けての準備をしていたが、静岡県西部の小都市のクラブは“スタジアム”のプロ化基準を満たすことが出来ず、1993年のJリーグ開幕時には準会員としてJFLのクラブのままであった。1993年10月の“ドーハの悲劇”を経験した時、活躍した中山雅史と吉田光範はまだJリーガーではなかったのである。


しかし、1994年に一足遅れてJリーグに参加した磐田は、その実力どおりの健闘を見せた。当初は監督にオフト、スコラーリ、選手にファネンブルク、スキラッチ、ドゥンガといった外国人に頼ったが、その中で若手の日本人選手が育ち、クラブは次第に監督も選手も日本人化を推進していった。そして桑原監督の下、日本人中心でコンスタントな力を発揮できるようになり、パス主体の攻撃型チームは、1997年にはセカンドステージを制し、チャンピオンシップで鹿島を破り年間王者となる。ジュビロの黄金時代の幕開けである。


以降、Jリーグ、ナビスコ杯、アジアクラブ選手権と、次々とビック・タイトルを獲得し、アジア有数のクラブとなったジュビロ磐田であるが、そのピークは日韓W杯で沸いた2002年であった。その年、磐田はJリーグ史上初となるリーグ戦前後期完全優勝を成し遂げたのである。将軍・名波、智将・藤田を中心とした中盤はその華麗なパス回しで対戦相手を圧倒し、高原、中山のツートップはその爆発的な破壊力で次々と相手ゴールを餌食にした。年間30試合での通算成績は2631分。その結果として同年のJリーグベストイレブンには26得点を挙げJリーグ得点王&MVPの個人2冠を達成した高原を始めとして、名波、藤田、中山、福西、田中誠、鈴木秀人の7人ものメンバーが選出された。同一チームから7人という記録はJリーグ94年のベルディとのタイ記録であるが、ベルディの場合は7人にビスマルク、ペレイラ、ラモス瑠偉という3人の個性豊かなブラジル人(ラモスは日本に帰化したが)が含まれていたことを考えると、選ばれた7人全員が日本人であった当時の磐田が、如何に完成されたチームであったかがうかがえる。


しかし、その後王者・磐田も、主力選手の離脱や衰えと共に徐々に弱体化して行く。2003年に高原はハンブルガーSV、藤田はユトレヒトに旅立って行った。レンタルの藤田は移籍金がネックになり一旦は戻ったが、2005年に再び名古屋に移籍。2006年に服部はベルディ東京、名波はセレッソ大阪(翌年にはベルディ)、そして最後の大物となった福西も2007年にベルディへと移籍して行った。最後までクラブに残った“ジュビロの太陽”中山は、相手DFの他にも自らの年齢と怪我との闘いを余儀なくされ、その輝きを失っていった。


もちろんJ屈指の強豪には、前田、菊地、成岡、カレンといった新しい才能も加わり、他のクラブからも川口、村井、茶野、駒野といった実績のある選手も加わった。メンバーを見れば、王国の継承は問題ないかに見えた。しかし、崩れだした王国の牙城は脆く、クラブは2003年2位、04~06年は5~6位、07年9位とリーグの順位を下げ、そして今期2008年、16位とついにJリーグ参加後初めてのJ2との入れ替え戦を経験することになった。そして、クラブ人事の最新のニュースは、今期クラブに戻った名波浩の引退と、クラブ生え抜きで戦い続けた田中誠への戦力外通告、共に黄金時代を支えた選手に関する悲しい知らせ・・・


確かに磐田は強かった。強さの理由は中盤から前線の速く多彩なパスワーク、その華麗なパス回しとポゼッションを支えたのは、パスが出る前の周囲の動きである。それもパスが出た時には次のパスを受ける3人目の選手が既に動き出しているといった緻密な連動であった。では何故、個性豊かな選手達があのように見事な呼吸で、連動するサッカーができたのだろうか。私は、その理由は長期のレギュラーメンバーの固定化によるものであったと考える。黄金時代のチームが完成されすぎていたのだ。彼らに依存しすぎたがゆえに、新たな戦力が同化し切れず、成長し切れなかったのである。


黄金時代を築いた選手達は、皆若手の頃から同じピッチに立ち、互いに上手くなり、互いに成長してきた。この相互理解は日本人中心のチーム作りを志向したクラブだから出来たことだろう。完成されすぎたチームであったがゆえの悲劇。私にはそう思えてならないのだ。


しかし、世界中の強豪クラブは、いずれもこの「谷間のサイクル」を経験して来ている。マンUだって、チェルシーだって、“2部落ち”を経験してきているのだ。苦しさを乗り越えた時に真の喜びがある。だから私は磐田の明日に期待したい。ここで言う“明日”は「入れ替え戦第2戦」のことではない。もっと先の、10年、20年先に再びJリーグで優勝を争うであろう、“その日”のことである。


“その日”はきっと来る。間違いない。ジュビロの語源は“歓喜”なのだから。


魂のフーリガン


追伸:

入れ替え戦を直前にして、ジュビロ・サポの方には不吉な内容であるかもしれない。しかし、今だからこそ書いておきたかった。磐田のあの“キングダム・サッカー”が大好きだったから・・・ご容赦下さい。