フーリガン通信 -16ページ目

本田圭祐-成り上がりの行方

12月31日(日本時間では1月1日)、オランダ・エールディビジVVVフェンロの日本代表MF本田圭祐の、ロシア・プレミアリーグのCSKAモスクワへの移籍が発表された。契約期間は4年。移籍金は900万ユーロ(約12億円)とのことである。


本田は欧州での活躍を目指し、突如2008年1月に名古屋グランパスからVVVに加入。そのシーズンにクラブは2部降格の屈辱を味わうが、08-09年シーズンはキャプテンとしてMFながら16ゴールを挙げ2部のMVPとなり、1部昇格の原動力となった。


上昇志向の強い本田はビッグクラブへの移籍を希望していたが、シーズン前には残念ながら声がかからず、今季もクラブに残留、序盤はその破壊力でリーグの話題を独占する活躍で、シーズン途中から1月にはビッグクラブへの移籍が噂されていた。


まず本人が希望したのは欧州でも実績のあるオランダ上位クラブ。有力視されていたのはPSVアイントホーフェン、アヤックスであったが、冬の移籍シーズンが近づくにつれ、イングランド・プレミアリーグのリバプールやエバートンと言ったビッグクラブも関心を示すなど、日本での評価以上に本田の欧州での評価は高いことが伺えた。


有力な移籍先候補としてCSKAモスクワの名前が出てきたのは12月中旬、つい最近のことである。当初の報道によれば、CSKAモスクワは600万ユーロ(約7.7億円)を準備していると言われていたから、その後の交渉の結果300万ユーロがテーブル上に積み上がったことになる。


“カイザー(皇帝)・ケイスケ”と呼ばれ、絶対的な大黒柱であった本田を失うのは、フェンロにとっても痛いはずである。しかし、VVV側は「期待通りの金額で移籍がまとまり、利益が上がったことに大変満足している。もちろんケイスケがクラブを去ることは残念だが、この移籍は将来的に我々のクラブに健全な経営基盤をあたえてくれるだろう」とコメントしている。


売り手のVVV側はほぼ要求通りの移籍金を手にし、経済的な利益を得たことになるが、買い手のCSKAモスクワにしてみれば、本田は当初予算を300万積み上げても手に入れたかった選手であったということ。本田自身も、欧州のビッグクラブでのプレーに飢えていた訳であるから、欧州チャンピオンズリーグの決勝トーナメント進出を決めているクラブへの移籍はその強い“成り上がり”願望を満たす選択であっただろう。つまり両クラブと選手の3者がともに満足の行く結果であったと言える・・・ように見える。


では、この結果は本当に本田にとって良い移籍だったのだろうか。本田自身が満足しているのだから余計なお世話ではあるが、私には2つの不安要素がある。それはロシア・プレミアリーグそのもの、そしてCSKAモスクワの現状にある。


1991年のソ連崩壊後、ロシアには急速に資本主義が流入した。2000年代に入ってからは、国内の好景気を背景としてサッカークラブに大手企業の資本が投入されるようになり、クラブはその潤沢な資金を背景にブラジルや欧州から積極的に選手を買い取るようになる。本田を買ったCSKAモスクワもその一つ。2006年からVTB (ロシア対外貿易銀行)と巨額のスポンサー契約を結び、ブラジル人を中心に積極的な選手補強を行っている。


大金持ちの傾向として、何でも金で簡単に解決してしまうという傾向がある。その裏では往々にして長期的な視点が欠落する。実際にCSKAモスクワも2009年1月に3年契約でジーコを監督に迎え、国内のカップ戦で2冠を達成しながら、9月10日にリーグ成績不振を理由に解雇。後任のファンデ・ラモスは12月までの4ヶ月間の契約(欧州CL決勝トーナメント進出の際は契約延長というオプション付き)でありながら、目だった改善を見せない成績に10月26日に再び解雇。現在の監督レオニード・ルスツキーはシーズン3人目の監督なのである。


ファンデ・ラモスにとっては皮肉なことに、クラブは今季欧州CL決勝トーナメントに進出したが、2009年のリーグの最終成績は5位、国内カップも早期に敗退しており、欧州CLで優勝しない限り来シーズンの欧州CLの舞台に立つことはできない。

冬季は国土が積雪に覆われるので、ロシア・プレミアリーグは日本のように春-秋制で開催されるため、もうリーグは終了しているのだ。)


CSKAモスクワは、欧州CL決勝トーナメン1回戦でセビージャと2月24日にホームでファーストレグ、3月16日にアウェーでセカンドレグを戦う。それが本田にとって大きなモチベーションであることは理解できる。しかし、残念ながら客観的に見てCSKAモスクワというクラブにたとえVVVの“カイザー・ケイスケ”が加わっても、欧州CLを制することは考えられない。したがって再び欧州CLを戦うためには、本田が成し遂げなければならないことは多い。それ以前に、これだけ頻繁に監督が変わるクラブで、本田を評価した現在の監督がいつまでも指揮を執るかどうかも分からない。


ならば、本田自身は“金以外”に何を求めてこの極寒のリーグに向かったのか。


もし、自身が再びカイザーとして振舞える可能性を求めてこの程度のクラブを選んだとするならばそれは悲しい選択であり、その結果として次のビッグクラブへの成り上がりを見据えているのであればそれは遠回りではないだろうか。茨の道を自ら切り開くという男気は結構であるが、欧州のトップレベルで23歳はそんなに若くはない。


本田は自身のHPで「もし1%でも自分に疑う気持ちがあれば行かないだろう」という言葉を掲載している。彼には悪いが、私は彼の100%の自信の真意が読めない。せめて欧州CL決勝トーナメントの生涯出場記録が2試合で“永久凍結”しないことを祈っている。


それも、まずはセビージャとの対戦にピッチに立つことが先決である・・・


魂のフーリガン









遠藤保仁の時代

2010年最初のタイトルマッチ、元旦の第89回天皇杯決勝はガンバ大阪が名古屋グランパスを下して大会2連覇を果たした。


最後は4-1という結果であったが、終盤の名古屋の2失点はあまり意味を持たない。点を取るためにリスクを取った結果であり、ピクシーの判断は妥当だった。そこから2点を積み上げたガンバはしたたかだったが、内容は2-1が相応しい好ゲームだった。


試合を決めたガンバの2点目を決めたのは、2009年アジア最優秀選手の遠藤。開始6分には“らしい”右足インサイドで見事な先制点の基点となった遠藤であったが、この後半32分の場面では“らしくない”プレーから生まれた。


1-1のまま膠着した状態が続き、中盤が緩慢になっていた時間帯、味方が中央でボールを持つと、誰よりも早く前に動き出したのは、普段は中盤の底を住処とする青の7番。右前方に出されたスルーパスに見事なスプリントで追いつくと、絶妙なワンタッチでDFの裏を取り、さらにもう一人を置き去りにして中に切れ込むと、その“左足”でミドルシュート。狙い済ました低い弾道は、楢橋の伸ばした手の先を通過し右サイドネットに突き刺さった。


機を捉えた緩から急への切り替え、無駄のないコース取り、トップスピードの中での見事なコントロール、そして相手を視野に入れての冷静なフィニッシュ。久々にワールドクラスのプレーを見させてもらった。


中盤の底でシンプルにボールを散らすプレーに徹する遠藤には派手さはないが、そのプレースタイルゆえか、彼はボールを失わない。しかし、それは彼の巧みなフリーランニング、高い技術、広い視野、そしてイマジネーションが融合した結果である。


そのプレーの質とチームでの役割、存在感はバルセロナのシャビと似ている。個人のタイトルこそ僚友メッシに総取りされてが、地味な役回りにもかかわらず、すべての賞の最終候補に顔を出した。むしろクラブにおける重要度はメッシ以上だろう。現在世界中が絶賛するバルサの華麗なパスワークはメッシではなく、常に彼から始まっている。


遠藤とシャビ、アジアと欧州を代表するリンクマンは、ともに1999年のワールドユース選手権ナイジェリア大会の決勝のピッチに立っていた。(結果は4-0という大差でスペインが優勝)そして、それぞれの国で輝かしい将来が期待された選手たちの中で、現在もスペイン、日本の代表に君臨するのはシャビと遠藤だけである。


しかし、シャビはワールドユースの後もシドニー五輪銀メダル、日韓・ドイツW杯出場、ユーロ2008優勝と、代表でも輝かしいキャリアを築き上げてきたが、遠藤はシドニー五輪は本大会メンバーから外れ、やっと出場を果たしたドイツW杯でもフィールドプレーヤーの中で唯一人ピッチに立つことはなかった・・・


しかし、遠藤はそのプレー同様、淡々と階段を上ってきた。いつの間にか黄金世代のメンバーが消えて行く中、ついに代表の中心選手となった。彼が時代に追いついたのか、時代が彼を迎えたのかは分からない。しかし、とにかく人より若干遅くとも遠藤は自身のキャリアのピークに南アフリカW杯を迎えることになった。


せっかくの世界最高の舞台である。私は密かに日本代表がスペイン代表と対戦することを願っている。そしてその時は、遠藤はゲーム後にシャビと微笑みながらユニフォームを交換する。互いの11年間を称えて・・・


遠藤保仁、素晴らしい初夢をありがとう。


魂のフーリガン




A Happy World Cup Year!

Footballファンの皆様、明けましておめでとう。


昨年は大サボリを演じ、シリーズ企画を2通積み残してしまった。

もともと誰かに約束して書いているわけではないので、特に気にしてはいないのだが、年を越してしまったことはそれなりに反省している。いずれ書き上がったら発信したいと思う。


それはそうと、いよいよW杯の年が幕を開けた。自身にとっては1970年メキシコ大会から40年、11回目の大会となり、当通信も2002年日韓大会にメルマガで開始してから3大会目となる。


思えば、今でこそ日本でのサッカーは大衆スポーツとして野球に次ぐ地位を得ているが、その昔はとても人気スポーツとは言えなかった。


その「助走」は日本サッカーのプロ化であるJリーグ発足とほぼ時を同じくした「ドーハの悲劇」、アメリカW杯予選であろう。そしてその助走は、フランス大会でのW杯初出場という輝かしい「大きな第一歩」に繋がる。続く地元開催の日韓大会で一気に弾みをつけ、ドイツ大会、南アフリカ大会へと日本サッカーは走り続けてきた。


近年の日本サッカーの発展においてW杯が果たした役割は大きい。W杯が日本サッカーを育て、W杯が日本人にサッカーの魅力を教えたのである。もう日本がW杯出場を果たしても、初出場を決めたときのように「○○の奇跡」とは呼ばれない。日本サッカーの成長の証である。


今年、新たな大陸でW杯が開催される。どんな結果であろうと、日本はまたひとつ「経験」という財産を手にする。そしてその経験は必ずや明日の日本サッカーの発展に寄与するのだ。


だから皆にお願いしたい。この大会をどう展望するのか、これまでもそうであったように、これからも様々な意見があるだろし、様々な議論がなされるだろう。しかし、ひとつだけ外して欲しくないことがある。


それは「大会を楽しんでもらいたい」ということ。「サッカーを、Footballを愛して欲しい」ということ。


そういう気持ちで大会を見てもらえば、どの国が優勝しようが、日本がどんな成績であろうが、きっとあなたは大会に満足するはずだ。そして、あなたは次の大会が楽しみになる。


何でそんなことが言えるかって?理由は簡単、それは私自身がそうだったからである。


さあ、四の五の言わず一緒に楽しもうぜ。待ちに待ったWorld Cup Yearを!


今年もよろしく


魂のフーリガン