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「月球儀」&「芭蕉座」  俳句を書くメゾソプラノ山本 掌のブログ

第四句集『月球儀』
「月球儀」俳句を支柱とした山本 掌の個人誌。

「芭蕉座」は芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品とする
うた・語り・作曲・ピアノのユニット。
    



俳句を金子兜太に師事。「海程」同人・現代俳句協会会員。



感泣亭秋報




小山正見さんより『感泣亭秋報』十号をいただく。

小山さんは丸山薫賞詩人・小山正孝のご子息。
小山正孝の詩業を顕彰しつづけている。

今年は 『小山正孝全詩集』刊行を記念しての
この秋報は10号になる。
力のこもった評論や詩作品、
内容そして分量ともにとても充実して、素晴らしい。


目次をご覧ください。


   『感泣亭秋報』十号 目次

詩 つばめ横町雑記抄(絶筆) 小山正孝 4p

    
   特集『小山正孝全詩集』

『小山正孝全詩集』全二巻に寄せて 山崎剛太郎 7p

「感泣五十年」 八木憲爾 9p

小山正孝の“抵抗” 池内輝雄 13p

『小山正孝全詩集』刊行に際して――「あひびき」の詩を中心に 菊田守 17p

いのちのいろどり『小山正孝全詩集』に寄せて 高橋博夫 20p

『山の奥』の詩法――今あらためて立原道造と小山正孝の接点を問う 國中治 22p

小山正孝についての誤解 三上邦康 25p

花鳥風月よりも何よりも「人」を愛したソネット詩人小山正孝 小笠原 眞 26p

「灰色の抒情」 大坂宏子 37p

“私わたくし”的の『小山正孝全詩集』 相馬明文 38p

雪つぶてをめぐる回想 森永かず子 40p

「アフガニスタンには」に触れ想念す 深澤茂樹 43p

心惹かれる『山居乱信』 萩原康吉 46p

『十二月感泣集』から 里中智沙 47p

『小山正孝全詩集』に接して 近藤晴彦 49p

『小山正孝全詩集』作者の目 藤田晴央 52p

『小山正孝全詩集』刊行によせて――小山正孝と田中克己 中嶋康博 54p

『山の樹』から感泣亭へ 松木文子 58p


造化の当惑――詩集『山の奥』のために 渡邊啓史 62p

小山正孝の詩の世界9 『十二月感泣集』 近藤晴彦 92p

最後の小説「傘の話」を読んでみた 相馬明文 97p


「雪つぶて」に撃たれて 山田有策 102p

「雪つぶて」作曲のこと 川本研一 107p

正孝氏のジャケット 坂口杜実 109p

お出かけする三角 絲りつ 112p


詩 薔薇 里中智沙 118p

詩 机の下 小山正孝「机の上」へのオマージュ 森永かずこ 120p

詩 互いの存在 大坂宏子 124p

詩 第二章  絲りつ 127p


小山正孝の周辺4――戦後出版と紙 蓜島亘 128p

昭和二十年代の小山正孝6――小山=杉浦往復書簡から 若杉美智子 140p

感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 144p


2015年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行
問合せ先:神奈川県川崎市中原区木月3-14-12

























  密密と葬るまで会う落葉どき             掌






















  とき 
 時刻とどめおちばくちばに瑠璃蜥蜴             

   












◆落葉(おちば・らくよう)・落葉焚き・落葉籠

 柿落葉・朴(ほう)落葉・銀杏落葉


落葉樹が葉を落とすこと、
また、落ちた葉をいう。


冬の季語。


























  
  鰐と化す雲が動いて枯野かな               掌














◆枯野・枯野原・枯原・枯野道・枯野人


草木の枯れてひっそりした、
もの寂しい冬の野をいう。


冬の季語。























 まどろみや枯葉の檻にしずみつつ             掌












  










 昼ふかく枯葉に溺死することも               掌












◆ 枯葉


草木の枯れた葉をいう。
地上に落ちているのも、
樹上に残っているのもある。


冬の季語。













  


藤田




「藤田嗣治展」を東京国立近代美術館 MOMATで観た。

4階、3階の2フロアを使い、
所蔵する藤田嗣治の全作品25点と特別出品の1点、
計26作品が展示されている。

藤田の乳白色の裸婦や猫などは
観る機会も多々ある。

今回の展覧会では、
なんといってもアメリカから「永久貸与」され、
近代美術館所蔵となった「戦争画」が圧巻。
150点ある戦争画の修復もほぼ終わっているとか。

藤田の戦争画14点を初めて観た。
展示室全体の照明もかなりしぼられている。
室温も下がった感があって、
そのうす闇のなかの大画面に
<茶色の塊>が眼に飛び込んでくる。

それは死と生のはざま、
極限の人間の生々しい姿がドラマティックに描かれて。
圧倒され、息が苦しい。

あの戦時下でこれらの絵を観て、
人びとはどのように感じたのか。
これが「戦意高揚」に結びつくのだろうか。


藤田が監督をつとめた映画がギャラリー内で常時上映。
子供たちの遊びや風俗などが撮られ、
唯一残ったもの、とか。

他に藤田旧蔵の挿絵本や、
藤田の言葉を伝える当時の雑誌など。


12月13日(日)まで。


近代美術館 ホームページ
  http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/


















てぶくろ

          岡崎和郎《位相的手袋》1965年 個人蔵
                 撮影:木奥恵三



「てぶくろ ろくぶて展」を東京近代美術館で観た。

「モノ」と「私」とはどのように出会うか。
フランスの哲学者・メルロ ポンティの言葉を案内人として、
オブジェ、写真、映像、絵画など約30作品展示の小企画。


展示構成は、

Ⅰリヴァーシブルについて考える

Ⅱ私が私にさわる

Ⅲ一点透視法を疑う


このような視点での展示、
とても興味深い。

12月13日(日)まで。


◆近代美術館 ホームページ
   http://www.momat.go.jp/am/exhibition/glove/


フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティ(1908‐1961)は、
「私」だけがあるのでも「モノ」だけがあるのでもない、
「私」と「モノ」が出会う、その接触面にだけ、
世界は成立するのだと考えました。ちょうど、
手袋の布一枚をはさんで内側の「私」と
向こう側の「世界」が触れ合うように。

私たちは、どのようにして
私たちを取り巻く世界と出会うのでしょうか。

たとえば、今そこにあるモノは、
私が見ていない時にもちゃんとそこに存在するのでしょうか。
それとも、私が見ているからこそモノはそこにあり、
私抜きではモノは存在しない、
つまり私が知覚していなければ
私を取り巻く世界も消えてしまうのでしょうか。

反対に、私はそんなに大した存在ではなく、
私もまた世界に無数にあるモノの一つに過ぎないのでしょうか。

しかしそのとき、他のモノとはちょっと違うはずの
「モノを知覚している私」という存在を
一体どう考えればいいのでしょうか。


















栗木達介




近代美術館工芸館にて、
「ー現代陶芸の鬼才ー栗木達介展」を観た。

造形の妙、これが陶芸かと驚嘆。
その大きさ、写真で見たものから
イメージしていたよりずっと大きなオブジェ。

その計算しつくし、それを超えた造形、
その存在感、重量感はあるが、すっきりとして、
陶芸の規範におさまらないような作品。

12月13日(日)まで。


◆作品画像
   http://www.momat.go.jp/cg/exhibition/kurikitatsusuke/


 
◆インターネット・ミュージアム
   http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=717&toNews


◆工芸館 ホームページ 

栗木達介(1943-2013)は、愛知県瀬戸市の陶家に生まれ、
京都市立美術大学で富本憲吉や近藤悠三、
藤本能道、清水裕詞に学びました。

1966年に卒業した後、瀬戸で作陶活動を始め、
オブジェや自由な表現をうたう
現代陶芸が昂揚するなか、
朝日陶芸展や日本現代工芸美術展、
日展等で大賞の受賞を重ねて一躍台頭し、
まさに陶芸界の次代を担う作家として
高い評価を獲得しました。

1983年からは母校の京都市立芸術大学で
教鞭をとって後進の指導を行いました。
2013年に急逝し、その才能が大変惜しまれています。
 
既成の伝統や常識にとらわれず、
やきものの素材と特質を自らの視点と思考で
とらえた造形を繰り広げ、
現代陶芸に対する問題意識を表してきました。

手びねりの“オブジェ陶”で独自のかたちを追求し、
《しろとぎんの作品》(1974年)や
《這行する輪態》(1976年)などの
“動くかたち”を主題にした作品で
圧倒的な技量と存在感を発揮しました。

1980年以降は、陶の概念を再認識して器の構造を見直し、
かたちと装飾とを一体的にして新たな形態を構築しました。

「銀緑彩文陶」や「銀紅彩地紋陶」、
「巻弁陶」、「形を離れる帯模様」、「組帯壺」など、
次々と清新で強靭な造形を展開して
現代陶芸の鬼才と呼ばれました。


本展は、初期の器を含め代表的なオブジェ作品、
そして後年の伝統の器とオブジェの狭間に在る
新たな陶芸を追求した作品約90点を厳選して構成します。

自らの思想に徹した造形とその美をとおして、
現代の陶芸の可能性を問い続けた
栗木達介の創作の世界を展観いたします。














オペラ「金閣寺」



オペラ「金閣寺」を観た。

「金閣寺」三島由紀夫の小説をどうオペラ化したか。

ベルリン・ドイツオペラからの委嘱を受け、
クラウス・H・ヘンネベルクによるドイツ語の脚本を
黛敏郎が作曲。

初演は1976年、ベルリン・ドイツオペラ歌劇場において。
日本では1991年全幕初演、97年、99年に上演されている。
今回は16年ぶりで、私にとっては幻のオペラ。

奇しくも三島由紀夫生誕90年にあたる。

小説とオペラの決定的な違いは
金閣を燃やす学僧溝口が吃音ではなく、
右手に障害をもつ、ということ。
三島の文学作品を敬愛する
演出の田尾下哲もそこをどうするか、
悩みに悩み、
「精神的なコンプレックスの表出」と考えるにいたったと言う。

オペラでは溝口15歳から金閣を焼く21歳までだが、
これをテノールでなくバリトンが歌う。
より内省的、屈折した声が必然だった、かと。

12月6日(日)、溝口は宮本益光。
最初から最後まで、まるでモノオペラのように歌い続ける。

エピソードの積み重ねて、
溝口の<金閣>への愛憎、桎梏、執着(しゅうじゃく)、を描く。

このオペラのもうひとつの主役というべき
「金閣」がじつに荘厳、美麗な建築となり、
舞台を占める。
美術が素晴らしい。

紅葉の金閣、
雪の金閣、
そして炎上する金閣。

指揮は下野竜也、
オーケストラは神奈川フィルハーモニー管弦楽団。

精緻な音から、壮大なフィナーレまで、
濃密な、まさに楽音すら炎上してゆくよう。
東京オペラシンガーズの合唱が
溝口の内面を、経文を物語る。

このオペラ「金閣寺」、
歌手、演出、指揮、オーケストラ、美術、
が、みごとに嚙み合った公演となった。

「言葉によって、想像を超えた想像力を引き出す」
作家・三島由紀夫への音楽からのオマージュであった。



◆舞台写真・ぶらあぼより
   http://ebravo.jp/archives/22964



【指揮】下野 竜也 

【演出】田尾下 哲

【照明】沢田 祐二 

【装置】幹子 S.マックアダムス 

【衣裳】半田 悦子

【出演】

溝口:小森 輝彦(5日)/宮本 益光(バリトン)(6日) 

父 :黒田 博(バリトン)

母 :飯田 みち代(ソプラノ)
 
若い男:高田 正人(テノール)
 
道詮 :三戸 大久(バス)

鶴川:与那城 敬(バリトン)
 
柏木 :鈴木 准(テノール)

女 :吉原 圭子(ソプラノ)
 
有為子:嘉目 真木子 (ソプラノ)

娼婦:谷口 睦美(メゾソプラノ)



管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団。

合唱:東京オペラシンガーズ