「てぶくろ ろくぶて展」 @東京国立近代美術館 | 「月球儀」&「芭蕉座」  俳句を書くメゾソプラノ山本 掌のブログ

「月球儀」&「芭蕉座」  俳句を書くメゾソプラノ山本 掌のブログ

第四句集『月球儀』
「月球儀」俳句を支柱とした山本 掌の個人誌。

「芭蕉座」は芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品とする
うた・語り・作曲・ピアノのユニット。
    



俳句を金子兜太に師事。「海程」同人・現代俳句協会会員。



てぶくろ

          岡崎和郎《位相的手袋》1965年 個人蔵
                 撮影:木奥恵三



「てぶくろ ろくぶて展」を東京近代美術館で観た。

「モノ」と「私」とはどのように出会うか。
フランスの哲学者・メルロ ポンティの言葉を案内人として、
オブジェ、写真、映像、絵画など約30作品展示の小企画。


展示構成は、

Ⅰリヴァーシブルについて考える

Ⅱ私が私にさわる

Ⅲ一点透視法を疑う


このような視点での展示、
とても興味深い。

12月13日(日)まで。


◆近代美術館 ホームページ
   http://www.momat.go.jp/am/exhibition/glove/


フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティ(1908‐1961)は、
「私」だけがあるのでも「モノ」だけがあるのでもない、
「私」と「モノ」が出会う、その接触面にだけ、
世界は成立するのだと考えました。ちょうど、
手袋の布一枚をはさんで内側の「私」と
向こう側の「世界」が触れ合うように。

私たちは、どのようにして
私たちを取り巻く世界と出会うのでしょうか。

たとえば、今そこにあるモノは、
私が見ていない時にもちゃんとそこに存在するのでしょうか。
それとも、私が見ているからこそモノはそこにあり、
私抜きではモノは存在しない、
つまり私が知覚していなければ
私を取り巻く世界も消えてしまうのでしょうか。

反対に、私はそんなに大した存在ではなく、
私もまた世界に無数にあるモノの一つに過ぎないのでしょうか。

しかしそのとき、他のモノとはちょっと違うはずの
「モノを知覚している私」という存在を
一体どう考えればいいのでしょうか。