After Concert -17-
間に合わせの編成ではアレンジなど出来るはずもなく、代案の「パッヘルベルのカノン」は楽譜通りに演奏する事となった。
先輩達は去年カルテットとして、僕は以前からのレパートリーとして弾いた事のある曲だ。彼女の妹も友人も、難なく弾ける。練習は調整程度で構わなかった。その調整が上手く行けば、完成したものとして演奏する事が出来るのだ。
納得していると言えば嘘になる。けれど、これは僕が言い出した事なのだ。名前だけでも、出た証を残しておく。登録メンバーの彼女の名前はそのままだ。
そう、彼女の為に。
それが、バラバラになりかけた僕らの心を繋いでいる。
わだかまりが無い訳ではない。彼女の妹とはまだ気まずさが残っているし、一度離脱を宣言した身だ。肩身が狭い。けれどもそれは些末な問題だ。最近やっと、割り切る事が出来た。
彼女は目覚める気配が無い。峠は越えたらしく、何とか集中治療室からは出られた。それが前進と言えば前進だろうか。
友人が手慣れた様子で調弦を済ます。今は第一ヴァイオリンの彼がコンサートマスターだ。
「俺は代理だからな。ミスっても文句言うなよ」
無茶な頼みだったが、ぼやきながらも引き受けてくれた。本当に有り難いと思う。
窓の向こう、イチョウの葉は全て散ってしまった。
秋から初冬へ。季節は移り変わりつつある。
「俺は今日二度目なんだけどな。しばらく弦楽器は見たくねぇよ」
舞台袖、友人が不満げに呟く。
有志のバンドでギターをやり遂げたばかりだと言うのに、息つく暇も無い。引き受けなきゃ良かった、と溜息をついている。
「ぼやくなよ。二回も見せ場があるんだ。おいしいじゃねえか」
友人の兄がそう言って小突く。
「ンだよ。俺緊張するから嫌なんだって」
「一回出て慣れてるだけ良いじゃないか」
ヴィオラの先輩が茶々を入れる。
「緊張しますね…でも」
彼女の妹が僕を見据える。
「お姉ちゃんに聞かせるんです。緊張してるくらいが、丁度良いんです」
「そうだね、そうかもしれない」
僕はそう応じる。先生に録音を頼んだのだ。後で聞けるように、そして、聞かせられるように。
手が震える。情けない、それでも舞台に立ってきたと言えるのか、と自分を奮い立たせる。
今までは自分の為に弾いてきた。けれど今は、心から思う。たった一人、彼女の為に曲を捧げたい、と。
『続いての発表は―――』
司会者のアナウンスが流れる。全員が口をつぐんだ。
『我が校唯一の室内楽団、クインテットです』
実行委員が合図を送る。いよいよだ。
『去年の文化祭はピアノソロ、そして弦楽団のカルテットとして別々に活動していましたが―――』
友人の兄を先頭に、舞台へ。ライトが眩しい。客席のざわめきが、さざ波の様に流れてくる。
『今年、夢の競演が実現致しました』
調弦が始まった。
『注目の楽曲は、名曲「パッヘルベルのカノン」です。共に演奏のプロ。素晴らしい時間を約束してくれる事でしょう』
オーバーな口上が、少しだけ緊張をほぐしてくれる。
生まれたての音が羽根を広げる。飛び立つ時を、弦を振るわせながら待っている。
調弦が終わる。ぴたりと弓が止まった。
僕を見る司会者に頷く。
『それでは、クインテットで「パッヘルベルのカノン」です』
す、と照明が落ちた。客席は見えなくなった。
友人と視線を交わす。
チェロのアルペジオがゆっくりと流れる。傾いた陽の様に、穏やかに、ゆるやかに。
彼女の席だった場所に、今は友人が居る。
友人を入れ、曲を変更してでも出演する事に、迷いや戸惑いが無かった訳ではない。それは友人も同じ事だった。本当に良いのか、と何度も念を押してきた。
「だってその…俺はほら、バンドだってあるし、あの曲弾けないし」
「ヴァイオリン弾けるだろ。パッヘルベルのカノンなら簡単だし」
僕がカルテットと揉めた事も友人は知っている。だからこそ、余計に迷ったのだろう。
背中を押したのは彼女の妹だった。
あなたになら任せられる、彼女ならきっとそう言うだろうと悩む友人に告げたのだ。
「お兄さんから話も聞いてましたし。折り紙付きだって言ってました」
その言葉が本当かどうかは解らない。だが、友人を信頼しての事なのだろう。
それが嬉しくもあり、そして少しばかり、羨ましくもあった。
「先輩には多分何も言いませんよ」
「僕はヴァイオリンじゃないからね」
「違いますよ。何も言わなくても大丈夫って思ってますよ、きっと」
「信頼されてるのか、放置されてるのか、判断しかねるなぁ」
僕がそう言うと、彼女の妹は軽く微笑んだ。優しげな微笑みに、彼女の姿を重ね見る。
自分の気持ちと折り合いを付けるのは、僕以上に難しかっただろうと思う。
「ありがとう。色々と…その」
「それ以上は言わないでください。私はまだ…。それに、本番はこれからです」
優しげな微笑みに、寂しさが混じる。
健気だと思うと同時に、申し訳なさで一杯になる。
「解った。何も言わない」
これが僕に言える精一杯の言葉だった。
胸に抱えた楽譜に目を落とす。書き付けられた題名「After Concert」。彼女の、文字。
この文化祭で奏でる事は出来なくなってしまった。けれど、二度と弾けないとは思っていない。
彼女が戻れば、もう一度出来る。
そう、決めたのだ。
僕の音を、心を、彼女の為に―――。
落とされた照明の、その夕陽色の光の中、一瞬彼女の姿を見た気がした。
ヴァイオリンが高く歌い上げる。寄り添うコーラスを身に纏い、凛とした声で歌う。
風の様に緩やかに、水の様に穏やかに、旋律が会場を満たしていく。
その旋律は、ここで演奏するはずだった彼女と曲を内に抱く。
別れの言葉にも似た輪唱は、一抹の寂しさを添えて過ぎゆく秋へ。
想いは、やがて訪れる冬と、目覚めの時への希望。
伝えられぬ言葉を胸に、指先はカノンを紡ぐ。
静寂が降る。落ち葉の様に、雪の様に降り積もっていく。
演奏が終わった。
舞台が再び、明るく照らされた。会場を包む、拍手と歓声。
息を整え、観衆に礼をする。一際大きな拍手が届いた。
「無事に終わって良かった」
ヴィオラの先輩の言葉に、全員がうなずく。
「俺のお陰だ、感謝しろよ」
友人も安堵しているようだった。
「今日だけは言わせといてやるよ」
「け、素直に感謝してくれっての」
僕の軽口に、友人が突っかかる。普段通りの雰囲気だ。
こうして、僕らの文化祭は幕を閉じた。
After Concert -16-
随分と待っている気がする。友人と教室で別れて、どれくらいの時間が経っているのだろう。有志バンドの練習に行ってしまったのだろうか。それとも、まだ教室に残っているのか。一緒に教室を出た気もする。何故だろう、ちっとも思い出せない。
先輩も来ていない。帰りのホームルームが長引いているのだろう。彼女の妹は学校に来ているのだろうか。顔くらい出してくれると思うのだが。
時間を確認しようとして、時計が止まっている事に気付いた。いつから止まっていたのだろう。秒針が力なく揺れている。
今日は練習をしないのだろうか。それとも、僕の思い違いなのだろうか。誰かが来る気配が全く無い。
しかし、せっかく顔を出したのだ。少し練習をしていこうと準備をする。ピアノの音がすれば誰かが来るかもしれないし、時間潰しにもなる。
ピアノの蓋に手を掛ける。指は自然と曲をなぞる。ドビュッシー「月の光」。
カルテットの面々と出逢った時も、この曲を弾いていた時だった。あれからどれだけの時が経ったのだろう。一ヶ月経ったか経っていないか。それなのに、もう何年も共にしていた気がしてならない。
開いていた窓から、穏やかな風が流れ込む。その風に乗って、ひらり、と何かが舞う。黄色い木の葉、イチョウだった。小川に流される様に、教室の中をゆらゆらと漂っている。
その光を眺める僕を、焼け付く様な胸の痛みと息苦しさが襲う。
夢を思い出す。嫌な、夢。
彼女が倒れた時に見た、イチョウの葉が舞う夢。
その夢を見た時と同じだ。同じ痛みと、息苦しさ。
「大丈夫?」
いつの間に入って来たのか、誰かの手が背中に当てられた。暖かな体温が、そっと寄り添ってくれている。
ただそこに有るだけなのに、嘘みたいに苦しさが引いていく。
「楽になったみたいだね」
ありがとう、と言おうとして喉が凍り付く。
陽の光を背にして、僕の身体に触れていてくれたその人は、そこに居る。温もりも、その息遣いも、確かに感じられる。
「…どうして」
僕は凍り付いた喉を必死で動かし、叫ぶ。
「どうして君が、ここに居るんだ…!」
居るはずの無い声の主、そう、彼女に向かって。
居たらいけないの、と彼女は不機嫌そうに言い返す。
彼女が来ているなんて話は聞いていない。来ていたら間違いなく解る。気付かないはずが無いのだ。
「何だか随分と会ってない気がするね」
彼女は場違いな程明るい声で言う。
「演奏はどうなってるの?抜けといて言う台詞じゃないけどさ」
「それは…」
「あの子、どうかな。ちゃんと練習してる?」
こんな時まで、曲と妹の心配をしている。他に気に掛ける事があるというのに。
「僕が病室で話した事、やっぱり聞こえてなかったかな…」
彼女は困ったように微笑む。
「あいつが代理で…曲も変えてさ。一応形だけは出るつもりなんだよ」
「言ってたね」
「君には、演奏が無理なら客席に来るようにって、言ったよね」
「うん、覚えてるよ」
「だったら…」
言葉に詰まる。
何も変わらない、僕の知っている彼女だ。
いつも曲の事ばかり気に掛けていて、肝心の自分の事は後回しで、必死で、精一杯で―――。
涙が出そうになる。
けれど、言わなければならない。
「何故君が、こんな形で僕の夢に出てくるんだ?」
彼女は答えない。
夢の中の彼女。それは、僕が作り出した幻だろう。それでも訊かずにはいられなかった。もしも彼女が「本物」だとしたら、と最悪な考えが頭をよぎる。
「本物でも幻でも、あんまり違わないと思うんだけどな…」
「…こんな夢を見たらどうなるか、相場は決まっているじゃないか」
「ああ、よくある話だよね。じゃあ、こんな夢を見てるって事は、私は死んじゃうのかな」
「止めてくれ!」
咄嗟に彼女の腕を掴む。擦り抜けたりしなかった。しっかりと掴んでいる。服の感触も、その下の体温も伝わってくる。信じられない程に、はっきりとした感触だった。
「これは…?」
夢だと判じておきながら、夢だと信じる事が出来ない。
本当はこれが現実で、病室で見た彼女の方が夢だったのだろうか。あの辛い思いは、どうしようもない事実と感じたものは、全て夢だったのだろうか。
「どっちを信じる?」
これを夢だと言えば、きっとこの夢から追い出される。しかし、これを現実だと言えばどうなるだろう。
彼女は倒れていない。こうして目の前に居る。
「僕は、これを信じたい。君が本当は倒れていないと…この夢が本当なんだって」
そう告げると、彼女は寂しそうに呟いた。
「逃げないで。これは夢なの。辛いからって目を逸らさないで」
身を切られる思いだった。彼女は言葉を続ける。
「夢が本物なら、現実の私はどうすれば良いの?起きた時、私は何処に帰れば良い?」
彼女が僕の手を握る。暖かい手だった。
「解ってるんだ…でも」
細い指が僕の唇に触れる。しぃ、と子供をあやすように彼女は微笑む。
「ちゃんと帰るから。少し時間かかるかもしれないけど、ちゃんと、戻って来るから」
信じて待っていて、と彼女は言う。
哀しい幻だ。僕の願望が、彼女にこんな台詞を言わせている。
「願望でも、幻でも、私は私だよ。だから、私を信じて」
指先が遠ざかる。
僕は彼女の腕から手を離し、そのまま頬に触れる。柔らかな頬だった。
「これが、夢?」
「そう、夢。だから…もう行かなくちゃ」
舞い落ちるイチョウの葉が、飴色に変わる。
駄目だ。夢から追い出される。
「待って!僕は君に言わなきゃいけない事が…」
木の葉が次々と飴色に変わっていく。
夢から引き離される。抱き締めようと伸ばした腕は、もう届かない。
「私はちゃんと戻って来るから…信じて」
飴色の欠片が降り注ぐ。
「その時に聞かせて。私も、待っているから。伝えたい事が有るから」
「行くなッ!」
飴色の欠片が、僕を、この夢を、琥珀の様に閉じ込める。そして―――。
「―――ッ!」
ベッドの上だった。
日付が変わって二時間余り。
はっきりとした夢だった。嫌な夢、だとは思わなかった。
彼女は言っていた。必ず戻る、と。それが僕の願望でも、ただの幻でも、彼女はそう言ったのだ。
何よりも誰よりも、彼女は僕に言ったのだ。それを信じなくてどうするというのだ。
指先で唇に触れてみる。彼女が触れた様な温もりが、そこにあった。
病室の彼女を想う。
彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。
After Concert -15-
彼女はまだ、集中治療室に居る。
本来ならば面会出来るのは家族だけなのだが、特別にという事で面会が許されたのだ。彼女の両親や彼女の妹が取り計らってくれたのだろう。でなければ四人も―――僕と友人、それに二人の先輩―――会わせてくれる事は無いだろう。
病室の前で説明を受ける。面会は五分間、専用のスリッパに履き替える事、しっかり手を洗ってアルコールで消毒する事、等々。
一度に四人で会う訳にはいかないので、二人ずつに分かれて会う事となった。最初に二人の先輩、次に僕と友人だ。
病室の手前の待合室に通され、僕と友人はそこで待つように言われた。先輩達は荷物を預け、病室へと向かう。
しんと静まり返った部屋で、換気扇が低く唸っている。僕らは何を話すでもなく、ただ無言で先輩達を待つ。
今日になってようやく、担任は彼女の事をクラスに話した。とっくに知れ渡った状況では全く意味の無い事だと思う。声を潜めて話すか、大っぴらに話題にするかの違いだ。
唯一の功は、彼女を知るクラスメートが千羽鶴を折ろうと持ちかけたり、お見舞いに何かを用意しようとする動きが出て来た事か。僕はそういう事には関わらず、沈黙を通した。僕にはやるべき事がある。それは、僕にしか、僕らにしか出来ない事だ。
「入って良いってさ」
先輩が帰って来た。
様子はどうか、と尋ねそうになる。今から会うというのに。
「行こうぜ」
友人が僕を促す。身体が震える。恐れなのか。
扉が静かに開く。
病室の空気が、澱の様に肺に染み込んで来た。
真っ白で殺風景な部屋、それが彼女の病室だった。
窓にはブラインドが下ろされている。煌々と照る蛍光灯の光で陽の色が掻き消されている。
色を許さない、光さえも殺菌消毒されているかの様だ。
その部屋の真ん中に、彼女は居た。酸素マスクを付けられ、きつく漂白されたシーツに包まれている。息苦しいだろうな、と思う。
彼女の身体には、幾本もの線が繋がれていた。
その先では、彼女が生きている事を示す波形が刻まれている。そして、その命を繋ぐために、何種類もの点滴がぶら下がっている。
看護士が彼女の名を呼ぶ。反応は無い。
冗談じゃないよ、と心の中で呟く。
僕はこんな君と会う為に来たんじゃない、曲の打ち合わせに来たんだ、いい加減に目を覚ませ、そう言ってやりたくなった。
「声は届いているかもしれないので…良かったら声をかけてあげてください」
看護士がそう言ってくれた。友人が僕を無言で促す。軽くうなずく事で、それに応じる。
出来る限り普通に、彼女といつも話している感じで、そっと話しかける。
「文化祭だけどね、出る事にしたんだ。ソロじゃない。もう一度、クインテットとして」
彼女の反応は無い。
「覚えてるかな、あいつがヴァイオリン弾けるって言ってた事。代理でね、こっちも掛け持ちして貰う事にしたんだ」
友人が苦笑いしている。そう、彼女の代理を友人に頼んだのだ。
「あの曲の楽譜は君が持ってるから、曲は別の…パッヘルベルのカノンになったんだ。ベタでしょ?」
ベタ過ぎるよ。彼女はこう言うはずだ。
「君が早く復帰してくれれば、勿論あの曲をやれるんだけどね。そうしたら、あいつはクビかな」
「リストラかよ!」
僕と友人が笑う。彼女も笑うはずだ。
「正直文化祭まで時間が無いからね。演奏が間に合わなかったら、客席に来てくれるだけでも良いよ。…そうだな、見に来ること必須にしておこうかな」
無茶言わないでよ、と抗議するはずだ。
「張り合いが無いからね。それくらいの目標はあっても良いよね。コンミスが出られないんじゃ、格好が付かないでしょう?」
やってやろうじゃない。きっとそう言ってくれるはずだ。
「…早く復帰してよね。君に言いたい事と聞きたい事、あと一緒にやりたい事があるんだ。復帰してくれなきゃ、いつまでもおあずけじゃないか」
声が震える。後少し。
「とにかく…待ってるから、さ」
解った、と応じてくれたはずだ。今は声が届かないだけだ。
友人が何か声をかけている。何を話しているのか、内容が頭に入らない。薬の混ざった様な空気が、僕の心を締め付ける。
そろそろ時間です、と看護士が声を掛ける。一度だけ、彼女の手を握った。
暖かくて柔らかな手。しかし、握り返してはくれなかった。
待合室を抜けて、廊下へ。限界だった。
「大丈夫か?」
眩暈がしていた。友人が僕の肩を支えて、椅子に座らせる。彼女の妹が病室に戻ろうとして、足を止めていた。
「僕は…」
震えが止まらない。何故今になって。彼女の姿を見たからか。
「気分でも悪いのか」
友人が僕の肩をきつく掴んでいる。
気分が悪い訳じゃない。そう答えようとして、初めて気付いた。
「…お前」
視界がぼやけ、霞んでいる。泣いているのだ。
「どうして、僕…」
幾ら拭っても涙が止まらない。僕は泣かないと決めていたのに。
「何で…」
呟く声に涙が混じる。堰を切ったように溢れてくる。
信じたくなかった。悪い冗談か何かだと思いたかったのだ。それが、彼女の姿を目の当たりにして、どうしようもない事実だと知ったのだ。
何も出来ない自分が悔しかった。最後に会った時、彼女を気遣ってやれたら、防げたかもしれない。些細な事かもしれない。何も変わらなかったかもしれない。それでも、少しだけでも何か出来ていれば、彼女はこんな事にならなかったのかもしれない。
取り留めのない思いが、頬を伝って流れ落ちていく。
「お姉ちゃんは絶対に帰って来ます。絶対に…」
私が一番よく知っているから。そう言って、彼女の妹は涙を拭った。
出来る事は一つ。彼女を信じる事だ。
それが僕らに出来る唯一の、そして一番の事なのだ。
After Concert -14-
目が覚めたら朝。友人からの着信も残っている。
休みがもう一日あったのは幸いだったのかもしれない。何もやる気が起きず、日がな一日ぼんやりとしていた。寝ているのか起きているのか、自分でも解らなかった。
夢は見なかった。気付いたら眠っていて、気付いたら朝だった。寝た気がしない。
学校はいつもと雰囲気が違っていた。
重苦しい空気に、時折彼女の名が混じる。友人や先輩が誰かに話したのか、それとも彼女の妹から聞いたのか。或いは、先生の話が漏れたのか。
「寝てないのか」
よっぽどやつれていたのか、友人が声をかけてきた。そういう友人も、酷く疲れた顔をしている。
「お互い様だろ」
「まぁな」
担任がやってきて、いつものホームルームを始める。彼女の話は無かった。敢えて言わないつもりなのかもしれない。
少しだけ安心した。今の僕では、これ以上彼女の話を受け止められない。
しかし、クラスメートは黙っていなかった。
先生が何も言わなかった事が逆効果となったのか、授業後は詮索の嵐だった。「普通とは違う理由で学校に来ていない」「何か大変な事があった」という事は解っている彼らにとって、格好の話題だったのだろう。やれ事故に遭っただの、やれ病気になっただの、勝手な憶測が飛び交う。
昼休み、彼女のクラスの生徒から本当の理由が聞かされる。不慮の事故で意識不明なのだ、と。
真相が明らかになった途端、この話題は失速し、誰の口にも上らなくなった。
遠慮した訳ではない。犯人の解ったミステリーに興味を無くしたのと同じ。解ってしまえばどうでもいいのだ。大して仲が良くない、顔も名前も知らない相手の話など、惹き付ける「謎」が無くなってしまえば価値は無い。彼らの態度はそう物語っていた。
午後の授業に入る頃には、彼女の知り合いが数人気に掛けている程度になった。大多数の関心は別の方向にあった。新しいゴシップが見付かれば、彼らはそっちに飛び付く。
怒りを覚えながらも自分に問う。
もし彼女と一緒に居なくても、僕は彼女の事を気に掛けて居られただろうか、と。
「勝手なもんだよな」
友人が声を押し殺して呟く。必死に堪えているのがよく解った。
「見ろよ、あいつら…笑ってやがる。理由が解れば後はどうでもいいのかよ」
「どうでもいいんだろうね」
「他人事か。あいつらの存在の方がどうでもいいぜ」
「言い過ぎだって。聞こえるよ」
「知るかよ」
もしも、別のクラスの誰か、顔も名前も知らない誰かが同じ目に遭ったとして、果たして僕は相手を心配し続けられるだろうか。
出来ない、と思う。クラスメートと同じく、興味を無くしてしまうだろう。彼らにとって、それが彼女だったのだ。そう、それだけの事なのだ。
その彼女は、僕や友人を含め、彼女を知る人間にとってはかけがえのない存在なのだ。
それを理解するだけの気配りが彼らには出来ない。僕はそう自分を納得させていた。
「人の気持ちも理解出来ない相手なんて、僕にとってはどうでもいいんだよ。居ても居なくても変わらない」
僕の言葉に、友人は口をつぐんだ。
「お前が本気で怒ってるの、初めて見た気がする」
怒っている訳じゃない、と呟く。
僕が怒っているのは彼らではない。彼女を襲った不慮の事故、何も出来ない自分―――理不尽な現実に対する怒りだ。僕の言葉は八つ当たり以外の何物でもない。解っていても止められない。それこそ、理不尽だと解っていても。
放課後、僕の足は自然と音楽室へ向いていた。
彼女が居ない事は解りきっている。それでも、音楽室へ行けばもしかしたら来るんじゃないか、そう思えてならない。
僕はまだ、現実から逃げている。
音楽室には、誰も居なかった。当然だろう。こんな時に練習だなんて、考えられる訳がない。
飴色の光が教室を包んでいる。伸びる影が、琥珀に閉じ込められた虫の様に横たわっている。イチョウの葉が、さざ波の様に震えている。夢の様に、蝶の様に、きらきらと細かく震えている。彼女と最後に会った時も、イチョウが眩しかった。
彼女と最後に話してからまだ三日程しか経っていないのに、随分と前の様に感じる。
あの日。眩暈がすると言って、倒れかけた彼女。その時から調子が悪かったのだろう。ただの風邪だったのか、それとも色々重なったかからか。
帰りがけ、ドアに遮られた言葉。彼女は僕に何を言おうとしていたのだろう。
唇を噛む。どうして素直に聞こうとしなかったのだろう。
「ああ、来てたんだ」
その声に振り返る。友人の兄だった。
「一昨日は…ありがとうございました」
「あぁ、兄さんな。悪かったな、若葉マークとは思えねえくらい酷い運転で」
「いえ、そんな事は」
「事故起こしたらどうするつもりだったんかねぇ…」
そう言って彼は笑った。無理して笑っているのが解る。乾いた笑い声は、すぐに真剣な顔に戻った。
「これから、どうする?」
これから。文化祭の発表の事だろう。
「俺達は文化祭に間に合うとは考えられない」
「でしょうね…あまり考えたくはないですけれど」
「あの話…君の言う通りにすべきだと思う」
「…え?」
「君はソロに戻るといい。後は…出るか出ないかは、俺達で考える」
そうだった。僕と彼女が最後に話していた事だ。ソロに戻るつもりだと、自分で言い出したのだ。
けれど、気持ちは晴れない。希望通りになるというのに。
「待ってください」
駄目だ、ともう一人の自分が叫んでいた。逃げてはいけない、と。
「確かに、ソロでやるつもりでした。あの子と一緒にはやりづらいと、正直なところ今も思ってます。けれど」
声が詰まる。
「もし僕が抜けたと知ったら、彼女はきっと、自分を責めると思います」
迷っている、とあの時彼女に伝えていたのだ。だから彼女はまだ、僕が辞めると思っていないのかもしれない。少なくとも辞めないでくれと望んでいた。だから。
「やる曲を変えても構いません。形だけでも出ておいた方が良いと思います。それで、彼女も形だけは、参加する事が出来る…」
「そこまで拘るのは、何故?ソロに戻ると決めていたのに?」
彼が僕の言葉を遮る。その視線は、哀れみの色だ。
「彼女が戻ってくると信じて、出来る事をしたいだけです。だから、いつ帰ってきても良いように…帰る場所を、彼女の出来る事を、残しておきたいんです」
僕らが、クインテットが存続していれば、彼女のやる事は出てくる。コンミスとしての職務は残るのだ。彼女が僕らの事を忘れてしまっても、今までと同じ生活が出来なくなったとしても、それでも構わない。
「彼女の出来る事を、帰る場所を、一つでも多く残してあげたいんです。今更ですけど、もしも戻れるのであれば…。それが僕に出来る事だと、思うんです」
先輩は黙っていた。しばらくして、そうか、と溜息と共に呟いた。
「君はそこまで…」
「その…僕はただ…」
「責めてる訳じゃないよ。…明日、お見舞いに行こう。少しだけど、面会出来るみたいだから」
車が無理ならバスになるかもしれないよ、と彼は笑う。僕も少しだけ笑った。
彼女はまだ夢の中に居る。僕らが会いに行けば、きっと目を覚ましてくれるだろう。
だから、泣いてなんかいられない。
After Concert -13-
消毒液の匂いが鼻につく。いつもなら何も感じないのに、やけに気になる。
逃げ出したい。何もかもから、逃げ出したい。
中に入る事の許されない僕らに、彼女の妹が説明をしてくれている。
扉の向こうに居る、彼女に起きた事を。
不慮の事故、という奴だ。
彼女は朝から熱があって眩暈がしていた、という。だから部屋で寝ていたのだ。午後になってようやく動けるようになった彼女は、階下へ行こうとしていた。飲み物でも取りに行くつもりだったのだろう。しかし、万全ではない彼女の足下はふらついていた。
そして。
階段から落ちた、と言うのだ。
酷く頭を打ったらしい。意識は無かった。倒れた彼女を見つけた家族が救急車を呼んで、病院へ運ばれ―――そのまま、集中治療室に収容された。
少し落ち着いてから、彼女の妹は僕の友人に連絡を取った。
それで友人は僕に連絡を付け、こうして病院に来た、という訳だった。
冗談だろうと思いたかった。こんな事が、到底―――受け容れられる訳が無い。
うたた寝で見た妙な夢。あれが、彼女に起きることを示唆していたとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい、ただの夢だ。
そう、たまたま同じ時間に見た、ただの夢。
「容態は?」
ヴィオラの先輩が口を開く。
「…助かるかどうかも解りません」
彼女の妹はその場にくずおれる。先輩はその肩にそっと手を置いた。
堰を切った様に嗚咽が漏れる。
「助かっても、助かっ、ても…元のお姉ちゃんに、戻るか、解らな、いって…。私達の、事、覚えてるか、どうかも…」
絞り出す様にそう言って、泣き崩れる。
私のせいだ。彼女の妹が何度も自分を責めている。
私が気を付けていれば良かった、看病していれば良かったんだ、そう繰り返す。ヴィオラの先輩が、その肩を抱いて落ち着かせようとしている。
薄暗い廊下にむせび泣く声が響いている。
僕は、奇妙な程静かな気持ちでその様子を眺めていた。悲しいとも、辛いとも思えない。
「大丈夫か?」
友人が僕を覗き込んでいる。
「大丈夫。…変だよな。悲しいとか辛いとか、何にも感じないんだよ」
「ショックで何も考えられないんだろ」
「そうなのかな。そうかもしれないね」
実感が湧かないのだ。
彼女が病室に居ることも、彼女の妹の話も、僕が今病院に居ることさえも、現実という気がしない。変な夢の続きだとしか思えない。
それも今だけだろう。家に帰る頃には、きっとショックで押し潰されそうになるに違いない。彼女の妹の様に泣くかもしれない。
だからこそ。
「大丈夫だよ、今は」
今だけは平気な顔をしていよう。
彼女が目覚めた時に、笑われないで良いように。
友人達と別れたのは、それから一時間程経ってからだ。
彼女の妹がようやく落ち着き、明日も一応学校だからと帰る事にしたのだ。行きと同じく車で家まで送って貰った。
「じゃ、また明日な」
「うん」
それが、車の中で唯一交わした会話だった。
家に帰り、そのままベッドに突っ伏した。まだ、涙は出てこない。
真っ暗な部屋の中で思う。
彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。
目を閉じる。
このまま眠ってしまえば、きっと夕飯だと起こされるに違いない。
明日、学校で友人や彼女に「嫌な夢を見たんだ」と笑って話せるだろう。縁起でもないって怒られるかもしれない。
それで良い。逆夢だと笑えば良いんだから。
そうなるに、違いない。
After Concert -12-
アラームは鳴らなかった。時計を確かめてようやく、今日が休みだったと気付く。
いつもならば昼に近い時間に目が覚めるのだが、色々あったせいだろう。身体も心も緊張しきりだ。
夜中に雨が降ったのだろう。乾いていない地面に、落ち葉が貼り付いていた。薄く差す陽を反射して、ぼんやりと光っている。
朝が来る度、一雨過ぎる度、冬が近いと感じる。
少し前まで汗ばむ日もあった。そう、一緒に練習を始めた頃はまだ、そんな時期だった。季節の移り変わりは早い。
(変わったのは季節だけじゃない、か)
せめて休日くらいは考えないでいたかったが、どうしても頭から離れない。
ピアノの上に伏せられた楽譜。やらないと決めていたのに、指は勝手にメロディをなぞる。
味気ない、たった一人の「After Concert」。
何の情景も感じられない。ただピアノが鳴っているだけだ。
僕の曲なのに、僕が作ったものなのに、作った時のイメージが微塵も感じられない。
やはり、僕だけでは駄目なのか。
意識に割り込むのは、彼らの音。カルテットの奏でる声。モノクロのメロディに鮮やかな色が付く。
彼らが居なければ、僕のピアノに価値は無いと言うのか。
楽譜を投げ出し。ベッドに突っ伏す。
情けなさと悔しさで胸がいっぱいだった。
夢を見た。
昨日と同じ、黄色い光。イチョウだ。
それが風に舞って、きらきらと流されていく。
綺麗な光景のはずなのに、酷く不安になる。
穏やかなはずの光が突き刺さる。
焼け付く様な痛み。そして、息苦しさ。
溺れるたかの様に苦しくて―――。
びくり、と身体が震える。
嫌な汗が滲んでいた。
かなり眠っていた様だ。もう昼に近い。
あの夢は一体何だったのだろう。色々あったせいだろうか。
机の上で、電話が鳴っている。どうやら電話に起こされたらしい。
電話は鳴り続けている。一旦切れても、またすぐにかかってくる。
寝惚けた身体を起こし、電話に出る。
友人からだ。
「…何?どうしたのさ」
『どうしたもこうしたも無えよ!何で出なかったんだ』
「寝てたし」
あくびを一つ。
『何呑気に寝てやがる。今からそっち行くから出る準備しろよ』
「何で?どっか行くの?」
遊びの誘いにしては余りにも急だ。それに、切羽詰まっている感じがする。
『そんな訳あるか馬鹿野郎!よく聞けよ』
「うん、解った」
電話の向こうで話し声が聞こえた。友人の兄と、ヴィオラの先輩らしい声だ。
一体何故、揃って僕の所へ来るのだろう。文化祭の話だろうか。
焦っている様な声だ。怒鳴り声らしいのも聞こえる。友人の声もそんな雰囲気だ。
何だと言うのだろう。
友人が大きく息をつく。
そして、ゆっくりと言葉を吐き出す。鉛の様に重い言葉を、一つ一つ。
それが、寝惚けた意識を貫く。何かが砕ける音が聞こえる。
声を失った。
絶望。
彼の言葉は、それ以外の何物でも無かった。
転がる様に階段を下り、玄関から飛び出す。
友人が車のドアを開けていた。早く乗れと促している。
ドアが閉まるのを待たずに車は走り出した。カーブでタイヤが鳴る。
助手席には友人の兄。後部座席には、やはりヴィオラの先輩が居た。
運転しているのは、見覚えのある人だ。
友人のもう一人の兄、去年のカルテットのメンバーだろう。
皆、一様に無言だ。
何も言えない。何も言いたくない。
組んだ指の痛みさえ解らない。
ただ、祈る。
希望だけは、どうか、潰えてしまわぬ様に、と。
After Concert -11-
無事にと言っても、単に揉めたりしなかったというだけだ。
全員口数が少なかったし、僕は二人の顔をまともに見る事が出来なかった。
曲の出来は惨澹たるものだった。過去最悪だ。僕個人でも、ここまで酷い出来は経験した事がない。
一応の通し練習が終わったところで、僕はソロに戻るつもりだと宣言した。
賛成も反対も無かった。
彼女は僕に一瞥をくれただけだったし、彼女の妹は僕を見もしなかった。
二人に代わって友人の兄が応える。
「俺らにも考える時間が欲しい」
場をまとめる為の答えだという事はすぐに解った。僕はその心遣いに感謝する。
このまま終わってはいけないのに、僕が動けば動く程に駄目になっていく。先輩達に取り持って貰うしかないのだ。
遅くとも数日中には答えを出す。それが「カルテット」の返事だった。
今日幾度もついた溜息を、もう一つ。
積み重ねてきたものが、呆気なく崩れてしまった。
心を通わせたと思っていたのに、もう何も解らない。彼女達に感じた想いは、一体何だったのだろう。
先輩が彼女に何か耳打ちをしている。僕を伺うその顔さえ、まともに見られない。
視線を落とす。物言わぬピアノが恨めしい。
やるせない気持ちだけが重くのしかかってくる。
ソロに戻ったとしても、ここで練習は出来ない。きっと、みんなと顔を合わせる事になる。
(…どうすればいい?)
あれだけ心待ちにしていた文化祭が一気に色あせてしまった。何の魅力も感じない。
虚脱感。
ドアの閉まる音に顔を上げた時、先輩達の姿は無かった。彼女の妹も居ない。どうやら先に帰ってしまったらしい。
最後だったかもしれないセッション。何の感慨も湧かなかった。
「本気なの?」
声が聞こえて初めて、彼女がまだ残っていた事に気付く。
「帰ったんじゃなかったの?」
「聞きたい事、あったから」
素っ気なく応える彼女。あの時の僕みたいに、冷たい声。
「本気で、辞めるつもりなの?」
聞きたい事はそれしか無いのだろう。彼女は僕の次にこの曲に関わっているのだ。
「そのつもりだよ」
何かを言いたそうな彼女の雰囲気は、彼女の妹にそっくりだ。今更ながら姉妹なのだと感じる。
ぎこちない言葉も、仕草も、よく似ている。
「どうして。あれだけ頑張ってきたのに…あと少しなのに」
「そうやって君は自分の思いばかり押しつける。勝手だと思わないのか?」
身を強張らせるその雰囲気も、似ている。
似ていたとしても、僕は―――。
「あの子の気持ちには応えられないんだ。だからこそ、一緒にやらない方が良いと思う」
「そんな…そんなの…」
「―――本当は、気付いてたんじゃないのか?あの子の気持ち、君が解らないはずが無いだろう」
彼女がはっと息を飲む。
「気付いてたんだね」
僕の言葉に、彼女は力なく頷いた。
「あの子の気持ち、私が止められる訳、無いよ」
理屈では止められない気持ちは僕でも理解出来る。色恋沙汰は難しい、と友人の兄の言葉を思い出す。
「別に止められるとは思ってないし、そんな事を責めるつもりは無いよ」
「そうかもしれないけど…」
僕に詰め寄った勢いはどこへいったのか、酷く落ち込んでしまった。
「済んだ事だよ、もう」
どう足掻いても戻らない。変える事は出来ないのだ。
ドアを隔てた向こう側、賑やかな声が聞こえてくる。友人やクラスメートもその中に居るのだろう。
静まり返った音楽室。コンクリートの様に固い雰囲気。賑やかさとは真逆の世界。
「それで、まだ僕に何か言いたい事でもあるの?」
「え…」
「無いなら僕は帰るよ。もう…やる事も無いんだし」
楽譜を鞄にしまう。一瞬、題字が見えた。彼女が書き付けたタイトル「After Concert」。
演奏する事は、もう無いだろう。
「それじゃ文化祭、頑張ってね」
他人事の様に言葉を投げる。つい昨日まで一緒にやってきた仲とは思えない程に冷たい言葉。最低な奴だと自分でも思う。
でも、終わりなのだ。
彼女の横を通り過ぎる。
「待ってよ!」
悲鳴にも似た声。
僕は立ち止まる。けれど、振り向かない。
振り向いてしまえばきっと、僕の決意が揺らいでしまう。
決めたのに。
もう、終わりなのだ、と。
あの子と似た雰囲気。あの子とは違う、彼女。
僕は振り向けない。
振り向いたら、きっと―――。
ごめんなさい。
しばらく沈黙した後、彼女は呟いた。
困らせるつもりは無かった。絞り出す様に彼女は続ける。
「必死になりすぎてたんだと思う。相手の事考えてたつもりだったけど…全然、だったね」
彼女の言葉に、思わず振り向いた。
すぐ近く、触れられそうな程に近い身体。一連の出来事で疲れているのか、顔色が良くない。
「ありがとね、ワガママに付き合ってくれて。少しの間だったけど、一緒にやれて嬉しかった」
無理に微笑んでいるのが痛い程に解る。
気持ちが揺らぐ。
辞めると決めたのに。
そうするのだと、告げたのに。
もう一度一緒にやりたい、と思ってしまう。
最後までやり遂げたい、完成させたいと望んでしまう。
勝手なのは僕の方なのかもしれない。
今にも壊れそうな彼女の微笑みが、頑なな僕の心を締め付ける。
ありがとう。
その言葉は、声にならなかった。
彼女の身体がふらついた。眩暈でも起こしたのだろうか。
む、とこめかみの辺りを押さえている。それと同時に、バランスを崩して倒れる。
咄嗟に腕を出した。
危ないと思うよりも早く、腕が身体を捉えていた。そのまま倒れ込む。
一瞬遅れて、打ち付けた背中が痛む。呼吸が止まった。
彼女に声をかけようとして、喉が凍り付いた。
僕の胸に、彼女が顔を埋めている。
抱き付くような格好で、僕にもたれかかっている。
咄嗟に彼女の身体を受け止めたのだ。庇う形になっていても不思議ではない。
しかし、この体勢は。
どう見ても、抱き合っている格好にしか見えない。
今誰かが来たら、確実に誤解される。彼女を庇ったのだ、と言っても信じて貰えないだろう。
使い古されたシチュエーションに笑う事も出来ない。
僕は動けない。彼女も動かない。
彼女の薄い肩が軽く上下している。
僕を掴む腕が、胸にかかる息が熱を帯びているのが解る。
どれくらい時間が経ったのか。
机から彼女のバインダーが落ちる。その音に、はっと顔を上げる彼女。
目が合う。
その瞳に僕が映っている。大きな、微かに潤んだ瞳。そこには唖然とした顔の、小さな僕。全身が動揺する。
「大丈夫?」
凍り付いた喉からは、かすれた声しか出なかった。
「うん…平気」
彼女は小さく応じ、ゆっくりと身を起こす。だが、バランスを崩してもう一度倒れ込む。
「調子、悪いのか」
「少し。でも、眩暈がするだけ」
耳元で囁く息が熱を帯びている。心臓が早鐘を打つ。
彼女を抱える様に身体を起こす。
「…帰れるのか」
「少し休めば、多分」
「一緒に帰れそうな奴、居るんだろ」
「クラスの友達が」
「連絡取って、一緒に帰った方が良いと思うよ」
「そうしてみる」
ぎこちなく告げた彼女の後ろが、僅かに光った気がした。
その光が夕陽に照らされたイチョウの葉だと気付いたのは、彼女が帰ってからだった。
黄金色が眩しい。
彼女に触れた手を眺める。今は暖かさも何もなく、虚しく空を掴むだけだ。
イチョウが眩しい。
風に揺れる黄金色が、蝶の様に翻る。
「ねえ」
「何」
「本当に…辞めちゃうの?」
ドアに手を掛けた僕に、彼女がもう一度問い掛ける。
「解らない。まだ、決められないから」
揺らいだ気持ちを隠す事は出来なかった。
彼女の言葉を遮るようにドアが閉まる。
その言葉を聞きに戻る勇気は、無かった。
After Concert -10-
僕の話を聞いた友人はそう言い切った。
「俺も同じ立場だったら断るし」
友人にも彼女から連絡があったそうだ。妹が酷く落ち込んでいる、心当たりは無いか、等と聞かれたとの事だ。友人の兄とは別に連絡をしたのだろう。
「妹思いで良いお姉ちゃんなんだろうけどね」
「過保護は良くねえよ」
「過保護、ね…」
「相手の気持ち放ったらかして付き合えって有り得ねえよ。大昔じゃあるまいし」
後ろめたく思う必要はねえよ、そう彼なりに励ましてくれた。どうやら友人の理解は得られたようだ。
しかし、先輩達はどうなのか。彼女もどう思っているのか。彼女とは朝以降顔を合わせる事が出来ず、結局聞けなかった。合わせたとしても、聞けたかどうか。
だが先輩達には遅かれ早かれ、事情を聞かれる事になるだろう。覚悟を決めるしかない。
(…気まずいなぁ)
彼女とは朝の一件がある。先輩達も話を聞いている可能性が高い。彼女の妹も、もしかしたら来ているかもしれない。その状況で一体どんな顔をして話せば良いのか。
「何だ、居たのか」
ドアから顔を覗かせたのはヴィオラの先輩だった。
「ええと…」
「ま、丁度良かった。遅いからどうしたんだろうと思ってな」
「そう、ですか?」
「聞きたい事もあったし」
思わず半歩下がる。覚悟していたとはいえ、出来る事なら逃げ出したい。
そんな僕に構わず、先輩は友人の兄を呼ぶ。
「そう怯えなさんな。詳しい話が聞きたいだけだよ」
先輩の声は変わらず落ち着いていた。
しかしその表情はほんの少し、曇っている様に見えた。
音楽室から少し離れた階段に腰掛けた。
背にした壁から、ひやりとした感触が伝わってくる。
大体の話は彼女から聞いている、と先輩は言った。
「それに二人が何か揉めてるって話、あいつから聞いてたし」
あいつ、とは友人の事だ。僕と話をした後、友人が兄に事の顛末を連絡したのだろう。
それならば、今更僕に何を聞くつもりなのか。
「片方からしか聞いてないし、あいつから聞いただけじゃ解らんし、実際のところどうなのか知りたいからな」
「実際のところも何も…。僕には応えられなかった、それだけです」
それ以上の説明は出来なかった。何を言っても言い訳になる。
「色恋沙汰は難しいな」
友人の兄が誰にともなく呟く。
僕には断る以外の選択肢は無かった。無理をして付き合っても、結局は破綻する。
しかし、最初はどうであれ、付き合っていれば好きになる可能性もある。彼女の妹は、それに一縷の望みを託したのかもしれない。
「一世一代の賭けか。相手がどうであれ、可能性はゼロでは無いからな」
解らなければ可能性がある。少なくともそう信じられる。信じられれば、行動に出られる。
彼女は、何を思っていたのだろうか。ただ純粋に妹を思っての言葉だったのだろうか。
「何が何でも成功させたいって思ってたんだろう。コンミスで頑張りたいってのもあっただろうし、かなりの部分で編曲にも関わってる。思い入れが強くなるのも解るな。だからこそ理不尽だと解ってても、妹と付き合ってくれと言ったんじゃないのかな」
先輩は続ける。淡々と、何の感情も込めず。
「話を聞いて解ったんだけど、あの子は本気で妹と付き合って欲しいと望んでいた訳では無いよ。成功させたい。それだけだ。終わるまでは夢を見ていて欲しかった、あの子はそう言っていたよ」
それは、僕よりも残酷な願いだ。
成功させる為には、どんな犠牲も厭わない。
純粋だからこその、残酷。
「流石にそれはあんまりだって言ったんだけどね」
一切の妥協を許さない姿勢。そう、まるで大舞台に臨むかの様な、狂気とも呼べる思い。
「去年もそうだったよ。責任感が強い。もう少し肩の力を抜けって、アドバイスしたんだけどな」
先輩が苦笑する。
あの子も悩んでいた、と先輩は呟く。御しきれない感情と、責任感のせめぎ合いで苦しんでいたのだと。
「とりあえず、文化祭なら心配しなくて良い。あの子も妹も相当責任感が強いみたいでな」
「どういう事です?」
「今まで通り、まぁ…現状維持だな。演奏はやり切るって事になった。二人ともそれで良いと言ってたよ」
「…そうですか」
何とも勝手な話だ。僕は完全に無視された形になる。
「あの子の本音はどうなのかは解らない。俺達に言ってない事は当然あるだろうな。練習が終わってから聞いてみるといい。ま、多分解りきった答えだと思うけどな」
解りきった答え。それが、彼女の言う「御しきれない感情」なのだろうか。
練習に戻ろう、と先輩が僕を促す。
「僕は…」
ここに来るまでに考えていた事。
「ソロに戻ろうと思うんです」
この状態で一緒に演奏など出来ない。彼女達の責任感が強くとも、僕には耐えられない。
彼女の本音―――答えを聞くのも、怖い。
「僕には、出来ません。やりたくないんです」
耐えられない、と呻く。
先輩は僕を責めなかった。
ただ、もう一度だけ一緒に練習してくれ、と僕に頼んだだけだった。
「辞めるにしても続けるにしても…二人に直接伝えて貰った方が良いと、俺は思う」
気は進まないし出来ることならやりたくないのだが、先輩の言うことは正しかった。
「…解りました。もう一度、参加してみます」
僕の答えに、先輩は少しだけ微笑む。
「また四人に戻るのか。寂しくなるな」
友人の兄がぽつりと呟いた。
After Concert -9-
朝、彼女が僕を捕まえて言った台詞がこれだった。
上着の襟を掴まれたまま問い詰められる様は、傍から見れば滑稽だろう。
掴まれた僕はと言えば、どことなくぼんやりとした顔をしている。
寝た気がしないのだ。いつもより早く休んだにも関わらず、疲れが全く取れていない。
勿論、通し練習が理由じゃない。
「何…って、何?」
「誤魔化さないで。あの子と何があったのよ?」
あの子。彼女の妹の事だろう。僕の疲れの原因だ。
彼女の話によると、昨日帰ってから妹の元気が無かったらしい。今までに無いくらい落ち込んでいたそうだ。本人に理由を尋ねてみても何も答えない。先輩や彼女の友人達に聞いてみても何も知らないと言う。
「…で、僕が原因だと」
「そうとしか考えられない」
十中八九僕が原因だろう。しかし、どうも面白くない。
知っている人間を総当たりし、消去法で僕だと結論づけたのだろうが、少々短絡的だ。
「先生に何か言われたとか、他の友達が原因とか、そういう事は考えなかったの?」
「それは…」
「本人が何も言ってないんだったら、僕を犯人扱いするのは止めて欲しいな」
彼女の手が上着から離れる。
遣り切れない気持ちなのだろう。きつく握られた手が震えている。
上着を直しながら考える。
どうせ、彼女には告げなければならない。隠し通すつもりも、元より隠し通せるとも思っていない。
「僕が犯人の可能性は、高いと思うけど」
「どういう事よ?」
掴み掛かりそうな勢いで彼女は言う。僕はさりげなく距離を置き、続ける。
「告白されたんだよ」
声を潜めて手短に伝える。
「…何?」
「好きだって言われた。妹さんからね」
彼女の顔から色が失われていく。
「あの子が…?」
力なく呟く彼女を、僕は黙って見つめる。
予想もしていなかった事態に呆然としているのだろうか。それともショックを受けたのか。
彼女は、本当に妹の気持ちに気付いていなかったのだろうか。
気付いていた、と僕は思う。
彼女はあの子の姉だ。あの子に一番近い。気付かないはずは無いだろう。第一、あの子は彼女を、姉を強く意識していたのだ。
(逆に、近いからこそ見えなかった、か?)
見えないふりをしていた可能性もある。
気付かなければやり過ごせる。少なくとも、文化祭が終わるまでは。
そうだとしたら、僕と同じだ。
出来るならば、やり過ごしたかった。けれど、その目論見は崩れた。
あの子の勇気ある、そして僕には迷惑な行動を起こす事によって。
「どうして」
「何?」
「どうして応えてあげなかったの?」
「どうしてって…」
「あの子、戻らないかもしれないのよ?そうなったら、文化祭は、あの曲はどうなるの?少しだけ付き合ってあげるとか出来なかった訳?」
「冗談じゃない」
廊下を過ぎる生徒が驚いて振り向いた。何人かが遠巻きに様子を窺っている。
「好き勝手言わないでくれ。僕に好きじゃない子と付き合えって言うの?嘘をついて付き合ったって、上手く行く訳無いだろう。別れるのは解っているんだ。だったら、最初から付き合わない方がよっぽど良い。嘘だって解って余計に傷付くのはあの子なんだ。解るだろう?…あの子は、友達として、一緒にやる仲間としては好きだ。けど、それ以上の気持ちは無いんだよ」
最悪だ。僕は心の中で呟いていた。
「僕には好きな人が居る。断る理由がそれじゃ、不十分なのか?」
あの子には告げなかった理由。告げたくなかった、一番の想い。
始業のチャイムが鳴る。遠巻きに見ていた生徒達が教室へ帰っていく。
「私は…」
複雑な顔をしている彼女を一瞥し、僕も教室へ戻った。
席に着くなり、友人に突かれた。
「喧嘩?」
「違うって」
「じゃあ何だよ、朝っぱらから」
「色々あるんだよ」
「へぇ…。例えば、妹ちゃんと何かあったとか?」
ぎょっとする僕に、我が意を得たりとばかりに笑う友人。
「何だ、やっぱりそれか」
「お前がどうしてそれを…」
「そこ、授業始まってるぞ」
先生に一喝され、黙る。
友人は何か言いたそうに僕を見ていた。その視線から逃れるように窓の外を見遣る。
僕の心とは裏腹に、空は高く、抜けるように青かった。
最悪だ、ともう一度心の中で呟く。
彼女の言う様に、あの子はクインテットを抜けるだろう。そうなれば、今までやって来た事は無駄になるかもしれない。代役はそう簡単には見付からない。弾けるという友人は、別の有志バンドのメンバーなのだ。
メンバーが欠ければ、文化祭の舞台には上がれなくなる。
彼女の言う様に、文化祭が終わるまでは付き合うべきだったのか。僕の気持ちを通したのは間違っていたのだろうか。もしそうならば、どうすれば良かったのか。何が正しかったのか。
僕には、解らなかった。
After Concert -8-
「近くで見て、一緒に練習して、改めてそう思ったんです」
「…それで?」
頬を撫でる風が、冷たさを増していく。僕の声も同じだ。
落ち葉が転がり、乾いた音を立てる。
伝えたい事はまだ有るはずだ。僕の予想が外れていなければ。
それは外れて欲しい予想だった。促しておきながら、言ってくれるなと思う。
矛盾。
覚悟はしているのだろう。だから、その気持ちだけは、受け止めなければならない。
この子の、気持ち。
「先輩…」
僕は、応えない。
「先輩の事が、好きです」
重い台詞だった。
だが何となくそうなのかもしれない、とは感じていた。僕が幾ら鈍感でも、この子の姉―――彼女と一緒に居る時の様子を見ていれば、察しは付く。
他のメンバーとは違う、不自然な態度。何かと過剰に反応していた。
人見知りだからだと思っていた。よく知らない人と話すのは苦手なのだ、と。
そうであれば良いという、無意識の願い。
確信したのは昨日の事だ。
それは練習の後、彼女と僕が二人きりで話をしていた時の、この子の瞳だった。
複雑な感情が混ざった瞳。
困惑と、嫉妬。
敢えて知らぬ素振りをしていたが、否応無しに見せられたら、逃げる訳にはいかなかった。
そして、今も。
今も同じ目で、僕を見据えている。
逃げられない。逃げてはいけない。
でも。
「僕は」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。鞄を睨み付けたまま。
「君の気持ちには、応えられない」
目は合わせない。この子の顔も、見ない。
それでも、僕の言葉に身を強張らせたのが解った。
沈黙。
僕の言葉を待っているのだろうか。それとも、何か言葉を探しているのか。
「一つだけ、聞かせてください」
その声はさっきよりも震えていた。泣いているのかもしれない。
「先輩は、姉の事が、好きなんですか?」
姉、と言った声は、厳しいものだった。憎悪か、それとも、嫉妬か。或いはその両方か。
僕は応えず、沈黙を返す。
「…先輩」
すがる様な声。半歩、僕の方へ近付いてくる。コンクリートと砂が擦れて、乾いた音を立てた。
「それを聞いて、どうするのさ。知ってどうする?僕の答えは変わらない」
明らかな拒絶の言葉に、この子は何を思っただろう。
数瞬の静止。
何かを呟いたのかもしれない。僕には届かない声。
うつむき、固く唇を結ぶ。
そして、僕の横を通り過ぎた。
遠くなる足音。僕は振り返らない。足音が聞こえなくなるまで、その場を動かなかった。
動くことが、出来なかった。
掌に汗が滲んでいた。
糸が切れる様に、強張った身体から力が抜けていく。
自転車のハンドルにもたれかかる。迷惑そうに自転車が軋んでいる。
澱のように溜まった息を吐き出す。
酷いヤツだ、そう呟く。
僕の言葉と態度は、あの子を傷付けただろう。そんな事は百も承知だ。
傷付けずに済ませる方法は思い付かなかった。有るとも思えない。
優しい言葉をかけてやるべきだったのか。嘘をついてでも応えるべきだったのか。
違う。
それは余計にあの子を傷付けるだけだ、と思う。
ならば本当の気持ちを伝えた方が相手の為だ。相手の気持ちを尊重するからこそ、僕にはこうするしか出来なかった。
いっそ、嫌われてしまった方が良い。
応える事は出来ないのだ。何度好意を伝えられても、僕には拒否する事しか出来ない。
僕なりにあの子の事を考えての言動だった。
だが、あの子はどう思ったか。他の人はどう思うのだろうか。
何よりも誰よりも、彼女はどう思うのだろうか。
考えても答えは出ない。
夜の深淵に引っ掛かる月が、睨め付ける様な光を放っていた。