Sacrifice is the World
彼は思い出す。
多分、この世界の一番最初の記憶だ。
罰として閉じ込められたこの世界で、彼は必死で探し続けてきた。
積み上げられた資料。無造作に置かれたオブジェ。この世界に残る「神」の痕跡だ。
最初は何も解らなかった。痕跡を追えばきっと、自分を閉じ込めた「神」とやらの正体が解ると思っていた。
違うと理解したのは、彼女と出逢った時。彼の記憶も「神」の記憶も忘れた彼女。そして彼女が記憶を取り戻した時、それは起こった。
繰り返し。
全ては振り出しに戻っていた。
何もかもが最初から。彼女の記憶も、消されていた。
幾度も繰り返すうちに彼は気付く。これは時の輪なのだ、と。
そしてこの世界こそが、彼であり彼女であるのだ、と。
世界の終わり。それは、二人の死。永遠からの、解放。赦しの時だ。
だからこそ彼は、終わらせる価値を探し続けていた。
しかし彼女は。
『終わらせる為の価値なんて、そんなの哀しすぎる』
永遠を願う。
『あなたを解放してあげられるならば、この世界にも価値があったと、そう思える』
終わる鼓動で、彼の為の言葉を叫ぶ。
幾度となく聞いた言葉。
「きっと君は、そう言うだろうと思ったよ」
変わらない、と彼は呟く。
己の指から落ちた指輪。寄り添うように、砕けたペンダントへと転がっていく。
フェニックスとウロボロス。
永遠と繰り返し。
似ているようで似ていない。違うようで同じもの。
痛む身体を引きずり、横たわる彼女を抱え、その髪を撫でる。
「いつもそうだった。そうやって君は、僕の為に解放を望んでくれた」
動かない彼女。頬にはまだ、涙が残っている。
「そして僕は、君を解放する為に、終わらせようとしていた」
虚ろな瞳。
「僕が、僕達が互いを思う限り、全ては最初からやり直しになる」
誰かの為を思う行動が、良い事だとは限らない。
哀しい自己満足。相手が望んでいるかどうかも解らずに。
人の為、それは「偽り」。それならば、偽りの無い真実は何なのか。
「僕が君を想う事の何が悪い?君が僕を想ってくれる事の、何が悪い?」
愛では、軽すぎる。
絆では、浅すぎる。
彼と彼女。
ただ、そうあるというだけなのに。
―――お前は何を望むのか。
視界の端、空の境目が崩れていく。終わりの刻の始まりだ。
―――お前は価値を見付けたのか。
めくれあがる地面。それなのに、何の音も聞こえない。
―――お前は終わらせる覚悟が出来ているのか。
悲鳴さえも聞こえない。彼にしか感じられない「終わり」。その「終わり」に、一体何の意味があるのだろう。
「まだだ。まだ、駄目なんだ」
割れる世界。研究室が軋んだ。
彼と彼女が赦される時。
それは、彼が彼女を想う事無く、彼女が彼を想う事無く、純粋に「終わらせる価値」を見出した時。
互いの為に行動してはならない。
互いを想ってはならない。
それは罪だから。与えられた罰だから。
彼は嗤う。
―――何を嗤う?
「誰かを想う事を愛と教えられながら、それを否定されているんだから」
問い掛ける声に、彼はそう呟く。
「この世界に愛があるなら、何故それを価値と認めない?」
もう動かない彼女。彼女にこそ、与えられるべきもの。
「彼女を想う事こそが、僕がこの世界に見出した唯一の価値なのに」
そしてきっと彼女も、同じ事を思ったはずだ。
―――選べ。永遠の地獄か、繰り返す悪夢か。
そうやって声が問い掛けるのは何度目だろう。意味のない問い掛けだ、と彼は冷笑する。
「何度でもやってやるさ。今度こそ、終わらせてやる」
―――ならば眠れ。悪夢の中で、地獄を彷徨うがいい。
声は彼を嗤う。愚かだ、と。
絶対的な、それこそ「神」に逆らう事の、何と愚かな事か、と。
書庫の奥の更に奥。題名も解らぬ程古びた本に、それは書かれていた。
『ウロボロス。
それは、終わらない時の象徴。
フェニックス。
それは、繰り返す時の象徴。
似ているようで似ていない。
己の描く輪から逃れられない存在。
死ぬ事でしか永遠を得られない存在。
人の姿に身をやつした、人ではない存在。
彼らが互いに見出した想いこそ、彼らの得た知恵の実、世界の価値。
誰が彼らを愚かだと嗤う事が出来ようか。
神であっても、一人では得られないものだからこそ、価値があるのだ。
愛する事を罪だというのならば、喜んで罰を受けよう。
得られぬ終わりが赦しならば、終わらない事に感謝を捧げたい。
望む限り互いを想い続けられるのだから』
多分、この世界の一番最初の記憶だ。
罰として閉じ込められたこの世界で、彼は必死で探し続けてきた。
積み上げられた資料。無造作に置かれたオブジェ。この世界に残る「神」の痕跡だ。
最初は何も解らなかった。痕跡を追えばきっと、自分を閉じ込めた「神」とやらの正体が解ると思っていた。
違うと理解したのは、彼女と出逢った時。彼の記憶も「神」の記憶も忘れた彼女。そして彼女が記憶を取り戻した時、それは起こった。
繰り返し。
全ては振り出しに戻っていた。
何もかもが最初から。彼女の記憶も、消されていた。
幾度も繰り返すうちに彼は気付く。これは時の輪なのだ、と。
そしてこの世界こそが、彼であり彼女であるのだ、と。
世界の終わり。それは、二人の死。永遠からの、解放。赦しの時だ。
だからこそ彼は、終わらせる価値を探し続けていた。
しかし彼女は。
『終わらせる為の価値なんて、そんなの哀しすぎる』
永遠を願う。
『あなたを解放してあげられるならば、この世界にも価値があったと、そう思える』
終わる鼓動で、彼の為の言葉を叫ぶ。
幾度となく聞いた言葉。
「きっと君は、そう言うだろうと思ったよ」
変わらない、と彼は呟く。
己の指から落ちた指輪。寄り添うように、砕けたペンダントへと転がっていく。
フェニックスとウロボロス。
永遠と繰り返し。
似ているようで似ていない。違うようで同じもの。
痛む身体を引きずり、横たわる彼女を抱え、その髪を撫でる。
「いつもそうだった。そうやって君は、僕の為に解放を望んでくれた」
動かない彼女。頬にはまだ、涙が残っている。
「そして僕は、君を解放する為に、終わらせようとしていた」
虚ろな瞳。
「僕が、僕達が互いを思う限り、全ては最初からやり直しになる」
誰かの為を思う行動が、良い事だとは限らない。
哀しい自己満足。相手が望んでいるかどうかも解らずに。
人の為、それは「偽り」。それならば、偽りの無い真実は何なのか。
「僕が君を想う事の何が悪い?君が僕を想ってくれる事の、何が悪い?」
愛では、軽すぎる。
絆では、浅すぎる。
彼と彼女。
ただ、そうあるというだけなのに。
―――お前は何を望むのか。
視界の端、空の境目が崩れていく。終わりの刻の始まりだ。
―――お前は価値を見付けたのか。
めくれあがる地面。それなのに、何の音も聞こえない。
―――お前は終わらせる覚悟が出来ているのか。
悲鳴さえも聞こえない。彼にしか感じられない「終わり」。その「終わり」に、一体何の意味があるのだろう。
「まだだ。まだ、駄目なんだ」
割れる世界。研究室が軋んだ。
彼と彼女が赦される時。
それは、彼が彼女を想う事無く、彼女が彼を想う事無く、純粋に「終わらせる価値」を見出した時。
互いの為に行動してはならない。
互いを想ってはならない。
それは罪だから。与えられた罰だから。
彼は嗤う。
―――何を嗤う?
「誰かを想う事を愛と教えられながら、それを否定されているんだから」
問い掛ける声に、彼はそう呟く。
「この世界に愛があるなら、何故それを価値と認めない?」
もう動かない彼女。彼女にこそ、与えられるべきもの。
「彼女を想う事こそが、僕がこの世界に見出した唯一の価値なのに」
そしてきっと彼女も、同じ事を思ったはずだ。
―――選べ。永遠の地獄か、繰り返す悪夢か。
そうやって声が問い掛けるのは何度目だろう。意味のない問い掛けだ、と彼は冷笑する。
「何度でもやってやるさ。今度こそ、終わらせてやる」
―――ならば眠れ。悪夢の中で、地獄を彷徨うがいい。
声は彼を嗤う。愚かだ、と。
絶対的な、それこそ「神」に逆らう事の、何と愚かな事か、と。
書庫の奥の更に奥。題名も解らぬ程古びた本に、それは書かれていた。
『ウロボロス。
それは、終わらない時の象徴。
フェニックス。
それは、繰り返す時の象徴。
似ているようで似ていない。
己の描く輪から逃れられない存在。
死ぬ事でしか永遠を得られない存在。
人の姿に身をやつした、人ではない存在。
彼らが互いに見出した想いこそ、彼らの得た知恵の実、世界の価値。
誰が彼らを愚かだと嗤う事が出来ようか。
神であっても、一人では得られないものだからこそ、価値があるのだ。
愛する事を罪だというのならば、喜んで罰を受けよう。
得られぬ終わりが赦しならば、終わらない事に感謝を捧げたい。
望む限り互いを想い続けられるのだから』
Hope is Sacrifice
何故彼はこんなにも苦しそうに言うのだろう。
いつも穏やかな顔が苦痛に歪んでいる。隠し切れない程に。
「価値…って、何?」
喉に貼り付いた声。
「そんなの、世界の価値なんて、私には解らない」
彼が研究していた事、彼が研究していた意味、それに辿り着けた高揚感が引いていく。
同じ光景、同じ問い、同じ思い。
熱に浮かされた様に溢れた言葉。
幾度となく繰り返された邂逅。
一番遠い記憶。神代の時程に、遠い思い出。
『世界の本当の姿を、知りたいと思わない?』
最初は、ささいな戯れだった。
アダムとイヴの原罪に似た、小さな気まぐれだった。
触れてはいけない禁忌。口にしてはならない言葉。
『知ってしまったら戻れないよ』
『やらないより、やって後悔するべきだよ』
抗いがたい誘惑だった。
知恵の実の名は『世界の価値』。
与えられた罰は『終わらせる価値を見出す事』。
歌うように告げられたのは『価値あるものだけが、終わりを許される』。
神の声が聞こえる。
繰り返す時の中で、その価値を見付けてみせよ、と。
見付けるまで、終われない苦しみを味わうがいい、と。
彼はあの時、薄く微笑んで言っていた。
「終われない僕達に、価値は無いんだろうか」
そして今も同じ様に、薄く微笑んで言う。
「終わらせる価値を、君は見付けられたかい?」
苦しそうな微笑み。
「全ては終わりが有るから、価値が有るんだよ」
思い出した。いや、辿り着いたと言うべきなのかもしれない。
繰り返す時の中、彼だけがずっと記憶を持ち続けていた。そして彼女は、戻る度に記憶を失う。出逢う時はいつも、彼を忘れていた。
どれ程の孤独だろうか。
繰り返しの痛み。それは記憶を失い、何も変わらぬ世界を、たった独りで見続けて来た事。戻る度に全ての出来事が水泡に帰す、虚しさ。
己が無力だと、何度思っただろう。諦めてしまえば楽になれると、きっと彼は思っただろう。それなのに彼は、ずっと答えを、価値を探し続けていた。
彼女は思う。
終わりは終わりでしかない。その先にあるのは、無。何も無い。時間も世界も消えてしまうだろう。
彼女は思う。
価値は、終わらせる為に存在するのではない、と。
価値があるからこそ、存在し続けることが出来るのだ、と。
終われないのは価値が無いからじゃない、価値があるから終わらないのだ、と。
相容れない思い。
解っているのに、受け容れられない。
永遠を終わらせたい。
繰り返しを終わらせたい。
地獄も、悪夢も、終わらせてあげたい。
それなのに。
「世界の価値なんて…終わらせる為にあるなんて…」
揺らめく視界。
「終わらせる為の価値なんて、そんなの哀しすぎる」
焼け付く様に熱い涙。
「だけど、だけど…」
幾度も繰り返した出会い。その面影が全て、彼に重なる。
矛盾した願いが駆け巡る。
「その苦しみから、あなたを解放してあげたい」
祈りにも似た言葉。
「あなたを解放してあげられるならば、この世界にも価値があったと、そう思える」
たった独りの彼。
自分が彼を繋ぎ止める足枷ならば、壊れてしまえばいい。
世界が彼を苦しめるならば、終わってしまえばいい。
彼が望むなら、死ぬ事も、死なせる事も、何だって出来る。
終わりが有るから価値があるのだ、と彼は言う。
価値が有るから終わらないのだ、と彼女は思う。
矛盾した願いが、彼女の中でせめぎ合う。
「あなたが世界なら、あなたの望むままになればいい―――」
何もかも、苦しませるだけならば。
慟哭と共に、胸元のペンダントが砕け散った。
いつも穏やかな顔が苦痛に歪んでいる。隠し切れない程に。
「価値…って、何?」
喉に貼り付いた声。
「そんなの、世界の価値なんて、私には解らない」
彼が研究していた事、彼が研究していた意味、それに辿り着けた高揚感が引いていく。
同じ光景、同じ問い、同じ思い。
熱に浮かされた様に溢れた言葉。
幾度となく繰り返された邂逅。
一番遠い記憶。神代の時程に、遠い思い出。
『世界の本当の姿を、知りたいと思わない?』
最初は、ささいな戯れだった。
アダムとイヴの原罪に似た、小さな気まぐれだった。
触れてはいけない禁忌。口にしてはならない言葉。
『知ってしまったら戻れないよ』
『やらないより、やって後悔するべきだよ』
抗いがたい誘惑だった。
知恵の実の名は『世界の価値』。
与えられた罰は『終わらせる価値を見出す事』。
歌うように告げられたのは『価値あるものだけが、終わりを許される』。
神の声が聞こえる。
繰り返す時の中で、その価値を見付けてみせよ、と。
見付けるまで、終われない苦しみを味わうがいい、と。
彼はあの時、薄く微笑んで言っていた。
「終われない僕達に、価値は無いんだろうか」
そして今も同じ様に、薄く微笑んで言う。
「終わらせる価値を、君は見付けられたかい?」
苦しそうな微笑み。
「全ては終わりが有るから、価値が有るんだよ」
思い出した。いや、辿り着いたと言うべきなのかもしれない。
繰り返す時の中、彼だけがずっと記憶を持ち続けていた。そして彼女は、戻る度に記憶を失う。出逢う時はいつも、彼を忘れていた。
どれ程の孤独だろうか。
繰り返しの痛み。それは記憶を失い、何も変わらぬ世界を、たった独りで見続けて来た事。戻る度に全ての出来事が水泡に帰す、虚しさ。
己が無力だと、何度思っただろう。諦めてしまえば楽になれると、きっと彼は思っただろう。それなのに彼は、ずっと答えを、価値を探し続けていた。
彼女は思う。
終わりは終わりでしかない。その先にあるのは、無。何も無い。時間も世界も消えてしまうだろう。
彼女は思う。
価値は、終わらせる為に存在するのではない、と。
価値があるからこそ、存在し続けることが出来るのだ、と。
終われないのは価値が無いからじゃない、価値があるから終わらないのだ、と。
相容れない思い。
解っているのに、受け容れられない。
永遠を終わらせたい。
繰り返しを終わらせたい。
地獄も、悪夢も、終わらせてあげたい。
それなのに。
「世界の価値なんて…終わらせる為にあるなんて…」
揺らめく視界。
「終わらせる為の価値なんて、そんなの哀しすぎる」
焼け付く様に熱い涙。
「だけど、だけど…」
幾度も繰り返した出会い。その面影が全て、彼に重なる。
矛盾した願いが駆け巡る。
「その苦しみから、あなたを解放してあげたい」
祈りにも似た言葉。
「あなたを解放してあげられるならば、この世界にも価値があったと、そう思える」
たった独りの彼。
自分が彼を繋ぎ止める足枷ならば、壊れてしまえばいい。
世界が彼を苦しめるならば、終わってしまえばいい。
彼が望むなら、死ぬ事も、死なせる事も、何だって出来る。
終わりが有るから価値があるのだ、と彼は言う。
価値が有るから終わらないのだ、と彼女は思う。
矛盾した願いが、彼女の中でせめぎ合う。
「あなたが世界なら、あなたの望むままになればいい―――」
何もかも、苦しませるだけならば。
慟哭と共に、胸元のペンダントが砕け散った。
Memory is Hope
意外と早かったね、と彼は彼女を見やる。
彼女は何も答えず、一冊の本を彼に差し出した。書庫で見付けたあの本だ。
「珍しいモノを、見付けたね」
彼の表情が僅かに変わる。彼自身も気付かないほど、微かな変化だった。
「言ってた事、これに載ってたの」
「どういう事?」
栞の挟まったページを開く。古い本独特の紙の匂いが鼻をつく。
黄ばんだページには、確かに自分の問い掛けと同じ言葉が載っていた。彼女は少しだけ、怯えたような目をしている。震えているのかもしれない。
それは彼も同じだった。
触れてはいけない。これは、トリガーなのだ。
「…ただの解説本だろう。僕みたいな事を考えるのは、僕だけじゃなかったって事だ」
「でも!」
「読んだ事が有ると言えば満足なのか」
「そうじゃない、そうじゃないの!」
彼女を支配するのは言い知れぬ感情なのだろう。ただ何かに辿り着いた、その思いだけが彼女を動かしている。
熱に浮かされたかの様に彼女は言葉を続ける。それこそ何かに―――神にでも憑かれたかの様に。或いは、悪魔か。
確信に満ちた言葉。だが、彼女自身、理解していないのだろう。
「何度も聞いていたから、そう思ったのかもしれない。でも違う、勘違い。私は、私達は、確かに繰り返していた」
彼は何も言わない。
「何度も何度も、同じ事を繰り返していた」
彼は何も答えない。
「永遠の地獄、繰り返す悪夢…」
彼女の胸元のペンダントがさざめく様に揺れる。
「あなたは、それを断ち切る為に研究をしている」
知る事の罪。与えられた罰。
「永遠を終わらせる為に、繰り返させない為に」
彼女は言い切り、唇をきつく結ぶ。上気した頬がほのかに染まっている。
澱のような沈黙。
時を刻む音だけが、二人を繋いでいた。
告げるべきか否か、彼は逡巡する。
トリガーは引かれてしまった。目の前で、彼女の手で。
駄目だった。彼は悟る。残された時間は少ない、と。
「君にとって、世界は何だと思う?」
彼女の虚を突かれた顔。見開いた瞳。吸い込まれそうな程に深い、心の淵の色。
「君にとってこの世界は、終わらせる価値があると思う?」
終わらせる程の価値が、この世界にはあるのか。
秒針が少しずつ、しかし確実に、時を刻んでいく。
嫌な音だ、と彼は思う。
カチリと秒針が鳴る度に、自分の身体も刻まれている様で。
引き裂かれそうな痛み。息も出来ぬ程の苦痛。
それはまるで終わらない地獄。
そしてそれは繰り返す悪夢。
しかし彼は言葉を紡ぐ。たった一人、彼女の為に。
「価値のあるものしか、終わらせる事は出来ないんだ」
彼が辿り着いた答えを告げる為に。
「価値が無ければ、永遠に終われない。繰り返すしかないんだ。価値を見付けるまで」
たったひとつの答えの為に。
「それは哀しい事なんだよ。終われないって事は、価値が無いって事と同じだから」
焼け付くような激痛。
「価値は誰かに与えられるものじゃない。自分で、自分自身で、見付けなきゃいけない」
言うな、と警告するかの様に跳ね上がる心臓。
「この世界は、自分に価値がないと思い込んでいる。だから、終われないでいるんだ」
逆らうな、と彼は痛む身体をねじ伏せる。
「そうして…地獄と悪夢を繰り返し選び続けている」
痛みに瞳を伏せる。彼女がどんな顔をしているかは解らない。
「僕は、地獄と悪夢を繰り返してきた。その二つを選ぶ以外に無かったんだ」
永遠よりも辛いものはない。
繰り返しよりも無為なものはない。
だから、今度こそは。
「君は…どう?それでもまだ、価値が無いと思う?」
終わりにしなければ。
彼女は何も答えず、一冊の本を彼に差し出した。書庫で見付けたあの本だ。
「珍しいモノを、見付けたね」
彼の表情が僅かに変わる。彼自身も気付かないほど、微かな変化だった。
「言ってた事、これに載ってたの」
「どういう事?」
栞の挟まったページを開く。古い本独特の紙の匂いが鼻をつく。
黄ばんだページには、確かに自分の問い掛けと同じ言葉が載っていた。彼女は少しだけ、怯えたような目をしている。震えているのかもしれない。
それは彼も同じだった。
触れてはいけない。これは、トリガーなのだ。
「…ただの解説本だろう。僕みたいな事を考えるのは、僕だけじゃなかったって事だ」
「でも!」
「読んだ事が有ると言えば満足なのか」
「そうじゃない、そうじゃないの!」
彼女を支配するのは言い知れぬ感情なのだろう。ただ何かに辿り着いた、その思いだけが彼女を動かしている。
熱に浮かされたかの様に彼女は言葉を続ける。それこそ何かに―――神にでも憑かれたかの様に。或いは、悪魔か。
確信に満ちた言葉。だが、彼女自身、理解していないのだろう。
「何度も聞いていたから、そう思ったのかもしれない。でも違う、勘違い。私は、私達は、確かに繰り返していた」
彼は何も言わない。
「何度も何度も、同じ事を繰り返していた」
彼は何も答えない。
「永遠の地獄、繰り返す悪夢…」
彼女の胸元のペンダントがさざめく様に揺れる。
「あなたは、それを断ち切る為に研究をしている」
知る事の罪。与えられた罰。
「永遠を終わらせる為に、繰り返させない為に」
彼女は言い切り、唇をきつく結ぶ。上気した頬がほのかに染まっている。
澱のような沈黙。
時を刻む音だけが、二人を繋いでいた。
告げるべきか否か、彼は逡巡する。
トリガーは引かれてしまった。目の前で、彼女の手で。
駄目だった。彼は悟る。残された時間は少ない、と。
「君にとって、世界は何だと思う?」
彼女の虚を突かれた顔。見開いた瞳。吸い込まれそうな程に深い、心の淵の色。
「君にとってこの世界は、終わらせる価値があると思う?」
終わらせる程の価値が、この世界にはあるのか。
秒針が少しずつ、しかし確実に、時を刻んでいく。
嫌な音だ、と彼は思う。
カチリと秒針が鳴る度に、自分の身体も刻まれている様で。
引き裂かれそうな痛み。息も出来ぬ程の苦痛。
それはまるで終わらない地獄。
そしてそれは繰り返す悪夢。
しかし彼は言葉を紡ぐ。たった一人、彼女の為に。
「価値のあるものしか、終わらせる事は出来ないんだ」
彼が辿り着いた答えを告げる為に。
「価値が無ければ、永遠に終われない。繰り返すしかないんだ。価値を見付けるまで」
たったひとつの答えの為に。
「それは哀しい事なんだよ。終われないって事は、価値が無いって事と同じだから」
焼け付くような激痛。
「価値は誰かに与えられるものじゃない。自分で、自分自身で、見付けなきゃいけない」
言うな、と警告するかの様に跳ね上がる心臓。
「この世界は、自分に価値がないと思い込んでいる。だから、終われないでいるんだ」
逆らうな、と彼は痛む身体をねじ伏せる。
「そうして…地獄と悪夢を繰り返し選び続けている」
痛みに瞳を伏せる。彼女がどんな顔をしているかは解らない。
「僕は、地獄と悪夢を繰り返してきた。その二つを選ぶ以外に無かったんだ」
永遠よりも辛いものはない。
繰り返しよりも無為なものはない。
だから、今度こそは。
「君は…どう?それでもまだ、価値が無いと思う?」
終わりにしなければ。
Guilty is Memory
書庫へ向かう彼女の足取りは重い。
彼に耐えきれず、白紙のメモを片手に研究室を後にした。
彼は何も答えてくれない。ただ時折、資料に関する話をしてくれる。
神話や伝説は何か歴史的事実を含む事がある。よく聞くのはその話くらいだ。
だから、彼が何故研究しているのか、何を基準に資料を集めているのか、それすらも解らない。
そして、何故自分が彼の助手を勤めているのかさえも。
彼に助手として呼ばれたのはつい最近だった。一介の研究員だった自分に、何故か声がかかった。
彼と彼女は同期生だ。同じ教授のゼミを受け、共同でレポートを仕上げた事もあった。
卒業した後、彼女は研究室に入り、彼は教授として学校に籍を置く事となった。
彼女が居た研究室は、彼の言う時間やら世界に関するものとは全く縁が無かった。遺伝子だとか、クローン技術だとか、彼の研究と対比すれば「最先端」に近かったと自分では思っている。
それが、神話だの伝説だの、時間だの世界だのという研究だ。こんな畑違いの研究に何故自分が、と疑問は今でも消えていない。そして、何故引き受けたのか、未だに自分でも理解出来ない。
昔のよしみ、という程彼と仲が良かった訳ではない。声を聞いてようやく彼だと解ったくらいなのだ。
(時間の研究?)
SFの設定でありそうだ、と思った。
(神話や伝説を調べる事と時間に、何の関係が?)
ファンタジーの読み過ぎだ、と呆れていた。
(知ることの罪?)
ぞくり、と背筋が震える。彼の言葉を思い返す。
踏み込んではいけない世界に踏み込んでしまった、と思うことが時折ある。それでも、昔の研究室に戻ろうとは思っていない。興味が無くなったわけではない。今でも当時の同期生と食事に行ったりしている。最近の研究や、誰かの噂話に花を咲かせることも多い。戻りたいと思って然るべきなのに、彼の傍に居るべきだと感じてしまう。
居なければいけない、と決められている気がしてならない。
学生に対する態度とか、自分に接する態度とか、それなりに魅力はあると思う。話が通じない訳ではない。普通の話題も出来る。
彼に対する感情、それが何なのか自分でも理解出来ない。
恋なんてものじゃない。愛なんて以ての外だ。
ペンダントを握り締める。鳥を象った、彼がフェニックスだと例えたペンダント。
一体誰に貰ったものだったか―――。
夢遊病者の様に定まらない視線を巡らせる。思考もぼんやりとしたままだ。
足下の感覚さえ危うい。何もないところで転びそうにもなる。
どこか別のところでのんびりしようと思っていたのに、足は自然と図書室へと向かっていた。顔馴染みの司書は、すぐに書庫へと通してくれた。
戻るのではなく、振り出しに戻ると言っていたか。
あてもなく書庫を歩き回りながら、ふと彼の言葉を思い出す。
ただ戻るのではなく、振り出しにまで戻る、そういう事だろうか。だが、何が違うのだろう。
何となく手にした本を開いて、ぞっとした。彼の言葉が、そのまま書かれている。
『戻るのではなく、振り出しに戻る?どういう事ですか』
『―――ただ戻るのとは訳が違うのだよ。私が言う「戻る」とは、やり直しなんだ。やり直しならば、何が間違っているとか、どうすれば良かったのか考えられるだろう?そうして別の方法をやれば、違う結末になるかもしれない。そうすると「戻る」事は無いだろう?』
『………』
『振り出しに戻るのは、ゼロなんだ。何が間違っているかも、どうすれば良いのかも考えられず、ただ「一番最初へ」つまりゼロへ戻される。何も残らないんだ。そうするとどうなるか、解るかね?』
『…解りません』
『繰り返すのさ。同じところから始まって、同じところで終わってしまう。それの繰り返しさ』
そこまで読んだところで、彼女は本を閉じる。指先が震えていた。
語り手の言葉が彼と重なる。彼がこの本を書いたのだろうか。
表紙の埃と奥付を見て、違うと解った。何十年も昔に書かれた神話に関する解説本だった。
緊張が解けたのか、眩暈がする。
これも既視感ではない。記憶だと確信する。
幾度となく繰り返した問い。幾度となく繰り返された問い。
永遠の地獄を選ぶのか、繰り返す悪夢を選ぶのか。
彼の言葉がこだまする。
この本と同じ言葉、同じ光景。
彼に確かめなくては。
意を決し、その本を手に書庫を出た。
彼に耐えきれず、白紙のメモを片手に研究室を後にした。
彼は何も答えてくれない。ただ時折、資料に関する話をしてくれる。
神話や伝説は何か歴史的事実を含む事がある。よく聞くのはその話くらいだ。
だから、彼が何故研究しているのか、何を基準に資料を集めているのか、それすらも解らない。
そして、何故自分が彼の助手を勤めているのかさえも。
彼に助手として呼ばれたのはつい最近だった。一介の研究員だった自分に、何故か声がかかった。
彼と彼女は同期生だ。同じ教授のゼミを受け、共同でレポートを仕上げた事もあった。
卒業した後、彼女は研究室に入り、彼は教授として学校に籍を置く事となった。
彼女が居た研究室は、彼の言う時間やら世界に関するものとは全く縁が無かった。遺伝子だとか、クローン技術だとか、彼の研究と対比すれば「最先端」に近かったと自分では思っている。
それが、神話だの伝説だの、時間だの世界だのという研究だ。こんな畑違いの研究に何故自分が、と疑問は今でも消えていない。そして、何故引き受けたのか、未だに自分でも理解出来ない。
昔のよしみ、という程彼と仲が良かった訳ではない。声を聞いてようやく彼だと解ったくらいなのだ。
(時間の研究?)
SFの設定でありそうだ、と思った。
(神話や伝説を調べる事と時間に、何の関係が?)
ファンタジーの読み過ぎだ、と呆れていた。
(知ることの罪?)
ぞくり、と背筋が震える。彼の言葉を思い返す。
踏み込んではいけない世界に踏み込んでしまった、と思うことが時折ある。それでも、昔の研究室に戻ろうとは思っていない。興味が無くなったわけではない。今でも当時の同期生と食事に行ったりしている。最近の研究や、誰かの噂話に花を咲かせることも多い。戻りたいと思って然るべきなのに、彼の傍に居るべきだと感じてしまう。
居なければいけない、と決められている気がしてならない。
学生に対する態度とか、自分に接する態度とか、それなりに魅力はあると思う。話が通じない訳ではない。普通の話題も出来る。
彼に対する感情、それが何なのか自分でも理解出来ない。
恋なんてものじゃない。愛なんて以ての外だ。
ペンダントを握り締める。鳥を象った、彼がフェニックスだと例えたペンダント。
一体誰に貰ったものだったか―――。
夢遊病者の様に定まらない視線を巡らせる。思考もぼんやりとしたままだ。
足下の感覚さえ危うい。何もないところで転びそうにもなる。
どこか別のところでのんびりしようと思っていたのに、足は自然と図書室へと向かっていた。顔馴染みの司書は、すぐに書庫へと通してくれた。
戻るのではなく、振り出しに戻ると言っていたか。
あてもなく書庫を歩き回りながら、ふと彼の言葉を思い出す。
ただ戻るのではなく、振り出しにまで戻る、そういう事だろうか。だが、何が違うのだろう。
何となく手にした本を開いて、ぞっとした。彼の言葉が、そのまま書かれている。
『戻るのではなく、振り出しに戻る?どういう事ですか』
『―――ただ戻るのとは訳が違うのだよ。私が言う「戻る」とは、やり直しなんだ。やり直しならば、何が間違っているとか、どうすれば良かったのか考えられるだろう?そうして別の方法をやれば、違う結末になるかもしれない。そうすると「戻る」事は無いだろう?』
『………』
『振り出しに戻るのは、ゼロなんだ。何が間違っているかも、どうすれば良いのかも考えられず、ただ「一番最初へ」つまりゼロへ戻される。何も残らないんだ。そうするとどうなるか、解るかね?』
『…解りません』
『繰り返すのさ。同じところから始まって、同じところで終わってしまう。それの繰り返しさ』
そこまで読んだところで、彼女は本を閉じる。指先が震えていた。
語り手の言葉が彼と重なる。彼がこの本を書いたのだろうか。
表紙の埃と奥付を見て、違うと解った。何十年も昔に書かれた神話に関する解説本だった。
緊張が解けたのか、眩暈がする。
これも既視感ではない。記憶だと確信する。
幾度となく繰り返した問い。幾度となく繰り返された問い。
永遠の地獄を選ぶのか、繰り返す悪夢を選ぶのか。
彼の言葉がこだまする。
この本と同じ言葉、同じ光景。
彼に確かめなくては。
意を決し、その本を手に書庫を出た。
Truth is Guilty
知る事は罪。口調は普通だったが、彼の言葉は鉛の様に重たかった。
手元のパイに目を落とす。
林檎。つまり、知恵の実。彼がそれを連想した事は想像に難くない。
「悪い癖ね…。パイくらい、普通に食べたら良いのに」
「疑う事を知らないね、君は」
「疑ってたらキリが無いわ。考えてばかりじゃ、先に進めないわよ。やってから考えれば良いじゃない」
彼女の言葉で思い浮かぶ。よくある「やらないよりやって後悔しろ」という無責任なアドバイス。取り返しの付かないことになったらどうするかなんて、アドバイスする側は真剣に考えてはいない。やらずに後悔した方がよっぽどマシな事があるなんて、きっと考えもしないんだろう。
行動は、プラスではない。行動したからこそ、責め苦を受け続けなければならない。
彼女もそれを知らないのだろう、と思う。
勿論、彼女には何の罪もない。無責任な自称アドバイザーも同じだ。
アドバイスの原動力は、飽くまでも善意なのだ。
罪を問われるべきは、その無責任なアドバイスに従った自分自身。己の心だ。
心など無ければ良かったと思った事が何度あっただろう。
心惹かれなければ、心動かされなければ、間違いなく自分は違う道を歩んでいた。苦い記憶が蘇る。
あの時、抗う事が出来たなら。その手を引き、背を向ける事が必要だと知っていれば。
考えては駄目だと頭を振ると、彼女が怪訝な顔をしてこちらを見た。
「頭痛でも?」
「いいや、少し昔の事を思い出してね」
いつもの笑顔で言ってから、しまった、と思う。
「…そういえば私こうやって手伝ってるけど、お互いの事何も知らないよね」
遅かったか、と溜息をつく。
「知る事は罪、だよ。知らない方が都合が良いとは考えられない?」
「そうかもしれないけれど…知ってた方が勝手が分かるというか」
「一緒にやってく中で解っていくものだと思うけどね」
「それは…」
彼女の詮索を一方的に打ち切って資料を読みあさる。身勝手な行為だとは自覚していた。
彼女は一瞬何か言いたげな視線を投げたが、諦めて資料の整理に取り掛かる。
「書庫に行ってくる。資料、探してくるから」
相手をしてくれない彼に嫌気が差したのか、メモを片手に彼女は研究室を出て行った。
柩のような音を立てて扉が閉まった。
彼は彼女に何も伝えていない。
自分が何故研究しているのか、どうして彼女を助手に選んだのか。
伝えてはならない、と決めている。いや、実際伝えてはならないのだ。
伝えてしまえば、何もかもが破綻する。
彼女は知らない。知ってはならない。
伝える事も出来ず、彼女が知る事も許されない。
コーヒーを一口。心の様に苦い。
彼女はどう思うだろうか。偏屈な学者気取りだと思うだろうか。相変わらず信用出来ないと思っているだろうか。秘密主義者だと馬鹿にしているだろうか。
一番近くに居る彼女にすら、何も言う事が出来ない。誤解をされていても、それを解く事が出来ない。
孤独な作業だと思う。幾度挫折しかけた事か。
他の誰かの気持ちは要らない。ただ、彼女の理解が欲しいだけなのに、叶わない。
それでも彼は続けなければならない。
永遠の地獄に終止符を。
繰り返す悪夢に終止符を。
それが、せめてもの罪滅ぼし。与えられた罰。
罪は消える事は無い。償う事も出来ない。ただ背負い、罰を受ける事しか出来ない。
哀しいとは思わない。
そんなレベルは、とっくに超えている。
哀しみの先に見える、僅かな希望という幻。幾度手を伸ばし、裏切られてきただろうか。
裏切られる事には慣れない。だから、信じる事を辞めた。
だが、と彼は呟く。
彼女の存在だけは、それでも信じていたいのだ、と。
手元のパイに目を落とす。
林檎。つまり、知恵の実。彼がそれを連想した事は想像に難くない。
「悪い癖ね…。パイくらい、普通に食べたら良いのに」
「疑う事を知らないね、君は」
「疑ってたらキリが無いわ。考えてばかりじゃ、先に進めないわよ。やってから考えれば良いじゃない」
彼女の言葉で思い浮かぶ。よくある「やらないよりやって後悔しろ」という無責任なアドバイス。取り返しの付かないことになったらどうするかなんて、アドバイスする側は真剣に考えてはいない。やらずに後悔した方がよっぽどマシな事があるなんて、きっと考えもしないんだろう。
行動は、プラスではない。行動したからこそ、責め苦を受け続けなければならない。
彼女もそれを知らないのだろう、と思う。
勿論、彼女には何の罪もない。無責任な自称アドバイザーも同じだ。
アドバイスの原動力は、飽くまでも善意なのだ。
罪を問われるべきは、その無責任なアドバイスに従った自分自身。己の心だ。
心など無ければ良かったと思った事が何度あっただろう。
心惹かれなければ、心動かされなければ、間違いなく自分は違う道を歩んでいた。苦い記憶が蘇る。
あの時、抗う事が出来たなら。その手を引き、背を向ける事が必要だと知っていれば。
考えては駄目だと頭を振ると、彼女が怪訝な顔をしてこちらを見た。
「頭痛でも?」
「いいや、少し昔の事を思い出してね」
いつもの笑顔で言ってから、しまった、と思う。
「…そういえば私こうやって手伝ってるけど、お互いの事何も知らないよね」
遅かったか、と溜息をつく。
「知る事は罪、だよ。知らない方が都合が良いとは考えられない?」
「そうかもしれないけれど…知ってた方が勝手が分かるというか」
「一緒にやってく中で解っていくものだと思うけどね」
「それは…」
彼女の詮索を一方的に打ち切って資料を読みあさる。身勝手な行為だとは自覚していた。
彼女は一瞬何か言いたげな視線を投げたが、諦めて資料の整理に取り掛かる。
「書庫に行ってくる。資料、探してくるから」
相手をしてくれない彼に嫌気が差したのか、メモを片手に彼女は研究室を出て行った。
柩のような音を立てて扉が閉まった。
彼は彼女に何も伝えていない。
自分が何故研究しているのか、どうして彼女を助手に選んだのか。
伝えてはならない、と決めている。いや、実際伝えてはならないのだ。
伝えてしまえば、何もかもが破綻する。
彼女は知らない。知ってはならない。
伝える事も出来ず、彼女が知る事も許されない。
コーヒーを一口。心の様に苦い。
彼女はどう思うだろうか。偏屈な学者気取りだと思うだろうか。相変わらず信用出来ないと思っているだろうか。秘密主義者だと馬鹿にしているだろうか。
一番近くに居る彼女にすら、何も言う事が出来ない。誤解をされていても、それを解く事が出来ない。
孤独な作業だと思う。幾度挫折しかけた事か。
他の誰かの気持ちは要らない。ただ、彼女の理解が欲しいだけなのに、叶わない。
それでも彼は続けなければならない。
永遠の地獄に終止符を。
繰り返す悪夢に終止符を。
それが、せめてもの罪滅ぼし。与えられた罰。
罪は消える事は無い。償う事も出来ない。ただ背負い、罰を受ける事しか出来ない。
哀しいとは思わない。
そんなレベルは、とっくに超えている。
哀しみの先に見える、僅かな希望という幻。幾度手を伸ばし、裏切られてきただろうか。
裏切られる事には慣れない。だから、信じる事を辞めた。
だが、と彼は呟く。
彼女の存在だけは、それでも信じていたいのだ、と。
Question is Truth
時々、彼はそういう表情を見せる。
何かを諦めている様な、それでいて待っている様な、何とも言えない表情。
その度に、彼女は堪らない気持ちになる。切ないというよりも、強い苦しみ。色恋沙汰というロマンチックで甘いものではない。それこそ、地獄か悪夢か、と思うほどに。
黙り込んだ彼女に、彼は決まってこう言うのだ。
「話を変えよう」
既視感ではなく、確実な記憶。いつも、そうだった。
同じ事を訊かれて、同じ様に答えられなくて、そしてそのまま終わってしまう。だから彼女は、今度こそ、と覚悟を決める。下らない、本当に馬鹿馬鹿しい問い掛けだと思っていても。
「…私は」
彼女が答えを紡ぐより一瞬早く、研究室のドアがノックされる。
「しっつれいしまぁーす」
元気よく入ってきたのは、彼の教え子達だった。彼は少しだけ眉をひそめ、彼女は教え子達の為に道を空ける。
「講義は?」
「今は空き時間です。だから、ちょっと暇でして」
「悪いけど今取り込み中なんだ。遊びに来るのは明日にしてもらえないかな」
なんだー、と落胆の声。
彼の教え子達は時折、こういう風に遊びに来る。いつもなら彼は快く迎えてやっているのだ。断る方が珍しい。学生達が落胆するのも仕方のない事だろう。
グループの中心らしい娘が、彼女に気付く。他のメンバーも気付いたらしい。無遠慮に彼女を見やる。
「え、取り込み中って…センセの彼女?」
「マジ?でもあの人、センセの後輩で研究生って聞いたけど」
「なぁに、じゃあ、私らの先輩?」
「助手さんじゃないの?」
やれやれと彼は首を振る。年頃の娘だ。色々と気にはなるのだろう。だが、今の彼には学生達に構っている暇はない。
「こないだのレポートはもう仕上がったのかい?遅れると単位に響くかもよ?」
普通の学生は大概、これで引き下がる。案の定黙り込んだ。それを言われると辛い、と娘達も諦めたらしい。
「解りましたよぅ。じゃ、これ置いときます」
一人が包みを差し出す。
「何?」
「差し入れですー。ホントはここで一緒にお茶しようと思ったんですけど。それじゃ、また来まーす」
彼に代わって彼女が包みを受け取る。一瞬、娘達が曰くありげな表情を浮かべる。先ほどの話のせいだろうか。
ドアが閉められる。ゆっくりと、鉄格子を閉める様に、重々しく。
包みからは甘い香り。中身はアップルパイだった。程よい大きさのものが、二つ。
「…夜食にでもする?」
「あげるよ」
「せっかく持ってきて貰ったんだから」
どういっても引っ込めないらしい。彼は渋々パイを受け取る。まだ暖かい。
一つは彼女の手にある。既に一口囓ったらしい。包みの端からパイが覗いている。
彼も一口囓る。シナモンの香りが鼻をくすぐる。甘さも控えめだ。女子はこういうのが好きなんだろうな、と思う。どこかで買ってきてくれたのか、それとも手作りなのか。
「コーヒーでも淹れようか」
「あぁ、うん、よろしく頼むよ」
彼女の姿が少し遠くなる。
甘い林檎とシナモンの香り。安らぎにも似た、蠱惑的な香り。抗いがたい誘惑。
彼は呟く。
こんな形で林檎を口にするとは思わなかった、と。
奇人、変人、夢見がち。
他の「学者」は、彼の事をそう評する。当然だろう、と彼も動じていない。
何事も伝説や神話に当てはめて解釈する彼は、どうひいき目に見ても真面目とは捉えられない。神秘学やら宗教学なら、まだ納得がいくだろう。どれも立派な学問だ。だが、彼の研究はどのカテゴリーにも属さないらしい。
よって、誰からも理解を得られない。いつでも彼は、孤独だった。
それでも彼は研究を止めない。至極「真面目」に研究を続けている。
寂しいと思った事は無い。虚しいとも感じない。理解を必要とした事も、無い。
何が解るのか、何が変わるのか、彼は何も語らない。共に居る彼女にすら、何も伝えない。
淹れたてのコーヒーを片手に、彼はページをめくる。手にしているのは聖書だ。少し前は仏典やコーランを手にしていたはずなのに。
「信者が見たらどう思うかしら」
「知識を深めるのは良いことだよ。別に、冒涜している訳じゃない。…傍から見ればそう見えるかもしれないけどね」
彼女は思い出す。
神話や伝説は、ある種の歴史的事実だ。全ての物語には元になった事実がある、彼はそう語っていた。
「でなければ、洪水伝説が二つも有るわけ無いだろう」
「聖書のノアに、ギリシャ神話のデュカリオン…だっけ」
前にも聞いた気がする。
「元は同じ話だったんだろうけどね。同じ話が枝分かれして、形を変えて伝わっただけだろう」
余程の天変地異が起きたんだろう、と彼は続ける。
「知る事は、それ自体が罪さ。だから僕はこうやって研究を続けている。それが僕に与えられた罰だからね」
ならば、そんな彼と共に居るのは何かの罰なのか。彼女は心の中で呟く。
何のために。そして、いつから。
彼が受けた罰の行く末を見届ける為か。それこそ、神代の時からの定めだとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。コーヒーを一口。
当たり前の様にこんな事を考えている自分は、彼と同じ存在なのだろうか。
何かを諦めている様な、それでいて待っている様な、何とも言えない表情。
その度に、彼女は堪らない気持ちになる。切ないというよりも、強い苦しみ。色恋沙汰というロマンチックで甘いものではない。それこそ、地獄か悪夢か、と思うほどに。
黙り込んだ彼女に、彼は決まってこう言うのだ。
「話を変えよう」
既視感ではなく、確実な記憶。いつも、そうだった。
同じ事を訊かれて、同じ様に答えられなくて、そしてそのまま終わってしまう。だから彼女は、今度こそ、と覚悟を決める。下らない、本当に馬鹿馬鹿しい問い掛けだと思っていても。
「…私は」
彼女が答えを紡ぐより一瞬早く、研究室のドアがノックされる。
「しっつれいしまぁーす」
元気よく入ってきたのは、彼の教え子達だった。彼は少しだけ眉をひそめ、彼女は教え子達の為に道を空ける。
「講義は?」
「今は空き時間です。だから、ちょっと暇でして」
「悪いけど今取り込み中なんだ。遊びに来るのは明日にしてもらえないかな」
なんだー、と落胆の声。
彼の教え子達は時折、こういう風に遊びに来る。いつもなら彼は快く迎えてやっているのだ。断る方が珍しい。学生達が落胆するのも仕方のない事だろう。
グループの中心らしい娘が、彼女に気付く。他のメンバーも気付いたらしい。無遠慮に彼女を見やる。
「え、取り込み中って…センセの彼女?」
「マジ?でもあの人、センセの後輩で研究生って聞いたけど」
「なぁに、じゃあ、私らの先輩?」
「助手さんじゃないの?」
やれやれと彼は首を振る。年頃の娘だ。色々と気にはなるのだろう。だが、今の彼には学生達に構っている暇はない。
「こないだのレポートはもう仕上がったのかい?遅れると単位に響くかもよ?」
普通の学生は大概、これで引き下がる。案の定黙り込んだ。それを言われると辛い、と娘達も諦めたらしい。
「解りましたよぅ。じゃ、これ置いときます」
一人が包みを差し出す。
「何?」
「差し入れですー。ホントはここで一緒にお茶しようと思ったんですけど。それじゃ、また来まーす」
彼に代わって彼女が包みを受け取る。一瞬、娘達が曰くありげな表情を浮かべる。先ほどの話のせいだろうか。
ドアが閉められる。ゆっくりと、鉄格子を閉める様に、重々しく。
包みからは甘い香り。中身はアップルパイだった。程よい大きさのものが、二つ。
「…夜食にでもする?」
「あげるよ」
「せっかく持ってきて貰ったんだから」
どういっても引っ込めないらしい。彼は渋々パイを受け取る。まだ暖かい。
一つは彼女の手にある。既に一口囓ったらしい。包みの端からパイが覗いている。
彼も一口囓る。シナモンの香りが鼻をくすぐる。甘さも控えめだ。女子はこういうのが好きなんだろうな、と思う。どこかで買ってきてくれたのか、それとも手作りなのか。
「コーヒーでも淹れようか」
「あぁ、うん、よろしく頼むよ」
彼女の姿が少し遠くなる。
甘い林檎とシナモンの香り。安らぎにも似た、蠱惑的な香り。抗いがたい誘惑。
彼は呟く。
こんな形で林檎を口にするとは思わなかった、と。
奇人、変人、夢見がち。
他の「学者」は、彼の事をそう評する。当然だろう、と彼も動じていない。
何事も伝説や神話に当てはめて解釈する彼は、どうひいき目に見ても真面目とは捉えられない。神秘学やら宗教学なら、まだ納得がいくだろう。どれも立派な学問だ。だが、彼の研究はどのカテゴリーにも属さないらしい。
よって、誰からも理解を得られない。いつでも彼は、孤独だった。
それでも彼は研究を止めない。至極「真面目」に研究を続けている。
寂しいと思った事は無い。虚しいとも感じない。理解を必要とした事も、無い。
何が解るのか、何が変わるのか、彼は何も語らない。共に居る彼女にすら、何も伝えない。
淹れたてのコーヒーを片手に、彼はページをめくる。手にしているのは聖書だ。少し前は仏典やコーランを手にしていたはずなのに。
「信者が見たらどう思うかしら」
「知識を深めるのは良いことだよ。別に、冒涜している訳じゃない。…傍から見ればそう見えるかもしれないけどね」
彼女は思い出す。
神話や伝説は、ある種の歴史的事実だ。全ての物語には元になった事実がある、彼はそう語っていた。
「でなければ、洪水伝説が二つも有るわけ無いだろう」
「聖書のノアに、ギリシャ神話のデュカリオン…だっけ」
前にも聞いた気がする。
「元は同じ話だったんだろうけどね。同じ話が枝分かれして、形を変えて伝わっただけだろう」
余程の天変地異が起きたんだろう、と彼は続ける。
「知る事は、それ自体が罪さ。だから僕はこうやって研究を続けている。それが僕に与えられた罰だからね」
ならば、そんな彼と共に居るのは何かの罰なのか。彼女は心の中で呟く。
何のために。そして、いつから。
彼が受けた罰の行く末を見届ける為か。それこそ、神代の時からの定めだとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。コーヒーを一口。
当たり前の様にこんな事を考えている自分は、彼と同じ存在なのだろうか。
Dream is Question
下手な歌詞か下らない小説にありがちな言葉だ。彼女は彼の指の、その趣味の悪い指輪を眺めながら思った。
彼の華奢な指には似つかわしくない無骨な指輪。それ自体が生き物の様な形をしている。龍だろうか。瞳にはめ込まれた紅い石が彼女を睨み付けている。
指輪とは反対に、彼は至極穏やかな顔をしている。笑顔以外の表情を知らない、そんな顔だ。それに比べ彼女は、不機嫌に手足を付けたようなものだった。彼と話すときは、いつだってそうだ。そんな自分に益々不機嫌になり、彼女は彼の指輪を睨み返す。
彼女の視線に気付いたのか、彼は指輪を外して彼女に渡した。
「何よ…何コレ。輪っかになった、龍?」
「蛇だよ。正確には、ウロボロスという」
「うろぼろす?」
「神話に出てくる蛇。その指輪と同じ様に自分の尻尾をくわえて、輪になっているんだ」
言われて改めて見てみれば、彼の言う通り頭が自分の尾をくわえている。何かが巻き付いている形の指輪は何度か見たことがあったが、こんなものを見たのは初めてだった。あまり出回っていないデザインなのだろうか。
シルバーで造られた蛇は、鱗の一枚一枚までしっかりと刻まれている。頭の造形、尾を噛む牙も、気味が悪い程精巧に作られている。まるで、生きた蛇を指輪に変えてしまったかの様に。そう思うと、ひやりとした金属なはずなのに、動き出しそうな気がしてならない。
そんな彼女の気を知ってか知らずか、彼は言葉を続ける。
「輪になってるって事は…つまり、終わりがない。永遠の象徴として扱われる事も多いんだ」
「永遠、ね」
彼女は呆れた様に呟き、彼に指輪を返す。ぴたりと、それこそ巻き付く様に指輪が収まる。オーダーメイドなのだろう。
指輪の蛇―――ウロボロス、と彼は言っていた―――の視線を感じながら、彼女は彼の問いを思い返す。
永遠の地獄が良いか。
それとも、繰り返す悪夢が良いか。
下らないと一蹴する事も出来た。実際そうすれば良かったと彼女は思う。
そうしなかったのは何故だろう。彼女は自らに問う。
彼の笑顔と声。そこに答えを見付けた気がした。
既視感。いや、記憶だ。
いつかどこかで、似たような状況があった。一度だけではない。何度も、数え切れないくらい、何度も。
どうして、と彼女は呟く。
どうしてそんな事を訊くのか、と。
彼は多分、学者だ。少なくとも、何かの研究をしている。
だからこそ学生相手に講義が出来るし、学内に研究室を構える事も出来るのだろう。
彼は、何を研究しているのか。
学生相手には、至って普通の科目―――例えば基礎統計学だとか―――を教えている。専門分野は教えていない。だから彼を訪ねてくる学生も、彼が何を専門としているかは知らない。
ただ、彼の研究室に積み上げられた資料を見て推測しているはずだ。そこかしこに積み上げられているのは、世界各地の神話や民話に関する本、数々の「神」を象ったオブジェ。彼は恐らく、民俗学か宗教関係の研究者、或いは作家なのかもしれない、と。実際に訊いてきた学生もいた。彼はその度に、半分は正解だ、とはぐらかしている。
彼は、何を研究しているのか。
「君には、何度も言ったはずだけれど」
彼は時間と、世界を研究している。
とはいえ、時間学だとか歴史学といった、いわゆる普通の研究ではない。もっと抽象的な、それこそ神話や民話に近い観念での研究だった。
彼は彼女に語る。
時間は輪の様なものだ。終わりなく続いて、そしていつか、元居た場所に戻ってくる。同じ道を辿り、些細な違いはあれど、同じ結末を辿るのだと。
或いは、と彼は続ける。
時は繰り返しているだけだ。同じところから始まって、同じ結末に辿り着く。戻るのではなく、振り出しに戻ってしまうのだと。
そんな彼に、あまりにも現実離れしている、と彼女は反論する。
胸元で揺れる、鳥をかたどったペンダント。
彼の指輪の蛇、ウロボロスが終わらない時間の象徴ならば、彼女のペンダントの鳥は、繰り返す時の象徴、フェニックス。彼はそう言って微笑む。
「だから、君がどちらを選ぶのか、とても興味深いんだよ」
永遠の地獄が良いか。
それとも、繰り返す悪夢が良いか。
問い掛ける彼の微笑みは、諦めにも似た寂しさがあった。
彼の華奢な指には似つかわしくない無骨な指輪。それ自体が生き物の様な形をしている。龍だろうか。瞳にはめ込まれた紅い石が彼女を睨み付けている。
指輪とは反対に、彼は至極穏やかな顔をしている。笑顔以外の表情を知らない、そんな顔だ。それに比べ彼女は、不機嫌に手足を付けたようなものだった。彼と話すときは、いつだってそうだ。そんな自分に益々不機嫌になり、彼女は彼の指輪を睨み返す。
彼女の視線に気付いたのか、彼は指輪を外して彼女に渡した。
「何よ…何コレ。輪っかになった、龍?」
「蛇だよ。正確には、ウロボロスという」
「うろぼろす?」
「神話に出てくる蛇。その指輪と同じ様に自分の尻尾をくわえて、輪になっているんだ」
言われて改めて見てみれば、彼の言う通り頭が自分の尾をくわえている。何かが巻き付いている形の指輪は何度か見たことがあったが、こんなものを見たのは初めてだった。あまり出回っていないデザインなのだろうか。
シルバーで造られた蛇は、鱗の一枚一枚までしっかりと刻まれている。頭の造形、尾を噛む牙も、気味が悪い程精巧に作られている。まるで、生きた蛇を指輪に変えてしまったかの様に。そう思うと、ひやりとした金属なはずなのに、動き出しそうな気がしてならない。
そんな彼女の気を知ってか知らずか、彼は言葉を続ける。
「輪になってるって事は…つまり、終わりがない。永遠の象徴として扱われる事も多いんだ」
「永遠、ね」
彼女は呆れた様に呟き、彼に指輪を返す。ぴたりと、それこそ巻き付く様に指輪が収まる。オーダーメイドなのだろう。
指輪の蛇―――ウロボロス、と彼は言っていた―――の視線を感じながら、彼女は彼の問いを思い返す。
永遠の地獄が良いか。
それとも、繰り返す悪夢が良いか。
下らないと一蹴する事も出来た。実際そうすれば良かったと彼女は思う。
そうしなかったのは何故だろう。彼女は自らに問う。
彼の笑顔と声。そこに答えを見付けた気がした。
既視感。いや、記憶だ。
いつかどこかで、似たような状況があった。一度だけではない。何度も、数え切れないくらい、何度も。
どうして、と彼女は呟く。
どうしてそんな事を訊くのか、と。
彼は多分、学者だ。少なくとも、何かの研究をしている。
だからこそ学生相手に講義が出来るし、学内に研究室を構える事も出来るのだろう。
彼は、何を研究しているのか。
学生相手には、至って普通の科目―――例えば基礎統計学だとか―――を教えている。専門分野は教えていない。だから彼を訪ねてくる学生も、彼が何を専門としているかは知らない。
ただ、彼の研究室に積み上げられた資料を見て推測しているはずだ。そこかしこに積み上げられているのは、世界各地の神話や民話に関する本、数々の「神」を象ったオブジェ。彼は恐らく、民俗学か宗教関係の研究者、或いは作家なのかもしれない、と。実際に訊いてきた学生もいた。彼はその度に、半分は正解だ、とはぐらかしている。
彼は、何を研究しているのか。
「君には、何度も言ったはずだけれど」
彼は時間と、世界を研究している。
とはいえ、時間学だとか歴史学といった、いわゆる普通の研究ではない。もっと抽象的な、それこそ神話や民話に近い観念での研究だった。
彼は彼女に語る。
時間は輪の様なものだ。終わりなく続いて、そしていつか、元居た場所に戻ってくる。同じ道を辿り、些細な違いはあれど、同じ結末を辿るのだと。
或いは、と彼は続ける。
時は繰り返しているだけだ。同じところから始まって、同じ結末に辿り着く。戻るのではなく、振り出しに戻ってしまうのだと。
そんな彼に、あまりにも現実離れしている、と彼女は反論する。
胸元で揺れる、鳥をかたどったペンダント。
彼の指輪の蛇、ウロボロスが終わらない時間の象徴ならば、彼女のペンダントの鳥は、繰り返す時の象徴、フェニックス。彼はそう言って微笑む。
「だから、君がどちらを選ぶのか、とても興味深いんだよ」
永遠の地獄が良いか。
それとも、繰り返す悪夢が良いか。
問い掛ける彼の微笑みは、諦めにも似た寂しさがあった。
After Concert~共鳴~
終わりは始まりなのだと、彼は確信する。
始まる為に終わるのだと、彼は知る。
その一瞬は、永遠となる。
その儚さは、夢ではないのだ。
彼女と紡ぐ「次」の為に、束の間の終わりを。
そして、紡がれる「次」に、祝福の始まりを。
終わりはいつも、始まりと共に在る。
始まりはいつも、希望と共に在る。
始まる為に終わるのだと、彼は知る。
その一瞬は、永遠となる。
その儚さは、夢ではないのだ。
彼女と紡ぐ「次」の為に、束の間の終わりを。
そして、紡がれる「次」に、祝福の始まりを。
終わりはいつも、始まりと共に在る。
始まりはいつも、希望と共に在る。
After Concert -18-
「…舞台袖のあいつの顔、見せてあげたかったよ」
僕はそう話を結ぶ。枕元には小さなプレイヤー。曲が終わる度にカチリ、と巻戻る。文化祭の「パッヘルベルのカノン」。繰り返し、ずっと流れている。
時間さえあれば彼女の顔を見に来るのが習慣となっていた。
ここに、彼女の病室に来た時に、必ず一度は文化祭の話をしている。聞き飽きているかもしれないが、流れている曲に合わせた話なら、より届きやすいだろう。そう思っての事だった。
絵本を読み聞かせるかの様に、枕元で僕は語りかける。同じ話を、何度も何度も。
あの日倒れてから、そろそろ一ヶ月。彼女はまだ、目を覚まさない。
季節はとっくに冬だ。大半の葉は落ちてしまったし、風も日増しに冷たくなっている。
「いい加減にしないと、冬眠になっちゃうよ。熊じゃあるまいし」
冬枯れの外を眺めながら呟く。
結局、今日も意識は戻らないのか。時計を睨みながら溜息をついた。長い時間居ても迷惑になる。
「そろそろ帰るよ」
「すみません、毎日…」
「こっちこそ、押しかけちゃってごめん。君も無理はしないでね」
両親と交代で付きっきりの彼女の妹。随分と持ち直してきたが、やはり疲労の色は濃い。
ぴしっと窓に小石が当たった様な音がした。何事かと外を見る。雨だ。やがて夕立の様な酷い降りになる。
「参ったな」
今日は自転車で来ているのだ。雨が降る、なんて天気予報ではちっとも言っていなかった。当然雨具は持っていない。
「悪いけど、雨宿りさせて貰うよ」
「どうぞ」
雨が激しく打ち付ける。それこそ、窓を破らんばかりの勢いだ。待っていれば雨は止むのだろうか、少しばかり不安になる。
「止むのかなぁ」
「親に頼みましょうか?道解れば送って行けるでしょうし」
「いいよ、悪いし。それに自転車だから置いとく訳にもいかないよ」
飲み物を買ってくる、と席を立つ。
自販機コーナーには、見舞いに来た人が何人かくつろいでいた。今着いたばかりなのだろう。コートの端が濡れていた。いきなり降るから参ったよ、等と笑っている。この人達のお見舞いの相手は元気なのだろうか。僕の立場と重なって、少し気になった。
ココアとカフェ・オレを買って病室へ戻る。
「飲む?」
「良いんですか?」
「ん。好きなの選びな」
セーターに包まれた手が、ココアの缶を掴む。僕は残ったカフェ・オレを抱えた。くるんだ上着が猫の様に暖かい。ほんのりと甘いココアの香りと、カフェ・ラテのほろ苦い香り。
雨はまだ止まない。
「遣らずの雨ですかね」
ココアをすすっていた彼女の妹がぽつりと言った。
「何?」
「遣らずの雨、です」
「やらずのあめ?何それ」
「帰ろうとした時に降ってくる雨の事ですよ。その人を帰さない様に…つまり、遣らない為に降る雨です。先輩、帰るところだったでしょう?だから、遣らずの雨かなって」
「ふぅん…。遣らずの雨、ね」
引き留めたいと思ってくれたのは誰だろう。彼女の妹か。それとも、他の見舞客が引き留められているのだろうか。何にせよ、まだ帰れないのは確かだ。
カチリ、とプレイヤーが鳴る。幾度目のリピートになるのだろう。そろそろ、曲を変えてやった方が良いかもしれない。
そう考えたところで、ようやく思い出した。鞄の中からカセットを取り出す。
「忘れてたよ」
「それは?」
「練習してた時に録音したの、覚えてる?」
彼女の妹の顔が少し複雑なものになる。僕も思い出す。そういえば、このカセットを受け取った日だったか。少し、配慮が足らなかった。
「かけてあげてください。同じ曲ばかりで、飽きてるかもしれませんし」
それでも彼女の妹は、気に掛けない風を装って微笑んだ。その笑顔に、少しばかり罪悪感を覚える。
「じゃ、そうするかな」
だから僕は、変わらぬ態度で接する。そんな事も知らず、彼女は呑気に眠ったままだ。
カセットを入れ替え、再生。
『先生、レコーダの調子は?』
「そういえば、録音してるのに気付かなかったな」
呑気な先生の声、慌てる先輩達、友人の声。
『名付け主がコールしなくてどうするのさ。コンミスさんよろしく』
僕が意地悪く告げた相手。
『えっと…クインテットオリジナル曲、アフターコンチェルト、行きます』
彼女のコール。
流れてきたのは、まだ拙さの残る演奏。何故だろう。もう何年も昔のものに聞こえる。
一回目の通し練習。
これから起きる事も知らない僕ら。今の僕らとは、まるで別人だ。違う時を生き、違うものを見ている。何も知らなかった、幸せとも呼べた時だった。
彼女の妹の事も、彼女がこうなる事も、想像すらしていなかった。ただひたすら、文化祭の為に頑張っていれば良かったのだ。そんな僕らが、酷く幼く見える。
もしも全てが順調だったなら、僕らはこの曲を発表していた。その先はどんな日々を送っただろう。僕は彼女と共に居られただろうか。
視界の端が動く。彼女の妹が涙を拭っていた。
それとは別に、何かが動いている。小さいが見間違いではない。彼女の妹も気付いたのか、怪訝な顔で見回している。
動きを探る。点滴のチューブが揺れていた。空調のせいではない。誰かが動かしているのだ。
チューブを辿る。
彼女の手が、微かに動いていた。
シーツの端から覗く指先。何かを探っている様だ。
「聞こえている…?」
曲に合わせ、途切れ途切れに指を動かしている。目は閉じたままだ。
「お姉ちゃん?」
曲が終わる。指の動きが止まる。
「お姉ちゃん!」
身体を揺する。
彼女の妹が呼ぶ。目は、閉じたままだ。
あれは、夢を見ているのと同じ、無意識に身体が動いたものだったのか。意識はまだ戻っていないのか。
違う。違うはずだ。
この曲の完成を、誰よりも強く望んでいた彼女。
反応しない訳がない。届かないはずがない。
「聞こえているんだろう?」
細い肩に手を触れる。
「解ったんだろう…?」
応えてくれ。すがる様な気持ちで呼びかける。
彼女の反応は無い。
夢だったのか。ふっと目覚めに近付いた時に見る夢を、彼女は感じていたのだろうか。
一緒にやった曲をかければ目覚める、なんて馬鹿げた妄想だったのか。映画でもない限り奇跡なんて起きないのだろうか。
彼女が薄く、目を開ける。ぼんやりした顔だ。しかし、その目には光が戻っている。
「…お姉ちゃん?」
彼女の妹が、彼女の手を握る。彼女が、うなずく。
「意識が戻った、のか」
僕の声に気付いたのか、彼女がこちらを見た。笑っている。
「解るのか。僕が誰だか、解るのか?」
こくり、と応じる。
間違いない。夢なんかじゃ、ない。
「わ…わ、私、お父さんとお母さん呼んでくる…!」
慌てて駆け出す妹を、彼女は穏やかに見つめていた。
病室に、二人きり。
どう声をかけていいのか、言葉が見付からない。
彼女の手を握る。力は弱いが、確かに握り返してくる。
「やっと、起きてくれたんだね」
その手を両手で包み、細い指を僕の手に絡める。
困った顔で、彼女は言葉を探している。少し照れている様だ。
「……おはよう」
小さくて消え入りそうな声。場違いな程にのんびりとした言葉。それでも、しっかりと聞こえた。泣きそうになる。
「…どんだけ寝坊したと思ってんだ」
他の事を言いたかったのに、ついそんな事を言ってしまう。彼女は解ってくれているのか、ごめんね、と笑っている。
カチリ、と巻戻ったテープが再生される。
再び流れる「After Concert」。
『思い出すのは、いつも終わってから』
彼女の言葉を思い出す。この曲を名付けた時だった。
秋の記憶。それは、文化祭。
季節の移ろいは、僕達の心そのものだった。
演奏会の終わりに起きたのは、奇跡。
全てを包み込んだ音は、奇跡さえも紡いでみせる。
「また…一緒に出来るかな」
「勿論。今すぐにでも、やりたいくらいだ」
彼女の手を、腕を、そっと抱き締める。
これから始まる冬。過ぎ去った秋。
それならば、共に秋の記憶を奏でれば良い。
いつだって思い出せる。この曲があれば、僕らの記憶は繋がっていく。
ずっと先も、いつまでも一緒に。
「意識が戻ったのか!」
勢いよく扉が開いて、彼女の両親と妹が入ってくる。やや遅れて、先生が来た。
僕は彼女から離れる。名残惜しいが、帰る時間だ。
「あ、先輩…」
「帰るよ。また顔出すから」
他人の僕は邪魔だ。目覚めを喜ぶ家族に、無粋な真似は出来ない。
彼女の両親と先生に会釈をして、病室を後にする。
飲みかけのカフェ・オレは、すっかりぬるくなっていた。それを舐めながら、空を見上げる。
雨は止んでいた。
(遣らずの雨、か)
神様も、粋な計らいをしてくれたものだ。
薄く差す光に、雨だれが揺れている。琥珀色の雫に、僕は夕陽に舞うイチョウを見た。
それは悪夢ではなく、優しく穏やかな秋色だった。
僕はそう話を結ぶ。枕元には小さなプレイヤー。曲が終わる度にカチリ、と巻戻る。文化祭の「パッヘルベルのカノン」。繰り返し、ずっと流れている。
時間さえあれば彼女の顔を見に来るのが習慣となっていた。
ここに、彼女の病室に来た時に、必ず一度は文化祭の話をしている。聞き飽きているかもしれないが、流れている曲に合わせた話なら、より届きやすいだろう。そう思っての事だった。
絵本を読み聞かせるかの様に、枕元で僕は語りかける。同じ話を、何度も何度も。
あの日倒れてから、そろそろ一ヶ月。彼女はまだ、目を覚まさない。
季節はとっくに冬だ。大半の葉は落ちてしまったし、風も日増しに冷たくなっている。
「いい加減にしないと、冬眠になっちゃうよ。熊じゃあるまいし」
冬枯れの外を眺めながら呟く。
結局、今日も意識は戻らないのか。時計を睨みながら溜息をついた。長い時間居ても迷惑になる。
「そろそろ帰るよ」
「すみません、毎日…」
「こっちこそ、押しかけちゃってごめん。君も無理はしないでね」
両親と交代で付きっきりの彼女の妹。随分と持ち直してきたが、やはり疲労の色は濃い。
ぴしっと窓に小石が当たった様な音がした。何事かと外を見る。雨だ。やがて夕立の様な酷い降りになる。
「参ったな」
今日は自転車で来ているのだ。雨が降る、なんて天気予報ではちっとも言っていなかった。当然雨具は持っていない。
「悪いけど、雨宿りさせて貰うよ」
「どうぞ」
雨が激しく打ち付ける。それこそ、窓を破らんばかりの勢いだ。待っていれば雨は止むのだろうか、少しばかり不安になる。
「止むのかなぁ」
「親に頼みましょうか?道解れば送って行けるでしょうし」
「いいよ、悪いし。それに自転車だから置いとく訳にもいかないよ」
飲み物を買ってくる、と席を立つ。
自販機コーナーには、見舞いに来た人が何人かくつろいでいた。今着いたばかりなのだろう。コートの端が濡れていた。いきなり降るから参ったよ、等と笑っている。この人達のお見舞いの相手は元気なのだろうか。僕の立場と重なって、少し気になった。
ココアとカフェ・オレを買って病室へ戻る。
「飲む?」
「良いんですか?」
「ん。好きなの選びな」
セーターに包まれた手が、ココアの缶を掴む。僕は残ったカフェ・オレを抱えた。くるんだ上着が猫の様に暖かい。ほんのりと甘いココアの香りと、カフェ・ラテのほろ苦い香り。
雨はまだ止まない。
「遣らずの雨ですかね」
ココアをすすっていた彼女の妹がぽつりと言った。
「何?」
「遣らずの雨、です」
「やらずのあめ?何それ」
「帰ろうとした時に降ってくる雨の事ですよ。その人を帰さない様に…つまり、遣らない為に降る雨です。先輩、帰るところだったでしょう?だから、遣らずの雨かなって」
「ふぅん…。遣らずの雨、ね」
引き留めたいと思ってくれたのは誰だろう。彼女の妹か。それとも、他の見舞客が引き留められているのだろうか。何にせよ、まだ帰れないのは確かだ。
カチリ、とプレイヤーが鳴る。幾度目のリピートになるのだろう。そろそろ、曲を変えてやった方が良いかもしれない。
そう考えたところで、ようやく思い出した。鞄の中からカセットを取り出す。
「忘れてたよ」
「それは?」
「練習してた時に録音したの、覚えてる?」
彼女の妹の顔が少し複雑なものになる。僕も思い出す。そういえば、このカセットを受け取った日だったか。少し、配慮が足らなかった。
「かけてあげてください。同じ曲ばかりで、飽きてるかもしれませんし」
それでも彼女の妹は、気に掛けない風を装って微笑んだ。その笑顔に、少しばかり罪悪感を覚える。
「じゃ、そうするかな」
だから僕は、変わらぬ態度で接する。そんな事も知らず、彼女は呑気に眠ったままだ。
カセットを入れ替え、再生。
『先生、レコーダの調子は?』
「そういえば、録音してるのに気付かなかったな」
呑気な先生の声、慌てる先輩達、友人の声。
『名付け主がコールしなくてどうするのさ。コンミスさんよろしく』
僕が意地悪く告げた相手。
『えっと…クインテットオリジナル曲、アフターコンチェルト、行きます』
彼女のコール。
流れてきたのは、まだ拙さの残る演奏。何故だろう。もう何年も昔のものに聞こえる。
一回目の通し練習。
これから起きる事も知らない僕ら。今の僕らとは、まるで別人だ。違う時を生き、違うものを見ている。何も知らなかった、幸せとも呼べた時だった。
彼女の妹の事も、彼女がこうなる事も、想像すらしていなかった。ただひたすら、文化祭の為に頑張っていれば良かったのだ。そんな僕らが、酷く幼く見える。
もしも全てが順調だったなら、僕らはこの曲を発表していた。その先はどんな日々を送っただろう。僕は彼女と共に居られただろうか。
視界の端が動く。彼女の妹が涙を拭っていた。
それとは別に、何かが動いている。小さいが見間違いではない。彼女の妹も気付いたのか、怪訝な顔で見回している。
動きを探る。点滴のチューブが揺れていた。空調のせいではない。誰かが動かしているのだ。
チューブを辿る。
彼女の手が、微かに動いていた。
シーツの端から覗く指先。何かを探っている様だ。
「聞こえている…?」
曲に合わせ、途切れ途切れに指を動かしている。目は閉じたままだ。
「お姉ちゃん?」
曲が終わる。指の動きが止まる。
「お姉ちゃん!」
身体を揺する。
彼女の妹が呼ぶ。目は、閉じたままだ。
あれは、夢を見ているのと同じ、無意識に身体が動いたものだったのか。意識はまだ戻っていないのか。
違う。違うはずだ。
この曲の完成を、誰よりも強く望んでいた彼女。
反応しない訳がない。届かないはずがない。
「聞こえているんだろう?」
細い肩に手を触れる。
「解ったんだろう…?」
応えてくれ。すがる様な気持ちで呼びかける。
彼女の反応は無い。
夢だったのか。ふっと目覚めに近付いた時に見る夢を、彼女は感じていたのだろうか。
一緒にやった曲をかければ目覚める、なんて馬鹿げた妄想だったのか。映画でもない限り奇跡なんて起きないのだろうか。
彼女が薄く、目を開ける。ぼんやりした顔だ。しかし、その目には光が戻っている。
「…お姉ちゃん?」
彼女の妹が、彼女の手を握る。彼女が、うなずく。
「意識が戻った、のか」
僕の声に気付いたのか、彼女がこちらを見た。笑っている。
「解るのか。僕が誰だか、解るのか?」
こくり、と応じる。
間違いない。夢なんかじゃ、ない。
「わ…わ、私、お父さんとお母さん呼んでくる…!」
慌てて駆け出す妹を、彼女は穏やかに見つめていた。
病室に、二人きり。
どう声をかけていいのか、言葉が見付からない。
彼女の手を握る。力は弱いが、確かに握り返してくる。
「やっと、起きてくれたんだね」
その手を両手で包み、細い指を僕の手に絡める。
困った顔で、彼女は言葉を探している。少し照れている様だ。
「……おはよう」
小さくて消え入りそうな声。場違いな程にのんびりとした言葉。それでも、しっかりと聞こえた。泣きそうになる。
「…どんだけ寝坊したと思ってんだ」
他の事を言いたかったのに、ついそんな事を言ってしまう。彼女は解ってくれているのか、ごめんね、と笑っている。
カチリ、と巻戻ったテープが再生される。
再び流れる「After Concert」。
『思い出すのは、いつも終わってから』
彼女の言葉を思い出す。この曲を名付けた時だった。
秋の記憶。それは、文化祭。
季節の移ろいは、僕達の心そのものだった。
演奏会の終わりに起きたのは、奇跡。
全てを包み込んだ音は、奇跡さえも紡いでみせる。
「また…一緒に出来るかな」
「勿論。今すぐにでも、やりたいくらいだ」
彼女の手を、腕を、そっと抱き締める。
これから始まる冬。過ぎ去った秋。
それならば、共に秋の記憶を奏でれば良い。
いつだって思い出せる。この曲があれば、僕らの記憶は繋がっていく。
ずっと先も、いつまでも一緒に。
「意識が戻ったのか!」
勢いよく扉が開いて、彼女の両親と妹が入ってくる。やや遅れて、先生が来た。
僕は彼女から離れる。名残惜しいが、帰る時間だ。
「あ、先輩…」
「帰るよ。また顔出すから」
他人の僕は邪魔だ。目覚めを喜ぶ家族に、無粋な真似は出来ない。
彼女の両親と先生に会釈をして、病室を後にする。
飲みかけのカフェ・オレは、すっかりぬるくなっていた。それを舐めながら、空を見上げる。
雨は止んでいた。
(遣らずの雨、か)
神様も、粋な計らいをしてくれたものだ。
薄く差す光に、雨だれが揺れている。琥珀色の雫に、僕は夕陽に舞うイチョウを見た。
それは悪夢ではなく、優しく穏やかな秋色だった。