After Concert -18- | Minstrelsy

After Concert -18-

「…舞台袖のあいつの顔、見せてあげたかったよ」
僕はそう話を結ぶ。枕元には小さなプレイヤー。曲が終わる度にカチリ、と巻戻る。文化祭の「パッヘルベルのカノン」。繰り返し、ずっと流れている。
時間さえあれば彼女の顔を見に来るのが習慣となっていた。
ここに、彼女の病室に来た時に、必ず一度は文化祭の話をしている。聞き飽きているかもしれないが、流れている曲に合わせた話なら、より届きやすいだろう。そう思っての事だった。
絵本を読み聞かせるかの様に、枕元で僕は語りかける。同じ話を、何度も何度も。
あの日倒れてから、そろそろ一ヶ月。彼女はまだ、目を覚まさない。
季節はとっくに冬だ。大半の葉は落ちてしまったし、風も日増しに冷たくなっている。
「いい加減にしないと、冬眠になっちゃうよ。熊じゃあるまいし」
冬枯れの外を眺めながら呟く。
結局、今日も意識は戻らないのか。時計を睨みながら溜息をついた。長い時間居ても迷惑になる。
「そろそろ帰るよ」
「すみません、毎日…」
「こっちこそ、押しかけちゃってごめん。君も無理はしないでね」
両親と交代で付きっきりの彼女の妹。随分と持ち直してきたが、やはり疲労の色は濃い。
ぴしっと窓に小石が当たった様な音がした。何事かと外を見る。雨だ。やがて夕立の様な酷い降りになる。
「参ったな」
今日は自転車で来ているのだ。雨が降る、なんて天気予報ではちっとも言っていなかった。当然雨具は持っていない。
「悪いけど、雨宿りさせて貰うよ」
「どうぞ」
雨が激しく打ち付ける。それこそ、窓を破らんばかりの勢いだ。待っていれば雨は止むのだろうか、少しばかり不安になる。
「止むのかなぁ」
「親に頼みましょうか?道解れば送って行けるでしょうし」
「いいよ、悪いし。それに自転車だから置いとく訳にもいかないよ」
飲み物を買ってくる、と席を立つ。
自販機コーナーには、見舞いに来た人が何人かくつろいでいた。今着いたばかりなのだろう。コートの端が濡れていた。いきなり降るから参ったよ、等と笑っている。この人達のお見舞いの相手は元気なのだろうか。僕の立場と重なって、少し気になった。
ココアとカフェ・オレを買って病室へ戻る。
「飲む?」
「良いんですか?」
「ん。好きなの選びな」
セーターに包まれた手が、ココアの缶を掴む。僕は残ったカフェ・オレを抱えた。くるんだ上着が猫の様に暖かい。ほんのりと甘いココアの香りと、カフェ・ラテのほろ苦い香り。
雨はまだ止まない。


「遣らずの雨ですかね」
ココアをすすっていた彼女の妹がぽつりと言った。
「何?」
「遣らずの雨、です」
「やらずのあめ?何それ」
「帰ろうとした時に降ってくる雨の事ですよ。その人を帰さない様に…つまり、遣らない為に降る雨です。先輩、帰るところだったでしょう?だから、遣らずの雨かなって」
「ふぅん…。遣らずの雨、ね」
引き留めたいと思ってくれたのは誰だろう。彼女の妹か。それとも、他の見舞客が引き留められているのだろうか。何にせよ、まだ帰れないのは確かだ。
カチリ、とプレイヤーが鳴る。幾度目のリピートになるのだろう。そろそろ、曲を変えてやった方が良いかもしれない。
そう考えたところで、ようやく思い出した。鞄の中からカセットを取り出す。
「忘れてたよ」
「それは?」
「練習してた時に録音したの、覚えてる?」
彼女の妹の顔が少し複雑なものになる。僕も思い出す。そういえば、このカセットを受け取った日だったか。少し、配慮が足らなかった。
「かけてあげてください。同じ曲ばかりで、飽きてるかもしれませんし」
それでも彼女の妹は、気に掛けない風を装って微笑んだ。その笑顔に、少しばかり罪悪感を覚える。
「じゃ、そうするかな」
だから僕は、変わらぬ態度で接する。そんな事も知らず、彼女は呑気に眠ったままだ。
カセットを入れ替え、再生。
『先生、レコーダの調子は?』
「そういえば、録音してるのに気付かなかったな」
呑気な先生の声、慌てる先輩達、友人の声。
『名付け主がコールしなくてどうするのさ。コンミスさんよろしく』
僕が意地悪く告げた相手。
『えっと…クインテットオリジナル曲、アフターコンチェルト、行きます』
彼女のコール。
流れてきたのは、まだ拙さの残る演奏。何故だろう。もう何年も昔のものに聞こえる。
一回目の通し練習。
これから起きる事も知らない僕ら。今の僕らとは、まるで別人だ。違う時を生き、違うものを見ている。何も知らなかった、幸せとも呼べた時だった。
彼女の妹の事も、彼女がこうなる事も、想像すらしていなかった。ただひたすら、文化祭の為に頑張っていれば良かったのだ。そんな僕らが、酷く幼く見える。
もしも全てが順調だったなら、僕らはこの曲を発表していた。その先はどんな日々を送っただろう。僕は彼女と共に居られただろうか。
視界の端が動く。彼女の妹が涙を拭っていた。
それとは別に、何かが動いている。小さいが見間違いではない。彼女の妹も気付いたのか、怪訝な顔で見回している。
動きを探る。点滴のチューブが揺れていた。空調のせいではない。誰かが動かしているのだ。
チューブを辿る。
彼女の手が、微かに動いていた。
シーツの端から覗く指先。何かを探っている様だ。
「聞こえている…?」
曲に合わせ、途切れ途切れに指を動かしている。目は閉じたままだ。
「お姉ちゃん?」
曲が終わる。指の動きが止まる。
「お姉ちゃん!」
身体を揺する。
彼女の妹が呼ぶ。目は、閉じたままだ。
あれは、夢を見ているのと同じ、無意識に身体が動いたものだったのか。意識はまだ戻っていないのか。
違う。違うはずだ。
この曲の完成を、誰よりも強く望んでいた彼女。
反応しない訳がない。届かないはずがない。
「聞こえているんだろう?」
細い肩に手を触れる。
「解ったんだろう…?」
応えてくれ。すがる様な気持ちで呼びかける。
彼女の反応は無い。
夢だったのか。ふっと目覚めに近付いた時に見る夢を、彼女は感じていたのだろうか。
一緒にやった曲をかければ目覚める、なんて馬鹿げた妄想だったのか。映画でもない限り奇跡なんて起きないのだろうか。
彼女が薄く、目を開ける。ぼんやりした顔だ。しかし、その目には光が戻っている。
「…お姉ちゃん?」
彼女の妹が、彼女の手を握る。彼女が、うなずく。
「意識が戻った、のか」
僕の声に気付いたのか、彼女がこちらを見た。笑っている。
「解るのか。僕が誰だか、解るのか?」
こくり、と応じる。
間違いない。夢なんかじゃ、ない。
「わ…わ、私、お父さんとお母さん呼んでくる…!」
慌てて駆け出す妹を、彼女は穏やかに見つめていた。


病室に、二人きり。
どう声をかけていいのか、言葉が見付からない。
彼女の手を握る。力は弱いが、確かに握り返してくる。
「やっと、起きてくれたんだね」
その手を両手で包み、細い指を僕の手に絡める。
困った顔で、彼女は言葉を探している。少し照れている様だ。
「……おはよう」
小さくて消え入りそうな声。場違いな程にのんびりとした言葉。それでも、しっかりと聞こえた。泣きそうになる。
「…どんだけ寝坊したと思ってんだ」
他の事を言いたかったのに、ついそんな事を言ってしまう。彼女は解ってくれているのか、ごめんね、と笑っている。
カチリ、と巻戻ったテープが再生される。
再び流れる「After Concert」。
『思い出すのは、いつも終わってから』
彼女の言葉を思い出す。この曲を名付けた時だった。
秋の記憶。それは、文化祭。
季節の移ろいは、僕達の心そのものだった。
演奏会の終わりに起きたのは、奇跡。
全てを包み込んだ音は、奇跡さえも紡いでみせる。
「また…一緒に出来るかな」
「勿論。今すぐにでも、やりたいくらいだ」
彼女の手を、腕を、そっと抱き締める。
これから始まる冬。過ぎ去った秋。
それならば、共に秋の記憶を奏でれば良い。
いつだって思い出せる。この曲があれば、僕らの記憶は繋がっていく。
ずっと先も、いつまでも一緒に。
「意識が戻ったのか!」
勢いよく扉が開いて、彼女の両親と妹が入ってくる。やや遅れて、先生が来た。
僕は彼女から離れる。名残惜しいが、帰る時間だ。
「あ、先輩…」
「帰るよ。また顔出すから」
他人の僕は邪魔だ。目覚めを喜ぶ家族に、無粋な真似は出来ない。
彼女の両親と先生に会釈をして、病室を後にする。
飲みかけのカフェ・オレは、すっかりぬるくなっていた。それを舐めながら、空を見上げる。
雨は止んでいた。
(遣らずの雨、か)
神様も、粋な計らいをしてくれたものだ。
薄く差す光に、雨だれが揺れている。琥珀色の雫に、僕は夕陽に舞うイチョウを見た。
それは悪夢ではなく、優しく穏やかな秋色だった。