Question is Truth
時々、彼はそういう表情を見せる。
何かを諦めている様な、それでいて待っている様な、何とも言えない表情。
その度に、彼女は堪らない気持ちになる。切ないというよりも、強い苦しみ。色恋沙汰というロマンチックで甘いものではない。それこそ、地獄か悪夢か、と思うほどに。
黙り込んだ彼女に、彼は決まってこう言うのだ。
「話を変えよう」
既視感ではなく、確実な記憶。いつも、そうだった。
同じ事を訊かれて、同じ様に答えられなくて、そしてそのまま終わってしまう。だから彼女は、今度こそ、と覚悟を決める。下らない、本当に馬鹿馬鹿しい問い掛けだと思っていても。
「…私は」
彼女が答えを紡ぐより一瞬早く、研究室のドアがノックされる。
「しっつれいしまぁーす」
元気よく入ってきたのは、彼の教え子達だった。彼は少しだけ眉をひそめ、彼女は教え子達の為に道を空ける。
「講義は?」
「今は空き時間です。だから、ちょっと暇でして」
「悪いけど今取り込み中なんだ。遊びに来るのは明日にしてもらえないかな」
なんだー、と落胆の声。
彼の教え子達は時折、こういう風に遊びに来る。いつもなら彼は快く迎えてやっているのだ。断る方が珍しい。学生達が落胆するのも仕方のない事だろう。
グループの中心らしい娘が、彼女に気付く。他のメンバーも気付いたらしい。無遠慮に彼女を見やる。
「え、取り込み中って…センセの彼女?」
「マジ?でもあの人、センセの後輩で研究生って聞いたけど」
「なぁに、じゃあ、私らの先輩?」
「助手さんじゃないの?」
やれやれと彼は首を振る。年頃の娘だ。色々と気にはなるのだろう。だが、今の彼には学生達に構っている暇はない。
「こないだのレポートはもう仕上がったのかい?遅れると単位に響くかもよ?」
普通の学生は大概、これで引き下がる。案の定黙り込んだ。それを言われると辛い、と娘達も諦めたらしい。
「解りましたよぅ。じゃ、これ置いときます」
一人が包みを差し出す。
「何?」
「差し入れですー。ホントはここで一緒にお茶しようと思ったんですけど。それじゃ、また来まーす」
彼に代わって彼女が包みを受け取る。一瞬、娘達が曰くありげな表情を浮かべる。先ほどの話のせいだろうか。
ドアが閉められる。ゆっくりと、鉄格子を閉める様に、重々しく。
包みからは甘い香り。中身はアップルパイだった。程よい大きさのものが、二つ。
「…夜食にでもする?」
「あげるよ」
「せっかく持ってきて貰ったんだから」
どういっても引っ込めないらしい。彼は渋々パイを受け取る。まだ暖かい。
一つは彼女の手にある。既に一口囓ったらしい。包みの端からパイが覗いている。
彼も一口囓る。シナモンの香りが鼻をくすぐる。甘さも控えめだ。女子はこういうのが好きなんだろうな、と思う。どこかで買ってきてくれたのか、それとも手作りなのか。
「コーヒーでも淹れようか」
「あぁ、うん、よろしく頼むよ」
彼女の姿が少し遠くなる。
甘い林檎とシナモンの香り。安らぎにも似た、蠱惑的な香り。抗いがたい誘惑。
彼は呟く。
こんな形で林檎を口にするとは思わなかった、と。
奇人、変人、夢見がち。
他の「学者」は、彼の事をそう評する。当然だろう、と彼も動じていない。
何事も伝説や神話に当てはめて解釈する彼は、どうひいき目に見ても真面目とは捉えられない。神秘学やら宗教学なら、まだ納得がいくだろう。どれも立派な学問だ。だが、彼の研究はどのカテゴリーにも属さないらしい。
よって、誰からも理解を得られない。いつでも彼は、孤独だった。
それでも彼は研究を止めない。至極「真面目」に研究を続けている。
寂しいと思った事は無い。虚しいとも感じない。理解を必要とした事も、無い。
何が解るのか、何が変わるのか、彼は何も語らない。共に居る彼女にすら、何も伝えない。
淹れたてのコーヒーを片手に、彼はページをめくる。手にしているのは聖書だ。少し前は仏典やコーランを手にしていたはずなのに。
「信者が見たらどう思うかしら」
「知識を深めるのは良いことだよ。別に、冒涜している訳じゃない。…傍から見ればそう見えるかもしれないけどね」
彼女は思い出す。
神話や伝説は、ある種の歴史的事実だ。全ての物語には元になった事実がある、彼はそう語っていた。
「でなければ、洪水伝説が二つも有るわけ無いだろう」
「聖書のノアに、ギリシャ神話のデュカリオン…だっけ」
前にも聞いた気がする。
「元は同じ話だったんだろうけどね。同じ話が枝分かれして、形を変えて伝わっただけだろう」
余程の天変地異が起きたんだろう、と彼は続ける。
「知る事は、それ自体が罪さ。だから僕はこうやって研究を続けている。それが僕に与えられた罰だからね」
ならば、そんな彼と共に居るのは何かの罰なのか。彼女は心の中で呟く。
何のために。そして、いつから。
彼が受けた罰の行く末を見届ける為か。それこそ、神代の時からの定めだとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。コーヒーを一口。
当たり前の様にこんな事を考えている自分は、彼と同じ存在なのだろうか。
何かを諦めている様な、それでいて待っている様な、何とも言えない表情。
その度に、彼女は堪らない気持ちになる。切ないというよりも、強い苦しみ。色恋沙汰というロマンチックで甘いものではない。それこそ、地獄か悪夢か、と思うほどに。
黙り込んだ彼女に、彼は決まってこう言うのだ。
「話を変えよう」
既視感ではなく、確実な記憶。いつも、そうだった。
同じ事を訊かれて、同じ様に答えられなくて、そしてそのまま終わってしまう。だから彼女は、今度こそ、と覚悟を決める。下らない、本当に馬鹿馬鹿しい問い掛けだと思っていても。
「…私は」
彼女が答えを紡ぐより一瞬早く、研究室のドアがノックされる。
「しっつれいしまぁーす」
元気よく入ってきたのは、彼の教え子達だった。彼は少しだけ眉をひそめ、彼女は教え子達の為に道を空ける。
「講義は?」
「今は空き時間です。だから、ちょっと暇でして」
「悪いけど今取り込み中なんだ。遊びに来るのは明日にしてもらえないかな」
なんだー、と落胆の声。
彼の教え子達は時折、こういう風に遊びに来る。いつもなら彼は快く迎えてやっているのだ。断る方が珍しい。学生達が落胆するのも仕方のない事だろう。
グループの中心らしい娘が、彼女に気付く。他のメンバーも気付いたらしい。無遠慮に彼女を見やる。
「え、取り込み中って…センセの彼女?」
「マジ?でもあの人、センセの後輩で研究生って聞いたけど」
「なぁに、じゃあ、私らの先輩?」
「助手さんじゃないの?」
やれやれと彼は首を振る。年頃の娘だ。色々と気にはなるのだろう。だが、今の彼には学生達に構っている暇はない。
「こないだのレポートはもう仕上がったのかい?遅れると単位に響くかもよ?」
普通の学生は大概、これで引き下がる。案の定黙り込んだ。それを言われると辛い、と娘達も諦めたらしい。
「解りましたよぅ。じゃ、これ置いときます」
一人が包みを差し出す。
「何?」
「差し入れですー。ホントはここで一緒にお茶しようと思ったんですけど。それじゃ、また来まーす」
彼に代わって彼女が包みを受け取る。一瞬、娘達が曰くありげな表情を浮かべる。先ほどの話のせいだろうか。
ドアが閉められる。ゆっくりと、鉄格子を閉める様に、重々しく。
包みからは甘い香り。中身はアップルパイだった。程よい大きさのものが、二つ。
「…夜食にでもする?」
「あげるよ」
「せっかく持ってきて貰ったんだから」
どういっても引っ込めないらしい。彼は渋々パイを受け取る。まだ暖かい。
一つは彼女の手にある。既に一口囓ったらしい。包みの端からパイが覗いている。
彼も一口囓る。シナモンの香りが鼻をくすぐる。甘さも控えめだ。女子はこういうのが好きなんだろうな、と思う。どこかで買ってきてくれたのか、それとも手作りなのか。
「コーヒーでも淹れようか」
「あぁ、うん、よろしく頼むよ」
彼女の姿が少し遠くなる。
甘い林檎とシナモンの香り。安らぎにも似た、蠱惑的な香り。抗いがたい誘惑。
彼は呟く。
こんな形で林檎を口にするとは思わなかった、と。
奇人、変人、夢見がち。
他の「学者」は、彼の事をそう評する。当然だろう、と彼も動じていない。
何事も伝説や神話に当てはめて解釈する彼は、どうひいき目に見ても真面目とは捉えられない。神秘学やら宗教学なら、まだ納得がいくだろう。どれも立派な学問だ。だが、彼の研究はどのカテゴリーにも属さないらしい。
よって、誰からも理解を得られない。いつでも彼は、孤独だった。
それでも彼は研究を止めない。至極「真面目」に研究を続けている。
寂しいと思った事は無い。虚しいとも感じない。理解を必要とした事も、無い。
何が解るのか、何が変わるのか、彼は何も語らない。共に居る彼女にすら、何も伝えない。
淹れたてのコーヒーを片手に、彼はページをめくる。手にしているのは聖書だ。少し前は仏典やコーランを手にしていたはずなのに。
「信者が見たらどう思うかしら」
「知識を深めるのは良いことだよ。別に、冒涜している訳じゃない。…傍から見ればそう見えるかもしれないけどね」
彼女は思い出す。
神話や伝説は、ある種の歴史的事実だ。全ての物語には元になった事実がある、彼はそう語っていた。
「でなければ、洪水伝説が二つも有るわけ無いだろう」
「聖書のノアに、ギリシャ神話のデュカリオン…だっけ」
前にも聞いた気がする。
「元は同じ話だったんだろうけどね。同じ話が枝分かれして、形を変えて伝わっただけだろう」
余程の天変地異が起きたんだろう、と彼は続ける。
「知る事は、それ自体が罪さ。だから僕はこうやって研究を続けている。それが僕に与えられた罰だからね」
ならば、そんな彼と共に居るのは何かの罰なのか。彼女は心の中で呟く。
何のために。そして、いつから。
彼が受けた罰の行く末を見届ける為か。それこそ、神代の時からの定めだとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。コーヒーを一口。
当たり前の様にこんな事を考えている自分は、彼と同じ存在なのだろうか。