Minstrelsy -2ページ目

Pure Blossom -7-

 昼休み、デザートのプリンを頬張りながら今朝の事を話す。
「何? じゃあ、いよいよ……」
「告白じゃないよ。ただ……進路の事を話すだけ」
 ほろ苦いカラメルを舐める。友人達の反応も、カラメルと同じだった。
「チャンスなのに」
「そうそう。オーケーしてくれたんでしょ? だったらさぁ」
「そんなんじゃないよ。幼馴染みなんだから」
 私は昨日の事も話す。彼の言葉を思い出す度に、ちくりと胸が痛んだ。
 結局、何もかも幼馴染みだからこそだ。お揃いを嫌がられたのも、遊びの約束をしてくれたのも。
 憧れる、と言われた事が有る。幼馴染みという存在が羨ましい、と。全然良くない、と私は思う。全部解っている様に見えて、全然解っていないのだ。お互いを知っているなんてただの作り話だ。
(解ってないよ、全然)
 それはきっと、私も同じ。私も、彼の事が解らない。
「多分さ、照れ隠しだよ。照れ隠し」
「こう、好きな子にはいじわるしたくなる的な……ねぇ」
 だと良いけどさ、と気のない返事をする。
「それで、明後日はどこに行くの?」
 落ち込みかけた雰囲気を吹き飛ばす様に、友人が努めて明るく聞いてくる。
「なーいーしょ。だって、こっそり様子を見るつもりでしょ?」
「そんな事しないしない!」
「嘘ばっか。思い切り笑ってるじゃない」
「いや、だって、ほら……気になるし」
「やっぱり来るつもりだったんだ」
 そこでやっと私も笑う事が出来た。
 友人達と同じ様に、彼の前でも笑えたら良いのに。


 帰りは別々だ、と思っていた私は予想外の出来事に鞄を落としそうになる。慌てて持ち直し、冷静を装って聞く。
「先に帰ったんじゃなかったの?」
「別に……たまたま。少し前に着いたら、お前来るの見えたから」
 何でもない事の様に彼は言う。
「待っててくれた、とか?」
「たまたまだって言ってるだろ。見えてるのに置いてったら逆に感じ悪いだろうが」
 淡い期待は、案の定裏切られた。やっぱり、照れ隠しなんかじゃない。友人の言葉に、私は心の中でそう返す。
「まぁ、どっちでも良いけどさ」
 がしゃん、と鍵の外れる音がやけに大きく聞こえる。
 私が自転車に乗ったのを確認して、彼が先に走り出す。
「そう言えばさ」
 コンビニを横目に通り過ぎた時、不意に彼が口を開く。
「今日あいつらと話して改めて解ったんだけどさ」
 あいつら。彼の友人達だ。何度か顔を合わせた事は有る。
「まともに進路決まってないの、俺だけかもしれない」
 さぁっと血の気が引く。耳の後ろが痺れる様に痛い。
 彼は気付かないのか、そのまま話を続けている。
「何かさ……推薦とかで決まってる奴も居るし、親の反対押し切って決めた奴も居るんだぜ? それに比べて俺はさ……ホント、何やってんだろうなって思う」
 自嘲気味に彼は笑う。
「推薦……」
 オウムの様に呟いたきり、言葉が出てこない。私もそうだ、と言えるはずも無い。
「あいつら見てたらさ……何か、寂しくなってきた。俺だけこんな感じで決まってないからかもしれないけどさ。何て言うかさ、もうすぐ卒業だろ? 卒業したらあいつらとはバラバラだしさ……それでかな。俺だけ一人になっちゃう感じがしたんだ」
 彼の瞳に影が差す。
(ああ……そっか……)
 彼は酷く不安なのだ。自分を取り巻く環境、それが変わっていく事を恐れているのだ。そう、友人達と別れてしまえば、それきりなんじゃないかと思う程に。
 ペダルが軋む。
 どう返したら良いものか。
 私も同じだという同意を彼は求めていない。彼が不安を打ち明ける時は、私の明るい答えを期待している時なのだ。解らないと思っていた彼の事が、この時だけは手に取るように解る。昔と同じ。こういうところは、変わっていない。
 私は自分の気持ちを押し潰す。
「それは考え方の違いだよ」
「考え方の違い?」
「そう」
 団地の上り坂に差し掛かる。漕ぐには辛い。私はスピードを落とし、自転車を降りる。彼も少し後ろで自転車を降りた。
「考え方の違いって、つまり?」
 押し潰した気持ちが、心で悲鳴を上げている。
「別れる別れるって思うから寂しいのよ」
 自分だって同じ癖に。進路の事を隠している癖に、よくそんな事を言えるものだ。
 夕陽に混じってもう一人の私が責め立てる。
 そういう事か、と納得した様なしていない様な、曖昧な返事が聞こえる。
「別に二度と会えなくなる訳じゃなし、会おうと思えば会えるんだし」
 自分の事を棚に上げて、よく平気で言えるものだ。そう思うならどうして彼に言わないんだ。
 責め立てる声に、これでお別れじゃないんだから、と心の奥で叫び返す。
 嘘つき。お別れだと思ってるから言えないんでしょ、ともう一人の私が嘲笑する。その声に耐えられず、夕陽に背を向けた。
 後ろを歩いていた彼と、目が合った。
 精一杯笑って見せたが、きっと酷い顔をしていたに違いない。
「まぁ、そうだよな」
 敢えて気付かない振りをしてくれたのか、彼はいつもと変わらない顔をしている。
 彼が通り過ぎるまで、私は動けないでいた。意気地なし、と罵倒する声をどうにか閉じ込め、彼の背中に声をかける。
「それよりも、明後日。約束、忘れないでね」
 いつもの私で言えただろうか。
 彼は少し困った様にうなずく。
 全ては明後日。彼がどんな反応をするのか、怖くて逃げ出したい気持ちで一杯だった。

Pure Blossom -6-

 翌朝、待ち合わせ場所に着いた私は息が止まりそうになった。
(どうして……)
 彼の姿が、そこに在った。
 意識して、わざと遅く来たのに。
(待っていてくれたの?)
 自転車が直った事は連絡していなかった。眠そうな彼。徒歩の私のために、早起きしてくれていたのだろうか。
 駄目だと言い聞かせても、自然と表情が緩んでしまう。
 そんな私を見て思うところが有ったのか、彼はぶっきらぼうに言う。
「……昨日は悪かったよ」
 何の事だろう。謝らなければいけないのは、むしろ私の方なのに。それでも私の口は、いつもと同じ言葉を紡いでいる。
「はい、素直でよろしい!」
 昔から、喧嘩した後の決まり事だ。どちらかが謝れば、この一言でおしまいにする。仲直りの約束だ。ようやく彼にも笑顔が戻る。
 昨日よりは遅いけれど、いつもよりも少し早い時間。二人揃って桜並木を駆け抜ける。
 ちらほらと視界を流れる桜色。
「桜」
「何?」
「桜が咲いてきたね」
「少し暖かくなってきたからな」
 耳元で風が鳴る。刺す様な冷たさは、気付けばもう無かった。
「そういやそうだね」
 少し先を行く彼の背中を追いかける。
 春が近付く。
 別れの時も、近付く。


 出た時間が早ければ、当然着くのも早くなる。いつもより静かな廊下を並んで歩く。
(……よし)
 深呼吸を一つ。覚悟を決める。
「あ、あのさ」
「何?」
「明後日、暇?」
「受験生に暇などあるか」
 ああ、やっぱり忘れているんだ、と笑いを堪えて私は言う。
「……学校、休みなんだけど」
 臨時休校なのだ。専願で入学をする新入生のための、少し早めの入学説明会が有るのだ。普通は土曜日に行われるはずなのだが諸々の都合が悪かったらしく、臨時休校にして開催される事になったのだ。
 う、と彼は言葉に詰まる。
「い、一応受験生に休みはない」
 無理矢理にも程が有る答えに、堪えきれずに吹き出してしまう。
「どうせ昼まで寝られるとか思ってたんでしょ」
 適当に言い返してみたのだが、どうやら図星だったらし。本格的に言葉に詰まっている。
 さて、ここからが本題だ。
「どうせ休みだし、たまには息抜きも必要だと思うのよ」
「まぁ、そうだな」
 怪訝な顔をする彼。
 跳ね上がる鼓動を必死に抑え、私は言葉を続ける。
「私の買い物、付き合わない?」
「買い物ぉ?」
 しまった、と思うが遅かった。遊びに行こうと言うつもりだったのに、いつもの友人達を誘う要領で言ってしまった。けれど、今更言い直せない。平静を装う。
「バスですぐに行ける距離にあるんだし、ね? たまには良いでしょ?」
 何がどうしてたまには良いのか、ともう一人の自分が突っ込む。自分でも滅茶苦茶だと解ってはいるが、一度言い出した以上後には引けない。
「同じこと考えてる奴で混むんじゃないか?」
 遠回しな断りの返事は、敢えて聞かない。
「大して多くないって。それじゃ明後日、忘れないでね!」
 強引に約束を取り付け、教室に入る。
「おはよー」
「お、おはよう」
 まだドキドキしている。
 本当に駄目ならば、すぐに嫌だと伝えてくるはずだ。その返事が来ない事を祈りながら席に着く。
 席に着いてすぐ、彼からのメールが来た。
 恐る恐る開く。そこにはただ一言「何時に集合なんだ?」と有った。
(良かった……)
 緊張の糸が一気に切れる。
「朝からどうしたのさ」
「え、うん、ちょっとね。また後で言うかも」
「そう? それよりも、今日はやけに早いじゃん」
「自転車、直ったから」
「ああ、そうなんだ。良かった……のかな?」
 くすくすと友人は笑う。対する私は拗ねた様に口を尖らせる。
「解ってるくせに」
 ぷいとそっぽを向く。
 窓の外には咲きかけの桜。並木道を思い出す。
 満開の桜。それを見る前に、私は――。

Pure Blossom -5-

 馬鹿みたい、と重い足を引きずりながら私は心の中で繰り返していた。
 二人とも黙り込んだままだ。口を利かない私を、彼はきっと持て余しているのだろう。
 彼が言いかけていた通りなのだ。別に、一緒に帰る約束をしていた訳じゃない。私が勝手に思い込んで、甘えていただけなのだ。何だかんだと私を気にかけてくれるその優しさは、私が幼馴染みだから向けられているのだ。
(幼馴染み、か)
 その響きが恨めしい。
 彼にとって私は、それ以上でもそれ以下でも無い。ずっと、このまま。友人よりも近くて遠い存在。思い知らされる度に、気付かなければ良かった、と後悔する。どうして好きになってしまったのだろう。こんなに近くに居るのに、絶対に届かない程に遠く感じる。
 コンビニが見えてくると、彼は歩く速度を落とした。私がここに寄る事を知っているのだ。その気遣いさえ、今は苦しい。
「すぐに戻るから」
 彼の顔を見ない様に、逃げる様にコンビニに入った。明るい店員さんの声が、少しだけ嬉しい。
 私はまっすぐにあのチョコレートを目指す。いつも通り二つ手に取って――もう一つ、追加した。勿論、彼のためだ。疲れているだろうというのと、言えなかったごめんなさいの代わりだ。
 コンビニから出ると、冷たい風が頬を撫でる。こんなに寒いにも関わらず、彼は制服のネクタイを緩めていた。
「寒くないの?」
 思わず、そう聞いていた。
「予定外の肉体労働は受験生には苛酷だったんだ」
 真面目な口調で言う彼。思わず笑い出しそうになる。
「ふぅん……そりゃ、ご苦労さんな事で」
 笑わない様に我慢したせいか、少しよそよそしい口調になってしまった。何か言われる前に、と彼にチョコレートを渡す。勿論、二箱。
「一個多いぞ」
 返そうとする手を押し止める。
「疲れてるんでしょ」
 ほんの少し触れた手が恥ずかしくて、拗ねた様な言い方になってしまった。
「じゃあ、遠慮無く」
 ふっと力が緩められ、チョコレートは彼の手の中に収まった。
 早速中身を確かめる彼。私も自分の分を開けてみる。
「……?」
 パッケージの絵柄とは違うお守り。何だろう、とお守りの一覧を確かめてみる。同じ絵柄が見当たらない。と、気付く。黒く塗り潰され「?」と書かれているもの。
「あ、シークレット!」
 思わず声を上げる。きっと彼も喜ぶ――と振り返った私の目に映ったのは、同じお守りを摘んでいる彼の指先。こんな事が有るものなのか。
「二人揃ってシークレットが出るって、レアじゃん」
「そうだな」
 テンションの高い私にどう対応したものか、と困った様な彼。
「被ったから、これは私のでいい?」
 本当は「シークレット二つで効果倍増!」と言ってあげたいところなのだが、これはどうしても自分の物にしたかった。
「好きにしろよ。お前が買った奴だし」
 さして興味も無いのか、彼はいちいち聞くなという感じだ。
 私は手の中のお守りを握り締める。もう一つは、彼の手の中。
「お揃い?」
 試しに言ってみた。勿論、良い反応は期待していないけれど。
「それだと引き当てた全員とお揃いになるな」
 やっぱり、と気付かれない様にため息を付く。
「夢もロマンも無いこと言うね」
 解ってはいたけれど、と心の中で付け加える。
 彼は一瞬眉をひそめる。
「お前と夢やらロマンとか、柄じゃない上に勘弁して欲しいところだ」
 どくん、と心臓が跳ねる。氷みたいに冷たい鼓動が、全身を駆け巡る。
 勘違いするな、彼はそう言いたいのだろう。
 自分達はただの幼馴染み。恋人同士なんかじゃないんだ、と。
 ぴたりと止まった私に、彼は戸惑っている。当然だ。彼は当たり前の事を言っただけなのに、私にこんな反応をされる筋合いなんて無いのだ。
「早く帰ろ。暗くなってきた」
 そう、勘違いしてはいけない。自分に言い聞かせる様にきっぱりとそう言い、私は歩き出した。


 結局、団地に着くまで一言も喋れなかった。
 いつも通りに他愛の無い話が出来れば良かったのだけれど、少しでも盛り上がれば勘違いしそうになる。そう自分に言い聞かせた結果、何も話せなくなってしまったのだ。
 明日からどんな顔をして会えばいいのか。答えが出ないまま分かれ道に着いてしまった。
「じゃ、ありがとね」
 彼の自転車から鞄を引っ張り出すと、振り返らずに家に走った。
 車庫を覗くと、見慣れた自転車が置いてある。
「ただいま。自転車直ったの?」
「おかえりなさい。そうそう、ついさっき持ってきてくれたのよ。良かったわね」
「うん」
 明日からは自転車が使える。彼に頼らなくても、大丈夫だ。
 明日は少し遅く家を出よう。私に合わせて、彼は少し早く待ち合わせ場所に居てくれたのだ。遅ければきっと、先に行くに違いない。
 ため息を付く私の指先で「お揃い」のお守りが揺れていた。

Pure Blossom -4-

 車庫に自転車は無かった。私の自転車は勿論、本来なら有るべき代車の姿も。
「お母さん、自転車は?」
 ブレザーをハンガーに掛けながら母親に聞いてみる。
「ああ、持ってったんだけどね、丁度部品が切れてたみたいで。急いで取り寄せるけど三日くらいかかるってさ」
「え、三日も? 代車は?」
「出払ってるみたいよ。しばらくはお父さんに送って貰いなさい」
 私はしばらく考えてから、こう答える。
「いいよ。今日みたいな感じで行くから」
 彼の迷惑そうな顔を思い出す。そこに、母親の声が重なった。
「何言ってんの。あの子も大変な時期でしょ」
 言われなくても解っている。百も承知、と呟く。
「……だって、一緒に行くのも後少しなんだから」
 そう、母親に聞こえない様に言った。
 幸いにもと言うべきか、しばらく父親は早番という事でいつもより早く出勤する事になったらしい。その時間だと生徒は勿論、先生も来ているかどうかすら怪しい。父親は気の毒だと思うが、彼と一緒に行ける事が決まった私にとっては良い事以外の何物でも無かった。
(そんな感じで、しばらくよろしく……と)
 可愛らしく絵文字をあしらったメールを彼に送る。すぐに返ってきたメールには、たった一言「遅れるなよ」とだけ書かれていた。断られなくて良かった、と安心する。
(あ……そうだ)
 あのチョコレートの事を思い出す。つまらないものだけど、お礼代わりに彼に渡そう。たかがオマケ、お守りとはいえおもちゃだという事は解っている。それでも願わずにはいられない。
 どうか、彼の支えになってくれますように、と。


「嬉しそうね、ホント」
 登校時間が少し遅くなった私を、友人達はそうからかう。
「結構自転車遅いのね」
「え、うん」
「もう……三日か四日くらいじゃない?」
「そう、かな?」
「もぉー、一緒に行けるからって直ったの黙ってたりしてない?」
「そんな事してないってば!」
 必死で否定する私を見て彼女達は更に笑い出す。つられて私も笑う。
「で、勿論帰りも一緒なのよね?」
「そのつもり」
 電車とバスならば一緒に帰れるのだが、彼女達は敢えて誘おうとしない。私がどうしたいのか、ちゃんと解ってくれているのだ。それが嬉しくて、照れくさい。
 帰る時も当然の様に私を置いて先に帰ってしまう。頑張りなよ、と言い置いて。
(あ、あれ?)
 話し込んで少し遅くなったかも、と思ったのに、そこに彼の姿は無い。薄暗い自転車置き場はがらんとしていた。人影は私以外には見当たらない。
 先に帰ったのかもしれないとの不安は、置かれている自転車が違うと否定した。彼はまだ学校に居る。
 だけど。
(……出ない)
 何度メールをしても何回呼び出しても、一向に返事が無い。友達と一緒になって騒いでいるのだろうか。そうだとしても遅過ぎる。
 どれくらい待っただろう。彼の自転車の荷台に腰掛け、鳴らない携帯を握り締める。強い風にスカートの裾が捲られそうになる。慌てて押さえた指先に、冷えきった足が触れる。もう、感覚が無いくらいに冷たい。
 さらさらと砂埃が流される音。それに混じって聞こえてくるのは、小石を踏む音。
 顔を上げる。だるそうに鞄を引っ掛けた彼だった。
「遅かったじゃないの」
 心配する言葉よりも早く、不満が口をついて出た。
「先帰ったんじゃなかったのか」
 少し苛立った様な彼の声。
「一人で歩いて帰るの嫌だもん。同じ方向に帰る子、居ないし」
 素直に一緒に帰りたかったと、何で言えないんだろう。当然、彼の機嫌は最悪になる。
「まだ明るいうちに帰れたろ?」
 苛立ちを隠そうとしない彼に、声が震える。
「だって、メールしても電話しても出ないし!」
 だからどうした、と言いたげな彼。
「別に一緒に帰るって約束した覚えは……」
 その唇は、私の聞きたくない言葉を紡ぎ出す。
「おぉ、待ち合わせしとったんかね」
 それを遮ったのは先生だった。意外な人物に、噛みしめていた唇が驚きの形に開く。
「そうならそうと言ってくれりゃ良かったのに。悪かったなぁ、付き合わせて」
「あぁ……いえ別に良いんですけど……」
 彼も驚いたのか、気まずそうに答えている。
「じゃあまぁ、気をつけて帰るんだよ」
 私達の様子を気にもしていないのか、先生はのんびりとした足取りで帰っていった。
 あれは、と思い至る。捕まると色々と面倒な事を手伝わされる、と有名な先生だ(人柄のお陰で嫌われはしていないのだが)。付き合わせて悪かった――という事は。
「……手伝い?」
「まぁな」
 だるそうにしていたのは、それが理由だったのか。解っても尚、私は素直に謝れなかった。
「じゃぁそう言ってくれれば良かったじゃん」
 出てくるのは彼を責める言葉ばかり。
「そんな暇無かったんだよ」
 彼はそう言いながら私の腕から鞄を取り上げ、自分のと一緒にカゴへ放り込む。
 ありがとう、の一言が言えない。
「……解ったわよ」
 拗ねた子供と同じだ。
「……帰るか」
 彼がそう言ってくれても、私は黙ってうなずく事しか出来なかった。

Pure Blossom -3-

 歩いて帰るから待っていて欲しい、と伝えておいたからか、彼は自転車置き場で私を待ってくれていた。その手には分厚い参考書。それで自転車に乗ろうとするものだから、私は思わず吹き出してしまった。
「わー、参考書片手に自転車とか危ない上に似合わないよ」
「うるさい。人を荷物持ち代わりに使いやがって」
 むくれた様に参考書を乱暴に閉じ、鞄へ突っ込む。
 間に合えば電車とバスで帰るつもりだとは言っていたのだが、本数も少ないしお金もかかる。何より、彼と一緒に帰れない。だから申し訳ないとは思いつつも、彼に待ってて貰ったのだ。
「しょうがないじゃん……乗ろうとは思ったんだよ? でも、間に合わなかったんだもん」
「ホントに乗る気あったのかよ」
 私の形だけの弁明を見抜いているのか、彼は諦めた様に歩きだした。
 少し出遅れたせいか、人影はまばらだった。同じ方向に帰る友達も居ない。二人きりの帰り道。デートみたいだ、とは冗談でも口に出せない。
 何か話をとさまよう視線がコンビニを見付ける。ふ、とある事が頭をよぎった。
「コンビニ寄ろうよ。お礼に何か奢ったげる」
 彼は嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「俺は早く帰りたいんだけど」
 けれど、私は引き下がらない。
「ちょっとだけ」
「置いてくぞ」
「五分だけ」
 ぐ、と彼が黙った後、緩く首を振った。
「……はいはい」
 彼は自転車のスタンドを立て、サドルに腰掛ける。寒いのに、外に居るつもりなのだろう。
「ありがと。待っててね」
 風邪を引かせる訳にはいかない。私はコンビニへと駆け出した。


「えーっと……あ、これか」
 目当ての物を二つ掴み、急いでレジへと向かう。
 桜のパッケージのチョコレート。友人から聞いたのだ。期間限定でお守りがついてくるのだ、と。
 帰る間際、参考書を見ていた彼を思い出す。本格的な受験シーズン。茶化してしまったけれど、彼にとっては勝負の時期なのだ。大したものではないけれど、少しでも力になればと思ったのだ。
 会計を済ませ、急いで外に出る。暖房が効いていたからか余計に寒く感じる。外で待つ彼もマフラーを巻いていた。
「お待たせ」
 そう言いながら、彼にチョコレートを放る。そんなに離れてはいなかったけれど、彼は取り落としそうになって慌てていた。横着しなければ良かった、とちょっとだけ反省。
「季節限定だし、私らには必要不可欠なもの!」
 私ら、と言った時、ちくりと胸が痛んだ。
 違う。必要なのは彼だけであって、私にはもう、必要の無いもの。
 友人に言われた「あの事」が胸をよぎる。
 怪訝な顔でパッケージを眺めていた彼の表情が和らぐ。
「必要不可欠? ……確かに、そうかもな」
 その顔に罪悪感を覚える。気取られたくなくて、鞄から取り出したマフラーをきつく巻き付ける。
「寒くなってきたし、早いとこ帰るぞ」
 彼が私を促す。そうだね、と応じながら、私も並んで歩き出す。
 他愛もない話をしながらも、引っかかっていたのは「あの事」だった。
 私が彼に言っていない事。
 それは、とっくに進路が決まっている、という事。推薦入試に合格し、受験シーズンが来る前に私の受験は終わっていたのだ。だから、と鞄の中のチョコレートを意識する。このお守りは、私には必要の無いもの。
 たったそれだけ、と言われるかもしれない。そうかもしれない、と自分でも思う。
 けれど、私は初めて、彼と違う道を歩むのだ。
 進学先は家から離れている。そして、女子校。一人暮らしで、そして、彼とは決して一緒に通えない。
 正直、かなり悩んだ。悩んで悩んで悩み抜いた結果――自分のやりたい事を選んだのだ。勿論、後悔なんてしていない。だから、決まった時はいの一番に彼に伝えたかったのだ。
 けれども、出来なかった。
 私以上に悩んで苦しむ彼を見て、無邪気に決まったと伝えられない、と思ったのだ。
 それに、と長く伸びた影に目を落とす。
 離れると口に出して伝えてしまえば、本当に遠くなってしまいそうで、それが怖くて仕方がない。言わなければずっと一緒に居られるんじゃないか、と思ってしまう程に。
「これ」
 鞄から取り出したチョコレートを開け、中のお守りを取り出す。
「ん?」
「あげるよ」
「何で。お前も要るんじゃないのか?」
 胸を刺す痛みに泣きそうになる。それを無理矢理、笑顔に変える。
「そうだけどさ。記憶力アップだよ? 参考書片手に自転車乗らなくても大丈夫かなって」
「……余計なお世話だ」
 少しだけ触れた指先が、そこだけ春の様に暖かかった。

Pure Blossom -2-

 最初は、大勢居た友達の一人だった。
 彼はずっと住んでいた私とは違い、小学生の時にこの団地に引っ越して来たのだ。昔馴染みの友達に新しい顔が増えた、その程度だった。別に好んで一緒に居た事も無かったし、意識してどうこうした訳でもなかった。遊んだし喧嘩もしたし、至って普通の友達付き合いだったと思う。
 だけど、成長するに従って私達の付き合いは変わっていった。友達という事に変わりは無かったとは思う。けれど、進学先が分かれたり思春期を迎えたりしていくにつれて、昔の様に無邪気な付き合いは出来なくなってしまった。その時に疎遠になって以来、付き合いが殆ど無くなった子も居る。彼とも一時期そうだった。
 つまらない事で意地を張って喧嘩して、酷い事を言ったし言われたりもした。中学生の時は殆ど口を利かなかった様に思う。口を開けば喧嘩ばかり。素直になれなかった。
 転機が訪れたのは、進学先が決まった時だった。同じ団地の同級生達の中で唯一、私と彼だけが同じ高校へ行く事になったのだ。最初は別に気にも留めていなかった。けれども、殆ど同じ時間に家を出る彼の背中を追いかけるうちに「何で一緒に登校出来ないんだろう」と思う様になっていった。
 そして、そう思った自分に愕然とした。
(馬鹿じゃないの、私)
 一緒に居るのが当たり前だったのは、もう昔の事なのだ。そう自分に言い聞かせていたが、ある日偶然家を出た直後の彼に会ったのだ。
 一緒に行こう、と言えたのは、今思えば奇跡だったと思う。そして、彼がそれに応じてくれたのも。
「あ、あのさ、どうせ一緒のとこに行くんだし……待ち合わせして一緒に行かない?」
 意を決して彼にした提案。戸惑いながらも承諾してくれた彼。その時見せた彼の笑顔に、胸が震えたのを覚えている。そして、自覚した。
 私は彼が好きなのだ、と。
「うぁー……今日遅刻ギリギリだったー……」
「だったら少しは早起きしろよ」
「朝もうちょっと飛ばしてくれれば良かったんだよ」
「それが乗せてやった俺に対する態度か」
 けれど、そんな気持ちを伝えられる訳も無い。
 だからこうやって、いつも通りの「幼馴染み」で居るしかないのだ。


 休み時間に彼と少し話したお陰か、上機嫌な私を友人達がからかう。
「恋する乙女だねぇ」
「あはは。何か可愛いよー」
「そっ、そんなんじゃないよ」
 口で否定はするものの、赤くなる頬は隠せなかった。
「ところでさ」
 一人がトーンを落として話す。
「もう言ったの? あの事」
 彼女の言葉に、私は黙って首を振る。
 私の様子に彼女は呆れた様にため息をついた。
「いつまで黙ってるつもりなの? もういい加減……」
「解ってる。……解ってるよ」
 自分に言い聞かせる様に、解ってる、と私はもう一度呟く。
「それなら良いけどさ。隠してるのって、あんまり良くないよ? 解った時に傷付くだろうし」
「うん……」
 彼女の言う通りだ。隠していても、いずれ解ってしまう事なのだ。それならば自分から早く言ってしまった方が良いに決まっている。
 だけど、と私は彼の姿を思い浮かべる。その姿が酷く遠く思えて、泣きそうになってしまう。
 自分で考えて、自分で決めた事なのに。

Pure Blossom -1-

 こんなにも慌てるはめになったのは、いつもより寝癖が酷かったせいだ。
(ああもう、先に行っちゃったかな……)
 気持ちばかりが急いでいる。こんな時ほど落ち着いて行動、とはよく言うけれども、実際には出来っこない。せいぜい制服がおかしくないか、確認できる範囲で忘れ物が無いか確かめられる程度だ。
「行ってきまーす!」
 自転車の鍵を引っ掴み、靴のかかとを踏みつけながら家を出る。
 鍵を差し込み、ペダルに足を掛けて漕ぎ出す。と、がたん、と嫌な音がした。それに、やけに重たい。自転車を改めてみる。
「あぁ……」
 後ろのタイヤがぺたんこだった。空気は最近入れたばかりだし、昨日は何の異常も無かったのに。
 今出てきたばかりの玄関のドアを開けて母親を呼ぶ。
「何よ、もう行ったんじゃなかったの?」
「自転車パンクしちゃったのよ!」
「どうするのよ。お父さんもう行っちゃったわよ」
「とにかく、自転車屋さんに持ってって。走れば間に合うかもしれないし」
 はいはい、と呆れた様な母親の声を背に、私は必死で走る。
 もう駄目だろうか。自分の体力の無さと足の遅さが嫌になる。息が上がって苦しい。朝から全力疾走だなんて本当についてない。
 揺れる視界に、大きな桜の木が映る。その下に居る人影に、私はほっと胸をなで下ろす。良かった。待っていてくれた。
 が、その人影は自転車のペダルに足を掛けている。いけない、置いて行かれる。悲鳴を上げる足に鞭を打ち、走るスピードを上げる。
 足音で気付いてくれたのか、人影は立ち止まり私を見る。
「自転車パンクしたぁぁ~」
 我ながら情けない声だった。その人影――彼の元に辿り着いた時には、その声すら出せない状態だった。後ろに乗せていって欲しいと言おうとしても、息が切れて言葉にならない。
 彼はしばらく私を見ていたが、そうするのが当然だという様にペダルに足を掛け直す。
「じゃあ先に行くから、お前後から走って来いよ」
 そう言い置いて走り出す。
 私は寸でのところで、その無慈悲な背中を捕まえる。荷台を掴んでしまえば走れない。が、思ったより走る勢いが有ったのか私の掴む力が強かったのか、彼の自転車が大きく揺らいだ。危ないと思うより早く、彼は体勢を立て直し私を睨む。
「……ンの野郎……」
 舌打ち混じりに彼は呟く。本気で怒っている訳では無いのだろうが、少しやり過ぎたかも、と申し訳なく思う。
 でも、背に腹は代えられない。このままでは遅刻してしまうのだ。私は彼に鞄を放り投げる。予想していたのか、彼は不安定な格好のまま見事にキャッチした。
「生徒指導に見付かる間に降りろよ」
 私の鞄もカゴに突っ込みながら、彼はぶっきらぼうに言ってくれた。嬉しい、と思ったのがそのまま顔に出たのだろう。彼は益々不機嫌な顔をしてそっぽを向いてしまった。けれどもその手は、自転車が動き出さないようにぎゅっとブレーキを握り締めてくれている。そんなさりげない心遣いが凄く嬉しい。
 自転車の荷台に腰掛ける。微かに軋む音を聞いてか、彼がぽつりと言った。
「お前、重くなったな」
 彼の無粋な言葉に耳まで真っ赤になる。それは、禁句だ。
「うるさい! 早く行かないと遅刻じゃないの!」
 そうなったのは自分のせいだと解ってはいても、叫ばずにはいられなかった。
 私の剣幕に驚いたのか、彼は一瞬肩を竦める。そう、ほんの一瞬。
「しっかり掴まってろ。飛ばすからな」
 彼の大きな背中が揺れる。それと同時に風景が流れ始めた。彼の言う通り、いつもより速い。少し怖いし、風が冷たくて寒い。かと言って抱きつく訳にもいかず、彼のブレザーをぎゅっと握り締める。
 そして、ばれないようにそっと、その背中に頬を寄せた。


 学校の手前の曲がり角で降ろされた。もう少し、と言いたいところだったが、校門に生徒指導が居るのだ。二人乗りが見つかろうものなら、揃って生徒指導室に呼び出されてこってりと油を絞られる。何とか回復した体力を振り絞り、必死で走る。彼の姿はとっくに校門の向こう側だ。
 生徒指導を横目に走り、予鈴が鳴る直前に教室に滑り込む。
「あ、おはよー。どしたの? 今日は遅かったじゃん」
 席にへたりこむと同時に脇腹を小突かれる。
「自転車パンクしちゃってさぁ……」
 鞄を枕にしたまま、私は友人に答える。
「え、じゃあ家から走ってきたの!?」
「そんな訳無いじゃん。乗せて貰ったの」
「親?」
「違う。自転車の後ろ」
 その言葉で納得したのか、友人がにやりと笑った。
そして小声で、やったじゃん、と言ってくる。
「やった……のかなぁ」
 手の感触を思い出す。握り締めていた彼のブレザー。
「そうよ。ここから一気に、幼馴染みからステップアップ!」
 何となく嬉しそうな友人に対し、私は冷静に言う。
「無理だよ。あいつが優しいのは、私が幼馴染みだからだもん……」
 彼の顔を思い出す。ずっと見てきた顔。大人びた今とは違う、子供だった時から知っている顔。
 彼と私は幼馴染み。十年来の付き合い、という奴だ。お互いに居て当たり前で、何でも言えて、何でも知っている。そんな間柄だ。年の近い家族とも言えるかもしれない。
 近過ぎる、と思うくらいに近い関係。だからこそ。
「はい、出席取るわよー」
 担任の声に、私は慌てて教科書を取り出す。友人も自分の席に引っ込んだ。
 眠たげな出欠確認を聞きながら、私はぼんやりと彼の事を考えていた。

Pure Blossom~一片~

 それは、咲き結ぶもう一つの物語。

ウロボロスの夢~回帰~

自分はもう諦めたのだろうか。
まだ希望を捨ててはいないのだろうか。
彼は己に問い掛けながら、言葉を紡ぐ。
それは祈りにも似た、最後の選択。

The World is Dream

一人の女性が書庫に篭もっている。幾つもの本を手に、棚の隙間を歩いていく。
迷いそうな本の迷路。しかし彼女は、しっかりとした足取りで歩いていく。
彼女が抱えている本は神話や民話の本ばかりだ。
収集を依頼される資料は、いつもこんなものばかりだ。先日は各種宗教の教典探しまでやらされた。いい加減にして欲しい、と溜息をつく。
ただでさえ妙な目で見られる事が多いのだ。幾ら研究の為とはいえ、集める方の身にもなって欲しかった。
(もう少し奥に行けば変わった資料あるかな)
司書でさえも立ち入らないであろう書庫の奥から、古い紙の匂いが漂ってくる。
好奇心が頭をもたげる。集めた資料を入り口に置き、中に入る。
当然ながら、彼女以外誰も居なかった。紙の匂い。不思議と落ち着く匂いだった。
本を一冊一冊あらためてみる。見た事も無い文字や題名の本が並んでいる。中には、題名がかすれて読めない程古い本もあった。
そのうちの一冊を手に取りかけて、止めた。こういう本は変に価値がある。
万一手に取った瞬間にバラバラにでもなったら、大目玉を食らうだけでは済まないだろう。
資料を渡す相手は山の様に本を積み上げている。丁寧な扱いはまず期待出来ない。
(本の事だけ伝えれば良いか)
興味を持ったら、自分で調べに来るだろう。
彼女は集めた本を抱え、書庫を後にする。
鳥を象った、凝った作りのペンダントが胸元で揺れていた。


「…これだけあれば、しばらくは良いでしょ?」
「ああ、ありがとう」
「書庫の奥にかなり古い本があったけど、バラバラになりそうだから止めたわ。興味があるなら、自分で読みに行ってよね」
「そうするよ」
手に取った本を無造作に積み上げると、彼は彼女を見上げた。
彼女は不機嫌そうだった。無理もない。彼の研究の資料集めを彼女一人に任せているのだ。
「コーヒーでも飲んで、しばらく休んでてよ」
「結構よ。本の匂いが染みついてそんな気分じゃない」
彼女はそう言うと、今し方自分が集めてきた本を読みはじめる。彼に協力しているのか、それとも単なる暇潰しなのかは解らない。
研究室の外を、学生達の声が通りすぎていく。時計を見る。いつの間にか休憩時間になっていた。
いつもならば受け持ちの学生が研究室を訪れたりして賑やかなのだが、今日は誰も来る気配は無かった。彼の受け持つ講義が無かったからだろう。
研究室に彼と二人きりで居るのは久しぶりだった。休み時間の度に資料整理を中断させられていたのだ。二人きりなのは少々息が詰まるが、それでも学生の騒がしさに比べれば遙かにマシだ。
彼女が手に取っているのは、日本の神話に関する本だ。彼はというと、エジプトの神話を手にしていた。神話という共通点以外は何もない。外の人間から見れば、奇異に映るだろう。
これが、彼と彼女の日常だ。
しばらくすると話し声も遠くなった。講義が始まったのだろう。
彼女はちらりと彼を見やる。彼はぼんやりと窓の外を眺めていた。
意外だった。いつもならば資料を読みふけるばかりで、窓の外を眺める事などしないのに。
彼女の視線に気付いたのか、彼がこちらを向いた。目が合う。
「ちょっと疲れてね」
「一日中座ってるだけなのに?」
余程資料集めに苦労したのか、彼女はまだ不機嫌だった。
そんな彼女を気遣う様に、彼は優しく微笑む。
「結構疲れるんだよ?座りっぱなしも楽じゃない」
「だったらたまには自分で図書館に行けば良いじゃない」
「気が向いたら、そうするよ」
穏やかな顔を崩さない彼。
「学生は来ないようね」
「その方が静かで良いさ。…ああ、そうだ」
少しだけ彼の顔が曇った様に見えたのは、気のせいだろうか。
「良い機会だから、君に訊きたい事があるんだ」
微笑みが諦めに似ているのは、彼女の思い過ごしだろうか。