After Concert -16- | Minstrelsy

After Concert -16-

音楽室に人気は無かった。今日は練習をするはずだったのだけど、誰も来ていないのだ。
随分と待っている気がする。友人と教室で別れて、どれくらいの時間が経っているのだろう。有志バンドの練習に行ってしまったのだろうか。それとも、まだ教室に残っているのか。一緒に教室を出た気もする。何故だろう、ちっとも思い出せない。
先輩も来ていない。帰りのホームルームが長引いているのだろう。彼女の妹は学校に来ているのだろうか。顔くらい出してくれると思うのだが。
時間を確認しようとして、時計が止まっている事に気付いた。いつから止まっていたのだろう。秒針が力なく揺れている。
今日は練習をしないのだろうか。それとも、僕の思い違いなのだろうか。誰かが来る気配が全く無い。
しかし、せっかく顔を出したのだ。少し練習をしていこうと準備をする。ピアノの音がすれば誰かが来るかもしれないし、時間潰しにもなる。
ピアノの蓋に手を掛ける。指は自然と曲をなぞる。ドビュッシー「月の光」。
カルテットの面々と出逢った時も、この曲を弾いていた時だった。あれからどれだけの時が経ったのだろう。一ヶ月経ったか経っていないか。それなのに、もう何年も共にしていた気がしてならない。
開いていた窓から、穏やかな風が流れ込む。その風に乗って、ひらり、と何かが舞う。黄色い木の葉、イチョウだった。小川に流される様に、教室の中をゆらゆらと漂っている。
その光を眺める僕を、焼け付く様な胸の痛みと息苦しさが襲う。
夢を思い出す。嫌な、夢。
彼女が倒れた時に見た、イチョウの葉が舞う夢。
その夢を見た時と同じだ。同じ痛みと、息苦しさ。
「大丈夫?」
いつの間に入って来たのか、誰かの手が背中に当てられた。暖かな体温が、そっと寄り添ってくれている。
ただそこに有るだけなのに、嘘みたいに苦しさが引いていく。
「楽になったみたいだね」
ありがとう、と言おうとして喉が凍り付く。
陽の光を背にして、僕の身体に触れていてくれたその人は、そこに居る。温もりも、その息遣いも、確かに感じられる。
「…どうして」
僕は凍り付いた喉を必死で動かし、叫ぶ。
「どうして君が、ここに居るんだ…!」
居るはずの無い声の主、そう、彼女に向かって。


居たらいけないの、と彼女は不機嫌そうに言い返す。
彼女が来ているなんて話は聞いていない。来ていたら間違いなく解る。気付かないはずが無いのだ。
「何だか随分と会ってない気がするね」
彼女は場違いな程明るい声で言う。
「演奏はどうなってるの?抜けといて言う台詞じゃないけどさ」
「それは…」
「あの子、どうかな。ちゃんと練習してる?」
こんな時まで、曲と妹の心配をしている。他に気に掛ける事があるというのに。
「僕が病室で話した事、やっぱり聞こえてなかったかな…」
彼女は困ったように微笑む。
「あいつが代理で…曲も変えてさ。一応形だけは出るつもりなんだよ」
「言ってたね」
「君には、演奏が無理なら客席に来るようにって、言ったよね」
「うん、覚えてるよ」
「だったら…」
言葉に詰まる。
何も変わらない、僕の知っている彼女だ。
いつも曲の事ばかり気に掛けていて、肝心の自分の事は後回しで、必死で、精一杯で―――。
涙が出そうになる。
けれど、言わなければならない。
「何故君が、こんな形で僕の夢に出てくるんだ?」
彼女は答えない。
夢の中の彼女。それは、僕が作り出した幻だろう。それでも訊かずにはいられなかった。もしも彼女が「本物」だとしたら、と最悪な考えが頭をよぎる。
「本物でも幻でも、あんまり違わないと思うんだけどな…」
「…こんな夢を見たらどうなるか、相場は決まっているじゃないか」
「ああ、よくある話だよね。じゃあ、こんな夢を見てるって事は、私は死んじゃうのかな」
「止めてくれ!」
咄嗟に彼女の腕を掴む。擦り抜けたりしなかった。しっかりと掴んでいる。服の感触も、その下の体温も伝わってくる。信じられない程に、はっきりとした感触だった。
「これは…?」
夢だと判じておきながら、夢だと信じる事が出来ない。
本当はこれが現実で、病室で見た彼女の方が夢だったのだろうか。あの辛い思いは、どうしようもない事実と感じたものは、全て夢だったのだろうか。
「どっちを信じる?」
これを夢だと言えば、きっとこの夢から追い出される。しかし、これを現実だと言えばどうなるだろう。
彼女は倒れていない。こうして目の前に居る。
「僕は、これを信じたい。君が本当は倒れていないと…この夢が本当なんだって」
そう告げると、彼女は寂しそうに呟いた。
「逃げないで。これは夢なの。辛いからって目を逸らさないで」
身を切られる思いだった。彼女は言葉を続ける。
「夢が本物なら、現実の私はどうすれば良いの?起きた時、私は何処に帰れば良い?」
彼女が僕の手を握る。暖かい手だった。
「解ってるんだ…でも」
細い指が僕の唇に触れる。しぃ、と子供をあやすように彼女は微笑む。
「ちゃんと帰るから。少し時間かかるかもしれないけど、ちゃんと、戻って来るから」
信じて待っていて、と彼女は言う。
哀しい幻だ。僕の願望が、彼女にこんな台詞を言わせている。
「願望でも、幻でも、私は私だよ。だから、私を信じて」
指先が遠ざかる。
僕は彼女の腕から手を離し、そのまま頬に触れる。柔らかな頬だった。
「これが、夢?」
「そう、夢。だから…もう行かなくちゃ」
舞い落ちるイチョウの葉が、飴色に変わる。
駄目だ。夢から追い出される。
「待って!僕は君に言わなきゃいけない事が…」
木の葉が次々と飴色に変わっていく。
夢から引き離される。抱き締めようと伸ばした腕は、もう届かない。
「私はちゃんと戻って来るから…信じて」
飴色の欠片が降り注ぐ。
「その時に聞かせて。私も、待っているから。伝えたい事が有るから」
「行くなッ!」
飴色の欠片が、僕を、この夢を、琥珀の様に閉じ込める。そして―――。


「―――ッ!」
ベッドの上だった。
日付が変わって二時間余り。
はっきりとした夢だった。嫌な夢、だとは思わなかった。
彼女は言っていた。必ず戻る、と。それが僕の願望でも、ただの幻でも、彼女はそう言ったのだ。
何よりも誰よりも、彼女は僕に言ったのだ。それを信じなくてどうするというのだ。
指先で唇に触れてみる。彼女が触れた様な温もりが、そこにあった。
病室の彼女を想う。
彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。