After Concert -15- | Minstrelsy

After Concert -15-

二度目の病院の廊下は、ほんの少し明るかった。それでも、好きになれない事に変わりはない。
彼女はまだ、集中治療室に居る。
本来ならば面会出来るのは家族だけなのだが、特別にという事で面会が許されたのだ。彼女の両親や彼女の妹が取り計らってくれたのだろう。でなければ四人も―――僕と友人、それに二人の先輩―――会わせてくれる事は無いだろう。
病室の前で説明を受ける。面会は五分間、専用のスリッパに履き替える事、しっかり手を洗ってアルコールで消毒する事、等々。
一度に四人で会う訳にはいかないので、二人ずつに分かれて会う事となった。最初に二人の先輩、次に僕と友人だ。
病室の手前の待合室に通され、僕と友人はそこで待つように言われた。先輩達は荷物を預け、病室へと向かう。
しんと静まり返った部屋で、換気扇が低く唸っている。僕らは何を話すでもなく、ただ無言で先輩達を待つ。
今日になってようやく、担任は彼女の事をクラスに話した。とっくに知れ渡った状況では全く意味の無い事だと思う。声を潜めて話すか、大っぴらに話題にするかの違いだ。
唯一の功は、彼女を知るクラスメートが千羽鶴を折ろうと持ちかけたり、お見舞いに何かを用意しようとする動きが出て来た事か。僕はそういう事には関わらず、沈黙を通した。僕にはやるべき事がある。それは、僕にしか、僕らにしか出来ない事だ。
「入って良いってさ」
先輩が帰って来た。
様子はどうか、と尋ねそうになる。今から会うというのに。
「行こうぜ」
友人が僕を促す。身体が震える。恐れなのか。
扉が静かに開く。
病室の空気が、澱の様に肺に染み込んで来た。


真っ白で殺風景な部屋、それが彼女の病室だった。
窓にはブラインドが下ろされている。煌々と照る蛍光灯の光で陽の色が掻き消されている。
色を許さない、光さえも殺菌消毒されているかの様だ。
その部屋の真ん中に、彼女は居た。酸素マスクを付けられ、きつく漂白されたシーツに包まれている。息苦しいだろうな、と思う。
彼女の身体には、幾本もの線が繋がれていた。
その先では、彼女が生きている事を示す波形が刻まれている。そして、その命を繋ぐために、何種類もの点滴がぶら下がっている。
看護士が彼女の名を呼ぶ。反応は無い。
冗談じゃないよ、と心の中で呟く。
僕はこんな君と会う為に来たんじゃない、曲の打ち合わせに来たんだ、いい加減に目を覚ませ、そう言ってやりたくなった。
「声は届いているかもしれないので…良かったら声をかけてあげてください」
看護士がそう言ってくれた。友人が僕を無言で促す。軽くうなずく事で、それに応じる。
出来る限り普通に、彼女といつも話している感じで、そっと話しかける。
「文化祭だけどね、出る事にしたんだ。ソロじゃない。もう一度、クインテットとして」
彼女の反応は無い。
「覚えてるかな、あいつがヴァイオリン弾けるって言ってた事。代理でね、こっちも掛け持ちして貰う事にしたんだ」
友人が苦笑いしている。そう、彼女の代理を友人に頼んだのだ。
「あの曲の楽譜は君が持ってるから、曲は別の…パッヘルベルのカノンになったんだ。ベタでしょ?」
ベタ過ぎるよ。彼女はこう言うはずだ。
「君が早く復帰してくれれば、勿論あの曲をやれるんだけどね。そうしたら、あいつはクビかな」
「リストラかよ!」
僕と友人が笑う。彼女も笑うはずだ。
「正直文化祭まで時間が無いからね。演奏が間に合わなかったら、客席に来てくれるだけでも良いよ。…そうだな、見に来ること必須にしておこうかな」
無茶言わないでよ、と抗議するはずだ。
「張り合いが無いからね。それくらいの目標はあっても良いよね。コンミスが出られないんじゃ、格好が付かないでしょう?」
やってやろうじゃない。きっとそう言ってくれるはずだ。
「…早く復帰してよね。君に言いたい事と聞きたい事、あと一緒にやりたい事があるんだ。復帰してくれなきゃ、いつまでもおあずけじゃないか」
声が震える。後少し。
「とにかく…待ってるから、さ」
解った、と応じてくれたはずだ。今は声が届かないだけだ。
友人が何か声をかけている。何を話しているのか、内容が頭に入らない。薬の混ざった様な空気が、僕の心を締め付ける。
そろそろ時間です、と看護士が声を掛ける。一度だけ、彼女の手を握った。
暖かくて柔らかな手。しかし、握り返してはくれなかった。
待合室を抜けて、廊下へ。限界だった。
「大丈夫か?」
眩暈がしていた。友人が僕の肩を支えて、椅子に座らせる。彼女の妹が病室に戻ろうとして、足を止めていた。
「僕は…」
震えが止まらない。何故今になって。彼女の姿を見たからか。
「気分でも悪いのか」
友人が僕の肩をきつく掴んでいる。
気分が悪い訳じゃない。そう答えようとして、初めて気付いた。
「…お前」
視界がぼやけ、霞んでいる。泣いているのだ。
「どうして、僕…」
幾ら拭っても涙が止まらない。僕は泣かないと決めていたのに。
「何で…」
呟く声に涙が混じる。堰を切ったように溢れてくる。
信じたくなかった。悪い冗談か何かだと思いたかったのだ。それが、彼女の姿を目の当たりにして、どうしようもない事実だと知ったのだ。
何も出来ない自分が悔しかった。最後に会った時、彼女を気遣ってやれたら、防げたかもしれない。些細な事かもしれない。何も変わらなかったかもしれない。それでも、少しだけでも何か出来ていれば、彼女はこんな事にならなかったのかもしれない。
取り留めのない思いが、頬を伝って流れ落ちていく。
「お姉ちゃんは絶対に帰って来ます。絶対に…」
私が一番よく知っているから。そう言って、彼女の妹は涙を拭った。
出来る事は一つ。彼女を信じる事だ。
それが僕らに出来る唯一の、そして一番の事なのだ。