私は2021-04-06から令和5年6月12日まで、テーマ:リブログ・YouTube・ニュース・記事として、リブログ記事を927件出し続けてきました。
そのお陰で、今世界で起きているあらゆる動向を把握することを、色々な識者から知ることが出来ました。
そして、うんざりするほど、今の世の中が腐敗しきっている実態が嫌と言うほど分かりました。
ここで大事な事は、そんな世の中にあって、自分としては「じゃ~どうするのだ?」という問いが問われたのです。
今迄は他人様のリブログ記事で、世の中の実態を訴え続けてきましたが、これからは自分がインド哲学バガヴァッド・ギーターを学んだ事を生かしていく時期到来、と悟りました。
幸い、ブログを書き始めた2011年5月から、膨大な「活き方や精神哲学の投稿記事」がありますので、テーマ別に再投稿をしていきます。
この頃は61歳で知力もあり、今読み返してみると、良くもこんな記事を毎日下書き無しで30分程度でアップできたと、自分ながらも驚いています。
それでは、これから再投稿記事を毎日、何日か分をアップしていきますのでご覧いただければと思います。
とりあえずテーマをまとめて再投稿していきます。
できれば、内容をプリントアウトし冊子にして、何回も何回も読み返すことを推奨いたします。
きっとその都度新たな気付きを得ることが出来ると思います。
<15年間読み込んできたバガヴァッド・ギーター>
<バガヴァッド・ギーターの語り動画をご覧ください。
各、内容の文章を黙読しながら何回も何回もお聴きする事を推奨致します>
2011-10-15 09:57:12テーマ:これからはインド哲学の時代
今日は物事や世間の関わりは、精神知識を以って俯瞰(高い位置から見渡す)する重要性を説きたいと思います。
ここで言う精神知識とは、躾、道徳、倫理、宗教、哲学の五つを言うのです。
決して学校で教えている教科とはちがい、人間として身に付けなければならない資質をいうのです。
それは、人に対する礼儀であり、優しさであり、許す寛大さであり、正直に生きることであり、素直さであり、自分を高める忍耐強さなどを言うのです。
これらを身につけ実行できる人が精神性の高い賢い人であると言うのです。
先ず、躾を身につけることを例えて言うならば、学校のグラウンドで友達同士で遊んでいる時に、相手に対しての作法や礼儀を悟るようなことである。
道徳を身につけることは、一段高い学校の屋上からグラウンドで大勢が遊ぶ生徒全体を見渡すような事で、人間関係の重要性を知ることができるのです。
つぎに倫理を身につけることは、こんどは小高い山に登る事であり、学校や工場や街並みや人家や車の動きや人々の往来までも見ることができるようになり、社会人としての生き方を知ることができるようになるのです。
さらに宗教観を身につけることは、飛行機にのる事であり、それは地上を離れ空間と言う別次元から、そこの市全体やその周りにある山や川や海などの存在も、手に取るように分かるようになり、人間の魂と来世の存在も悟る事ができる様になります。
そして哲学を身につけることは、今度は地球の引力圏を脱しスペースシャトルに乗って日本全体や地球の姿も見渡すことができるようになり、二度と生まれ変わる事のない、魂の永遠性の安息地である郷里を知ることができるのです。
この様に地上の生活から、地上を離れた空間へ、さらには地球を離れ、引力圏も脱し、地球全体をも見渡せる、永遠の境地を得ることができる様になるのです。
この様に次々と次元を高め、高い次元の境地を得るには、精神的知識を身につけ実践しなければ、それは達成しえないものなのです。
その精神的知識を身につけるには、他者に対する思いやりの心、人を許す寛容の心、他者を認める称賛の心、正直に生きる心、素直な心、忍耐の心などを養い、毎日の生活の中で、他者とかかわりながら実践しなければならないのです。
これら精神知識と言うものを知り、教えを実践してこそ精神的知識を身に付けたと言うことになるのです。
これらの精神的知識は学校で教えている教科とは全く違ったものであり、人それぞれが自から求めなければならないものなのです。
そして、これを得た人こそ人徳ある賢い人と、賞賛すべき人なのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、やはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
このバガヴァット・ギーターの教えに触れることの出来る人は、100万人のうち一人程度かもしれない、と私は思っております。
しかし、その100万人中の一人の為に私は毎日このようにブログを書いているのです。
覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ
2011-11-21 07:34:48テーマ:これからはインド哲学の時代
先日ある読者から、現在の宗教に対する非常に的を得た質問が来ましたのでここでご紹介いたします。
インド哲学があり、それに沿ったインド仏教がありますが、「日本の仏教はインド哲学(インド仏教)が持つ世界観、論理、認識等が切り捨てられ、念仏とか座禅の形のみが残った」という説がありますが如何思いますか?
ここが正に哲学が抜けてしまった形なんですかね?
だから、人間は何のために生きるのか?
生きる理由は何か?死んだらどうなるのか?
幸福とは何だ?
とかを疑問に思わずに、論議もしなくなってしまったのだろうか?
だから、真理なども気にしなくなってしまったのだろうか?
これに対して私は、次のように回答いたしました。
さて、疑問の原点ですが、それは部分でもって宗教を捉えているからなのです。
この場合「群盲、像を撫でる」の例えが分かりやすいと思います。
ある盲人は象の足を撫でながら、象は丸太のような動物であると認識し、またある盲人は腹を撫でながら象は壁のようなものであると認識し、またある盲人は鼻を触りながら象はホースのようなものであると認識するのです。
それぞれの解答は決して間違っていないのですが、その部分だけを主張して他を知らなければ、その全体像はつかめないものです。
部分の正解は、他の部分にとっては誤解でもあるのです。
要するに全体を捉える知識が無いのに、部分の知識で他を誤認している状態なのです。
それ自体は決して間違っていないのですが、宗教はインド哲学へ到達する過程であり、または部分に過ぎません。
例えその部分の教えを詳しく知り修行しても、それがすべてと判断するのは誤認です。
従って、インド哲学をしっかりつかんでいなければ、途中段階の分部に陥って独善的な判断をしてしまう、そこに宗教の危険があるのです。
宗教の上位カテゴリーである、インド哲学を学ばなくしては決して宗教の独善の罠からは逃れられない、と言う事でしょう。
精神世界の階段は、躾、道徳、倫理、宗教、インド哲学のこの五つの段階があり、哲学を修しない限り宗教の全体を理解できないのです。
五階に昇れば、四階の屋上で行われている事はすべてはっきり見えるのと同じ理屈です。
宗教はその人の性格に合った、また好みに適した、修行の一つの過程であり部分に過ぎないのです。
しかし、こんなに重要なインド哲学を学ぼうとする人はほとんどいません、哲学を深く知らなくても、宗教の全体としての体系を知るためには、絶対にインド哲学の初歩でも学ばなければならないのです。
つまりインド哲学を学ばなくして精神修行の完成はあり得ないと言う事です。
これらは神の科学であり真理なのですが、やはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです 。
このバガヴァット・ギーターの教えに触れることの出来る人は、100万人のうち一人程度かもしれない、と私は思っております。
しかし、その100万人中の一人の為に私は毎日このようにブログを書いているのです。
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