私は2021-04-06から今月12日まで、テーマ:リブログ・YouTube・ニュース・記事として、リブログ記事を927件出し続けてきました。

そのお陰で、今世界で起きているあらゆる動向を把握することを、色々な識者から知ることが出来ました。

そして、うんざりするほど、今の世の中が腐敗しきっている実態が嫌と言うほど分かりました。

ここで大事な事は、そんな世の中にあって、自分としては「じゃ~どうするのだ?」という問いが問われたのです。

今迄は他人様のリブログ記事で、世の中の実態を訴え続けてきましたが、これからは自分がインド哲学バガヴァッド・ギーターを学んだ事を生かしていく時期到来、と悟りました。

幸い、ブログを書き始めた2011年5月から、膨大な「活き方や精神哲学の投稿記事」がありますので、テーマ別に再投稿をしていきます。

この頃は61歳で知力もあり、毎日30分程度で色々なテーマで記事をアップしてきました。

今読み返してみると、良くもこんな記事を毎日下書き無しで30分程度でアップできたと、自分ながらも驚いています。

それでは、これから再投稿記事を毎日、何日か分をアップしていきますのでご覧いただければと思います。

とりあえずテーマをまとめて再投稿していきます。

できれば、内容をプリントアウトし冊子にして、何回も何回も読み返すことを推奨いたします。

きっとその都度新たな気付きを得ることが出来ると思います。

 <15年間読み込んできたバガヴァッド・ギーター>

 

それでは本当の活きる道 活き方のテーマから始めます。

 

人は食するだけに生きるのではない

2012-04-15 08:48:32テーマ:本当の活きる道 活き方

 

我れも耕す

釈尊が托鉢で、ある村に訪れた時であった。

春の種まき準備に、忙しく働く使用人に農家の主人は、朝ごはんを配っていた。
その時姿勢を正した、托鉢姿の釈尊が、主人の目に留まったが主人は、その分け前を施そうとはせず、それどころか彼は、つかつかと釈尊の前に近づいて行き、言葉を投げかけた。

「沙門よ、われらは自から種をまき、耕し、自から取入れをして、食を得ているのである、沙門よ、汝もまた自から種をまき、耕し、自から収穫して食するがよい」。
その言葉は、自から労働することなく、精神修養を、生きる糧とする者にとって急所を突いた言葉のように思われる。

そして釈尊は、その言葉に対し「主人よ、私もまた種をまき、耕し、食を得ているのである」。
主人は釈尊の、予期せぬ意外な答えにけげんな顔をし、訝しげに見つめるのであった。

そして主人は、釈尊の牛も、鍬で耕す姿も、見たことも無き故にあえて、その真意を問いた。

「汝は自から、耕す者なりと言うも、我は汝の耕すを見たること無し、われは敢えて、汝に問わんとする、我らはいかにして汝の耕すを、知ることを得べきか」。

その問いに釈尊は、静かに答えた。

「信仰は種なり、自制は雨なり、智慧はくびきに繋ぎし鋤なり、 決意はその柄にして、不動心はその縄なり、身において守り、語りにおいて守り、食するにはよく量を知り、清浄をもって草刈となし、修行に励むは我が休息なり、精進は、重荷を負うて行く牛にして、我らを悟りの境地に運ぶ、我ら行いて帰ることなく、我らおもむきて悲しむことなし、かくの如きが我が、心の耕しであり、悟りはその収穫なり、我らかくの如く心(精神)を耕し、全ての苦悩より、解脱せり」。

 

人は自から、額に汗して耕し穀物の、良き収穫を得るのは尊い事でありまさに、主人の言うとおりである。だが人は、自から耕すものは決して、田畑のみには限らないそれは、人の生きるは、食べる為だけに、生きるのではないからである。

人間精神の荒野を耕し、精神的悟りを得て、人生の苦悩から解かれる修行も 釈尊は、「我も耕すと」と、語ったのである。

 

<我は教えの対価を受けず>

主人は釈尊の、説かれた真意をようやく理解し、納得することが出来た。そこで主人はうやうやしく、「尊者はまことに、耕す人であらせられる。尊者の耕すは、精神の荒野であり、人間を苦悩から解き放つ、修行であることを、私は今、納得することを得ました、どうぞ尊者よ、これを受けたまえ」。

と言って、朝ごはんを施そうとした。

だが釈尊は、その供養をしりぞけ、主人に教え諭した。

「我は教えを説いて、食を得るものにあらず、そは、知見ある者の行為にあらず。

故に我は、教えの対価は受けず。ただ、精神の荒野を耕すが我が、修行なり。
もろもろの煩悩を、つくし果たして、まことに尊敬すべき聖者を見なば、主人よ、かかる人に供養せよそこは、功徳を求むる者の、福田となであろう」。

 

 

供養とは本来、人間の優れた人格や、聖なる尊厳に対する、敬意でなければならない。供養は、対価であってはならない。

諭された故に施す供養はもはや、供養の純粋的価値を無くしているのである。
托鉢修行者への供養はただ、尊敬の念より、与えられるべきものであり決して、説法の対価として、与えるべきものではないのである。托鉢はただ、黙然として家々を訪れ、供養する者があれば受け、与える者が無ければ立ち去る ただこの作法のみである。

 

 

 

世の為人の為より、先ずは自分自身を修めることから始めよ

2012-05-06 09:57:01テーマ:本当の活きる道 活き方

 

人間がこの世に生きる意義は、動物次元の状態から自己は魂である、との完全認識に目覚めることからすべてが始まるのです。
それは今生においての修行だけでなく、何回も何回も生まれ変わりをしながらの修行なのです。

その人生修行の鉄則としては、先ずは自分自身の生活習慣を正すことから始めなければなりません。
何事も先ずは、自分自身がしっかりした人間性を確立しなければ、全ては完成した方向に進まないのです。
その自己に対しての修行徳目は、心身の浄化と精神知識の養成、なのです。
心身浄化の心における重要な徳目は、五感と時空を超えた精神世界の存在を認識する事が、その第一歩なのです。
具体的には、先祖を供養する事に始まります。
先祖供養は、目に観えない世界を感想すると言うことにおいて、一番基本的で重要な行為となるのです。
それは自分にとって一番大事な肉体を提供してくれた、両親の祖先を敬う気持ちから先ず始めることになります。
仏壇を造り過去帳をつくり、毎日線香を焚き、水を捧げ、できれば読経する、この様な神聖なる習慣が心を浄化させてくれるのです。


我が家の祭壇
    <私は床の間を神仏間にしました>


この様な習慣を続ければ、起きる時間や寝る時間のよい習慣が身に付くようになるのです。
また、身体に良くない食べ物をとらない事や、飲酒や性の節制をするのは、身体の浄化につながるものです。
身体に良くない食べ物とは、化学添加物やインスタント食品や冷凍食品であり、これらは肉体だけでなく、精神性にも良い影響を与えてくれません。
ついつい、美味しさや手軽さを中心として、インスタント食品や冷凍食品を食べてしまうのですが、やはり食餌は穀物野菜を中心に、奥様がつくる手料理が一番なのです。
正しい先祖供養や食事のとり方、そして飲酒や性の節制にはすべて、忍耐が伴います。
この忍耐を養う事こそ、人格を形成するうえでの一番の重要な基礎づくりとなるのです。

 

 

<バガヴァッド・ギーターの語り動画をご覧ください>

バガヴァッド・ギーターとは 

第二<章 ギーターの要旨 <魂の神秘> 

二羽の仲良い鳥 

瞑想(ディアーナ・ヨーガ) 

絶対者についての知識

物質自然の三様式(トリグナ)

 

クリシュナパワー施術師&津軽三味線演奏家

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津軽三味線 白井勝文 脱サラドキュメント - YouTube

白井勝文 下田市民文化会館大ホール 津軽三味線演奏と語りの独演 - YouTube

白井勝文の三味線弾き語り 清水次郎長と咸臨丸事件 - 

 

クリシュナパワー入り理趣経 

クリシュナパワー理趣経10分バージョン1
続きクリシュナパワー理趣経10分バージョン2

 

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白井勝文(バール・クリシュナ・フミオ)