我も耕す

釈尊が托鉢で、ある村に訪れた時であった。

春の種まき準備に、忙しく働く使用人に農家の主人は、朝ごはんを配っていた。
その時姿勢を正した、托鉢姿の釈尊が、主人の目に留まったが主人は、その分け前を施そうとはせず、それどころか彼は、つかつかと釈尊の前に近づいて行き、言葉を投げかけた。

「沙門よ、われらは自から種をまき、耕し、自から取入れをして、食を得ているのである、沙門よ、汝もまた自から種をまき、耕し、自から収穫して食するがよい」。
その言葉は、自から労働することなく、精神修養を、生きる糧とする者にとって急所を突いた言葉のように思われる。

そして釈尊は、その言葉に対し「主人よ、私もまた種をまき、耕し、食を得ているのである」。
主人は釈尊の、予期せぬ意外な答えにけげんな顔をし、訝しげに見つめるのであった。

そして主人は、釈尊の牛も、鍬で耕す姿も、見たことも無き故にあえて、その真意を問いた。

「汝は自から、耕す者なりと言うも、我は汝の耕すを見たること無し、われは敢えて、汝に問わんとする、我らはいかにして汝の耕すを、知ることを得べきか」。

その問いに釈尊は、静かに答えた。

「信仰は種なり、自制は雨なり、智慧はくびきに繋ぎし鋤なり、 決意はその柄にして、不動心はその縄なり、身において守り、語りにおいて守り、食するにはよく量を知り、清浄をもって草刈となし、修行に励むは我が休息なり、精進は、重荷を負うて行く牛にして、我らを悟りの境地に運ぶ、我ら行いて帰ることなく、我らおもむきて悲しむことなし、かくの如きが我が、心の耕しであり、悟りはその収穫なり、我らかくの如く心(精神)を耕し、全ての苦悩より、解脱せり」。

人は自から、額に汗して耕し穀物の、良き収穫を得るのは尊い事でありまさに、主人の言うとおりである。だが人は、自から耕すものは決して、田畑のみには限らないそれは、人の生きるは、食べる為だけに、生きるのではないからである。

人間精神の荒野を耕し、精神的悟りを得て、人生の苦悩から解かれる修行も 釈尊は、「我も耕すと」と、語ったのである。

<我は教えの対価を受けず>

主人は釈尊の、説かれた真意をようやく理解し、納得することが出来た。そこで主人はうやうやしく、「尊者はまことに、耕す人であらせられる。尊者の耕すは、精神の荒野であり、人間を苦悩から解き放つ、修行であることを、私は今、納得することを得ましたどうぞ尊者よ、これを受けたまえ」。

と言って、朝ごはんを施そうとした。

だが釈尊は、その供養をしりぞけ、主人に教え諭した。

「我は教えを説いて、食を得るものにあらず、そは、知見ある者の行為にあらず。

故に我は、教えの対価は受けず。ただ、精神の荒野を耕すが我が、修行なり。
もろもろの煩悩を、つくし果たして、まことに尊敬すべき聖者を見なば、主人よ、かかる人に供養せよそこは、功徳を求むる者の、福田となであろう」。

供養とは本来、人間の優れた人格や、聖なる尊厳に対する、敬意でなければならない。供養は、対価であってはならない。

諭された故に施す供養はもはや、供養の純粋的価値を無くしているのである。
托鉢修行者への供養はただ、尊敬の念より、与えられるべきものであり決して、説法の対価として、与えるべきものではないのである。托鉢はただ、黙然として家々を訪れ、供養する者があれば受け、与える者が無ければ立ち去るただこの、作法のみである。


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覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ


これからはインド哲学バガヴァット・ギーター の時代です。

バガヴァット・ギーターはマハト・ガンジーが座右の書としたものです。

私は宗教団体には一切入っておません。

全て独学でギーターを身につけました。


私の主義は人を集めず、布施を求めず、去る者は追わず

私はその人の、自主自立、独立自尊を尊重します。

人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。

バール・クリシュナ・フミオ