世にも恐ろしい猿山の大将達が天にツバ吐く国の中で馬の耳に経文?豚煮汁コニア?猫に交番の落し物? | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
人類自由解放への導き☂ネタ:私、『猿の惑星恐怖症です 参加中 
    
    
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11.   
    
    
        
    The Rolling Stones Monkey Man            Peter Gabriel shock the Monkey  
    
いや、これはサルは猿でも、SAL に関係にあるMONKEYと 
80年代の半ばにLIVE活動をしていたkino という存在の語源、映画館』『THEATERと同じく、
』『モンキーのドイツ語としてのAffenだ。 
    
    
と、ここまでの間、この手の構成で緻密に計算するまでもなく、
幾たびか似たような手法で書いては来た。 
自分以外の他人が興味を惹く検索ワードでここへ辿りつく… 
というケースが、かつて俺自身にもあった。
それを逆手にとったようなインターネットの利用価値 としては、
何でも利用することが正しいかどうかを問題視する必要性が今の俺にはない 。 
馬の耳に有り難い御経。 豚にダイヤモンド。 猫に埋蔵金。 
・・・・ Is it like preaching to the wind ? 
足元に這う蟻の列を蹴散らし、地に降りそそいだ雨あがりに虹も見えず     
世にも恐ろしい猿山の大将たちが揃いに揃って天にツバ吐く国の中で 
自然界の風に煽られ、叩かれ、物影に避けるヤツはいても 
風に逆らい、それへ向けて説教をするマヌケもいない。 
ただ、自分の言葉を持てない大衆へ向けて 
どこまで何を云っていいのかワルイのかの区別・識別・判別はある。 
目先鼻先の利益のために、適当なワードを組み合わせて言葉を並べ、 
それをパソコン画面では視えない位置にまで引っ張りあげ、ロードするまでのデータを重くするほど 
訪問者、閲覧者が覗くまでの表示時間が少々ながくなっても構わず 
ネットの小遣い稼ぎでしかない私利私欲を追求してるような姑息なブログやサイトも 
今の日本のインターネット上に溢れかえるほど在る。 
そういった質の低い成功を夢見ることと、 
人間として生きることに貪欲なことの区別もある。 
    
何か本を読むにも、ネットの向こう側の長文の字面を追うにも 
誰かの歌や演奏を聴いたり、ほとんど誰も見ていないような場所で
何か自分の意見を訴えるにも もしもそういったことを各自が、
一日中、休みなくやっていたとしても、いずれは眠くなるし、
場合によっては疲れて横になり、REM状態に陥る者もいる。 
その睡眠。人間が眠り・目覚めるという繰り返しに 
人間そのものの筋肉全体を司る肝臓機能が、
自然界の日の出・日の入りに従っているはずの事実 もある。
そして、 
明日の朝、誰もが必ず目覚める約束や保障など どこにもないのに 
そんなことは意識せず、平気で寝てしまう人間。この霊長類が 
この地球上で生かされている自然界においては 
人ひとりの一生より遥かに長い地球の歴史の中で 
たとえば、今日なら今日の陽の出・陽の入りは 
寸分の狂いなく、そこから60年後になると再び同じ位置へ戻る。 
それを人間ひとりの生涯と照らし合わせ、
自分が生まれた日から数えて60年周期で、
その人間を取り巻く自然界は再びまた、すべて同じ日に戻っている。
それを人々は還暦【かんれき】と呼んでいる。そして、
120年後も、180年後も、240年前の今日も、
いま自分が生きて生かされている場所の時間の経過。その60年周期は 
とくに誰が意識することなく、アタリマエのようにある自然界の、
日の出・日の入りの時刻で計ることができる。
    
こうした自然界の摂理、整然とした流れにある法則の中で生かされていながら、 
たとえ、そこから外れて生きるような日常生活を送る者 であったとしても 
本来、肉体を持って生きていられる期間の人間の心、魂は 
学問や社会の教育などに関係なく、一日一日、それなりに利口になって 
成長をつづけている。 
この揺るぎない事実は、Tetsuya Itami成長する樹木 という歌の中でも歌われている。
   
    虚しさに襲われることがある ちからのない自分に苛まれ
     夜空を見あげ 舌うちするとき 少しずつでもきっと成長してるんだろう
 
    
という一節において。 
    
2008年に発表された新作のひとつ、明日に架ける風  
この歌では、とくにそういうことが歌われているわけではない。 
もっとそれ以上の内容で、
そういう人間としての成長や
独り一人の役割を怠るように、だらしなく生きている有り様に対して 
    
    この心うたう 木々のように 空気のように 光りのように 
     に 明日に架ける風のように 
     欲深いサルたちよ / 

    
と、やさしく丁寧に、語りかけるように歌いはじめられ、 
    
    己の欲に駆られ 自然を壊し 空気を汚し 楽を手にする 
     欲深いナマケモノよ その罪に恥じなさい 
     夢がなんだ 愛がなんだろう 己の欲の塊だろう 
     ほんとの夢は ほんとの愛は 見返りのないものだろう 
     罪深い猿たちよ その罪に苦しみなさい /  
 
    されど我は歌う 誰かの胸に届くよう 
     その手に幸を 揺るぎのない明日を…
 
    
という具合に、  
この曲は果たして、ヒトの姿かたちをした誰かが忘れかけていたメロディなのだろうか? 
    
現在、この惑星の生息可能な地域に住み飼いする我々文明人全体を指しているかと想われるサル。 
そこに、 
進化論を否定も肯定もせず 、どちらも受け入れるように 
ウィットなセンスに富み、ユーモアも取り入れ、
これまた完成度の高い演奏技術と楽器(声も含む)の使いこなし…
どこをとっても複雑さを感じさせないシンプルさ。
かつて、30代のときの誰かが命かけて代筆したツモリの何冊かの本 なんて
もう誰も読む必要などない ほど、
現代の地球上に生息する人類が抱える最も重要な問題をコンパクトにまとめている。
    
春夏秋冬の季節感も、そこで空を見あげて呼吸することも、あるいは、
加工された水や空気を購買し、買い占めるようなことも 
そのようにヒトが呼吸をして血液を回して生きるために必要不可欠な絶対条件として  
食物を摂取することも、世界的な食糧生産も 
それらにまつわる作物や果物の栽培、品種改良が 
近ごろの異常気象によって困難になりつつある今日、
大規模な地震、水害、豪雨、暴風、あらゆる災害や新型ウィルスの蔓延もすべて 
自然のなせる業には成すがまま、なにひとつ手も足もでない、従うままの人間。 
今この世で生かされ、自然界の産物である人間。その人類が  
これからの過酷な時代をどのように生きてゆくべきなのか? 
その疑問や不安を素直に胸に抱いたとき、
どうか、この一曲に耳を傾けてもらいたい。俺はそうおもう。 
    
と、そのように願ったとしても、果たして今、この世にいる何億人の存在が 
この曲の存在を知っているだろうか? 
    
これほどまでに便利で、
人ひとりが生きるためには、このうえなく贅沢に成りすぎた格好の文明社会 では 
街へ出かけ、街角の通りを歩き、そこへ軒を連ねた様々なお店や 
大勢の人間が働く場所を見て回る自由な時間も休日も、それぞれにある。 
自分の行きたい旅先で、誰かのために土産を買ったり、 
「ここがおいしい!」と評される場所を尋ねて、料理や酒の味や香りを愉しんだり食したり 
温泉へ浸かり、日々過ごし疲れた肉体を休め、癒すこともできたり、
それぞれに自由な時間もある。 
クルマに乗っても、自分の部屋にいるときも、手軽に好きな音楽を聴くこともできる。 
その音源は、街で手軽に買うことができたCDなのか? 
流行りの場所からダウンロードした、友人知人も聞いている同じ音なのか? 
ケータイの着メロとしてはベストな音色なのか? 
そこに何不自由なく、なんの不満もなく、
今が素晴らしい生活であることに充実した気持ちで満たされているのなら 
それはそれでいいと想う。 
ただ俺はつくづく、自分の身のまわりを見わたしても感じる。 
目まぐるしく進歩する科学技術、著しく発達する物質、家電、時代の変貌… 
その中で、「ほんとうに、それでいいのか?」と。 
そしてそこに今は、かつての伊丹哲也のレコードやCDもない。 
2008年のTetsuya Itami の歌もない。 
それでも、世の中の片隅の、インターネット上の…世間から見たとき 
明後日の方角のような場所に吹く風の中に 
フルトラックで何十曲もある とするなら 
俺はそれを自分の借りているフォーマットでも紹介しつづける。 
    
    
風に舞いあがった太陽の子供。
太陽風を受けて手を振る彗星の子供。 
明日に架ける風 この一曲を心で聴けるなら、その人の明日は 
どんな思想や宗教の煩わしさに邪魔されることもないし 
自分が人間であることを自覚して 
自分自身を獲り戻すためのキッカケをつかめる…かもしれない。 
自分を自分で救うことができる可能性がある。
どんなことに対しても、素直に 
ありがとう! という気持ちしか出てこない人間。
そういう笑顔の人間に近づける…かもしれない。 
そんな歌を日本語でつくり、歌った人は、これまで日本人にはいなかった。 
しかも、これほどまでに わかりやすいメロディで。
もしかすると、これからも二度と現われないかもしれない。 
「生きていてよかった」と想えるかどうか… 
それは今日この曲を聴く自分次第。