ラヴ・ソングについて Ⅱ  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
このサイトは、誰がどこから読んでもいいように、
読む人の人生も、それっきりで終わらないように、
とくに最近のお年寄りの方々や老眼の人にも読みやすいように、
文字もデッカクしてある。
で、人間の心と身体と自然界の関係についても、
同じことが しつこいほど繰り返し書かれてたりもするけど、
世の中には、どんなにクドイようでも、
何度も何度も丁寧に云わないと、それでも理解できない人もいるので、
俺もなるべく手を抜かずに色々の表現方法で、
あらゆるモノを題材にして書いてゆく。
俺の中にある、そのすべてが、絶対にぜんぶ丸ごと伝わるわけではないけど、
かつて俺に与えられた仕事の一つ、“気づかせる”という、
そのきっかけづくりは、
ある刑務所の囚人の人にも読まれてた (…面会に来た奥さんに頼んで取り寄せてた)
自然と人間の設計図 』という初版本を代筆させてもらってから、
今もまだ、終わってはいない。
これからも永遠に終わることはない。
それは、世間の一部の人には脅威かも知れないけど、
構うことはない。
これからの時代、とことん自分に素直になれず、
自然界に対して、その人生の生き様を真っ向から歯向かうような醜態の連中は、
ずっと怯えさせておけばいい。
…学者とか学識経験者とかな。 そう云っておけば読者も安心なんだ。今のところは。
   
俺の場合、書けば書くほど謎が深まることはない。
書けば書くほど解からないことへの理解が深まり、
何が大切で、何が不必要…もう遣い物にはならないかが、正しく認識できる。
道を外れても、途中、混乱しそうになっても、必ず最初の位置へ軌道修正される。
決して俺を中心に世界が回っているわけではなく、
俺は自然界に生かされている。
そういうモノが見方に回るように創り替えてもらってある。
あの日以来。

   
   
んで、そんな前置きは どうだっていい。
世の中の常識に合わせることも、インターネットの中では幾らか必要だ。
しかも最近は、俺の世代よりも若い、1980年代に生まれた人も確実に読んでくれている。
こりゃぁ考えてもみなかったぜ。
俺のアホ丸出しのサイトが、次の世代を担う若人に読まれてるなんて、
俺としては後先短い御高齢者のみなさんこそへ、攻撃的な言葉を突き立ててるのに、
そんな若い人には尚更ショッキングなこともあるかも知れない。
ごめんね。
でも現実にある事実だ。
俺はそれを無視できない。
できないんだけど、そこをなんとか、
今日まで、この時間までを生き抜いてきた自分自身を
これからも今まで以上に、ずっと大切にしてほしい。
決して投げやりにはならず。
もう何も頑張ることもないけど、たとえば、
大事マン・ブラザーズの、あの一発ヒットを初めて聴いた日の自分の素直さとか、
鬼才マルチアーティスト、牛乳大好き、ココロ雄大。何でもこなせる器用な、憧れの福山くんの、
あの優しい歌声に感銘を受けたときの自分とか、
真田さんと玉置さんが競演したテレビドラマで、
「あなた達は僕が守る」の末期癌の主人公の台詞に涙した日の自分とか、
同じくテレビドラマで、岸谷さん演じる学校の先生が自分の教え子にナイフで刺されたとき、
「おまえ、それは生きるために使う物だろぉ。リンゴの皮を剥いたり…」
の、あの高視聴率をマークした瞬間をリアルタイムで観ていた時の自分とか、
そういう自分を大切にしつづけてくれ。
赤い狐のオヤジが、走るダンプカーの前に飛び出た瞬間は、もう忘れてくれ
   
・・・・これで最近の若者にナントカ通じねぇか? あとは よーわからん。
   
   
   
さて、最近は、
ぐーぐる のツールばぁ とか、やぁ!フゥ の検索バーとか
そういう“株主優待ソフトウェア”みてぇなのを使ってのキーワード検索で
あちこちのサイトを徘徊するより、
やはり、世の中の底辺にいる人がつくって、賢明に運営してるトラフィック・エクスチェンジ
という便利なプログラムサイトがおもしろい。
そのうち、俺の場合は今、海外サイトのその類いに60ヵ所ほど無料登録のメンバーになってる。
(ゲゲ。)
そこには、その運営者がアメリカばかりでなく、
イギリスやドイツ、中国、東南アジア…と、世界中、様々な人が、
そういう“流行りのプログラム”をインターネット回線へ流している。
なんのことはない。
自分のホーム・サイトや“お薦めページ”が、それぞれの好みのカテゴリーで、
24時間休みなくクルクル回転するプログラムだ。
それを観たい人、参加したい人が、ちゃんとしたメールアドレスさえあれば無料で登録できる。

各種機能のグレード・アップで有料会員にもなれる
   
そんで俺も、自分のサイト、この“mind resolve”のURL、http://ameblo.jp/badlife/
を国内外あわせて60件近くに登録してある。
その全部を一日に利用することもないけど、せいぜい10~15分くらいずつだな。
アホのように少ない数で同じIPアドレスのサイトだけが空回りしてるようなところ意外は、
パソコンの画面の中が色々なサイトに移り変わる仕組み。だいたい10秒前後で。
そういうのが、自動で回転するオートサーフって呼ばれるモノと、
自分の手でマウス・クリックしながら、
見たいページ・サイトを回していく寸法のマニュアルサーフに別れていて、
いわゆる“ネット・サーフィン”てのは海外サイトが主流な現在…。
そういう意味で、このサイトのトップ記事に
誰も読まないようなクサイ英文のページを毎日更新してたのも、
英語圏の海外閲覧者に合わせるために、そうしている。
なんとか それなりのアホな内容を連ねて色々と工夫もある。
世の中(外国)には、こんな怪しいサイト(?)でも、その内容を受け入れる・受け入れないは別として、
軽くURLの審査に通るときもあれば、そうでないときもある。
そうでないときというのは、削除されたり保留にされたままだったり、
それぞれのトラフィック・エクスチェンジの中で各サイト、ページ閲覧の回覧に承認されないこともある。
中には利用する以前に、まったくアクセス不能になっちまうサイトもある
そういう場所はそういう場所で、退会しなくても他にイイ利用方法もあるんだけど、
それについては またいずれ、…ゆくゆくな。
   
んまぁ、国内より海外の方が、その手のサイトの発達も豊富で、
オート・サーフ中心でも、マニュアル・サーフ大好き人間が揃ってる所もいろいろだ。
丁寧にダウンラインを育てるとかなりの収入になるよう、
ポイントをカネに還元できるシステムもある。俺はやってないけど

もっとちゃんと英語の読解力があったなら、
それはそれはスゴイ情報も豊富にあるんだけど、
世界中のサイトがグルグル回っているので、
中にはどうでもいいようなクズなネタや、スパイウェアを仕掛けようとする悪質なサイトも巡ってくる。
ちょっとした隙にネットウィルスに感染しそうにもなる。 
この3ヶ月で俺のノートPCにも3~4回あった
それでも俺と俺のパソコンは怯まない。
常時、メインで使わせてもらっているトラフィック・エクスチェンジのサイトが20くらいあるけど、
自分のページの幾つかを翻訳ソフトで怪しく英語化して、
小さな島国 「日本」という、新潟の、佐渡の田舎町の、8畳の一室の、
俺という小さな人間の肉体の中にある心と、ヘンな脳味噌の中から外側の世界へ、
このサイトのデータが配信されてる。常に。
そこには、例によって、“
伊丹哲也をカムバックする会 ”もあれば、
俺のゴタクが長々と並べに並べられた、『
人間の設計図 』のネタもある。
   
   
んで、本題はこっからだ。
   
もしも、そういう(閲覧者の中)に気の利いた人が一人くらいいて、
俺のページのすべてを
マトモに英語圏の“今風の言語”に訳して読んでくれる人がいたとしたなら、
・・・・どうなるのか? 
哲也さんの歌も、U2のように世界中の若者の背筋をゾクゾクさせ、その心をシビレさせることになるのか? 
可能性はゼロとは云えない。
なにせ、俺も、1パーセントの戦友。
そして、世界人口は60億人。
伊丹哲也のファンは今や、ただ単に、
「自分の好みの歌手の歌声や演奏を楽しむ」という、
「陰ながら応援してます」的な“隠れファンクラブ”の人では棲まされない。
   
自分の持ってる能力をフルに使って、
まだその存在の素晴らしさを知らない何者かに伝えなければならない。
大声で。
「日本の偉大なるシンガーソングライター、伊丹哲也のファンは ここにいます!」
それこそ、渋谷のド真ん中で街頭演説を許されるモノなら、
アーティスト本人の反対を押し切ってでも、やれる人はやらなければならない義務がある。
なぜなら、“一発屋の伊丹哲也とサイド・バイ・サイド”のファンではなく、
この現実の世界に闘いつづけながら生きている“今の伊丹哲也”のファンだからだ。
   
何かが世界中に大きく注目されるためには、
そういう気チガイが一人や二人ではなく、何十人か何百人かいないと、
物事は世に拡まっていかない。
そのためには、自分がメシを喰う時間も犠牲にする。
家族もそこへ巻き込む。
どうだ! (誰に云ってる
   
ストーンズU2 には、そういうファンがゴマンといるのに、
“今の伊丹哲也”には、まだいない。まだ。
俺は いた方がいいと思う。
なぜなら、あのギター演奏といい、
マウス・ハープ(ハモニカ)の使いこなしといい、
曲づくりの真髄といい、その信念はハンパではない。
素晴らしいギター・テクニックを持つミュージシャンも日本にはサワヤマいるかも知れないけど、
“今の伊丹哲也”ほど、自分独特の声に見事にマッチさせ、また、その弾き語りの向こうの方に、
決して聴こえないはずのリズム・セクションやコーラス・パートが聴こえてきてしまうような、
そういう演奏スタイルをほぼ完全なまでに確立しているミュージシャンは・・・・
この時代は もう、ほんとうに少なくなってしまった。
以前はいたよ、陽水さんも拓郎先生もそうだった。
こうせつさんも泉谷の兄貴も、それこそオフコースや伊藤敏博さんも、みんな、
鋭く研ぎ澄まされた野心と情熱に満ちあふれていた。
それを聴くファンの眼も、ステージの上の演奏者が今にも殺されるかと思えるほど
ギラギラとしていた。 (…以前、ラジオ番組で拓郎さんが言ってた
でも、一部を除く日本のアーティストのほとんどには、
未だ、世界音楽業界を相手に自分自身と勝負しようという意気込みはない。
その証拠に、あの、The Rolling Stones は、過去、5回も来日しているのに、
そこで誰一人として、前座、オープニング・アクトを務めたという日本の“歌うウタイ”はいない。
ミック・ジャガーなんて、6回以上も日本に来てるし、
チャーリー・ワッツもロニー・ウッドも単独来日も平気でやってる。
なのに日本のミュージシャンとの競演は一度もない。
…当たり前と云えば当たり前かも知れないけど。)
日本人で、マトモにキースとジャガーの二人に逢って話を交わしたという その筋の人は、
どっかの音楽雑誌のライターとか、越谷さんとか山川さんとかの専門家のほか、
それなりの著名有名人としては、せいぜい五木寛之先生くらいなもんだ。 こんな云い方でゴメンナサイ
それ以外は、
日本のアメリカナイズされた、アホな音楽業界の競合が邪魔をして、視界不良
誰も自分の持ってるスピリットを あのメンバーの前で披露することはできない。
セコんど・ハンど…「中古CD屋さんに同じタイトルのゴミCDを何百枚ならべられるか!
それを競い合うことがそんなに忙しいのか? 
興行収益世界トップのステージでオープニングアクトがとりを飾る最中、
楽屋裏でペリエを飲む笑顔のミックジャガーを驚かせるほどの歌声と演奏を
堂々と披露すればいい。
かつて、ブライアン・アダムスも、シェリル・クロウも、レニー・クラヴィッツも、
そうやって世界のロック産業に その名を馳せてきた。見事なまでに。
日本人には、そういう度胸のあるミュージシャンはいないのか? 
世界のYAZAWA 」でいいじゃないか、
南十字軍 でもいいじゃないか、
「日本人の血」を歌う、森へ進んで一直線の人でもいいじゃないか! 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10033920880.html
何も恥ずかしいこともなければ、遠慮もいらない。
どうして中国人の、日本では ほとんど無名のアーティストが、
ストーンズのステージで “Wild Horses”を競演できて、 http://www.iorr.org/tour05/shanghai.htm
そういう自由に、何の束縛も制約もなく、
ミックジャガーとのデュオが実現可能な音楽業界でないのか? 
つくづく、巷の“売れ線メジャー路線”に漬け込まれた
「カラオケ・着メロ用ミュージック・フェア」てのが疑わしい。
亜細亜の狭い範囲で何十万人の“キャーきゃぁお姉ちゃん”を集めたところで、
あとに残る虚しい現実は、「自分の自由が どこにあるのか?」という孤独感だけだ。
どんなに過去の栄光に縋っても、誰も見向きもしない時代は直ぐにやってくる。
そういう意味での浮き沈み。
自分が丹精込めて作った“ガセ歌”も、のちの世に代々歌い継がれることはない。
U2やマドンナを超えられないし、 米シティROLLERS にも近づけない。
日本人ミュージシャンの誰が、今から毎日のように肉を喰ってバター臭くなろうとしても
坂本Qのスキヤキ・ソングを越えられるような、
スポーツ界でいうところの中田や野茂や松井やイチローのような存在は、         ichiro\u0026gojira
今の日本の音楽業界にはない。
世間の裏側で買い込み合戦の末に注目された“ベストセラー本”も同じだ。
次の世には誰にも読まれはしない。

俺の詩集 も含めてな。…買い込みは自分独りでしかやってなかったけど
   
稀に、“Drifters”というバンド名が、
当時の同名黒人グループと同じだったことに興味を抱かせただけだったのか(?)
元ドラマーで役者の加藤 茶 氏をはじめとする日本のドリフターズが、
ビートルズが初来日した際に前座を務めてはいるけど、
どうしてか、日本のミュージック・シーンは、あの時代から、
数々の才能ある音楽アーティストが、普通のタレント芸人や国内テレビ俳優に流れてしまう傾向にあった。
人それぞれに、いろんな生き方がある問題もあるので、
それらすべてが何かワルイわけでもないけど、
やはり、最初にあった目的は少なからず貫き通す姿勢でいた方が、“ホンモノ”だと思うし、
昨日より今日の自分が成長している確認は、
数字(視聴率など)を追い回すだけの世界では見失われてしまうような気もする。
んまぁ、本来の自分が生きるべき道から外れてるかどうかなんてことは、
俺が云うほど簡単なモノではない。
   
   
   
物事は自分が知っている範囲だけがすべてではない。 (…俺にも云えることだ)
音楽も同じだ。
一人のアーティストの過去に、売れたか売れず仕舞いだったかの名曲名演。
その“懐かしい曲”を 今になって いくら聴きたがっても、
本人にソレを歌う気持ちがない以上に、
そんなモノばかりを好んで喜んで聴く人は、
今日という現実に生きている自分を認められない証拠だ。
もうどこにも逃げられないくせに、
「あの頃はヨカッタ…」とかの決まり文句で。
その“あの頃”にしたって、当時は不平不満だらけだったはずだ。
決して、その心が満たされることはなかった…『今日まで、そして明日からも』 (拓郎さんゴメンナサイ
過去は捨てなくてもいい。
どこか心の片隅にしまっておいてくれ。
そんなことより、今の自分の歌を歌うことに真剣勝負な姿勢を
どうしてもっと外へ伝えようとしないのか!? (誰に云ってる
今の沢田研二さんが、過去あれだけのヒット曲がありながら、
それを一つとして、テレビやラジオの中では、もう歌わない。
これからもきっと、絶対に歌わない。(と思う)
それは、自分が成長し続けたいからだろう…と思う。
その気持ちは、巷の音楽業界の、売れるモノだけを回転させることに忙しい人達には解からない。
独りのアーティストではなく、人間の成長。
それを妨げる日本の“スポンサー優先興行”の体制。
それに振り回される消費者の方々(日本国民ラララ音楽世代)。
最早、どんな産業も需要と供給は空回りしてるに過ぎない。
そういう中に、リバイバル・ヒット や トリヴュートCDの売り買いもある。
ドレミファソラチド♪、ロツレチハヒ~♬ の音階の中で、
多くのヒット曲が産み出されたコードは、「A」ではない。
ほとんどが「G」と「E」だ。
そこへ「A」の「ラ」の音に6番とか番号を付けて ケータイの着信メロディに替えてみても、
そんな機械だけの音からは何の有り難味も感じられはしない。
せいぜい、電話に出たくないのに いつまでも煩く鳴っているのが関の山だ。
(イントロ当てクイズにも使えるしな)
果たして、それが音楽なのか? 
そこに利用される楽曲を演奏したはずのアーティストは、
どこまで成長し、その向上心を燃やしつづけられるのか? 
みんなと同じようにやってりゃぁ安心なのか? 
   
   
人間は変わる動物だ。
女なんて、一生のうち3回も変身する。
生理前の少女時代と、
子供を産む体勢を整えてからと、
しっかりとその役目、役割を果たし、生理があがってからの美しさとしなやかさ…。
男にはそんな偉大なる変身変化はない。
常にだらしがないし、自分が変化することを恐れ、拒みつづけ、
ほとんどの人が孤独に死んで逝く。
通常の女の人は毎月の月経で大量の血を見ているから驚かないけど、
身体の中という自分の目に見えない場所…たとえば胃が爛れて喀血したときとか、
男はもう慄いてしまう。
蜘蛛の糸が切れた瞬間のカンダタのような心境。
ちょっと血尿が出たくらいでもビビる。慌てる。青くなる。
なんだよ、自分の身体じゃねぇかよ。             自分で めんどうみれなくてどうする
情けないし、淋しいけど、                  http://ameblo.jp/badlife/entry-10012335366.html
今の時代は、そういう男連中が世の中にいっぱいになってしまった。
俺はそんな人間の男になりたくはない。
   
だから()、ここで今日も、“今の伊丹哲也”を伝えつづける。 ?????
しかも、西洋文化に偏り気味な狭い日本の中ではなく、
世界へ向けて。
   
U2 という4人編成のバンドは、ギター、ドラム、ベース、ヴォーカルという、
極めてシンプルな形で、そのコンサート・ツアーの規模、興行収益は、
世界ナンバー2の座にある。
あの世界的な人気は、どこでどうして、あんな爆発的なモノになっているのか? 
アイルランドの田舎町で学生バンドとしてスタートして以来、
その異様なまでに攻撃的なスピリットは、30年以上、今もって変わらない。
決して解散はしないし、“再結成キャンペーン”とかで儲けようとするセコイ考えは微塵もない。
それに対するファンの熱狂ぶりは、
英語の言語をアホな文法形式にしか理解できないように教育された人が多い日本以上に、
海外で、かつてのビートルズを凌ぐほどの勢い。 
しかも、若者ばかりではなく、子供からお年寄りまで、
世界の“U2のファン層”というのは実は幅拡く、言葉が通じない国境、人種を越えている。
最早、何か大規模な宗教組織のように、
もしもあの、ボノやエッジ…メンバーが、間違ってしまって、(もしもな
「殺れ!」というなら、
そこに何のためらいもなく、本当にやってしまうかも知れない…というほどの、
恐ろしく忠実で信心深い、それでいて、生きている自分の現実に真剣な眼差しのファンが多い。
それは彼等(結束固いU2の四人組)が、自分という人間が存在していることの確かさを
人々の言葉にはできなかった苦しみや哀しみのすべてを
誰も表現できなかった曲づくりと演奏スタイルで現すことを可能にしてくれているからにほかならない。
伊達にグラミー賞を総ナメにしてるわけではない。
宗教のような普遍的ロック・ミュージック。
しかも、最初から莫大な富や名声を目当てに演ってはいないスピリット。
最近のどの楽曲を聴いても、その一曲一曲から飛び出す音の描写は、実に恐ろしい。
ラヴ・ソングも単なるラヴ・ソングではなく、
自分の現実生活や人生に何が欠けているのかを気づかせてくれるような曲が多い。
政治と戦争の絡みについても、平和についても、神についても、人間の欲望についても、
自分が人間として生きていて直接肌で感じる真実しか歌わないし、売れるための曲は作らない。
そこに決して妥協はなく、常に4人の演奏が一瞬たりとも崩れることはない。
しかもそれが、世界のメジャー路線。ポピュラーフォーマットの中にある。
どこの街でも中古CDも絶対に完売してしまう勢い。(知らない人は買えない
彼等は自分達の中から沸き出でる、とてつもなくピュアな魂の叫びを世界中へ配信するため、
世界の音楽業界を利用したとしても、そこに利用されることはない。
数々のロック・スターが歩んだ道とは別の道を突き進みつづけている。
それは決して、「独特の世界」などということではなく、
この現実の世界に生きている人間として当たり前の、
あるいは、男と女しか存在しない人間の世界における、
自分達の在り方とは何か? をロック・アーティストとして追究し、歌い続け、
ステージの上には常にそれを叩き出す。
おそらく、22世紀の世になっても、その存在を知らない音楽ファンはいなくなる…と思う。
…今のままでの22世紀の人類があるとは思えないけど。)
   
   
   
ちゅうことで、哲也さんの話が、どうしてU2になっちまったのか? 
読んでいる人の理解はほとんど無視してるような書き方になってるけど、
たとえば、哲也さんのサイト の一番上のメニュー項目に、
LIVE! ってのがある。
そこをクリックして捲ってみると、(今のところは)いつも、
次のLive開催予定のご案内の下に、小さく、
   
   Miss K  
   
と書かれた、“ある一つの歌”が置かれている。
それは、いつでも誰でも、自分が持っているパソコンがインターネットに繋がれてさえいれば、
Real Player という音楽ソフトを使って簡単に聴くことができる。
   
ところが、ご本人がどう思っているかは別として、
あの曲は、単に、
「伊丹哲也はこんな感じです」
ということで紹介されている一曲ではない。(と思う)
特別なラブ・ソング。
語弊はあるかも知れないけど、云い方を替えれば、
数々あるU2の楽曲の中で最も人気の高い、“ONE ” という曲がある。
それに匹敵する、“ある一つの歌”。
しかも、“4人組みのバンド演奏”ではなく、ソロだ。
   
その曲がもしも、何かの間違いで、
昼夜のFMラジオ放送で一日中ひっきりなし、へヴィ・ローテーションに流されたとしたなら、
どうなるのか? 
「これは誰?」
と、自分の名前の頭文字に「K」がつく女性も、
かつて、その女を好きでどうしようもなかった男も、
決して結ばれない思いに命を燃やしつづけた…という記憶のある人も、
きっとおそらく、
「これを歌っているのは誰?」
と、気にするに違いない。
そして、翌日には恐ろしい展開が待ち受けている。 (誰に?
   
たとえば、全国有名CD販売・レンタルショップの大手チェーン店、
あの、『TATSUYA(?)の看板と同じデザインの色と文字で、
TETSUYA ITAMI』 という文字が、ある大手広告代理店のアイデアで、
店中のあちこちに飾られることになる。全国店舗展開で。
でもって、そこへ一週間前にエロ・ヴィデオを借りて返しにきたシンキ臭いオヤジまでもが、
ワケも判らないうちに「“流行りモノ”には福がある」と思って、
そこに大量に並べられた『TETSUYA ITAMI』のシングルCDを無料で貰い受けてしまう。
そしてまた、ワケも判らず、自宅へ戻って、いつものヴィデオを観る前に、
タダで貰った一枚のCDを、CDプレーヤーでかけてみる。
次の瞬間、その人はどうなっちまうのか? 
「これは誰? ほかの歌も聴いてみたい」
という考えで、その日、再び、その足で、
“有料のCDアルバム”を買うためだけに、最寄の店へ舞い戻る。
ジャケット・デザインは同じ、『TETSUYA ITAMI 』。
   
ところが、当の本人には、そんなことは、まったくどうでもいい。
なぜなら、
「俺はアンダーグラウンドにも属さない
そして あやつり人形にもなりはしない」

という姿勢で音楽活動を続けているために…。
   
そしてそのために、またもや、
“ある一つの歌”が、信号データに替えられたCDシングルとして無料配布され、
それはどんどんどんどん、タダで配られてしまう。
「タダほど恐ろしいモノはない」
日本人で、その店を利用することが必要のないお爺さんや御婆さんまでもが、
孫が持っていた無料CDの『広告文字』が気になってしまう。
「この文字は、どこか、町なかの看板で見かけたことがある…」
てな具合で、
最早、『TETSUYA ITAMI 』の看板デザイン文字は、勝手に一人歩きしてしまう。
海を越えて、山を越えて、空を飛んで、
遠く、地球の裏側まで、無料で配られてしまう。
その時、既に、この、“伊丹哲也をカムバックさせる会”など、忘れ去られてしまう。
もう必要ない。
必要なのは、
        “歌手、伊丹哲也と共に闘いつづける戦友(とも)の会 ”。
   
何億人もの会員数を誇るファンクラブ。なぜか日本人は少ない。
そういう日が訪れてしまう現実は既に、
こうしてこのサイトの中で始められてしまっている。
    
    
               『とある音楽家の物語には綴られぬ夢』より抜粋。
    
    
    
    
う~ん。   
いつかそんなことになって、急に売れ出すと、
いちばん困るのは ご本人かも知れないけど、
そんなことは、ファンが知ったこっちゃない。
今日のように、どんどん、自分の中から自由に湧き出てくる歌を何曲もつくって、
それを今日と同じ気持ちで、歌いつづけていてくれれば、それでいい。
辞めてもらってはファンが困るし、
それ以上に世界経済も困る。
幸い、ソロ・アーティストには、“解散”てのがない。
本人が辞めない限りは、永遠に解散することはないし、
世の中、有名なバンドの、カネや人間関係のトラブルによる解散は仕方なく思う人(ファン)はいても、
ソロ・アーティストの引退は許せない人の方が多い。
なぜなら、その人の歌が確かに、心の支えであった日があるから、
そこに自分が「生きた」という証が、
たった3分か4分しかない旋律や歌声で確認できてしまうから、
だから“本物の歌”というのは必ず、世に歌い継がれ、忘れられない。
伊丹哲也という人物は、
そういう歌を日々、つくり求めているアーティストの一人なんですよ。(と、勝手に思う俺
   
俺はそれを、つい一ヶ月前の4月2日の日曜の晩、
あの打楽器奏者 “assimilate” の迫力あるサポートによる
『今、胸に咲く戦友(とも)』を聴いた瞬間に、その何分かの間に、
それが確認できてしまい、先の物語にあるソレに似た未来の姿が視えてしまった。
   
   
…酔っ払ってないよ。
正気です。
正真正銘の真剣勝負だ。
   
   
                      つづく 。 http://ameblo.jp/badlife/entry-10012147663.html
   
   
   
   
   
http://home.p02.itscom.net/fighting/
       
    
伊丹哲也 OFFICIAL WEB SITE