過労死と精神異常死の区別 ~ 捨てずに後悔していないモノを公開する。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
   Heavy Weblog “mind resolve”
   
     chapter 030  過労死と精神異常死の区別 
 
  
   
   ● このページは以下のページの続編です。
   
     mind resolve chapter 024   
     
やればできるシステム” 【予告編】
        ~ suffer little children , naturally.....boys & girls
     http://ameblo.jp/badlife/entry-10004026965.html
   
     mind resolve chapter 025   
      先生、木曜日には気をつけてな
        ~ へヴィ・ブログ 最前線 : 現場に活かせる知識 1.
     http://ameblo.jp/badlife/entry-10004163605.html
   
     mind resolve chapter 026   
   
    現場に活かせる知識 2.
     http://ameblo.jp/badlife/entry-10004163650.html
 
  
 
  
 
  <ご注意>
 
   
 
    ここからの内容は俺(南 大空)が書いたモノではない。
 
    もし生きていたなら、今日、2005年11月15日で 80歳になるはずだった人
 
    が書いた。
 
    過去4冊の著書等の編集(代筆)・出版に携わった俺だけど
 
    今日の今日まで、5冊目の
 
    
『大自然の気による政治革命』 という分厚い原稿  だけは、出版もされていなければ
 
    本の形として整ってもいないし、ローカルなネット流通も やってない。
 
    ただ、編集もされずに、分厚い原稿があるだけ。
 
    
 
    「…先生、いいよな。俺は まだまだ公開するけど、後悔しないよ。」
 
  
   
 
  『大自然の気による政治革命』 未公開原稿 (1993年筆)より。
   
   
 ここまでは、 自然界と人間の臓腑の関係について、五志五臓【ごしごぞう】ということを
人間の胸の部分。肋骨の中にある心臓、肺臓、肝臓。そして、腰の部分にある腎臓
という臓器の仕事、役割についてを説明している。
 自然界に生かされている人間の、臓と腑の関係については、もっと詳しいことを、
人間の設計図 』に書いてあるが、世の指導者である者は、このことをよく知っておく
べきである。
 そして、人間の脾臓【ひぞう】
 要するに、お腹全体の筋肉、腹筋。この中には、大腸、小腸、膀胱、胆嚢、胃とあり、
女性には、子宮と卵巣もある。
 この脾臓という臓器は、とくに臓器として形ある物ではないが、人間の臓腑【ぞうふ】のうち、
それらの腑の部分をしっかりと支え、守るための大切な役目を持っている。そして、
先にも述べた、「五臓の相剋」【ごぞうのそうこく】の中では、自然界の土。泥。要するに、
大地に喩えられている。
 そして、そのように一週間の最後の曜日。土曜日として、自然界と動きと対象に創られて
いる人間の脾臓という臓器は、人間の体において、各々の臓器に必要な血液の流れ、
それぞれの臓腑の動き、その全体の運行を司っている。
 また、人間の顔では特に、胃に通じている「口」に、その窓口、出先機関を置いている。
 そして、腑である大腸も、小腸も、膀胱も、胆嚢も、胃も、すべて、「食べる」ということに
関係して働き、それぞれの臓器と関連を持って動いているものである。
 この、「食べる」ということも、人間が生きる絶対条件の一つである。
 即ち、大自然の気。大地に湧き出る水。すべての動植物。食べ物。その「地の気」を受けて、
人間は生かされている。
 そして、そのように生かされている人の体。肉体において、腑の部分である大腸も、小腸も、
膀胱も、胆嚢も、胃も、本来は、常に空【から】でなくてはならない。
 人間誰もが、何を飲んでも食べても、次にいつでも消化作業ができるように備え、再びまた
そのように大自然の恵みである地の気を受ける。
 もしもその中に、必要以上の物。食べた物のカスが いつまでも残っていてしまえば、
人間の体は、自然界の恵みを正しく受けることはできない。これは道理である。
 例えば、便秘ということも、決して、本来の人間の創られ方にあるものではない。
 だが、現代人は、膝を曲げ、体型を崩し、猫背になっている人が多い。
 そのような体。筋肉の変形、奇形、人間の格好をしているように見えても人間ではない
ような体型。知識の化け物…。そのお腹の中には、本来、必要ではないはずの便や尿に
含まれる不純な物ばかりではなく、必要以上の知識、嘘までも詰まっている。
 しかし現代人は、それを捨てて、外へ出そうとは考えない。食べ物も、必要以上の知識も、
その上からまた詰め込んで行く。
 出せば楽になる。出さなければもっと、人は悩むし、その肉体は苦しむことになる。
 肉体が病めば心が悩み、心が悩めば肉体も病んでくる。
 それは常に一緒で、変ることはないし、変えられない。
   
 まず、呼吸が浅く、常に肩で呼吸している状態に問題がある。
 人間は、顔にある鼻で息を吸って、その空気。酸素。即ち、「天の気」を受けることによって、
生かされている。これも、人間が生かされている絶対条件であり、自然界の道理である。
 この天の気なくしては、人は、一瞬足りとも生きてはいられない。
 そうして、肺が精一杯 呼吸をすることで、下腹部までじゅうぶんに酸素が行き渡ることに
より、大腸も動き、各々の臓器、筋肉にある血液の流れも正常に機能して、便が出る。
 そのように創られている人間の体は、決して今はじまったことではなく、この自然界に
おいて創られた時。その最初から変ってはいないはずである。
 ところが、肺の呼吸が浅いため、下腹部までじゅうぶんに酸素が行き渡らず、
お腹全体の筋肉である脾臓にも力がなくなり、内臓が下垂し、下腹部が出てきてしまう。
そしてそのお腹、脾臓の中にある腑。そのうちの大腸の中に、必要以上の物が
詰まっていれば、正しく自然界の地の気を受けることはできない。
 そういった人は、常に どうにもならない物事を考え、こだわっていて、後悔ばかりしていたり、
悩んでいる。頭にも酸素が回らないため、脳細胞も正常に働かない。
 一年中、悩んでいることが趣味であって、一年中、便秘をしている。
   
   
 人間が、泣く、笑う、怒る、驚く、悩む。そしてそこには常に、各々の臓腑との関連がある。
 このように、五つの心の表現が、五臓の成せる業である。
 そして、世の中のどのような問題も、その時その臓器が、どう動いて どうなっているのか。
そうしたことを正しく判らない限りは、精神病も、家庭内暴力も、いじめも、虐待も、非行も、
校内暴力も、決して、その人のことを判ってあげて治せるものではない。
 特に今、瞬間的にカッとなり、相手を罵るとか怒鳴ってしまうという人も非常に多い。また、
相手を傷つけ、怪我を負わせたり、殺してしまうということもある。
 そして、人であれば必ず、「言わなければよかった」「やってしまった」「またか…」
人は、そのように後悔している。
 それは、心ではなく、心の容器である肉体に問題があるために、抑えることができなかった
という結果であって、思い通りにはならない、その肉体の苦しさを、自ら表現している。
   
 何度も云うように、その行為は、怒る臓器としての肝臓に問題がある。
 肝は血を蔵す。肝臓は常に、筋肉が動くために必要な血液を蓄えている。
 だから、瞬間的に血が騒ぎ、大変な事件になったという結果に過ぎない。
 しかし世の中は、そのことを判らず、精神科のお医者さんも、弁護士の先生も、様々に
討論したり、自分達が勝手に勉強した知識で、好き勝手なことを言っている。
 心についても肉体についても、人間は人間について、人間の創られ方を解らない限りは、
何一つとして論じられないし、決して、最後まで完全に解決できるものではない。ましてや、
お医者さんも、どんな学者も弁護士の先生も、そうした問題について何かを言っている
自分自身が何なのか。それを解っていないし、解らない。
   
 絶対に心は悪くないし、頭もおかしくはない。世の中のあらゆる教育がおかしい。
 生まれながらに何か障害があり、先天性の者は別としても、正常に分娩され、
人並みに育ち、義務教育を受け、様々に勉強し、知識を身につけ、色々に努力し、
社会人になってから精神病になったという人は、とても多い。
 例えば、学校の先生で、周囲の目に隠れて精神科に通っているという人も、それを
側にいて見て知っている人もいれば、気の毒に思い、黙っている人も、自分だけは、
そのようにならないように気をつけ、その考え方に不安を抱えて生きている人もいる。
 精神安定剤や睡眠薬を呑みながら、それは、どのような内容の授業になるのか。
また、自分の心と、その容器である肉体に様々な問題を抱え、悩み、苦しみ、そうした
人達が人に何か物を教えるということが、果たして世の中の指導者としてあるべき姿なのか。
その学校や教室には、どのような危険が待ち受けているのか。
 もしも、国が、文部省が、厚生省が、労働省が、全国の教育委員会が、
このことに気づいて、一刻も早く、対応を考え、必要な対策を講じられるならば、
世の中の教育者の悩みも、子供達。その授業を受ける生徒の様々な問題も、
解決に導かれるはずである。
 しかし国も政府も、現代は、まったくそのこと理解しようとする者もいなければ、
知っている者もいない。ただ、暴力を振るったという先生を責め、体罰をしたという
結果だけを問題にして、誰もそのことに気づいて立ち上がろうとはしないし、できない。
   
 人は、産まれてから五~六才頃までは、とても陽性で、陽気、陽心である。
 ところが、一定の年齢に達した時に、なぜか、陰性、陰気、陰心になってしまう。
 特に、十二、十三歳~二十歳頃までに変化するその原因が、自分の肉体にあり、
誰にも解らないし、自分以外の他人は知らないことなのに、そのことで悩んでいる。
 例えば、小指の先が痛い人は、それを横で見た他人が何をどう言おうとも、本人に
とっては、痛いものは絶対に痛い。
 だから、その人その人によって、その肉体の悩み苦しみに大小の差はあっても、
それが他人にとっては何でもないようなことであったとしても、その人にとっては
大変な問題である。
 もしも本人が、「この人なら…」と、そう思って、それを相談し、そのことをすべて
解ってくれる人がいるならば、何でも打ち明け、陰から陽に変われるに違いない。
 しかし世の中には、それほどまでに深い愛情があり、自分自身に余裕があって、
強く、優しさのある人は本当に限られている。
 しかも、この自然界に生きて、生かされている人間。その自分自身が、本当に
心から頼れる者は、金の力でもなければ権力でもない。また宗教や その教祖の人達
でもなければ、狭い範囲の自由を売り物にした何かの成功者でもない。
 あくまでも、自分自身が楽になりたいと考える前に、まず、
「心の容器である肉体が、心の思うまま、命ずるままには、決して動いてはくれない」
このことに気づくべきである。
 特に子供の場合は、親や学校の先生が、そのことが解らないために、人と話すことも嫌だし、
人と会いたくもなくなってくる。そしてそうしたことが、登校拒否だとか部屋に閉じこもったまま
お返事もしないとか、要するに、「心身症」【しんしんしょう】ということにも繋がって行くし、
飲みたくもない薬を飲まずにはいられなくなってしまう。
 そしてこの問題は、現在のあらゆる企業の経営者、管理者、指導者においても同じである。
 それは、大人だから我儘を言えない、言わないだけであって、自然界の中で、このように
天の気を受けて、地の気を受けて生かされている人間が、今日このように ここまで破壊された
自然界の中で、その変化には、肉体も、心も、到底ついて行くことはできない。
   
 人は今、どの人も心身症で、誰においても、今いちばん必要なのは、思いやりである。
 現代人には、もうそれほど余裕もなければ、誰かを支えようとする気力もない。
 かつては、後輩は先輩を慕い、先輩は後輩に優しく物事を教えることによって、そこに
生き生きとした職場があったかも知れない。しかし今は、自然と人を思いやることが
どこにもない。
 己が生きることが精一杯になってしまい、たとえ道に人が倒れていたとしても、そこで、
何か声をかけようとか、避けて歩くというようなことはしない。そのまま踏んで歩いて行く。
 今はもう、そういう世の中になりつつある。
 しかし、今ここでこうして書いていることを読んでいる人も、また、『人間の設計図 』という
本に書かれてある通りに、「どうしてもそのように自分が生きなければならない」と考える
必要もないし、そうした「こだわる」ということが、何よりも自分自身を苦しめることにもなる。
 『人間の設計図 』。そしてこの本にしても、私の云ったこと、書いた物は、これまで世界中で、
人の手によって書かれた何千万巻とある宗教の経典でもなければ、かつての世に生きた
ありとあらゆる聖人君子の、その格言や教訓、またそうした教えの中にあった教本ではない。
 人間が、この世に創られ、産まれ、育ち、死にゆく、その自然と人間の関係の事実を書いた
ものである。そして私は、
「人間は、これまで私が云ったこと。書いたことの、そのすべて、そこから外れては、
何人【なんびと】も、絶対に、産まれることも、生きることも、死ぬこともできない」と云っている。
 だから、自分自身というものが何なのか。
 自分が生きているのか、生かされているのか。
 どの人もどの人も、決して、自分だけの力で生きているのではなく、生かされている。
 そのために、何事においても自由にはならず、自分の思った通り、考えた通りには行かない。
   
 人は、誰でも、自分の頭で、「明日はこうやりたい」「今日はこうしたい」と考え、
仕事、人間関係を、「できれば こんなふうに巧くやりたい・・・」
常にそう思っていながら、肉体が駄目なために、それが思うように実行できない。
 また、病気という気の病。それが、何をやっても治らない。
 今はまだ、それほど貧富の差もなく、誰もが、食べたい物、飲みたい物、着たい物が
簡単に手に入ると思っているし、実際に手に入れられる。
 着る物も、食べる物も、住む場所も、そのことに本当に困っている人は、まだ少ない。
そして、医療も、教育も、経済も、宗教も、政治も、まだここしばらくの間、これはこのままの
状態で、この地球は、真綿で首を絞めるように、ゆっくりゆっくりと壊れて行く。
 その中である日、神や仏も人を救ってはくれないと気づいた時、自然界より先に、
人の頭が壊れて行く。
 現に今、必要以上の教育によって破壊され、その肉体も心も、もう どうにもならない所まで
来ている人は、世の中に大勢いる。
 それでもまだ、人々は、教育の中で、これまでの社会の常識の中で、仮面を被って生きて
行くのか。その化けの皮は、いつ、何によって剥がされるのか。
   
 例えば、企業や労働者の悩みとして世間で報道されている「過労死」という問題一つ
にしても、国も、企業も、様々に、その問題に取り組んではいるが、現在、国際社会の中で、
そんなことで騒いでいるのは、日本人だけである。
 一般的に、そのように突然死したその原因が働きすぎによるものと考えられ、
「企業が必要以上に労働をさせた」ということで、労働省や法務省が出てきたり、訴える側も、
様々に権利を主張している。最近では、過労により悩み苦しんだ結果、本人が自殺したという
ことでさえも、「過労死した」と言う人もいて、今後も全労働者にとって深刻化することになって
しまう。
 最初の方でも述べたように、今後これから、この問題は益々、大きくなり、特に、三十代後半
から四十代半ばにかけての男性。この年代が大量に死んでいくことになる。(1993年8月現在)
 しかし、人間は、社会は、何か問題にぶつかってみても、最早どうにもならないほど、今日この、
自然の激しい変化に、到底、着いていくことはできないまま、生きて行くことになる。
 だから、実際にその問題を裁判で争ってみても、それが本当に過労死であったのか。
 その人達は、何のために死んだのか。
 医学や法的機関の中でも、その、本当の原因については、誰も、何も、解っていない。
 ところが、この過労死と呼ばれるものは、決して、「働きすぎで死んだ」ということではない。
 それは、自然界の決まりから大きく外れた結果であり、全身の筋肉の問題であり、そして
何よりもすべてが、生きていた時のその本人の意識に問題がある。
 従って、もしもその結果だけを見て云うなら、過労死ではなく、精神異常死である。
   
 先にも述べたように、人間は、朝 目が覚めて、夜は眠るように創られている。
 それは、この自然界の、日の出、日の入りによって完全に決められている。そしてこれも、
何度も、何度も云うように、人は誰もが、自分のその体の全体の六五パーセントが筋肉で
できて動いて、生きている。その筋肉が動くために必要な血液の流れは、決して、朝昼晩に
均一ではない。
 太陽が沈み、夜十時を過ぎ、自然界も休む頃になると、人間のからだ全体に流れていた
血液は次第に肝臓へ還えり、電気を消して眠る頃には、全体の三〇パーセントしか回らなく
なる。それは、その頃の時間から肉体を休めるために必要な血液の量である。
 そのために人間は、誰が教えたわけでもなく、一日働いて使った自分の体を休めることも
できるし、眠ることができる。
 そして人は、朝、東の空に太陽が昇る頃、それまで肝臓に蓄えられて血液が、足の方から
徐々に全身に行き渡ることにより、目覚めることもできれば、起きて動くこともできる。 
 要するに人間は、日の出日の入りと共に、血液を上手に循環させて眠り、目覚めることが
できるように創られている。そしてその時に、本来、人間の体の中の臓器の機能。その動きは、
腎臓も、肝臓も、心臓も、すべてが各々に与えられた職務をまっとうし、それぞれが持ちつ
持たれつの関係にあって、自分がこの自然界の流れに沿って生きられるように創られている。
   
 ところが、過労死したと言われた人は、そのようにあるはずの全身の筋肉にある血液の循環が、
まったく正常ではない。それはまた、今まだ死んではいなくとも、自分が、「朝は起きられない」
「夜は寝付けない」という人も同じである。
 まず、全身の筋肉に対して血液の循環が非常に悪いために、からだ全体。筋肉そのものが硬い。
そのために常に落ち着きがなく、常に動いているし、動いていなければならない。
 たとえ、夜、深夜二時、三時を回ってから、ようやく眠りにつくことができたとしても、その人は
決して、ゆっくりと休むことはできず、寝ている間も常に動いている。
 それは、筋肉に血液を回すために本能的に、何度も何度も寝返りを打っている。そのために、
朝 起きた時には、前の晩、寝る前よりも、もっと酷く体が疲れている状態である。
 それ以前に、まだ見た目、元気な頃であっても、朝はなかなか起きられなず、午前中はいつも
体がだるいという人は、世の中に大勢いる。
 そして午後になって、太陽もいちばん高い所まで昇ってくる頃になると、ようやく、全身の筋肉
に流れる血液も、なんとか回ってきて、いくらか体も楽になってくる。
 しかしその人は、決して、夜十時、十一時という自然界が休む時間には休めないし、眠れない。
それは、起きていて仕事をしているのか、何かをして動いている。
 世の中には、そういう職業もあって、それが自分の体にとっても、
「あまりよくないことなのではないか」と気にしている人もいれば、また、そんなことはまったく
気にしないで、当り前だと思って生きている人もいる。そういう自分を「夜行性だ」と言っている
人もいる。また自分が、
「なんとしても眠りたい」と考えて、どうしても眠ることができなければ、睡眠薬を呑んでみたり、
医学でも「不眠症」と呼ばれる病名まであって、お医者さんは、その人の必要に応じて睡眠誘導剤
という物も用意する。
 そうしたことが好い、わるいということは別として、その人達はまだ、自分自身の体を労わろう
とする気持ちがあるし、「人間は夜になったら休む」ということを、たとえできなくても知っている。
   
 ところが、過労死したと言われた人、あるいは、これからそのように言われることになってしまう人
というのは、そうしたことが判らないし、決して、自分の体を労わってあげて、休めようとはしなし、
考えない。
 そればかりか、「もしも、一日 休んでしまうと、次の日は もっと疲れてしまう」ということを恐れて、
それが嫌で、休まないで動いている人もいる。
 それは非常に危険な状態である。
 そしてその人は、まったく、人間として正常ではない。
 取り返しのつかないことになる前に、一時も早く、全身の筋肉。そこへ血液を送る仕事をしている
心臓の路線。そのすべての血管へ、まんべんなく血液が回るように考えなければならない。
   
  それは、もしも側にいる家族が、それを その姿を見て知っていて、
「お父さん、少し休んだ方がいいよ」
「あなた、ちゃんと休んでね」
と、言われていても、本人は休めないし、常に動いている。
 起きている時も寝ている時も常に、体の筋肉に血液を循環させるために本能的に動いている。
 この動きが止まった時、当然、血液の流れも止まる。
 しかし、絶対に、「心不全」「突然死」ということではない。
 そのようになるもっと以前に、本人の体が「休まなければならない」ことを知っていたのに、
それを構わず、勝手に無理をした結果であって、その肉体を使って生きていたのは本人である。
そして、全面的な気血の滞り、全身の筋肉の異常。これは何よりも本人が悪い。
要するに、自分の体が休まなければならないことを知っていて、休まなかった精神の異常。
即ち、過労死とは、「精神異常死」である。 
 特に最近では、マスコミ、報道の中でも、「過労による自殺」という問題も取り上げられているが、
それもこの、精神異常死の何者でもない。
 どうして自殺をするのか。その、自殺したという人の肉体は、生きている時に、どのような状態
であったのか。
 今ここまでを読んでみて、そうしたことが自分自身にあてはまるのか。また、自分の家族に
ある事実なのか。
 私の云っていることは、世の中の過労死の問題や、今なお、そうした家族の人達が、
厚生省、労働省、国や企業を相手に裁判で争っている問題。また今後、大勢の日本人が、
そうした問題で自分達の権利だけを主張することになる、それ以前のことである。
「私の夫は過労死した」という人、そうした家族の想いばかりでなく、
「ついこの間までは、とても元気でいたのに突然、脳血栓で倒れてしまった」と言いながら、
自分の夫を車イスに乗せて歩いている人も、そのような結果になる以前には必ず、
「少しは休んだらどう?」
「子供もお父さんを心配してるよ」
「そんなに夢中で働いたら体に毒でしょ…」
そのように、妻にも子供にも、周囲の人にも、その本人を思いやる心があったはずである。
ところが、「過労死した」と言われる人、また、「過労症で倒れた」と言われる人は、なぜに、
周囲の言葉を 家族の優しさを受け止められず、自分の人生を台無しにしてしまうような
残された家族に負担をかける結果になってしまったのか。何が原因だったのか。
 その人達の体は、具体的に、どのようになってしまっていたのか。
 このことについても、何度も何度も同じことを繰り返すことになるかも知れないが、私は、
人間に気づかせるために云っている。
   
 まず、「過労死」「過労症」という流行のような言葉がある以前に、その人達は、全身の
筋肉が非常に硬く、とくに、足の方、下半身の筋肉に対して血液の循環が悪い。だから、
本能的に血液を回すために、常に落ち着きなく動いている。
 しかも、その顔は、土気色に変色しているか、もしくは、赤ら顔である。
 それは決して、「血圧が高い」とか「更年期」「倦怠期」という漠然としたものの言い方に
ある問題でもなければ、その人自身の「体質の問題」ということではない。
 この自然界に人間が創られた時に決められた道理、決まりから外れている事実である。
   
 例えば、その血圧ひとつにしても、高血圧と言われる人は必ず、下半身の血圧は低い。
医学、医療、健康診断の上では、人の血圧を上半身の腕だけで測る。また、自分の現在の
年齢に「90」という数を足した数が、「自分の丁度いい血圧だ」とされてきた。
 その、「90」という数も、どこでどう決められたことなのか。
 これは各学校機関に配置されている保健室の保健婦に尋ねてみても応えられないし、
このように現代医学は、一つ一つの統計を積み重ね、それを良しとして人間の体を診て、
判断し、人間が人間についてを判らなくさせてしまっている。
 しかし人は、この自然界に生を受け、産み落とされた時に平均して、その体の血圧が
90である。それをどうして、産まれた時に「90」という数であった血圧が、人によって変わり、
しかも、上半身と下半身では まったく違うものになってしまったのか。
 ここに疑問を抱いた人もいなければ、それを判る人も今まではいなかった。
 そして人間は様々に、この自然界に生かされていながらも、自分自身に与えられた
肉体を破壊し、心の容器そのものを駄目にしてしまっている。
 それが、現代人であり、厚生省であり、医療、医学。その教育である。
 だから、どんなに健康診断の上で異常が認められなくても、倒れる人は倒れるし、
たとえ、死んでしまった結果だけを診て、考えても、何も判らない。 
 そして、「過労死した」「過労症で倒れた」と言われる人は、全身の筋肉に異常がある。
   
 何度も云うように、人間のからだ全体の筋肉とは、肝臓の持分である。
 人間の肝臓という臓器は右わき腹の上、肋骨の中にあり、肺臓や心臓と同じように
胸の筋肉によって覆われている。そして肝臓とは、常に血液を蓄えている臓器である。
その血液が全身に回ることによって、筋肉は動いている。
 しかし、この筋肉が「硬い」「硬く張っている」という人は、決して、肝臓そのものに
異常があるわけではない。
 筋肉が生きる、動くために必要な血液が肝臓へ蓄えられる以前に、その血液を濾過
する仕事をしている臓器。腰にある腎臓の機能に問題がある。
   
「腰は腎の要壁なり」【こしはじんのようへきなり】と云って、人間の腰の筋肉は、
いついかなる時も、腎臓を守り、その機能を養っている。
 ところが、現代人には、自分の腰が「冷える」「重い」「痛い」「張っている」という人が
非常に多い。
 もしも今まだ、そういう自覚があって、そのことを素直に認められる人であれば、
「過労死」や「過労症」という結果には到らず、自分の体を労わり、何とかしようと
考えることもできる。
 要するに、ただ単に「腰痛」と言われる問題も、腎臓を守る腰の筋肉に負担をかけないよう、
そこへ繋がる筋肉の血液の循環をよくすることを考えればよい。
 とくに人間の下半身。足の筋肉というものは「第二の心臓」と言われるほど、全身の筋肉に
対して血液を循環させるために、非常に重要な役割を持っている。
 だから、そのような人は、一時も早く、足の筋肉の血液の循環を正常にすべきである。
   
 
  
 
  
 
                        つづく。