現場に活かせる知識 2.  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

 chapter 026
 
      『自然界の指導者と教育』 の つづき
 
 
 家庭も学校も、ただ「落ち着きがない」というだけで、先生は、そういう子を一番
前に置いて、常に目を見て注意する。だから尚のこと苦しくなってくる。  
 もし、親と先生とが、
「この子は体の筋肉に血液が流れにくいから、体が硬くて本能的に動いてしまう」
ということに気づいて、できれば、その子供を教室の いちばん後の席に座らせて、
一週間でも、午前中だけでも、授業中、他の生徒の迷惑にならないように静かに
廊下へ出てもいいから、何回か、ぐーっと背伸びをしたりすれば、体が楽になり、
そこからはちゃんと授業を受けられるようになる。
 私は、実際にこのことを大勢の、そうした子供を持つ親に話してもきた。そして、
親が担任の先生にそのことを頼んでみて、「そうですか」と、返事一つでやってくれる
人もいれば、「駄目です」と言った先生もいる。
 だいたいにおいて、その先生の方がもっと体が辛く、多動症どころではない。
 精神的にも肉体的にも「過労症」で、普段の自分の生活はどうなのか。
 脚を組んでみたり、首を回してみたり、一生懸命に動いている。
 いずれにしても、体中、方々の筋肉が硬いために、血液も回らなければ、常に
呼吸も浅く、酸素も回らない。だから記憶力がなくなってくる。
 まず、普段の生活で、自分の物として使って過ごしている、その肉体の姿勢。
要するに、体型に問題がある。
 例えば、人間として最初から違うように創られている男も、女も、同じように考えて
教育している義務教育の体育の授業。そして、部活動というものがある。
 現在、これによって、様々な障害が増えている。
 
 人は、歩く時に、右足を前へ出し、左腕を前に振っている。
 この動作一つ、決して、人間が造った物でもなければ、造れる物でもない。
 人間は、右足を動かすと内臓が上へ上がり、左腕を動かすと下がってくる。
また、左足を動かすことによって内臓が下へ下がり、右腕を動かすと上がっていく
ように創られている。そして人間は、そのように手と脚を交互に前へ出して歩くこと
により、お腹全体の筋肉に支えられている内臓の位置を安定させるように創られている。
 例えば、器械体操の鉄棒競技や、大工さんや瓦屋さん、また自衛官の人で
落下傘を使って訓練をしている人など、高い所から降りて地面に脚を着く時に、
もしも左足から先に強く地面に着いてしまうと、呼吸が苦しくなることがある。
それは、その衝撃で、必要以上に内臓が下垂してしまうために、上へ繋がって
いる内臓筋肉が急激に下へ引っ張られ、気管や食道が詰まってしまうために
起こる結果である。また反対に、右足から飛び降りた衝撃で、何か上へ圧迫
されるような苦しさに襲われ、気持ちが悪くなったりすることも、必要以上に
右上に傾いた内蔵が体の中を圧迫しているために起こる結果である。
 要するに、人間の内臓と手足の関係は、そのように創られており、人間の体は
左右交互に手足のバランスが保たれていないと、脾臓【ひぞう】の中の物が
必要以上に下へ下がってしまう。
 またこれは、血液の流れにしても同じである。
 例えば、交通事故などで右腕を打撲すると、あとから、何の怪我もしていない
はずの左足が痛くなったという経験がある人もいる。
 要するに、二足歩行で歩く、人間の内臓と手足の関係。そして血液の流れ。その、
筋肉の連結は、左右対称に創られている。これについては、『人間の設計図』の中で、
各々の臓器に纏わる気血の流れる路線として、判りやすいように図で表している。
また、脾臓【ひぞう】というものについては、後ほど徐々に説明してゆくが、ここで云う、
人間の脾臓というものは西洋医学の中で言う脾臓とはまったく違う。
お腹全体の筋肉そのもの。即ち、腹筋のことを脾臓と云う。
 
 ただ、私の云っていることは学問ではない。だから、解剖学とか運動生理学とか、
そうしたものの中には、このようなことはないし、誰も判らなかったことである。
 例えば、自然界に産み落とされた赤ん坊は、誰が教えたわけでもないのに、
何か物を掴む時は本能的に左手を使っていることが多い。
 それは、人間が、自分の内臓を安定させるために、まず右足から前に歩み
出るように創られているからである。
 そして少し大きくなってからも、まだ小さい子供のほとんどは、階段を昇り降りする
時に右足を基準にしている。そして、自分より背の高い親へ右手を伸ばし、しっかりと
その手を握り絞め、左腕を振ってバランスを調節している。
 野球選手でも、左利きで球を投げるという人も大勢いるが、そのように物凄い速さで
ボールを投げようとする時は、その左腕よりも、右足の筋肉を何倍も動かさなければ
ならない。ところが、もしもその時、必要以上に内臓が下垂していれば、大変な筋肉
障害を起こすことになる。
 ここに、人間の創られ方の道理。体型の問題がある。
 
 
 内臓を支える筋肉である腹筋。要するに、お腹全体の筋肉である脾臓の中には、
大腸、小腸、膀胱、胆嚢、胃とあり、女性には子宮と卵巣もある。この腑の部分は、
棚があって、そこへ乗せられているとか、紐で吊るしてあるわけではない。すべて、
腹筋によって支えられ、その脾臓としてのお腹全体の筋肉によって必要以上に
動かないように固定されている。
 ところが、呼吸が浅く、下腹部まで十分に呼吸が入らない人や、いつも前屈みの
姿勢でいて、体型を崩しているような人は、この腹筋に、内臓を支えておくだけの力がない。
 そのために内臓は下垂し、まず、下腹部が出てくる。
 いわゆる、幼児体形と同じように下腹部だけが膨れている。
 本来の定められた位置から下へ下がってしまっている内臓は、各々に与えられた職務を
まっとうせず、やがて正常に機能しなくなってくる。そして何よりも、下垂した内臓は、
人間の脚の付け根にある太い血管を圧迫してしまう。
 この部分は、現代医学で言うところの鼠頚部【そけいぶ】リンパ節の辺りではあるが、
その太い血管は、男女共に、丁度、陰毛の生え際の辺り。その場所の筋肉の中にあって、
その太い動脈と静脈は、人間の上半身と下半身を繋ぐ大切な血管である。
 必要以上に下垂した内臓が、両脚の付け根のその部分にある、その大切な血液の流れを
妨げることによって、そこから下へ、血液は思うように回らなくなってくる。
 要するに、両脚の筋肉全体に対して血液の循環が悪くなる。
 すると、脚の筋肉は冷たくなり、むくむこともあれば、重くだるくなってくる。
 そしてまず、膝の裏の筋肉が硬くなり、膝関節の周りの筋肉に血液の流れが悪くなって
くると、膝が曲がってしまい、その足腰は次第に自分の上半身を支えられなくなってくる。
 それによって、膝を曲げ、腰を落とし、猫背になり、首を垂れて、顎を前へ突き出したような
格好になる。
 そのために、ふくらはぎ、膝の裏、太ももの裏という順に痛いこともあれば、腰も痛く、背中も
張って、肩も張り、首も重いし、眼も疲れやすい。
 特に背中の肩甲骨の辺りは、柱にクギを打って、そこへ擦り付けたいほどの痛みがあったり、
足も引き摺るように歩きながら、重く、全身がだるい。
 決して、体の一部分ではなく、すべてに繋がりがあって、流れて動いている。だから、
この他にも同じような場所へ、人によって様々な症状が起きてくるが、それはすべて、
内臓が下垂したために、筋肉に血液の循環が悪くなった結果であって、病気でもなければ
老化でもない。このように膝を曲げ、そこで血液の流れをほとんど止めてしまっている姿勢に
問題がある。
 例えば、そうした症状が、一晩 寝て起きても一向に治まることがなく、何日も続くと、
人は自分の健康を疑って、病院へ行ってみる。その本人が大人であれば、自分の足で
病院まで行くかもしれないが、子供であれば、その体の苦しみを訴える言葉を聞いて、
親が病院へ連れて行き、付き添う。
 ところが、病院で検査をしても、どこも悪いところは認められない。
 認められないのに、本人は、首は痛いし、目も疲れるし、腰も痛ければ、足も重く、
からだ全体がだるい。頭には何かを被せられたようにのしかかる違和感もある。
 自分の体がどうしてそのようになっているのか。それが判らない本人は、それを教えて
欲しいという思いで、その苦しみを訴え続ける。しかし、診ている方は、もっと解らない。
解らないから、医学ではそれを診て、「自律神経失調症」という病名を付けて、本人に
精神安定剤を呑むように奨めてしまう。
 最近は、「自律神経失調症」という言葉もあまり使えなくなってしまった医学では、
「慢性疲労症」とか「モヤモヤ病」とか、色々の名前を考え出しているようだが、やはり、
 
同じような診断をされて、同じように病院の薬局で精神安定剤を貰っている人は
跡を絶たない。
 この、精神安定剤という薬は、人間を泣くことも、笑うことも、怒ることもできない
廃人にしてしまう薬である。
 
 そして今、そのようにして体型を崩している人は、大人、子供に限らず、全国に大勢いる。
 特に最近の子供は、体の筋肉が変形してしまっていて、背筋を伸ばして真っ直ぐには
立っていられないし、座っている姿勢でさえ、背中を丸め、猫背になったままである。
 その筋肉の変形は既に、母親の胎内にいた時から始っている。
 そして今、そうした格好の大勢の子供たちが、学校の体育の授業で、部活動の練習
という教育の中で、様々に無理な運動をし、させられ、心の容器である肉体を変形させ、
駄目にしてしまっている。
 また、栄養豊富な学校給食によって、本来の人間の女性の創られ方とは別に、
生理がはじまる時期が早くなってしまっている問題も含め、そうした女の子達が、
自分のことは何も判らずに、男の子以上に、飛んだり跳ねたりしてしまっている。
 ところが、生理になれば当然、子宮壁が充血して子宮は普段より重くなる。
 要するに、下へ下がる。
 そして、月に一度の生理が終わり、通常ならば元の位置に戻るところを、戻らない。
なぜなら、既に下腹部は膨れていて、その腹筋には内臓を支えておく力がないからで
ある。
 女性の子宮は、お腹全体の筋肉で支えられているばかりではなく、他の臓器とは
違い、体の中で、四本の筋肉(靭帯)によって吊られている。そして膣の中には、
子宮を支えておく特別な筋肉もある。本来は、それらの筋肉にも正常に血液が
回ることによって、腹筋と共に子宮を安定させ、必要以上に動かないように創られて
いる。ところが、そうした大切な筋肉にさえも必要な血液が回りにくいために、
子宮の位置はまったく安定していない状態である。
 それなのに、それ以上に下垂してしまった内臓も、子宮も、その体には合わない
運動や努力をさせることによって、次の生理が来る頃には、もっと体が苦しくなる。
膝を曲げ、猫背になって変形した体は、運動をしたからといって治るものではない。
 
 例えば、体育の授業中、校庭を走っていて、突然倒れ、そのまま死んでしまった
という中学生、高校生の女の子がいる。
 医学では、それを解剖した結果、「心不全」として判断している。
 しかし、本当にそうなのか。その事実は、私以外には誰にも解らなかった問題である。
 まず、先ほど述べたように、必要以上に下垂した子宮は、決してそのままではなく、
普段から呼吸も浅く、腹筋も弱く、全身の筋肉に血液の循環が悪いという女の子の場合、
大地に足を踏みつけているうちに、膣の外へ子宮口が飛び出てしまう。
 それによって、そのまま上へ繋がる器官や食道は急激に下へ引っ張られ、細く伸び
きってしまう。当然、呼吸はできなくなるし、酸素が回らなくなれば人は死んでしまう。
更に、死んでから死後硬直がはじまると、血液の流れも完全に止まっているため、
硬くなった筋肉は収縮してくる。膣の外へ飛び出した子宮も元へ戻ってしまう。
 だから決して医学では、その本当の死因は判らないし、気づけない。
 これも決して、一人、二人ではなく、何年も前から、そうした事故はあって、死んで
しまった本人も、そのことに気づいていない。
 ただ、そのような結果に至る前に、普段の生活の中で必ず、
「声が かすれて喉が痛い」とか、風邪をひいているわけでもないのに、よく咳が出ていたり、
食事の時、ご飯を呑みこむにも、とても困難であったとか、そうしたことを訴えていたはずで
ある。
 
決して、「気管支炎」だとか「喘息」という単純なことではなく、すべてが筋肉の関係であり、
こうしたことは、中学生や高校生の女の子という年齢に限らず、大人の女性にも多い。
 
 要するに、からだ全体の筋肉に対して血液の循環が悪いために、
内臓を支えておく力もなければ、呼吸も浅く、血液も酸素も、ほとんど回っていない。
 それは、女の子ばかりではなく、男の子にしてもそうである。
 膝を曲げ、猫背になり、体型を崩し、筋肉を変形させて生きている。
 そして自分の肉体を何とか自分の力で動かし、動き回り、常に落ち着きもなく動く
ことで、筋肉に血液を回して、生きようとしている。
 その、本能的な動き、落ち着きのない子供に対して、親は、
「はやく食べなさい」「はやく起きなさい」「落ち着きなさい」と言っている。
 だが、子供を注意する以前に、親がそうなっている。
 その親の子供が、どうしてちゃんとできるのか。自分が相手に注意する前に、
自分自身はどうなのかを考えてみればいい。
 人は、命令的に「こうするな、ああするな」と言ってしまえば、たとえ本人が悪いと
判っていても、必ずそこに反発してくる。相手は決して、素直には聞けない。
 例えば、自動車が通る道路の真ん中で遊んでいる子供がいたとしても、その子供は、
「道路では遊んではいけない」ということを親に教わり、学校で教わり、先生に教わり、
交通安全の児童画も見て、自分でも描いて、「危ない」ということはよく知っているし、
悪いことだと判っている。 
 ところが、それを脇で見た大人が大きな声で、「コラッ、このヤローっ!」「危ないっ!」
と怒鳴れば、その子供は必ず、「何を!」という目つきで、その大人の顔を睨み返す。
それが人の心である。
 反対に、その時、自分自身の心にも体にもに余裕があって、その大人であれば、
もっと腰を低くして、その子供の背丈と同じ位置に、自分の目線を平らにして、
「ボク、ここはね・・・」と云えれば、子供は「はい」と、素直に聞き分けられる。
 もしも夢中に飛び出しそうなら、
「今そこまで迎えに行くから、道の脇まで下がって動かないで待っててね」
そのように優しく云えれば、きっと行き交う車を避けて、そこで待っている。
 自分が間違っていると知っていて、悪いことをやっていても、頭ごなしに怒られれば、
相手も常に、その邪気を受ける。
 そう言った人も、言われた人も、お互いに気づけばいい。
「なんだよ!」という顔で見られると、大人は勝手に、「なにを生意気なっ!」となる。
生意気ではない、己の方が程度が低い。
 そしてそれは、子供でさえすらそうなのだから、物心ついた大人であればもっと
きつくなってくる。
 それは決して、非行に走ってしまった子供を持つ世の中の親や、学校の先生ばかりでなく、
もしもそんな人が、社会における指導者、企業の経営者であったなら、その会社は台無しで
ある。
 決して、部下が、社員が、自分の言う通りに動いて、言うことを聞くものではない。
 世の中、使う人も、使われる人も、人の心というものは、非常に素直で簡単なもので、
自分が間違ったことをやっていて、「コラッ」と注意されれば、「何っ!」と振り返るのが
人である。逆に、もっと余裕を持って「どうしたの?」と言われると、素直に受け答えできる
のも人である。
 人の心は常に、そうした心でないと、相手を傷つけるし、自分も苦しくなる。
 特に最近は、教育に教育を重ねてしまった人の頭が、「俺もできる」、「俺にもできる」
となってしまった世の中である。 
 それなのに、自分の職責、職能も分らず、いわゆる精神的な問題については、その
本人も、どうしたらよいのか分らない。ましてや、親が、他人が、解るわけがない。
 ところが、自分の子供に精神安定剤を飲ませながら大学受験を薦める親もいれば、
まるで駆け込み寺のように、自分の子供にバットで殴られると、昨日まで鼻で笑っていた
カウンセラーの先生の家へ押しかける親もいる。そして、未成年の自殺も、殺人も、
そのことを誰がどのように批判、批評しようとも、跡を絶たない世の中である。しかも、
世の中は、もっと殺伐としていて、社会でも、負債、倒産、強盗、放火、精神異常死
としての過労死、四十代、五十代の人の自殺も相次ぎ、企業では次々に人員整理をして
様々な失業者もいる今日である。にも拘らず、文部省は、今まで四十何人いたクラスを
少しずつ減らして、新たに別のクラスを設け、学校の先生がクビにならないようにして、
そういう悪いこともしている。
 ”教育を重んじる”という考えの行政、学者、そうした機関の本人達の言い分は、
「それで、一人一人の生徒に目が行き届いて、よりよい教育ができる」と言っている。
しかし、現場は、何も知らない人達の机の上の議論、紙の上の話とはまったく違う。
 教える側の悩み苦しみ、子供達の肉体の破壊は、想像もつかないほど悪い方へ
進んで、それによって全国の学校の教師と生徒の関係は、今まで以上に荒廃している。
それを文部省は、政府は、ここしばらくの間、どうすることもできないし、全国の教育関係者も、
親も、地方自治体も、ただ見ていることしかできない。
 それはすべて、戦後日本の教育が悪い。
 人によって、肉体的にも、色々の悩みがあり、また、受胎の瞬間に入魂された心。
魂によって、自分の職責、職能が、最初から完全に決められているにも関わらず、
それとはまったく違うことをやっているために様々に苦しんでいる。
 もし、その悩んでいる問題をしっかりと聞いてあげられる人がいて、理解し、それを
取り除いてあげることによって、落ち着きも出てくれば、登校拒否もなくなるし、人々の
様々な悩み苦しみも解決される。
 私の「気づかせる」という仕事の中に、洗心【せんしん】というものがある。それは、
一時間なら一時間、二時間なら二時間という、その人と一対一の特別な時間を設けて、
それなりの料金も貰っている。その洗心という指導の中で、私は、その人の話を最初
から最期まで丁寧に訊き、そしてその人のすべてを云う。それはそれこそ、
「自分はいつ頃に死にますか?」と尋ねられ、それがその時の本人にとって本当に
必要なことなら、その本人の最初から最期まで、すべてを云う。
 その人がこの世に生まれ、その産まれた時から産まれる前の母親の胎内にいた
時の状態。そして、その肉体と心が、それまで、どのように生きて今日まで来たのか。
これからどうなるのか。死ぬときの格好は どんな状態なのか。また、その人の中に
ある、持って生まれた能力。何をするために産まれ、育ち、死にゆくのか。
必要であれば、その事実のすべてを云う。 
そしてこれまで何人もの人が、実際に涙を流して、己に気づき、元いた自分が生きて
いる場所へ帰って行き、そこで、自分が自分としての生きる知識を活かして、一人一人、
人間としての義務をまっとうすることを心がけ、生活している。
 だから、元気になって二度と会わない人もいれば、自分の壊れた肉体を治すために、
常に私と連絡を取り合い、自分が自分としてしっかりと生きて行けるようになるまで、
その肉体の手入れを怠らないようにしている人もいる。
 それはまた女性とか男性とか、何の職業だということは関係ない。私はそんなことは
少しも気にしないし、ただ、相手が、人間ということだけである。
 それでも、世の中には、私に会える人と会えない人がいる。 
 さしあたって、今この本を読んでいる読者は、今後そのような世の中で、自分自身が
どのように生きて行けばいいのか。どうすればいいのか。
 要するに、考える、考えない。思う、思わないは別として、この自然界の中で人間の
各々の五臓がそのように動いていることに気づけばよい。
 五志五臓【ごしごぞう】といって、人の行動も、考えも、すべて、自分の五臓によって決まる。
それも、自然界に生きて、生かされている人間の創られ方において決められた道理であり、
決して、学問や教育にある知識ではない。
 例えば、食べるということも、人間が生きるための絶対条件の一つでもあるが、
人が何か物を食べる時に感じる「味」ということも、すべて、五臓によって要求され、
五臓によって決められている。これを五味五臓【ごみごぞう】という。
 それは、「辛い」「苦い」「甘い」「しょっぱい」「酸っぱい」という五つの味があり、
人間の肺も、心臓も、肝臓も、腎臓も、脾臓【ひぞう】も、各々の臓器が好む味があり、
人それぞれ、自分にとって必要な食べ物と、そうでない食べ物があり、それはまた
春夏秋冬の流れに従って、その時、その季節、自分の体によって異なってくる。
 これについては、世の中の学校給食が公害になっている問題や献立。栄養学という
学問が、本来、自然界に生きる人間を破壊してしまっている事実として、本書の別の頁でも
説明しているし、『人間の設計図』の中にも詳しく書いている。
 そして、ここでは、五志五臓。
 要するに人間は、常に、五臓の命ずるままに生きている。 
 まず、五志とは、笑う、泣く、怒る、驚く、悩むということであり、人は、様々な性格を
持っている。
 それを精神科で分析してみても、一人一人がなぜ、そういう性格なのかは解らない。
それは性格でも気性でもなく、頭の中にある脳にも関係ない。そしてこのことは、必要
以上に教育を受けてしまい、完成された、おかしな大人として出来上がってしまった
人間よりも、まだそれほど、そうしたことになっていない、産まれたままの姿に近い
子供を見ればよく判る。
 そして、人間の顔にある目や鼻や口は、すべてが五臓と関係があり、五臓の状態を
よく表している。また、手足の指も、各々、その五臓と関係がある。
 
 まず、人間の心臓とは、泣く臓器であり、何か哀しいことや残念に思った時、人は
よく、「胸が痛い」と言っているし、「胸が絞めつけられる思いがする」という言葉もあり、
その時に本能的に胸に手を当てている人もいる。そしてその、人間の胸の中にある
心臓は、両手の中指と小指に密接な関わりがあり、特に両手の小指は心臓の他に、
口の中の舌とも関係している。
 だから、心臓という臓器の仕事。筋肉の中にある血管に問題があり、例えば医学で
言う「成人病」などの後遺症で呂律が回らない人は、そのようになる以前から、手の
小指が痺れていたり、冷たくなっていたはずである。
 そうしたことをその本人が気づいている、いないは別として、人が「涙もろい」という
ことも、心臓と関係しているという事実を 人間であれば知っておくべきである。
 そして、人間が「笑う」ということは、やはり、胸の中にある臓器。肺が行っている。
 本当に肺が悪いという人は、何もおかしいこともないのに、いつもヘラヘラと笑って
いることが多く、例えば、アフリカなどの地域では、何かの病原菌が肺に回ってしまい
その熱病に侵され、ダラダラと涎を垂らしながら死に至るまで笑っている人もいる。
 それは、そういう地域にある病気であって、西洋医学の中で、どこまで解決されて
いるかは別としても、まず、肺の呼吸に関連する両手の親指から両腕の陰の流れ、
そして胸の筋肉にも異常があり、その病原菌は必ず、人間のお腹の中にある大腸
という腑【ふ】の部分から肺に移っているか、反対に、肺という臓器から大腸の機能が
破壊されてしまっているはずである。
 要するに、笑い過ぎると「お腹がいたい」という表現も、その、親と子の関係にある
人間の肺と大腸の繋がりによるものである。
 また、人間の肝臓とは、「怒る」という臓器であり、そしてまた「考える臓器」でもある。
 最近よく、人間の脳の中について、また、「心」という問題について、世間でも様々に
言われ、そうした浅はかなテレビ番組や雑誌、本も多いようだが、人間の体や心という
ものは、決して、脳が支配しているものでもなければ、脳そのものが人間のすべてを
管理しているものでもない。
 この自然界。大宇宙のすべての星の数が四十億あって、人間の頭の中の脳細胞も、
同じように四十億あることは事実であるが、人間が物を見て、音を聞いて、匂いを嗅いで、
物に触り、それを確かめ、目には見えない言葉を発するという動作、すべての行動も、
五臓によって管理され、五臓のなせる業である。だから、人間の五臓やその他の臓器
と関連して動いている人間の肉体。即ち、筋肉の状態が正常であってこそ、はじめて、
そこにたくさんの血液を必要とする脳も生きる、生かされるのであって、人間の脳は決して、
脳そのもの独自にあるものではない。
 そして、怒る臓器。また、考える臓器でもある肝臓は、人間の五臓の中で、将軍の位を
持っている。その肝臓は体の中では右脇腹にあって、人間の体の中で常に血液を蓄えて
いる臓器であり、肝は血を蔵す。その血液とは筋肉が動くために必要な燃料である。即ち、
全身の筋肉は肝臓の持分、肝臓の管轄である。
 何度も云うように、人間のからだ全体の六五パーセントは筋肉でできている。しかもその
筋肉が動くためには血液が必要であり、血液が回らなければ筋肉は硬くなる。
 だから、「考え方が硬い」という人は、決して性格ということではなく、体も硬く、全身の
筋肉も硬いし、場合によっては怒りやすい。
 そのように肝臓とは常に燃えている臓器でもあるが、その肝臓の考えたこと。その
命令を実行するのが、やはり、人間の体の中で臓と腑の関係にあり、親と子の関係
にある胆嚢【たんのう】である。この二つの臓腑【ぞうふ】も、常に陰と陽の関係にある。
 例えば、社会の中で、自分自分の生活の中で、一つ一つの仕事の中で、人は、
「ああしたい」「こうもしたい」と色々と考える。ところが、現代人のように、自分が生きる
ために必要以外のことまで頭の中に詰め込んでいる人の中には、自分が考えたこと、
思ったことを、その考えた通りにすべて実行できない人も多い。
 それほど世の中の教育というものは、人間一人一人を「知識の化け物」としてしまい、
自然界を大きく破壊している。そして、どんなにしっかりとした目標を掲げても、その目標
に向って、どんなに綿密な計画を立て、どんなに素晴らしい努力を積み重ねても、最早、
決して、その考えた通りに実行できる者も少ないし、実行できるものでもない。
 それは、どの場合においても、その心の容器である肉体が思うように動かないからである。
しかも悩めば悩むほど、胃が痛くなってくるし、爛れた胃の中に腫瘍ができることもあれば、
酷い場合は喀血する者もいる。
 通常の女性は、一ヶ月に一回、生理もあるし、いくらかの量の血を見てもそれほど
驚くこともないかも知れないが、そうした男の場合、自分の体において、その見えない
部分から大量に血が出たのを見ると、ひっくり返ってしまうほど臆病で、それほど弱い、
情けない様はない。そこまで重い症状を抱えて、悩み苦しんで生きていないまでも、
今、全国には、特に中小企業の経営者、中間管理職のサラリーマンの中には、その
ように自分の胃が痛いという人も大勢いる。無論、学校の先生方もそうである。
 そして食欲もなく、また次の日も仕事へ出かけ、休まず働き、自分の体を労わろうとも
せず、「どうしても、今これをやらなければならない」と考えている。ところが、その考えた
ことの幾つかを実行できたのかというと、ほとんど、一つ残らずと云っていいほど実行
できていない。ところが、迷惑をかけているのは得意先でも、自分の胃ばかりでもなく、
自分の家族、女房、子供が、何よりもその姿を心配し、気に掛け、あるいは残念に思って
いるのではないのか。
 そしてその、自分だけ仕事をしているような格好の、孤独な本人は、常に、自分の体の
鳩尾【みぞおち】と臍【へそ】の中間。その辺りが痛いし、その場所の筋肉に必ず、しこりがある。
 要するに、肝臓が考えた物事を、腑である胆嚢【たんのう】が満足に実行できなくなると、
胆嚢は胆汁【たんじゅう】を分泌しなくなる。すると人間の胃は、その消化作業に必要な
血液やインシュリンの他に、胆汁も必要としているから、その胆汁が不足すると胃液が
分泌されなくなってしまう。それによって、胃が何かに摑まれたような、キリキリと絞めつけ
られる痛みが起きてくる。
 医学ではそれを「神経性胃炎」と呼んでいる。そしてその痛みに堪えきれない現代人は、
胃薬の他に色々の薬を飲んでいる。また、頭の中には色々の知識も詰め込んでいる。
しかし、人工的に作られた胃酸や胃薬をどんなに呑んでも、それによって胃は、もっと胃液を
分泌しなくなる。そして、仕事でも、人間関係においても、人の指導に当たる者であればある
ほど、再び同じように悩むし、胃は、薬を飲む以前より当然、悪くなるし、もっと痛くなる。
 例えば、私なら私が、そうした人の痛い場所。それは五分でも十分でも、その鳩尾と臍の
中間にある しこりの部分に手を当てると、次に立ち上がった瞬間には、まったく痛みが取れて
楽になってくる。それはその部分に溜まった邪気を抜く。人によって時間も異なるが、
そんなものは一時間も二時間も掛からない。スグに取れる。本人は、そこから、
「ああ、なんか冷たいものが出てきた」と言っていることもあるが、次の瞬間には必ず、
その部分の筋肉が温かくなる。要するに、血液が循環してくる。
 世の中の、人の心を悩ませる医学は、その部分にあるしこりを診て、
「これは癌の疑いがある」と言って、まず検査する。検査してみても判らなければ、その
部分の細胞を採って調べてみる。ところが、採られた部分。そこに何で、どうして、しこり
ができたのかを考えない、解らないから、やがてまた、その場所はおかしくなってくる。
 人間のお腹の筋肉というものは常に、中にある大切な腑を支えている。その大切な
筋肉を僅かでも取り除いてしまえば、その支えは次第に力を失ってしまう・・・。
 
 このことについては後ほど説明して行くことになるが、人間の肝臓と胆嚢というものは、
そのように常に、「将軍が考えたことを その家来、部下が実行する」という関係にある。
 また五志五臓の中で、このように、考える臓器である人間の肝臓は、人の顔では特に、
眼に、その窓口。出先機関を置いて、両足の親指と密接な関係にある。だから、我々の
日常の中で使われている「眼は口ほどに物を言う」という言葉、表現もあるように、人と人が
会話をする時、その人の眼を見れば、おおよそ考えていることが判断できる。
 但し、単に「眼が悪い」とか、日本人にメガネをかけている人が多いということで、それは
ただ単に、「肝臓が悪い」ということではない。何度も云うように、人間は、部品と部品を組み
合わせて造られた物ではない。だから、人間の体には、肝臓独自の病気、眼独自の病気
というものは絶対にありえない。
 例えば、医学の上で、「肝硬変」という病名がある。そして、その病名を付けられ、様々な
治療、薬物投与が行われ、遂には亡くなってしまったという人も多い。
 では、そうした人達の足の親指の爪は どのようになっていたのか。
 そうした病名を付けられる以前から必ず、変形していたり、変色していたはずである。
 これは、今その時、人間の体の中にある臓器の異常、その危険信号を外側の見える部分、
体表へ出して、知らせている。これを臓表【ぞうひょう】という。
 人間の体は、腰にある腎臓が、体の中を回って使われた血液を濾過して、再びきれいな
血液として使えるように肝臓へ送っている。そして肝臓は、心臓へ血液を送るように創られて
いる。
 この流れは、朝も、昼も、夜も、決して均一ではなく、最初の方でも記した通り、大自然の
日の出、日の入りと密接な関わりがある。
 太陽を回る地球の動き、日の流れと一緒にある人間の「眠り」と「目覚め」。その時の
肝臓の働きがまったく狂っている現代人が多い。例えば、「不眠症」とか、「よく夢を見る」とか、
自分が人間の姿かたちをしていながらも、「夜行性」だと言っている人もいる。
 その人達は、全身の筋肉が非常に悪い。だがそれはまず、血液を濾過する仕事をしている
腎臓の機能に問題がある。
 腎臓という臓器が完全に血液を濾過し、汚れた物を膀胱へ送り、膀胱はそれを尿として
体の外へ排泄する仕組みに創られている。しかし、その機能が完全でないと、やがて全身
の筋肉に回る血液は汚れ、肝臓も傷んでくる。これは道理である。
 
 この自然界の人の営みの中に、暦があり、一年が三百六十五日ある。そして、人間の
身体の関節が三百六十五ヵ所ある。そのように、人間は、自然と対象に創られているもの
であるが、人が日常の中で平然として使っている「曜日」。日、月、火、水、木、金、土 という
一週間の曜日の流れも、人間の五臓を対象に表されている。
 それは、”五臓の相剋”【ごぞうのそうこく】というものの中で、自然界と人間の関係を表して
いる。
 「日」というのは太陽を表した言葉であり、「月」【げつ】というのは月を表している。そして、
火曜日とは心臓。水曜日は腎臓。木曜日は肝臓。金曜日は肺。土曜日を脾臓【ひぞう】として、
各々、人間の五臓の関係を日の流れに表している。
 
 その五臓の相剋の中で、木曜日として表されている肝臓。その、人間の肝臓という臓器は、
常に血液を蓄えている臓器であり、自然界の中でも常に燃えやすい木に喩えられている。
 例えば世間に、「血の気が多い」という表現もあるように、それは、燃え盛る炎を抑えられ
なかった結果であり、そのように肝の気の上昇を抑えるものが、自然界の火を消す水。即ち、
水曜日に喩えられている腎臓である。
 このように、人間の五臓も自然界と同様、常に、何かは何かを助け、何かは何かを支え、
何かは何かを抑えて、規則正しく回ってる。そして、この曜日という既報は、古来より、学問
とは関係なく、現代教育より以前に、人間の生活の中にあったものである。
 そして、人間の肝臓と腎臓というものは常に、そうした関係で保たれていなければならない。 
 例えば、「いつも怒りっぽい」という人や、人に暴力を振るったとか、殺人ということも、
決して、本人の心。精神に問題があるのではなく、肉体に異常がある。
 特に、人間の全体の六五パーセントである筋肉は、何度も云うように、血液によって
動いている。そして、その血液を蓄えているのが人間の肝臓であり、筋肉は肝臓の持分で
ある。
 この、筋肉が必要以上に硬い人は全体的に血液の循環が悪く、体が苦しいし、何事も
自分の考えた通りには事が運ばない。
 その苦しさを訴えている臓表【ぞうひょう】として、「いつも怒りっぽい」とか、苛々としてしまう。
 五志五臓。人間の肝臓という臓器は、考える臓器である一方、怒る臓器でもある。そして、
眼に窓口を持っている。だから筋肉が硬く、体が苦しい人は、その目つきにしても決して、
優しそうではない。
 それは、たとえ本人が怒っているわけでなくても、他人から見て怒っているように見える
こともあれば、そのように体が大変なために、常に眼を三角に吊り上げてしまって、それは、
まったく人間の顔ではないという人もいる。
 本人がそのことを気にして、整形手術をしてみたり、様々な学問や他人の知識、ある一定
の思想による教育によって自分を変えようとしても、絶対に治るものではない。
 ところが今、全国の優良企業と呼ばれる会社では、社員を教育し、そうしたセミナーを開き、
また己自らも、自分が成功者になれる、「やればできる」と信じて、本来の自分自身が生きる
ために必要な知識で生きようとはしない。そしてそれをどんなに訓えられた通りにやってみても、
できない。
 これは今、社会における問題ばかりではなく、子供の教育も、まったくその通りである。
 やればできない。
 なぜならそれは、肉体が完全ではない。
 常に、肩も張り、首も重いし、眼も疲れやすい。腰も痛ければ、脚も引き摺るように
重く、だるい。そして何よりも、全身の筋肉が異常である。そのために胃も痛ければ、
苛々もするし、怒りっぽくなっている。
 世の中の家庭内暴力、校内暴力ということも、このようなことからはじまっている
ことが多い。 しかしそれは決して、「肝臓が悪い」ということではなく、それを抑えられ
なかった腎臓の機能が低下している。
 要するに、腎の気が虚すと、肝の気が異常行進する。「肝腎要」【かんじんかなめ】ということも、
この、肝臓と腎臓の関係から来た言葉である。
 
 そして、何度も云うように、肝臓が悪くなる前、それ以前に、肝臓へ送る血液を濾過
する臓器。それが人間の腰にある腎臓である。
 五志五臓の中で、この、腎臓という臓器は、「驚く」臓器である。
 そして、この腎臓という臓器は、常に、腑である膀胱と表裏を成し、男性も女性も、
その膀胱の先には性器がある。人間は、その結合によって、造られ、産まれてくる。
即ち、腎は精を司る。人間の腎臓という臓器は、子供を造る臓器でもある。
 また、五臓の一つである腎臓は、塩分。「しょっぱい」という味を好む臓器である。
 しかも、腎臓という臓器は、人間の体の中で「骨」を持分としている。
 男女両性の結合による結果、母親の胎内の中で、まず最初に造られるのは脊椎。
人間の背骨である。そして、人間には、頚椎、脊椎、腰椎、仙骨とあって、腎臓は、
腰椎の四番目と五番目の両脇。そこに左右対称に位置し、人間誰もが腰に背負って
いる。
 
 要するに、腰が弱い人。「いつも腰が痛い」とか、「腰が重く苦しい」という人は、決して、
腰ばかりではなく、驚きやすいし、常にビクビクとしている。
 また、大人であれば、精力も弱く、男であれば男らしくはないし、だらしがない。
 女であれば決して、子供を造り、産んで、育てられるほどの元気もない。
 今後、世間では大変な問題として騒がれることになる、幼児の虐待、イジメという
問題も、決して、その本人達の心に問題があるのではなく、その子供の父親と母親の
肉体に問題がある。
 そして何よりも、その子供は産まれて来る以前から、もっと苦しんでいる。
 先に述べた内容から、現代人が「塩分控えめ」という知識。栄養学という学問によって
食事を摂ることにより、まず、「骨が弱い」とか「骨が脆い」と言っている人が多い世の中に
なってしまったことについては、気の利いた読者であれば察しのつく通りではあるが、
 このことについても私は、学校給食という問題を取り上げて、人間の体が教育によって
破壊されている事実を、これまで様々な講演でも云って来たし、既に別に出版している
本の中にも書いて来た。
 医学では「骨粗鬆症」とか「圧迫骨折」など
という病名を付けて、厚生省も、お年寄りの体や、
体が弱い人の骨の問題に注意を呼びかけるよう様々に言っている。
 しかし、経済を追求し、それを支えるための教育を重視し、止むことを知らない人間の
世の中では、この問題は決して解決されないし、今後益々、そうしたことに悩み苦しむ
人は増え続け、もっともっと低年齢化してくる。そして、人間の骨の病気は新たに増える。
 例えば、生まれながらにして骨折して産み落とされる子供。
 果たしてこれが、今後、一人なのか、十人なのか。
 それは、何のためにそのようになってしまうのか。
 そして、骨だけを診て、骨だけを考える医学が、生きている人間の骨を支えている物が
筋肉であり、血液であり、各々臓器と自然界の関係についてを、いつ、気づくのか。
 高齢者が多く、子供が少ないと言われる世の中で、次々に生まれてくる、そうした
子供達は、どのようにして生きて行けばいいのか。それを世の親は虐待してしまうのか。
また、必要以上に教育して行くのか。
 人間は、計り知れない苦しみの中で生きて行くことになる。
 そしてそれが、人間の言葉で言う、二十一世紀である。
 
 
          つづく。
 
                      大自然の気による政治革命 未公開  原稿 原文より。
 

 
いやぁ、俺も改めて読んでみて、恐い。
でも、次の内容は、もっと恐い。
恐いばっかりじゃなくフォローもあるけど…
やっぱり世の中、今、大変なことになってるぜ。
更に詳しく説き明かされた自然と人間の関係。
それに続く「過労死」問題。
どうなっちまうんだ?!
 
 
 
 
      November 15, 2005 http://ameblo.jp/badlife/entry-10006173415.html
 
 
 
 

 

部活で先生の日給は1700円 しかも土日で
 日給1700円。いつの時代のバイト代かと思うが、都立高校の教師が、土日に丸一日部活動の大会引率をしてもらえる手当の額(交通費込み)である..........
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