ディーン・モリアーティになるつもりはない。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
    
   
ハングル文字で表示された、しらっちゃけたラベルの洗剤容器や潰れたペットボトルとか 
佐渡の海岸にも様々な漂流物が流れ着く こととは別に
アメーバブログ大好き人間! の俺としては
今年の9月中旬からBLOPPA! というプラグイン・サービスのBottle Mail のみを利用させてもらってるんだけど
http://ameblo.jp/badlife/entry-10017767391.html#c10029844542
  ここで、ネット上の海へ流したペットボトルを拾ってくれたコメントがあって
さん という、この人も音楽関係者で
なんだか拓郎さんの『祭りのあと』とか
陽水さんの『夏まつり』を髣髴とさせる感じで
今の日本人が忘れかけてる元来の“お祭り”のように活気ある明るいブログ! 
10月4日、
http://blog.livedoor.jp/jin_aso/archives/50723879.html#comments
  ここのページを読んで はじめて知ったんだけど 
この日は、北島三郎さんの誕生日だったらしい。
   
同じ日に、
http://ameblo.jp/badlife/entry-10003112613.html#c10029674024
  こっちのコメント欄では
かつて俺もいた俳優養成所の関係
1988年にそこにいた方からのコメントもあった。
キース・リチャーズ が最初のソロアルバム『Talk Is Cheap 』を出したのも88年で 
その頃の俺はまだ歌舞伎町の、とあるクラブにいたんだけど
翌年、22歳のときに西新宿の裏路地にあったShpwパブへ移って 
外国人のトップレス・ダンサーが踊るステージの音響とか照明の操作をやってた。
酒で身体を壊したのは20代前だったけど 
今より精神的におかしかったのは21~22の時がピークだったな。
平河町のマンションに住んでた。6人のフィリピン人とオーストラリア人と一緒に。
んで、その秋から冬場にかけて、例によって 喉が痛くなって
喉の奥に穴があいて血を吐きながら水商売やってた。
昼と夜がまったく逆の生活の中、
毎日、立ち食い蕎麦を冷ましてから食べてた貧相な生活…。
んまぁ、大都会にはいろいろな奴がいる。
そんなことをいつまでやってても仕方ないので
イマーノ兄貴の『失礼するぜ』の感覚で、俺は群馬(高崎市)へ戻った。(実家は埼玉だったけど)
して、しばらくはタヌキ女狸の霊に憑依されてたという意味のところへ居候してたんだけど
それも嫌になって、クルマを買って独り暮らしを再開して、人材派遣紛いなことを始めた。
都内近郊各種コンサート会場やイベント・ホールに
「学生バイトや半プー野郎どもを時間給で回して、マージンで喰う」という寸法。
最初は巧くいった。仕事もいっぱいあった。 
   
   abs  
   
渋谷に Art Black Sun というジャズ喫茶があって
そこの経営者家族が清水舞台工芸や よみうりランドのアオイ・スポーツの仕事を請けて
そのまた下請けが、当時、F銀行高崎支店の
「法人なんでもあり」のマッキントッシュ・カンパニー(一応、社名)だった。 
越谷にボリショイ・サーカスが来たとき も、どっかのカプセル・ホテルへ泊り込みで
昼間は像の糞の片づけとかやったり サーカスのテント内で客席を整備したり
そういう関係で、あの、悩める熊 を観たりもした。
よみうりランドでは企業の運動会用のテントを連日に渡り、畳んでは建て、畳んでは建て。
神宮球場でオフロード大会なんてのもあれば
ドームでジャネットジャクソンのリハーサルを観たこともあった。
横浜スタジアムでは、第一生命主催の小田和正コンサートだとか
コンプレックスのLIVEとかの会場も仕込んだよ。
初期マウントフジ・ジャズフェスティバル (山中湖) へも何回か行ったな。
台風に会場が破壊されて仕込みも片づけも大変だったよ。
幕張メッセとかグリーンドーム前橋 とか各県内外共に当時はそういう施設を建てて 
全国の市区町村が国際化を図っていた時期だったよな。
アルフィーが練馬の駐屯地のグランドでナイターのLIVEを演ってた時期…
洋楽・邦楽を問わず今の時期より かなりの数でコンサートもあれば
豪勢な展示会も模様されてた。
でも、青色申告しててもマトモな法人でもないし 
マッキントッシュ・カンパニーは30人近くのメンバーが半年で5人になった。今日は説明が細かい。日記だからな
それでも水道配管工とか、ホテルのフロントとか、他のバイトも兼ねて 
くだらない借金の返済もやってたんだけど 
生活に追われて働くのは、もう嫌だったので… 
んまぁ、ある意味、独身てのは何でも自由だよな。
「もう一度やってみようか…」ちゅうことで、
19のときに断念した芝居の世界を志すことにした。
まぁ、その決意へ至るまでも、南條 豊 さんとの出逢いとか いろいろ とあったんだけど 
それから5年間が芝居の勉強を兼ねてのバイト生活。自分自身の追究 …。
して、メインの収入源は、やはりコンサートのステージ・ハンドだったんだけど 
ある日、東松山の森林公園で、単発のチャリティ・コンサートがあった。 
   
エコロジー的な考えの企業が協賛だったか 
「世界の緑を守る」てなことでの、グリーン・チャリティだったと思う。
21の時、父親の経営業の関係で、
ケロッグ・コーンフレークの商品を梱包する段ボールケースの加工もやってて深谷市
それを滑川の得意先へ2t車で運んでいた俺は
あの近辺(東松山)の地理にも幾らか明るかったので
その日は朝早くから自分のクルマで雨の森林公園へ出かけた。
会場はもう、どこもかしもこ泥濘状態で履いていたスニーカーも二倍に重くなる始末。
小規模なステージだったけど、イントレを組むにもテントを建てるにも
雨風の中でどいつもこいつもドロだらけだった。
んで、通常のコンサートとかは前日から仕込むわけなんだけど
野外のそういう場所ってのは簡易的に、その日に仕込んでその日に撤収ってこともある。
公演そのものがチャリティで予算も少ない関係なのか 
公演時間も1時間弱で、あとはチャリティグッズの販売くらいなもんだな。
ただ、ステージへ登場する人がキワモノだったので 
その日は、全国各地から緊急公演の情報を聞きつけたファンが詰めかけていた。
新宿に今もいるのか? “タイガーマスク”と呼ばれる新聞配達のオジサンがいた。
自転車で繁華街を新聞配達で回ってるわけだが、衣装が派手。
麻布十番に ときどき出没する直木賞作家の “あの先生”みてぇなタイツを履いてる。
顔はいつも、何かしらのテレビ・ヒーロー“お面”を被ってるんだけど
颯爽とスポーツ・サイクルに跨って、その座席の後ろにはラジカセが括りつけてある。
新宿の街中で、サンタナの“Black Magic Woman”とか流してる名物オジサンなんだけど 
それがなぜか、その日の東松山の森林公園にもいたよ。
やはり、タイガースとサブちゃんは、本人にとって かけがえのない存在なのかもな。
当日、モンタ&ブラザーズの出演こそはなかったけど 
午後からのステージ本番前には、北島ファミリーはほぼ全員が集合してた。
強風と降ったり止んだりの雨の中、コルゲン・コーワの宣伝で売出し中だった人は
「…ホントに演るの?」
てなことで、親父さんが来るまでは、ジョージさんと一緒に会場を盛りたてなければならない。
「みなさん、今日は、お足元のワルイところ、ようこそ…(省略)」の挨拶で始まり、
ファンもスタッフも報道陣もゴッタ返す中、メインのご登場がない。
「今しがた連絡がありまして、こちらへ向かってるとのことです」
とかなんとか、ジョージさんの説明もさながら、クルマで来ると思ってたんだけど 
なんと、上空には一機のヘリコプターが! 
そのとき、雨上がりの雲が裂け、陽の光が差すそこだけに 
白いスーツ姿の男がヘリの窓から大きく手を振っていた。
翌日のスポーツ紙の第一面にもデカデカと、その様子がレポートされてたけど 
それが俺が観た最初の“北島三郎”だった。
あの人は、演歌の神様と呼ばれるだけあって、本当にラッキーな人だと思う。
全国どこへ公演へ行っても、地元の挨拶まわりも欠かさない。
俺が高崎の某シティホテルでフロントをやってたときも 
やはり白いスーツ姿で取り巻きマネージャーボディガードに囲まれていても 
サングラスの奥には優しい目が輝いていた。
巷のお年より連中は羨ましがるかも知れないけど 
一生のうち3回も、間近でサブちゃんを観たのは、おそらく
佐渡では俺だけだろうな。
日本の音楽シーンが今日まで、どう変化・変容してきたかを知っている“生き証人”には 
今の時代、なかなか お目にかかることはできない。
這い上がるということは、並大抵の努力でもないし 
運も不運も才能も、たった独りだけの力では
開くことも伸ばすことも磨きあげることもできない。
人間は決して独りきりでは生きられないし 
この世に産まれるときも、そこから育ち、死ぬまでは
この世に生きる人間には必ず、押してくれる人がいて、ひっぱってくれる人がいる。
勝手に産まれて勝手に死ぬような存在は、本来はありえない。人間ならな。
北島さんという人は、声量豊かな鼻の穴がデカイ演歌歌手 でありながらも 
常に初心を忘れることなく歌いつづけ、音楽の世界に生きている。
そういう人間らしい生き様が、人間の自由の本質であることを
ありありとこの世に証明してみせた人の一人なんだ。
   
もうかれこれ10年近く前のことになるのか、ピーターバラカン氏が
自分のラジオ放送で金沢さんの歌う『演歌イエローサブマリン音頭』を
番組の最後にかけた次の週に、リスナーから多数の抗議・非難の手紙を受けていたこともあったけど
それを、「番組をお聞きの皆様から頂いたお葉書きの中で…」
と、真面目にぜんぶ受け答えをして「反省してます」「調子に乗りすぎました」などと
丁寧な謝罪を述べていたピーターバラカン氏。
バラカンさんとしては、ワールド・ミュージックの素晴らしさを伝動・伝達してるだけであって
俺は、その職務に反していたとは思えない。 (今頃になって何を云っちょる?
   
先日、哲也さんのサイト の、“おれのたわ言 ”コーナー (06.9.23)に  
   
  音楽ってさ、楽しいもんだ。ワクワクするもんだ。こんな素晴らしいものはそうそうない。
  どうしてそんな初心を忘れてしまうのか? その理由は ・ ・ ・ よくわかっている。
  音楽こそ自由であるべきだろ? どんな音楽にも価値は必ずある。大なり小なりあるだろうが、
  そんな初心を思い出す。 すべての音楽は心を解放することだ。聞くものやるもの、
  プラスのものマイナスのもの 思想や哲学 ノスタルジーな空や恋心、愛、夢、人生、なんでもいいんだ。
  本当に複雑になってきている。そこには垣根はない。 エルビス・コステロの新作だろうか? 
  ニューオリンズを襲ったカトリーヌだったか? そこで家も家財道具も無くした隠れた大物とのビデオを見ていた。
  「体験した事のない不幸があったから次ぎは体験したことのない幸せがくる。それが楽しみだ。」
  と冷静に語る。白髪の黒人のおっさん(失礼)だぞ! そんな成熟が日本にないのは淋しい限りである。
  日本文化の幼児化が問題になっているが、結局はお金につながらないものに興味がないのが日本人である。
  だからこそ敗戦の焼け野原から ここまで成長して来たのも間違いない。
  しかしその代償を今、払わされる時にきている。形あるものだけをだけを追いかけた代償だ。
  形ないもの、つまりは心だ。心を後回しにして ないがしろにして我慢して、得た形ある富み。
  「心の時代」「美しい日本」次なる形ないもの = 心の豊かさ = 心の富みを成長させようとしている。
  お金持ちになったから次ぎはお金では買えないものが欲しくなったんだ。まあ、簡単に言えばそういうことだ。
  借金だらけでもモノはある。やはり敗戦は 国を一人の人間とすると大きなハンディだったな。
  何かそんなことを漠然と思った。日本の音楽も成熟するには そうとう時間がかかるだろう。
  独りの人間の人生においても、結婚が敗戦ならば、「心の時代」は老後か? それでは遅い! 
  なぜなら国は続くが人はすぐ死ぬからだ。まあ、それが現実ですからと言われればそれまでだ。
     ------- 中略 ------- 
  生きる価値観が手で触れられるものだけの人生はビーチサンダルをナイフで切って食うに等しい。
  「幸せを感ずるのは心、買えないものがあるから楽しい。」 俺は心が貧しい人とは 
  余り付き合いたくないな。息ぐるしいんだよ。色んな人間がいる。それでいいんだが、
  人を見る時、接する時、その人の澄んだ きれいな面とだけ付き合っていたい。
  出来ることならね。PS. 今日、息子が言う 
  「やってしまった後悔より やらなかった後悔の方が悔やまれる」
  こんな事を言うようになったんか~ ・ ・ 大きくなったな~ 
  おい! それって俺の人生をなめてんのか~ この野郎だんだん生意気になってきやがったな。

   
ということが書いてあった。 引用のプレイバックお許しください
これは今年の9月23日時点での哲也さんの心境で 
ファンの俺としては一言一句、聞き漏らすことはできなかった内容なのでメモさせてもらった。
アーティスト、“伊丹哲也”という一人の男は、どこまでも自分でありつづけることを見失わない。
俺は単なるファンであって、哲也さんは歌手。あとは何もない。
何もないんだけど、何もない以上のモノがある。
今日まで、そして明日からも、決して長くはない人間の一生の付き合いの中で
世間様の興味の対象や価値観、評価や注目度がどうあろうと 
“自分でありつづけることを見失わない”という存在の事実が 
「たかが音楽の世界」で単なる“歌うたい”では終らない。 
俺自身も、そんじょそこいらの音楽ファン、音楽リスナーでは終らない。
生きている限り、書きつづけ、伝えつづけたいものがある。
己との闘い。
時にしてそれは、喜びであったり嘆き悲しみであったり 
社会への諷刺あるいは戦後日本常識への怒りであったり 
堂々とはせず(俺の場合は)、インターネットの片隅で 
いつぞや、すべてのサーバーデータが消えるやも知れない“枠”の中で 
そんなちっぽけな場所へ魂の中身を殴りつけて書く…。
明日にはもう、世界の停電を回避できぬほど 
パソコンの画面が真っ黒なままなら、俺は次に何を生きる手段に選ぶのか? 
滅ぶ日は自分で決めたい。でも、そうはいかない。
だからなるべくなら、嘘を並べるより、事実ばかりを綴っておいた方がいい。
そこにもしも、読む人がいてくれるならね。
   
ここに、 (右サイドバー参照) 
闘いつづける1%戦友の会 ” などというテーマを掲げてはいるものの、
おそらく、読者の中には
「なんなんだ こいつは?」
そういう疑問ばかりが頭の中を巡り、そのうちにまた忘れてしまい、
次なる新たなる対象へ興味を持って生きてゆくにちがいない。
感動したり、泣き叫んだり、喚き吼える瞬間よりも 
褪めて乾いた顔を装い、平穏無事にその場を凌ぐことの方が 
俺にはよっぽど器用に思える。
本心や自分の弱さを隠してまで、何か得をすることを望む気持ちや 
疲れを癒せるわけでもない笑いや娯楽に自分が闘う時間を先送りにさせることが 
いつまで繰り返し可能な人生なのか? 
   
俺の父親は28歳で俺という息子を長男に授かってから 
神宮球場や羽田空港という高度経済成長期の土木事業の中心にいて 
現場監督として将来を約束されていた。 http://ameblo.jp/badlife/entry-10006297741.html
本人としては、設計技師にもなりたかったらしい。
ところがある日、不良債権やら何やらのゴタゴタに巻き込まれた建設会社の中で
一時解散の宣告を受け、成長する日本の中で失業者となった。
そこから先も自分で決めて自分でやった自分の人生なんだろうけど 
フロンガスを放出する発砲スチロールと
紙幣と同じ原料で作られる段ボールを加工する梱包資材の仕事を
20年以上の稼業としていた。
5人で始めた経営も二人になり、やがて家電や住宅資材の梱包資材が
コンピューターで設計され簡易になると、仕事は減り、
結果的にはパートもアルバイトも雇う必要もなくなった。
途中、解散して倒産したはずの建築事業主から
「また一緒にやろう!」と声がかかっても、そこへは行かず 
紙屑のホコリと紙ダニにまみれる仕事に没頭しつづけていた。
ただ食っていくためだけに。子供を育て、家族を養うためだけに。
本人としては、あの誘いを断ったことが唯一の後悔だと云って
グラスの酒を呷る毎日を繰り返してきたけど 
よく酔っ払った口で最期に吐き出す言葉は 
「何が淋しいかって言ったら、お前、
友達がいないってことが淋しいね」

のひとことだった。
あとは、「酒でごまかした人生だ」と云われたことを自分でも納得していた。
   
かつて戦艦大和の製造と戦後の国鉄ダイヤ組み立ての仕事をしていた俺のお爺さん の息子なので
頭脳明晰な部分は父親としても尊敬するところはある。
どんな品物もサンプルを見ただけで
何の型抜きもないA段・B段・AB段の段ボールの設計図は数分で描ける。
マージャンもパチンコも負けることもあるが勝つことの方が多い。
でも俺に云わせれば、“皿を嘗めた猫 ”に過ぎない。
台所の勝手口から忍び込んだ数匹の野良猫が 
家主の隙を狙って皿に盛られた夕飯の材料である魚をかっさらう。
遅れてきた一匹の猫が残された皿を嘗めている。
そこにはもう、ナマ魚の香りしかないのに一生懸命に嘗めている。
するとその場に出くわした家主に叩かれる。
何も悪いことをしたわけでもなく、ただ皿を嘗めていただけなのに 
取り残された一匹の野良猫だけが叱られ、痛い目に遇う。
運が悪いのではなく、本人が悪い。
今の時代は、負け犬だとか、そういう者の遠吠えなんてカッコイイ存在もない。
まんまと獲物を捕らえて逃げたネコか、皿を嘗めた猫。
日本経済なんてのは、そのどちらかでしかない。
物質文明ってのは
目に見えないモノの大切さを失った以上に 
魂の無駄遣いの時間があまりにも長すぎる。
そのまま死ぬつもりなのか? 
いや、俺の父親ばかりではないよ。
自分の人生に疑問を抱いている人は他にもいっぱいいる。
中には、盛ってある魚に飛びかかる勢いが強すぎて
割れた皿で怪我をした馬鹿も多い。
贈収賄とか横領…とかな。
結局は、皿を嘗めた猫の仲間入りだ。自分が望んだわけでもないのに。
ファミリーとか組織とか、結束や信頼を重んじているような顔の連中も 
利用されるより利用する方を選ぶ。
いいさ、友達や家族の意識があるならな。
そしてそこに自分が望む未来や理想へ近づいている実感が持てるなら…。
   
現在、俺の父親は20年来の段ボール稼業を辞め 
役場の夜間警備員をやっている。
長年の仕事を辞めてから一年近くは遊んでいたけど
世間のシルバー人材救済も捨てたもんじゃなく 
行政機関の一部に組み込まれて、警備会社の組織に利用されて生きることも 
かつての苦労を想えば、なんてことはないらしい。
   
今の世の中、婚姻届ってのは昼間しか受け付けないのかも知れないけど 
離婚届は24時間受付中。
それを夜間警備にあたる者が、いちいち確認してあげるらしい。
いつ、何時何分に離婚したのかが 
財産を別けるための書類には重要必須項目なのか? 
面白いぜ。結婚した日時、分・秒の時間より、離婚する時間の方が大事なんだ。
あんなに盛大に結婚式と披露宴をやったんだから 
離婚披露宴てのもあってもいいんじゃねぇのか? 
友人知人、上司や親戚一同も呼んで 
最終的に迎えるであろう葬式よりも盛大にやりゃぁいいんだ。
だって、新たなる門出じゃないか! 
喜ばしい人生の再スタート! 
どうしてそこへはカネをかけない? もったいないの? 
   
んまぁ、物質文明への批判は、このくらいにしておこう! 
   
   
俺自身も、かつてのジャック・ケルアックに代表されるところの、
ビートニクやビート・ジェネレーションを受け継いでいるわけではない。
今になって、ケルアックを一種のユーモアかセンスのように騙ってしまう市場やメディアかも知れないけど 
あの頃のアメリカ文学に限らず、バロウズもレスター・ヤングも 
コルトレーンも、ディジー・ガレスビーも、チャーリー・パーカーも… 
自分達が生きるために、いつの日にか自分が人間として生きる自由を獲得するために 
歌い、想い描き、演奏し、スウィングさせ、シャウトしながら、そういう情熱の迸りを
自分の中にあるモノのすべてを出し尽くそうという試みで形にしていっただけのことであって 
何か特別に体系づけられたモノでもなければ、反体制派やレジスタンスの意味合いでもなかった。
人間が人間として生きるための手段としては、ごく当たり前の、
当然に必要とされた生きるべき道でしかなかった…と思う。
とくには現代地球人の多く、西側諸国文化沿いの北半球の範囲での発展・発達の中で… 
んまぁ、そんな堅苦しいもんでもないんだけど 
人間に与えられるべき、人間が実践すべき、自由。
本来は、そこへ疾走することも追求する必要もないんだけど 
「駆け抜けた青春」なんて言葉で、自分たちの人生を振り返させることも嘘だな。
地球は減速している。人類の意識は低下している。
マザーテレサも 先代のパウロも、もういない。
闇雲に模索する経済の競合の中で渦巻く欲望に塗れ親しむ時代… 
そんな名誉や財産取得の繁栄、果敢無い栄耀栄華に酔いしれるのは 
もう20世紀に終ったはずなんだ。あの世紀末に。
大陸の片隅の地下、その奥深くで核実験をやっているのは北朝鮮ではない。
やらせているのは全人類なんじゃねぇのか? 
今の地球人てのは馬鹿だよねぇ。
誰かを悪者に仕立て上げないと、ひとつにまとまれない。
今月の頭ではマスコミ、メディア、報道がこぞって
アベちゃん内閣の“お誕生祝い”を繰り拡げてたのに 
今週と来週はもう、“イジメ戦隊・誤レンジャー”みてぇな国会議員ばっかりで 
どっちもどっちだ。ニュース報道なんて、“売れないゲームソフト”みてぇなもんだろ。
どこへ行こうとしているのか? 
何にお伺いを立てなければ自分の生活維持を安定させられないのか? 
カネもらったら素人じゃねぇんだ! 
ちっとは気の利いたこと言ってみろっ! 
あ~あ、やっぱり太郎さんをプレジデントに選んでおくべきだったね。
まぁ、そんなご苦労なポジションよりは今の方がいろいろと遣り易いのかも知れないけど。
   
俺も、こんな政治評論まがいのことを云ってる場合ではない。
   
哲也さんのCD 、買ってね。
買わないと当たらないよ! 
じゃなくって、
買わないと聴けないよ。
本物の歌ってもんはな。
   
   
   
   
   
   
   
   追記 November 30, 2006
   
   
   …このたびのCD製作について。  
   http://ameblo.jp/badlife/entry-10020777224.html