本物の挑戦者について (仮題)  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
テーマ:20世紀の職業経歴
   
   
そういう世の中で、そういう現代社会で
俺は20代から30代に渡る色々の職業経験の中、
武道館や東京ドーム、初期のMtフジ・ジャズフェスティバルをはじめ、
数々のコンサート会場の、“仕込みと撤去”の手伝い も、楽しんで来た。
いわゆる裏方の仕事だ。
んで、国内外のあらゆるジャンルのアーティストのステージを実際に自分の目で見て来た中で、
そのステージ…舞台の基礎に「レイヤー」とか「イントレ」とかいう専門用語で、
色々な鉄骨を手作業で組んだりバラしたりする仕事のほかに、
舞台上の楽器や音響機器(PA機材)、モニター(でかいスピーカー)を搬入・搬出する仕事のほかに、
開演前と終演後の会場席の準備や整備、片付けなんていう仕事もある。
たとえば、日本武道館でヴィジュアル系バリバリのアーティストの公演ともなると、
ファンは10代20代、“お小遣い 十万円使い放題”の世代の若者が多い。
当日はスゴイ騒ぎだ。踊りまくって首を振りまくる子供達でいっぱいだから、
終了後の会場でパイプ椅子を全部どかして片付けたあとには、
フロアーに安物のピアスや髪止めアクセサリーとかが様々に散らばってる。
スナック菓子のゴミも空缶もペットボトルも、
半分以上(中には丸ごと)入ったままで潰れて散乱してる。
スポンサーサイドから親切に配られた宣伝用のチラシも、
持ってかえってくれる人の方が少ないくらいに、
回収ゴミ袋の数もトラックの荷台にいっぱいになる始末。
しかも、当日終演後、そういう片付けに入る前に観客が引けるまで
非常に時間がかかる。いわゆる若者のコンサートてのは。
既にアーティストは、アンコールも終えて、とっととどっかのホテルへ直行してるか、
次の公演予定地へ向って、もういなくなっちまってるのに、
三階席の方では「ウギャーッ!」とか「ワ゛ギャギャギャーッ!」とか吠えてみたり、
「ありがとうございましたぁ゛ー!」などとヤマビコを轟かせたり、
片付ける方としては、一刻も早く、安全に引き上げてもらいたい。
客がすべて引かないと、仕事が始めらんないわけ。
   
ところが、うってかわって、チャゲアスとか小田和正とか、
いわゆる、“大人のコンサート”の会場、その公演日てのは、
最初から最後まで、クリーンな状態。
照明が全部、昼間より明るくなって、
本日の公演はすべて終了しました」というアナウンスが入ると、
10分。いや、5分でみんな立ち去ってくれる。
そのあとの座席の片付けの際にも、
無駄に配布されたチラシなんてのが残ってる場所は、
キャンセルかもともとの空席くらいなもんで、床のゴミは探さないと落ちてない。
みんな、きれいに持ち帰ってくれる。
なるほど、アーティストに よく躾けられたファンの方達。ご立派です。
   
でも会場の仕込みやバラシに取り掛かる「バイト君」にとっては、
どちらも同じ仕事だ。
ヘルメットを被って怪我のないように作業に取りかかる。
んで、問題は何か? 
別に、会場の設営や設備、その破損状況の後始末とかに不備はない。
俺が云いたいのは、“ファンの質”の更に奥にある“人の意識”についてだ。
   
テレビや映画、雑誌の表紙やCMの中にいる芸能人やタレントにしても
どんなトップ・アーティストにしても、
アーティストとファン(観客)の間には線がある
観せて楽しむ側 と 観て楽しむ側の区別。
どちらもこの世に実在する意味では本物も偽者もない。
事実、存在してるんだから本物なんだろうし、
どちらにしても、自分が好きでやっていることなんだから、
そこに嘘はない・と思う。
ところが、アーティストと観客の間には仲介役として、
裏方の業務のすべてまでも取り仕切る運営会社と企画会社、スポンサーってのも存在してる。
それはでかいコンサートやライブになればなるほど、その規模もデカクなる。
公演の在り方やアーティストの意向がどうあれ、運営する側は
決められた時間に流れる人の動きに、ある程度の見切りをつけて段取りをよくして、
スムーズに業務を遂行しなければならない。
売る物も配る物にもすべてにカネを賭け、チケット代と共に興行収益をあげなければならない。
そしてそれを最近はマニュアル化するような業務に則って
全国各地の野外・屋内スタジアムや各ホール、文化会館などでのコンサートが実施されている。
その中身の質がどうあれ、
「人が動く場所にはカネが発生する」
ただそれだけの機械的な流れの中に、
多くのアーティストの活動やCDとグッズ販売が押し込められている。
数字を上げる期待のできないモノ(商品)は、
そこから外されるか、別の小さな場所へ移動させられる。
これが今、現実的に、アーティストそのものの存在にまでシステム化されている。
   
夢や希望を胸に抱いて都会へ上京した想いも野望も、
打ち砕かれることはなく、
上手にカネを回すことで、自分が商品化されていることに納得するかしないか…。
そんなことを考える余裕もなく、
巷の芸能人は忙しい。
売れてるタレントに休みはない。
ヒット曲を連発してるミュージシャンに
「売れないモノ」をつくる楽しさは見えない。
   
自分が本当にやりたいことは何か、あるいは、何だったのか?
ってことだ。
   
映画『太陽を盗んだ男 』で、最後まで、スポーツバッグに入れた原爆を持って生き延びた、
都会の繁華街を歩く主人公。
それを演じた沢田研二さんも、ストーンズ大好き人間。
かつてあれほどの数々のヒットを放ちながら、今はそれをほとんどまったく歌わない。
ストーンズに対しても笑いながら、
「凄いけど、コンサート見ていても昔の曲ばっかり演ってて 面白くないじゃないですか」
と、人間が成長し続けることの大切さを視聴者に投げかけるような、
テレビのトーク番組があった。
売れて数字に追われ、自分がやりたいことを見失うよりも、
人間として成長し続けることを選ぶアーティスト。 
(注意! ストーンズはもっと別な意味で成長し続けている…はず…ですよね)
そういうのが本来のアーティストであって、
“メディアの手先”として生きることばかりが重要なことではない・と思う。
それでも、一旦、メジャー路線に乗っかってしまえば、
商品としてのアーティストにされちまう。
それは仕方ないことかも知れない。
   
俺でさえ、“伊丹哲也 ”というプロのアーティストについて勝手に語らせてもらうとき、
他のアーティストと比較するような云い方も持ち出している。
本来、人間は、一人一人が創られ方がちがって当然なんだから、
人間と人間を比較することに意味はない。馬鹿げてる。
自分と他人には絶対に区別がある。
ましてやアーティストとファンにも一つの区切りがあって、
そこに音楽なら音楽、映像なら映像、舞台なら舞台を通して、
エネルギー交換しあう”という交流はあったとしても、
それ以上の付き合いは必要以上になってしまうし、
いつかお互いを破壊する結果を招くことにも成りかねない。
それでも、本来はありえないはずの特別な交流を望んでしまう勘違いしたファンも中にはいる。
ジョン・レノンを射殺したチャッップ・マンも、(…これについては賛否両論、事実と噂が色々に別れてるけど
美空ひばりさんの顔に薬品をかけたアホも、アイドルの宿泊先に勝手に入り込んでしまうようなファンも、
みんなで共有すべき商品が自分だけのモノのように感じてしまうのかどうなのか、
その点については、今いった極端な例に至るではないにしろ、少なからず、
「特別な自分のモノ」のように考えてしまうファンの心…てのがある。
俺にもある。
んで、そういう気持ちが強くなってしまったファンは、
そのアーティストの素晴らしさを他の者と共有はできない。
「自分だけの宝」なんだから、人には内緒にするかも知れないし、
「わたしの自由」(?)ってことで、
“外へ出す”ってことは考えられない。
そういう意識の強弱が絡み合うだけの中で、
CDが売り買いされて、
やがて興味が他へ移った日には、
中古CDショップに同じタイトルのCDが山積みにされちまう。
資源の無駄だ。
   
現在も多くの中古CD屋やセコハン系統の古本屋の出入り口付近には、
どこをひっくり返しても、シャンプーだとか、スキャットマン・ジョーンズだとか、
山田かつてないCD』だとかの類いで、忘れ去られたアイドル・モノも、
ペットボトルの回収・再生率よりもワルイほどゴミの山になってる。
それに、一枚¥50~¥250の値が付けられて、店内の通行の邪魔になってる店もあれば、
他の目当ての掘り出し物CDをさ探すのに視界不良、指先が汚れるだけの妨げになってる。
日本だけでしょ、音楽産業界がこんなになっちまってるのは。
これについては誰にも反論はさせない。
  たとえ今後、誰が俺を訴えようとも、俺は攻撃をやめない覚悟だ。

   
だから日本のミュージシャンは、その一人にどんなに夢や希望や類い稀な才能があっても、
その狭い枠組みから外へは出られない。
   
かつて、坂本Qの『スキヤキ』(邦題:『上を向いて歩こう』)という曲が全米№1に輝いた。
その時代は、戦後復興に懸ける日本の急激な経済成長が世界中に注目されていた。
それを象徴する歌があの、スキヤキ・ソングだった。
今や、ひと世代前のへヴィ・メタルの白人アーティストでさえ、その曲を歌えるほどだ。
それ以外に、日本のミュージシャン(演歌歌手も含め)が世界に認められた例は、今のところは…
ない。に等しい現実…どんなに素質があっても。)
   
俺は、伊丹哲也というアーティストが、それを越えられる…ようなモノを持っている・と、勝手に思っている。
そういうエネルギーを内に秘めて生きているのではないか…と信じるような気持ちでいる。
そこにもし「無理だよ」と云ってしまう不安じゃなくて、ファンの人がいるとしたなら、
その人たちこそ、“外へ出す”ことの妨げになっている。
   
サザンや YAZAWAや 久保田やドリカムだけが才能あるチャレンジャーではない。
マドンナの真似がどんなに上手でも、
ブランキーやボウイがどんなにヨーロッパで認められても、
森進一の歌をピーター・バラカン は紹介しないし、
渋谷陽一のロッキング・オンに長山洋子 のCD全曲解説は出てこない。
これはおかしい。
同じ音楽なのに。
   
もしも、日本人よりも大勢の、
アメリカ人や西洋カブレの黄色人種が親しめるメロディに載せて、
その魂からほとばしる情熱を歌に托せる才能が今の日本に存在するなら、
それは癌と闘い続ける かつてのフォーク歌手でもなければ、
ビルボードのTOP100内の曲をパクって印税収入を確保してるようなシンガーソングライターではないし、
演歌の作詞家・作曲家連中が喰いっぱぐれないように
カラオケ愛好家が喜ぶCDシングルをパチンコ屋の有線で流しているような音楽業界にはいない。
俺は一人、知ってるけどな。