愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』



過去記事です。

一部 訓練
建設的に悩む必要性 2011/12/15
問題解決と時間 2011/12/23
責任 2012/1/13
自由からの逃走 2012/1/20
真実に忠実であること 2012/1/27
古い地図 2012/2/4
誠実である苦しみ、それに耐えること 2012/2/12
真実に忠実であることで得られるもの 2012/2/21
バランシング 2012/3/15
バランシングの苦痛、バランシングを避けることの苦痛 2012/4/1
うつの感情の健全さ 2012/4/4
断念と再生 2012/4/13
括弧(かっこ)づけと意識の拡大:断念と再生#2 2012/4/14
決断に伴う苦悩と喜び:断念と再生#3 2012/4/15

二部 愛
愛の定義 2012/4/30
「恋」をすること 2012/5/7
「恋」に対する誤解と一粒の真実 2012/5/8
「恋」に対する一粒の真実 2012/5/9
依存性 2012/5/18
愛のないカセクシス(関心) 2012/6/3
自己犠牲 2012/6/11
愛は感情ではない 2012/6/22
注意の仕事 2012/7/1
注意の仕事#2 2012/7/2
失う危険性 2012/7/15
自立に伴う危険性 2012/7/22
真剣に関わることの危険性 2012/8/1




札幌トレーニング(いや、観光?(^_-)-☆)の関係で、間が空いてしまいました。

前回の続きです。



   愛にまつわる究極の、そしておそらく最大の危険は、
   謙虚さを失うことなく力を行使することである。


   対決するとは本質的に
   「あなたは間違っている、私が正しい」と言っていることになる。

   そのようにして人と対決することは、誰しもたやすくできる。
   
   多くの人に、習慣的に何気なく、あれやこれやと矢継ぎ早に批判をする・・・
   このような批判や対決の多くは、通常怒りや困惑から衝動的になされるのだが
   世の中を明るくするよりは混乱させる。



   本当に愛している人は
   批判や対決を簡単にすることができない。
   潜在的に傲慢になりやすいのが目に見えているからである。


   愛する人と対決することは、
   差し当たってのテーマに関する限り、
   自分が愛する人よりも倫理的、知的に高いとすることである。

   しかし、純粋な愛とは
   他者のユニークな個性や別個のアイデンティティを認め尊重することであった。

   だから、愛している人ならば
   「私は正しい、あなたが間違っている」などと言うことは
   決して簡単なことではない。


   しかし現実的には、当然自分の方が愛している人よりも正しいこと、
   相手に対して「あなたは間違っている」と言わねばならぬことは
   当然ありうる。

   だから、愛している人は
   相手なりの道を尊重すると同時に
   相手が必要としている場合は、愛のこもったリーダーシップを取るという
   そのようなジレンマに陥ることがしばしばある。




   
   このジレンマは、骨身を削るような自制によってしか解消されない。

   だから、愛する者は
   自分の知恵の価値と、リーダーシップを取る必要性の背後にある動機とを
   厳しく検討する。
   また、愛する者ならば、そうしなければならない。




   このように、出来るだけ客観的に自省する態度が
   謙虚、温順の本質である。

   
   「温順さとはそれ自体、
    自己のあるがままを知り感じ取ることに他ならない。
    誰であれ、自分自身をあるがままに見、感じる人は、
    事実上、温順であるはずである」

   と言った魂の師が言った。




   だから、他者を批判したり対決したりするには二つの方法がある。

   一つは、本能的直観的に自分が正しいと思い込むこと、
   もう一つは、綿密に自分を省みて、おそらく自分が正しいと考えてのこと、である。

   前者は、ひんぱんに見られるが、大抵うまくいかず、
   成長どころか憤りを買い、思いもよらない結果を招く。

   後者は謙虚なやり方で、あまり用いられないが
   成功する可能性が高い・・・少なくとも破壊的に作用することは、まずない。





   
   逆に、精神的成長に必要な時に対決しないのは
   本能的・習慣的に批判したり非難したりするのと同じで
   愛していないことになる。



   子どもや大切な人、その人たちを愛しているのなら
   控え目に注意深くはあっても、
   時には積極的に対決し、批判しなければならない。

   その代わり、
   愛する人が自分と対決するのも許されなければならない。

   どのような関係性であれ
   そのようなものがあることで、関係は意味深く実り多いものになり、
   それがなければ、関係は浅いものになりがちである。







   そして自省の結果、自分がおそらく正しいとわかったら
   愛するものの性格や能力を考えて、
   褒めたり気をつけてやったりお話をするなどより
   対決する方がいいかどうかも考えなければならない。

   当人のどうすることもできない事柄について対決するのは
   せいぜいのところ時間の浪費であるのみならず
   有害な影響を及ぼす可能性がある。



   こちらの話に耳を傾けてもらいたければ
   聞き手が理解できる言葉で、かつ実行可能なレベルで話さなければならない。



   人を愛するのなら、
   自らを広げ相手の能力に合わせてコミュニケートする必要がある。




   この「対決」に伴う危険性は、一体なんなのか?

   力を行使するとは、相手の道筋、事の成り行きを変えようとすることであり、
   ある意味で神のように振る舞うことである。

   その「神のように振る舞うこと」こそが、対決に伴う危険性である。



   我々の大抵は、そのことがわかっていない。
   愛の要求する完全な自省、自覚なしに力を行使しながら
   自分が神の役割を演じていることに気づかない。


   真に愛する人、つまり愛の要求する英知のために努める人は
   テーマとなっている事柄に関する限り、
   対決・批判をすることは神を演じることであることを承知している。

   愛は、まさしく自分がやっていることのとてつもなさを充分認識したうえで
   神を演じることを、我々に強いる。





まだ続きます。