昨日の記事 は誤解と一粒の真実というタイトルでしたが

誤解で終わってしまっていました(^_^;)


今日、一粒の真実です。



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   これまで、「恋に落ちる」経験が

   ある種の錯覚で本当の愛とは無縁である、と主張してきたが

   ここで全く逆のこと-恋をすることが、実は本当の愛に極めて近いこと-を

   指摘したい。


   恋を愛のひとつの形とする誤解が有力なのは

   まさしく一粒の真実を含んでいるからである。




   本当の愛の経験も、恋に落ちる経験も、自我境界と関連している。




   愛は、自分の限界を拡げる。つまり、自我境界を拡げる。

   

   自我境界を拡げる過程で、自分の外にある対象に引きつけられ

   のめり込み、関わり合う必要がある。

   (精神科医は「カセクト」と呼んでいる)


   そのカセクトの際、その対象を自分の内側に取り込む。

 

   例えば、園芸を愛する人は、自分の庭、そこで植えられている植物、

   土、それらにカセクトし

   それらのものが、その人の内側にも存在するようになる。


   それによって、その人の自己は拡大し、自我境界が広がり、

   薄れると同時に伸張し成長していく。

   そして自己と外界との区別が曖昧になっていく。


   そして外界と一体になる。




   この形の自我境界の崩壊と、恋による自我境界の崩壊との大きな違いは

   恋による崩壊が、あくまで一時的なものであり、

   崩壊が元に戻ると一体感がなくなるのに対して

   この形の自我の崩壊は、恋する時に比べてずっと穏やかで、劇的ではないが

   より安定した持続的なものであり、究極的にはより充実したもの、ということである。



   その意味で、恋をすることと愛は、同じではないけれど

   自我境界に関わっているという意味で、似たような体験となり

   そして激しく崩壊するという意味で、強烈な体験となる。



   そして、恋愛に伴う自我境界の一時的喪失が

   他の人々との深い関わりへ我々を導いて

   そこから本当の愛が始まるかもしれない。




   したがって、恋は愛そのものではないけれど

   偉大なかつ神秘的な愛の図式の一部ではある。

   



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やっと終わりました(^_^;)



内容はともかく、読みづらいの、わかるな・・・