第三回ココロキレイフェスタ 出展します!
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さて、今日は「愛と心理療法」シリーズです。
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愛にまつわる誤解の中で最も影響力が強いものが
恋することは愛であり、少なくとも愛の一つの形である
という信念である。
恋は主観的に、愛の経験として大変強烈に体験されるので
これは説得力のある誤解である。
だがここで、二つの問題がすぐに明らかになる。
まず、恋の体験がとりわけ性と結びついた、エロティックな経験だということ。
第二の問題は、恋の体験が一時的であるということである。
この二つの問題について理解するには
精神科医が「自我境界」と呼ぶものの性質を調べることが必要である。
簡単にいえば、自我境界とは、自分と自分でないものの区別のことである。
生まれた時、赤ん坊は自分と自分でないものの区別をしないらしい。
新生児が手足を動かす時、世界も動く。
自分が空腹であれば世界も空腹である。
母親が動くのを見ると、自分も動いていると思う。
母親が歌う時、自分が声を出していないとは赤ん坊にわからない。
経験とともに、子供は「自分自身」を経験し始める-
自分以外の世界とは別の存在として。
空腹な時、母親が常に食物を与えてくれるとは限らない。
遊びたい時、母親も遊びたいとは限らない。
自分の意志が母親の行動とは別物であることを経験する。
「私」の感覚が発達し始める。
このような相互作用が、
子供にアイデンティティが育ち始める基盤と考えられている。
このようにして、自分と外界の区別を発達させる、これが自我境界である。
そして、この自我境界の発達が進行しながら、
自分の力、全能感の限界に対して折り合いをつけていく。
これらの境界の背後には孤独があり、その孤独を苦痛と感じる。
そして、個人のアイデンティティの壁から出て、
外の世界ともっと融け合えるような状態に逃げ出したいと願っている。
そして、恋をすることが、この逃避を可能にする。
恋に落ちる現象の本質は
個人の自我境界の一部が突然崩壊して、
自分のアイデンティティが他者のそれと融け合うことである。
突然自分が自分自身から解き放たれて
孤独が劇的に終わりを告げる経験は、
ほとんどの人にとって天にも昇る気持である。
そして、恋は、やはり一時的であり
それは、自我境界が次第に、あるいは突然に元の位置に収まった時に恋は冷める。
この時点で、恋をした者たちは
関係を解消するか、本当の愛の作業を始めるか、のどちらかになる。
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この項、あと一回分ぐらいかけて
まとめたいと思います。