久しぶりに友人が家に来た。
ほんの1時間ほど話しただけだったが、やっぱり楽しいやつだ。最初生命保険会社に勤めていたのに、面白くなかったのか、同じ業界の他社に勤め始めたという変わり種。別に難しい話はしなかったが。

お互いにいまだに独身であることについて少し負い目を感じている。

あまりに夜が蒸し暑いので、とうとうエアコンのスイッチを入れてしまった。それにしても、エアコンの熱よりはパソコンの熱の方が地球に対しての悪さはたくさんしていると思う。そもそも普及の数が違うし。今年は6月まで頑張れただけでもよしとしようか。もう梅雨なのかな。
新刊が出ているのになかなか気づかず、シリーズが完結したという話を聞いて、最後の2巻を中古で入手して立て続けに読んだ。

読後感でいうと、ややあっけなかったかも。何人か、重要な悪人が出てくるのだが、そのやられ方がいかにも簡単で、トータル10巻分にもわたって張ってきた伏線(らしきもの)が回収されずに投げ出されてしまった感じがする。この人の書き方、あるいは伝奇小説にありがちな傾向ともいえるのだが、話を広げるだけ広げるが、風呂敷のたたみ方が分からない感じ。

まあ、番外編を書くかもしれない、と含みは残っているのだが、それでも、杏奈の君の恋の終わらせ方と、安倍清明の最終バトルのしょぼさは今更救えないような気がする。残念。いつの間にかタイトルである「陰陽寮」は話の舞台からかなり置き去りにされていたし。
買ってしまった、「クイーン・ビデオクリップ集」第1弾。LD時代にも何度も買ったものだけど、やはりDVDで手に入ると思うと、つい手が伸びてしまった。

ブライアンもロジャーも、それなりに歳はとっているけれども、「昔の名前で出ています」状態。

別に小遣い稼ぎ、という訳ではないのだろうけど、彼らこういう機会には嬉々として顔を出して、昔話をなんのてらいもなくしてくれる。ジョン・ディーコンがフレディの死とともに一切公式の場に顔を出さなくなったのとは対照的だ。まあ、二人はいつまでたっても表にいたい人たち、ステージ・マンなのだろう。

いろんなクリップが映像的にもリマスター・リフレッシュされて最善の状態で聞けるのはなんといってもうれしい。クリップ集1・2には最後のアルバムINNUENDOからのクリップはほとんど入っていないのだけれども、それはそれで別な計画でもあるのだろう。いろんな曲のバージョン違いがあり、そのすべてを網羅してはいないのは残念だが仕方ないともいえる。

個人的には一番の圧巻だったのは彼らのレコーディングの秘密の一端を解き明かす「メイキングオブBohemian Rhapsody」。なんといってもあの伝説的なオペラパートを記録したマルチテープの現物が目の前にあるというのが大きい。丁寧に修復されハードディスク上にコピーされたものを聞きながらレコーディング現場の雰囲気をブライアンの語りが伝えてくれる。

印象的だったのは、ブライアンがフレディのピアノを評して、「ドラマーが弾いてるみたいなピアノ」というところ。頭の中に絶対的なテンポ感があって、弾いていて他のパートとずれたりすることのない演奏なのだそうで、クリックを聞きながらレコーディングをしたことはないらしい。フレディというとクラシック畑の勉強も結構していたのではという印象があったのでこういう話を聞くと全部独学だったのだ、とビックリする。自分でコピーしていた立場としては、あそこはこう弾いていたのか、というのがピアノ単体で聞いてはじめて分かったりして。大変興味深かった。

さらに、有名なオペラパートのコーラスや、後半のロックパートのヴォーカル部分の録り方にまで話は及び、「フレディには全部ぴったり正確に合わせて歌う技量があったにもかかわらず、微妙にずらした歌い方をすることでほしい効果を得ていた」などという証言も飛び出した。

これだけの大作なので、訳す方も大変だったと思うのだが、一つ、とても目立った誤訳があった。それはコーラスパートについて説明しているときに「bounceバウンス」という言葉が頻繁に出てくるのだが、これは本来レコーディングの技術用語で、トラック間を「ピンポン=やりくり」することで、実際にあるトラック数以上の声部を重ね録りすることなのだけど、このbounceを、対訳の人は「ハネてるね」と訳していた。なんとなく、グルーヴがある、程度のことだと思ったのかも知れない。失礼ながら爆笑した。
最初ニモが主人公の話かと思って見始めたのだけど、実はバランスで言うと父親のマーリンの話がメインなのだと気づいてから見やすくなった。

かつて妻と子供たちを亡くした体験から、残された一人息子ニモを大切に育てようとするあまり、過保護に育ててしまった父親が、息子の冒険心を肯定できるか、というのがメインのストーリーなのだが、生物学的に見た時にも、これは興味深い観点と言えるだろう。

魚の世界では必ず起きる「確率的な死」というものを否定しながら生きようとしても、それは生きていないのと同義になってしまう、という一見矛盾した真理なのだな。途中でDoryがMarlinに語るところで、"I won't let anything happen to him."というのは無理だ、と言うのだけど、それは「確率的な死」という現象そのものも「生」の一部に他ならないからなのだ。徒然草にも「死は沖の方から迫ってくると思って遠くを見つめているけれども、じつは死は足下からやって来る」という意味の言葉があったと思う。

最近起きるさまざまな事故・災害の時に、メディアは個人的な悲劇、という観点から悲しみにフィーチャーしがちだが、本当にそれが報道において大切なことなのか、個人的には疑問に思う。人災だから、よりよい仕組みを考えるべき、というのは十分に建設的な考え方だが、事故はゼロにはできない。飛行機だってある程度の確率で起きるし、交通事故も同じだ。たとえば死因の第一位ががんになった、という報道があったときに、それは何を意味するのか。一位ががんでなかったとしても、何かが一位になる。老衰が一位でないとみんな我慢できない、ということなのか。人間の世界でもそんなことを思った。人間ほど、個人の幸福を追求する種はこの地球上にいない。何十億人、この地球上にいようとも、一人の不幸な死が我慢できないものになりつつある。「BLADE 3」でも生じた「人命の尊重と軽視」の問題とも結びついているのかもしれない。

特典映像のコメンタリーを見ると、当初は父親とニモの話を分けるべきかどうか最初は迷ったそうだ。結果的にはこれが大正解だったことがわかる。それぞれのシーンのカットバックの設定が非常にうまくいっていたなぁと感心。魚の世界の話だから、ありえない設定の導入はしかたがないところだが、サメまでがベジタリアン的なことを言い出すのはちょっと人間社会を連想させすぎかも。ウィレム・デフォーのキャスティングに感心したのと、企画のプレゼンの映像があって、そこで監督がエネルギッシュに企画を語っているところが非常に説得力があった。
前々から声をかけてもらっていたので、6月5日の恵比寿ガーデンホールでの追加公演に行くことに。アルバムを聴いた感じでは、もう一つだったのだけど、ライブの音を聴いてみると、これが意外なほどよかった。何がよかったか、というのは一概には言えないのだけれども、やはり彼らの曲はレコーディング技術を駆使しての遊び、というよりはちゃんとライブで演奏できる形態になっている、と言う点か。ヴォーカルの慶一さんもスタジオよりはずっとのりがいい。

会場についてみると、もう客層からして違う。中心は30~40代で、ホールのロビーにはタバコの煙が充満。今度のアルバムについての会話でも「何回か聴けば愛せるようになるかな…」的な、もういいか悪いかを超えたレベルでの許容度を問われているようなマニアの会話。個人的にはミックスがもう一つよくなかったのかも、とも思った。

事情があって女子高生と一緒に行ったのだけれども、彼女はひたすらかっこいい、と思ったらしい。あの歳であのかっこよさが分かる、というのは大したものだ、とも思った。

あとファンには朗報。ぎっくり腰で今回のツアーを全欠席していたかしぶち哲郎さんがアンコールでめでたく復帰、ドラムこそ叩かなかったものの、frou frouを熱唱していました。
ニューアルバム「P.W Babies Paperback」を買って聞いた。

ファンの方には申し訳ないのだが、実はこのグループのヴォーカルスタイルが苦手だ。というか、「歌う」ことを拒否しているかのように思われるこの「照れた」ヴォーカルスタイルに照れさせられてしまうのだ。それほどに、このグループは歌わないバンドだなぁ、というのが僕の印象だ。

一聴して思ったのは、「なんだかミュージカルか、ロックオペラみたいだなぁ」ということ。このグループが、ある時点からすでにmoonriders たり続けようとしている過程でバンドであることを止めてしまったからに思われてすでに久しいのだが、このアルバムでもmoonridersとしての刻印は随所に見られるものの、全体の装いがふだんのアルバムにもまして祝祭的かつ苦々しいのだ。タイトルから憶測交じりで言ってみれば戦後民主主義教育の申し子としての自らの失敗の半世紀を総括しようとしているように見える。レッテルを貼ってみるとすれば、moonridersのTommyか。
このタイトルをカタカナ表記されるのはちょっとかなわないので原題で。

前から予告編だけ観ていて、ちょっと興味のあるテーマをあつかっていたので、またまた歌舞伎町オールナイト。すでに町はWe will rock you一色なのだけど。

ちょっとネタばれの可能性もあるんだな、これが。だからこれから見ようという人は要注意。といっても、あの予告編を見てしまえばそれなりに予測つくでしょ?そう、あのまんまですよあのまんま。

Julianne Mooreという女優さん、もともとはコメディーの方が得意というか向いているかな、と思っていたのだけど、今回はストレートな母親キャラ。たとえ自分が実生活でこういう人にこの映画のようなシチュエーションで絡まれたとしても、この女性を病院に入れたくなっちゃうだろうな、というような偏執狂的な母親です。彼女だけが自分の息子が事故で死んだといつまでも嘆いていて、回りの人々はみんなそんな息子のことは知らない、お前はずっと心を病んでいたのだ、と説得する立場。

はじめは周りがみんな信じてくれないのだけど、一人だけ戦友のような立場の人が現れて、援護してくれるようになる、という話。最後にどんでん返し(でもないけど)的な真相が明かされて、ああやっぱり。

この話の一つのテーマが母性、なのだけど、ここまで一人の母親を特権的に描くことに意味があったのか、というのは最大の疑問。なぜ彼女だけが特別なのか、最後まで納得のできる説明はなかった。個人的には「Nine months」という映画に出ていたからだ、というのが一番納得できる説明かも。

あと、彼女一人をだますためにどれだけの苦労が必要か、ということを想像するだけで気が遠くなる。今回一つ笑える映像効果があって、それが一番見所だったかな。要するにこの映画では確か誰も死なないんです。死ぬ代わりにああいう目に遭っちゃう。後ろがひらけている景色だと結構効果的だった。

編集と音楽の使い方では戦友役の男の人が自分の娘の存在を思い出すところが一番美しかったかも。
森博嗣の「θは遊んでくれたよ」読了。ネタばれあるので、読もうと思っている人は要注意。

最近電車通勤の時間がちょっと短くなり、乗り換えの距離があるので、途中で本を読みづらい。

で、これは新しい西之園・犀川シリーズの第2弾なのだけれども、Vシリーズ・真賀田四季シリーズとの関連で最後のほうにあったネタばらしの構造を引きずった人間関係の設定がそのまま生かされているので、ちょっと貫禄のついた保呂草などもちょい役で登場。

森博嗣のデビュー当時はぜんぜん読んでいなかったので、彼のミステリー界における歴史的評価などをするつもりはないが、個人的に一番新鮮だったのは、やはり天才というもののひらめきの瞬間を描写するためにさまざまな人間像を伏線として豊富につぎ込むことだったかもしれない。そういういみでは、初期の不器用さすら漂う理系タイプの文体が、年を経るごとにやや読み手に親切に擦り寄ってくる感覚が、必ずしも心地よくはない。同じことは京極夏彦にも言えて、だんだん落ちが読みやすくなってくるのは本人の文章力が向上したからに違いない。伝える能力が向上するのは作家としてプラスばかりではないのだなぁ。

ただ、今回のシリーズでの特徴は犀川をさらに無口にした海月(くらげ)という青年を影の主人公として主な推理をあくまでも「仮説」という形で披露しながら、それを厳密な意味で検証することもせずに放り出している点だろう。これを推理ゲームの放棄ととることもできるだろうが、これは別な意味でのリアリティーに通じている。本当のことなど、当事者にだって分かりはしない。「真実」はなく、「解釈」だけがそこにあるのだ。

事件の終了とともに、それぞれの登場人物が「仮説」に対する自分の印象を語るシーンがかならずあり、それが読者のスタンスと一致してくるとき、このメタミステリーの構造はより強固なものとなるだろう。そしてたぶん、このシリーズが最終章を迎えるとき、まったく違う角度から光を当てられた「もう一つの仮説」がすべてを「F」にするのではないだろうか。
子供のころ実家には夏みかんの木があった。食べ終わった夏みかんの種を適当に庭に吐き出したらその中で何本か芽が出て、大して世話もしないのにすくすくと伸びてきたのだ。

この夏みかんの木、いまにしておもえばさまざまな経験をさせてくれた。

なぜなら、ここにはアゲハが卵を産みつけ、幼虫が育つさまを観察できるのだ。木の方はさして大きくもならずに、毎年葉っぱをつけるのだが、ここに毎年繰り返しアゲハの幼虫が住み着く。その食欲たるや成長につれて過激さを増して行き、毎年夏が終わるころには木が丸裸に近い状態になるのだ。

今にして思えばこれで枯れてしまわなかったのが不思議なくらいだが、子供のころはこれが普通であるかのように受け止めていた。ただ一人祖母は、こどもの昆虫への興味などには関心がなく、こちらの知らぬ間に「また害虫がついてる」と、アゲハの幼虫をひねりつぶしたりしたこともあったらしい。その祖母も15年ほど前に故人となった。

生態系というのは不思議なもので自分で自分を律する部分がある。アゲハの幼虫がもう葉っぱを食べつくしてしまうか、と思うころには幼虫が忽然と消えてしまうのである。これにはちゃんとした理由が二つあるのだが、それはまたあとで。

自然というやつは実に厳しい試練を彼らに与えていて、それはうちの祖母だったりしたのだけど、なんといっても一番の天敵はカラスだった。もうすぐ脱皮してさなぎになるぞ、とこちらが期待しているといつの間にかカラス、あるいはその手の鳥たちにかっさらわれてしまい、残念な思いをしたことがたびたびあった。

そんな思いをせずにちゃんとちょうになる姿を見る方法はないものかと、こちらも考えた挙句、これならという方法を思いついた。箱庭作戦である。ようするに、枝ごと切り取って、室内で飼う、という方法だった。アゲハの幼虫は、ミカンの他、サンショウの木にもついたりするが、サンショウの木だとうまくいかない。切り取って1~2日でかれてしまうのだ。その点おなじ柑橘系でもミカンの葉は長持ちで、1週間から10日は幼虫がえさにできる程度の鮮度を保っている。

この枝を適当な長さに切って、お歳暮などの空箱に入れておくだけである。なんでこんな簡単なことを早く思いつかなかったのか、われながらうかつだった。別に上にフタもせずにほうっておいたが、幼虫たちは別に逃げ出す様子もなく、枝の上だけをはい回って元気に育っていた。

しかし、甘かった。

ある日、箱を見ると幼虫がいないのである。そして、箱の中には妙なものが。妙にどろどろとした緑色の物体。幼虫の体よりはいくぶん小さい。どうやら幼虫が出したフンのようにも見えた。ふだんは乾いた、ころころのフンを出すのだが、幼虫が姿を消す時に限って、かならずこのどろどろのフンが後に残されたものだった。この時の幼虫は不幸にもソファのしたでペチャンコになって回収された。以後はアゲハの箱には穴を開けたサランラップをかけることにした。

で、アゲハの幼虫の逃げ方を見て、以前から不思議に思っていた点が解消された。

普段は動きがかなり鈍く、とても枝を降りるとも思えない彼らがなぜ、急に逃げ出したのか。その謎を解くヒントはゆるくなったフンにあった。

枝を取り込んで室内で飼う前にも、幼虫が急に消えてしまうことは時々あった。そんなときはカラスにでも食べられてしまったのだろうと思っていたのだが、同じころに、みかんの葉の上には、やはりゆるくなったフンのようなものが見つかっていたのだ。初めのころは、これがカラスに食べられた後の幼虫の残骸では、ぐらいに思っていたのだが、これはとんだ勘違いだった。これは、アゲハの幼虫の「羽化宣言」だったのだ。と思う。

以下は素人考えの推測に過ぎないが、そう的外れな解釈でもないと思うので、間違っていると思った研究者の方はご指摘ください。

幼虫の気持ちになってみると、この「ゆるフン」が出ることで、葉っぱを食べるだけの段階は終わり、さなぎになる場所を探せ、という本能からの指令が出る。もしかしたら猛烈におなかが痛いのかもしれない。それでたまらなくなって、極端な場合は枝を降りてまで、さなぎになるために安定のいい場所、というのが見つかるまで、彼らは放浪の旅にでるのだ。と思う。

あとは単純な話、さなぎになって羽化するだけだ。

この関連性に気づいてからは、幼虫を無駄死にさせることもなく、無事に室内で羽化させてから野生にかえす、という習慣がついた。学校や仕事で忙しくなって面倒が見られなくなるまでは、この習慣を続けたと思う。箱庭育成で食べたえさはちょっと鮮度が落ちていて、栄養状態はよくなかったかもしれないが、それでも彼らの子孫は今でも生き延びているのではないかと、時々ロマンチックな幻想を抱いている。