森博嗣の「θは遊んでくれたよ」読了。ネタばれあるので、読もうと思っている人は要注意。

最近電車通勤の時間がちょっと短くなり、乗り換えの距離があるので、途中で本を読みづらい。

で、これは新しい西之園・犀川シリーズの第2弾なのだけれども、Vシリーズ・真賀田四季シリーズとの関連で最後のほうにあったネタばらしの構造を引きずった人間関係の設定がそのまま生かされているので、ちょっと貫禄のついた保呂草などもちょい役で登場。

森博嗣のデビュー当時はぜんぜん読んでいなかったので、彼のミステリー界における歴史的評価などをするつもりはないが、個人的に一番新鮮だったのは、やはり天才というもののひらめきの瞬間を描写するためにさまざまな人間像を伏線として豊富につぎ込むことだったかもしれない。そういういみでは、初期の不器用さすら漂う理系タイプの文体が、年を経るごとにやや読み手に親切に擦り寄ってくる感覚が、必ずしも心地よくはない。同じことは京極夏彦にも言えて、だんだん落ちが読みやすくなってくるのは本人の文章力が向上したからに違いない。伝える能力が向上するのは作家としてプラスばかりではないのだなぁ。

ただ、今回のシリーズでの特徴は犀川をさらに無口にした海月(くらげ)という青年を影の主人公として主な推理をあくまでも「仮説」という形で披露しながら、それを厳密な意味で検証することもせずに放り出している点だろう。これを推理ゲームの放棄ととることもできるだろうが、これは別な意味でのリアリティーに通じている。本当のことなど、当事者にだって分かりはしない。「真実」はなく、「解釈」だけがそこにあるのだ。

事件の終了とともに、それぞれの登場人物が「仮説」に対する自分の印象を語るシーンがかならずあり、それが読者のスタンスと一致してくるとき、このメタミステリーの構造はより強固なものとなるだろう。そしてたぶん、このシリーズが最終章を迎えるとき、まったく違う角度から光を当てられた「もう一つの仮説」がすべてを「F」にするのではないだろうか。