新・ユートピア数歩手前からの便り
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場所を充実させる場の力(9)

絶えず或る声が聞こえてくる。「お前の思耕は無駄だ。自分では使命だなどと気取っているが、誰も必要としていない。無駄と言うよりも余計なお世話だ。百害あって一利なし。そもそも場所の充実とは何か。ただそこで生きているだけでは駄目なのか。居場所があれば、それでいい。そして生きていれば、そこを可能な限り生活に適した場所にしたくなる。凸凹道を舗装したり、インフラを整備したりする。それ以上の充実など必要ない。おそらく、お前はこれを水平的充実にすぎないと言うだろう。根源的生命であるゾーエーを充実させる生活。それが不可欠であることは誰もが認めている。お前も例外ではない。ところが、お前は更に人生は水平的充実に尽きるものではないと言い放ち、ゾーエーとは次元を異にするビオスの充実を問題にする。人はパンのみにて生くるにあらず。肉体の糧としてのパンがゾーエー充実の象徴だとすれば、ビオスの充実にはパン以上の何かが必要になる。お前はそれを魂の糧と称し、水平的充実に対する垂直的充実について思耕し始める。オレに言わせれば、そうした二元論的思耕が無駄なのだ。ビオスはゾーエーの一部にすぎない。ゾーエーが充実すればビオスも自ずと充実する。と言うより、ビオスの充実がゾーエーの充実を更に一層輝かせる。ゾーエーがパンだとすれば、ビオスはその上に塗るバターやジャムだ。ゾーエーとビオスは一体であり、二つで一つの充実を生む。垂直的充実など必要ない。水平的充実だけで十分だ。場所の充実も水平的充実の一つであり、そこに場の力が働く余地はない。」本当にそうだろうか。ゾーエーとビオス。肉体の糧と魂の糧。水平的充実と垂直的充実。私はそれらを二元論的に理解していない。垂直的充実は水平的充実を包括する。その意味について最後に思耕したい。それは決して無駄ではないと信じている。

場所を充実させる場の力(8)

輿論と世論は異なる。ネットによれば、その差異は次のようにまとめられる。

 

輿論:理性的、建設的。議論に基づいて合意された「天下の公論」。

世論:感情的、一時的。世間一般に広がる雰囲気や空気に反映している「民意」。

 

現代社会は明らかに世論で動いている。「選挙によって民意を問う」などと言われるが、その民意は多数決によって弾き出された世論にすぎない。確かに、世論が醸し出す雰囲気や空気には真実がある。それが民意であることも否定できない。しかし、真理ではない。真理は多数決では得られない。百人の内、九十九人が賛成しても、一人の反対に真理が宿ることもある。九十九人の真実と一人の真理。前者に基づく政治が民主主義だとすれば、後者に基づく政治は何か。独裁主義か。断じてそうではない。一人の真理の「一人」は多数決の原理を超えている。真理を胚胎する「一人」は九十九人と対比される一人ではない。それは数の比較を絶する単独者だ。単独者による議論が輿論を形成する。ただし、単独者が独裁者に転落する危険性は常に潜在している。フェイクニュースなどで真実を捻じ曲げ、世論を操作して自分に都合のいい「民意」を捏造する。そんな「民意」の仮面をつけた独裁主義に比べれば、民主主義の方が遥かにマシだと思われるだろう。しかし、独裁主義は民主主義の堕落態だと考えるべきではないか。どちらも「民意」に支持されていることに変わりはない。「民意」が間違うことは大いにあり得る。その間違いを正すのが真理に他ならない。とは言え、世論の「民意」という真実と輿論の「天下の公論」という真理を見極めるのは至難の業だ。世論も輿論も水平の次元における「本当」を目指している。それにも拘らず、そこに真実と真理という差異が生じるのは、真理には垂直の次元を切り拓く「場の力」が働いているからだ。我々は絶えず真実と真理に引き裂かれる現実に生きているが、究極的には「場の力」がその現実を理想へと高めていく。

場所を充実させる場の力(7)

天井板の木目に幽霊を見る。木目が現実なら、幽霊は幻想だ。私だけが木目に幽霊を見るのではないとしても、幻想を現実だと言い張れば狂人と見做される。木目が幽霊のように見えるだけであって、幽霊は実在しない。木目が「実」で、幽霊は「虚」だ。幽霊は木目のコンステレーションから私が創った幻想に他ならない。では、この幻想に意味はないのであろうか。言い換えれば、木目の現実だけを見る人生に意味はあるのか。確かに、あるがままの現実に真実はある。木目は木目でしかない。しかし、生きるに値する意味はむしろ幻想にあるのではないか。「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である」とはニーチェの言葉だが、幻想にこそ真理が宿ると私は考えている。「クレーターだらけの月」という現実と「兎が餅つきする月」という幻想。前者の真実を無視するつもりはないが、後者の真理を私は問題にしたい。もとより一口に幻想と言ってもピンからキリまである。中には複雑な危険性を孕んでいる幻想もある。木目に幽霊を見る程度の幻想であれば幽霊屋敷や様々な怪奇小説・映画などの娯楽に発展するだけだが、例えば天皇に神を見る共同幻想はどうか。それは大谷翔平や推しのアイドルに神を見るのと何が違うのか。或る場所が聖地になるように、あらゆる幻想には場の力が働く。「アバタもエクボ」も例外ではない。幻想を生み出す場の力。それが真理かどうかを見極めるのは容易ではないが、「本当」に生きるためには不可避だ。人は真実のみにて生くるにあらず。さりとて真実を隠蔽あるいは歪曲する悪とは徹底的に戦わねばならない。悪の力と真理の魔力は紙一重であることを常に肝に銘じながら。

場所を充実させる場の力(6)

平成四年(1992)に放送された『河合隼雄の最終講義:こころを探る』という番組の再放送を観た。そこで河合氏はユングのコンステレーションについて説明していたが、図らずもそれは私が上手く表現できないでいる「場所を充実させる場の力」の参考になると思った。夜空に広がる無数の星々。そこから人は例えば「蠍座」というコンステレーションを見出していく。それは無数の星々から「蠍座」という布置(もしくは配置)を創ると言ってもいいだろう。「ふるさと」も然り。四つの大きな島とそれに連なる小さな島々の布置から「日本」を生み出す。ただし、「蠍座」は目に見える場所だが、「日本」は目に見えない場だ。そこに大きな違いがある。尤も、この点に関する私の理解は未だ曖昧であり、コンステレーションが目に見える現象だとすれば、「日本」もまた「ふるさと」の元型(archetype)から生まれた現象なのかもしれない。それに、目に見えないのは「ふるさと」であって「日本」は現象だとしても、それは時代によって大きく異なる。古代の「日本」、中世の「日本」、近代の「日本」…。「蠍座」の布置は永久にそのままだが、「日本」は絶えず変化していく。すでに昭和の「日本」さえ現代(令和)の「日本」からズレている。しかし、そうした通時的なズレにも拘らず、その変化を垂直に貫く「ふるさと」がある。私はその不可視の「ふるさと」を表現したいと思っているが、それは原理的に不可能な試みに他ならない。表現とは一種の可視化であり、不可視のものを可視化できる道理がない。表現できるとすれば、それは「ふるさと」の働きだけだ。光があるから影ができる。影に光を当てれば影は消える。「ふるさと」は光と影を超えて働くものの、光と影の世界に現象する。

場所を充実させる場の力(5)

難民は「最適の場所」で生活するために「ふるさと」を棄てたように見える。確かに、祖国を去ることを余儀なくされたのは事実だ。荒廃した祖国はもはや「ふるさと」ではない。しかし、それでも「ふるさと」を棄てたわけではない。棄てられるわけがない。戦火のない、抑圧のない「最適の場所」を見つけられたとしても、そこに「ふるさと」という場の力が働かなければ安住の地にはならない。以前にも述べたように、被災地からの避難者についても同様のことが言える。変わり果てた故郷はかつての故郷ではない。しかし、「ふるさと」が死んだわけではない。当面は瀕死の故郷を再び快く生活できる「最適の場所」へと復興することが課題になるが、それだけでは「ふるさと」は甦らない。「最適の場所」の復興と「ふるさと」の再生は質的に全く異なっている。また、已む無く故郷から遠く離れた場所への移住を余儀なくされ、そこに新たな「最適の場所」を創る決心をした場合でも、同様の問題に直面するに違いない。これは「立派な建物としてのハウスを新築しても、そこが魂の安らぐホームになるとは限らない」という問題に通底している。とは言え、身の安全や経済的豊かさといった水平的充実は無視できない。それこそが最重要課題だという見解もあり得る。ハウスなくしてホームなし。余談ながら、「1万キロに人生かけて:中国ドライバー ロシアへ」と題する『NHKスペシャル』を観た。それは過酷な条件での労働を余儀なくされている中国の長距離トラック運転手の現実を報じるものだ。欧米による経済制裁で物不足に陥っているロシア。そこにビジネスチャンスがあると見た中国の資本家はロシアへの物流で大儲けを企む。言うまでもなく、その大儲けを可能にするのは常に危険と背中合わせでトラックを運転し続けている末端の労働者たちだ。肥え太る豊かな資本家と瘦せ細る貧しき労働者。この相も変らぬ構図に囚われて、労働者は一向に貧しさから脱け出せない。そんな労働者にとっては安楽に生活できる「最適の場所」こそが問題であろう。「ふるさと」など眼中にない。従って、先の構図を粉砕する「世界の水平化」が切実に待ち望まれる。実際、大金が稼げるなら労働者は何処にだって行くだろう。多少危険な場所でも意に介さない。もとより出稼ぎの場所は何処も「最適の場所」には程遠いものの、「ふるさと」が彼等にとって不要不急の場所であることに変わりはない。しかし、「本当」にそうか。労働者の厳しい「本当」に直面して自信が揺らぐが、「ふるさと」は水平の次元では不要不急でも垂直の次元では究極的な意味を持つ。私はやはりそう思わずにはいられない。甘いだろうか。

場所を充実させる場の力(4)

東京で駄目なら名古屋があるさ

名古屋が駄目なら大阪があるさ

越後で駄目なら津軽があるぜ

津軽が駄目でも北海道があるさ

 

水前寺清子はそう励ましてくれるが、北海道でも駄目なら何処へ行けばいいのか。アメリカへでも行くか。けれども、無闇に「最適の場所」を求めて彷徨い続けても埒が明かないだろう。そもそも東京で一旗揚げようと夢見たのがいけなかったのかもしれない。東京へゆくな、ふるさとを創れ。さりとて夢を見るのが悪いわけではない。むしろ、それは不可避だ。「東京で勝負したい!」という野望を誰も抑え切れない。勝負を避けて平穏無事な毎日を維持しても退屈なだけだ。ただし、勝負を懸けるのはいいが、勝負の場所を変えても根源的な問題の解決にはならない。重要なことは場所を変えることではなく、場所を充実させることにある。私はそう思う。東京でも生まれ故郷の田舎でも外国でも何処でもいい。更に言えば、場所を一つに限定する必要もない。好きな場所へ行けばいいし、行かなくてもいい。ひたすら場所を充実させることに集中せよ。では、「場所の充実」とは何か。私は二つに分けて考えたい。水平的充実と垂直的充実だ。前者は「最適の場所」として、後者は「ふるさと」として、それぞれ求められる。そして、二つの充実が相即して「理想の場所」が創られる。「ふるさと」を欠いた「最適の場所」は単なる金儲けの地にすぎない。逆に「最適の場所」から取り残された「ふるさと」は限界集落と化す。「最適の場所」ばかり求められる昨今、当面は「ふるさと」の復活に注目すべきだ。故郷喪失は今や難民だけの問題ではない。

場所を充実させる場の力(3)

棄民があるなら、棄国もある。いや、あるのが当然だ。ただし、国が民を棄てるのは道義に反するが、民が国を棄てるのは道義を超越している。と言うより、道義など問題にならない次元で民は国を棄てる。人は生まれる場所を選べないが、生活する場所を選ぶ可能性はかろうじて残されている。もとより容易なことではない。都会に生まれるか、田舎に生まれるか。金持の家に生まれるか、貧乏人の家に生まれるか。人の運命はそれぞれなれど、新しき場所はその運命を打開する契機になる。生まれ育った祖国を棄てざるを得ぬ難民は言うに及ばず、自由が抑圧される国では比較的自由な国への移住を望む人の後が絶たない。残念ながら、そうした移住が可能なのは一部の富裕層に限られるのが現実だが、もし全ての人に生活する場所を選ぶ自由と権利が与えられたら、それは理想の実現を意味するだろうか。私は甚だ疑問に思う。能力(経済力も含む)のある人は既に恰も大学の志望校を選ぶかのように生活する場所を決めているが、それは夢の実現ではあっても断じて理想の実現ではない。そもそも「生活したい場所」とは何か。おそらく「治安が良くて金を稼げる場所」であろう。人は安心安全に暮らせる「最適の場所」でそれぞれの夢の実現を目指す。結構なことだが、「最適の場所」を理想とするには何かが足りない。それは一体何か。

場所を充実させる場の力(2)

かつて新しき村で生活していた時、「新しき村は駆け込み寺か」という問題について話し合われたことがあった。村には時々、奇妙な人がやって来た。様々な理由で、学校に、職場に、家庭に、居場所を失った人たちだ。皆、一様に病的な感じだが、生きることには真剣なように思われた。何度も自殺未遂を繰り返したと言う人もいたが、偶々図書館などで実篤や新しき村関連の本に接して、「そこは人間らしい生活ができる場所かもしれない」という希望を懐いたらしい。そんな彷徨える人たちを村は拒絶した。その理由として挙げられたのが「新しき村は駆け込み寺ではない」という一言だった。当時の村は経済的に苦しく、金を稼げる労働力になりそうにない病的な人を受け容れる余裕はなかった。それが現実だ。しかし、理想社会の実現を目指す新しき村が現実に苦しんでいる人を見棄てていいのだろうか。理想を忘却した現実主義に支配された場所はもはや新しき村ではない。私はそう思ったが、さりとて現実を忘却した理想主義では空想の場所になってしまう。率直に言って、新しき村は現実に絶望する人たちの駆け込み寺であるべきだが、村の本質は駆け込み寺に尽きるものではない。私はそう考えている。虐待に苦しむ児童にシェルターが必要なのは当然だが、そこはあくまでも仮住まいの場所にすぎない。児童が本来生活すべき場所ではない。難民の場合も然り。難民にもシェルターとなる場所(国)が必要になるが、そこが本来の場所になるかどうかは別問題だ。そこには「場所を充実させる場の力」が要請される。再び新しき村の場合に即して言えば、新しき村という場所を理想社会へと充実させるためには「新しき村の精神」に象徴されるような場の力が不可欠だ。それは垂直の次元からやって来る。

場所を充実させる場の力

「移民たちのヨーロッパ:寛容と排斥の80年」と題する先日の『映像の世紀バタフライエフェクト』を観て、複雑な思いに駆られた。様々な理由で難民は生まれる。主に政権の腐敗堕落によるものだろうが、民衆は已む無く祖国という場所を棄てざるを得なかった。被災地からの避難者のように。そうした生活困窮者を積極的に受け容れてきたヨーロッパ諸国の理想主義は実に尊い。心からそう思う。しかし、受容した移民が増え続け、今やその国の大半を占めようとしている。その現実に直面して、ヨーロッパ各国では移民を排除する動きが強まっていると言う。寛容の理想主義と排斥の現実主義。この二つに引き裂かれるのは決してヨーロッパだけの問題ではない。世界全体の問題だ。日本でもクルド人難民や福島からの避難者を差別するという問題が生じている。もとより難民と避難者を同列に扱うべきではないが、どちらも「余所者」であることに変わりはない。「余所者」でも、困っているなら助けるのは当然のことだ。誰しも善きサマリア人のように行動すべきであり、排外主義は明らかに水平の「本当」に反している。とは言え、「余所者」の異化にも水平の「本当」がある。「余所者」の同化と異化が難民問題を複雑にしている事実は否めない。生命の危機に瀕している「余所者」の受容は当然だとしても、それは「余所者」の同化まで要請するものだろうか。一般的に難民は安全かつ快適に生活できる場所を求めて荒廃した祖国を出たのであって、受け容れてくれた国に同化するつもりはない。勿論、その新たな場所で生活するためには、その場所の言葉や文化の学習が必要になる。しかし、それはその場所への同化ではない。例えば、いくら日本語がペラペラで日本での生活に全く支障がなくなっても、それは日本人になることではない。ましてや日本への同化を拒絶して、移民の祖国での生活をそのまま日本で再現しようとするならば、それは一種の文化的侵略と見做されても仕方がない。これは立場を逆転させて、多くの日本人がアメリカに移住した場合でも同様のことが言える。「移民の国」と称されるアメリカでも一民族がその固有の文化で目立ち過ぎることには抵抗を示す。私は決して移民に同化を強要するつもりはないが、「日本は日本人が生活する場所だ」とは思っている。果たして、これはナショナリストの偏見にすぎないのだろうか。私もまた「余所者」を排除する狭隘な差別者なのか。そうではない理路への思耕を試みたい。

別世界に至る病

スヴィドリガイロフは明らかに病的だ。彼には亡霊が見えるらしい。こんなことを語っている。

 

亡霊は言わば別世界の小さな断片、別世界の要素だ。健康な人には、当然それが見えるわけがない。何故なら、健康な人は完全な地上の人であるからだ。従って、充実のために、更に秩序のために、この地上の生活だけをしなければならない。ところが、少しでも病気になると、つまりオルガニズムの中でノーマルな地上の秩序が少しでも破壊されると、直ちに別世界の可能性が現れ始める、そして病気が重くなるにつれて、別世界との接触が大きくなり、そうして人が完全に死ぬと、そのまますぐに別世界へ移る。

 

スヴィドリガイロフに亡霊が見えるのは、彼が「本当」に生きようとしているからだ。そして、「本当」に生きようとするから病んでしまう。地上の世界を水平の次元と解するならば、その生活だけに専心できる人は健康だ。とは言え、生活がいつも安定しているとは限らない。天災に人災、様々な要因で不幸が訪れ、人は地上の生活に絶望する。その時、別世界への可能性が開く。地上では得られなかった幸福が別世界にはあるように思われる。やがて亡霊も見え始める。しかし、亡霊も別世界も畢竟病の産物にすぎない。どんなに生活が苦しくとも、我々が現実に存在し得る場所は地上にしかない。勿論、地上に別世界を求めることは可能だ。実際、それは様々なコミューン運動として歴史に現れている。しかし、その殆どはユートピアを目指しながら結局ディストピアに堕すという運命を辿っている。何故か。重力が支配する水平の次元には限界があるからだ。そこでその運命を克服するために垂直の次元が要請される。ただし、垂直の次元は別世界ではない。繰り返し述べているように、垂直の次元は「何処にもない場」であり、地上に特定の場所を占めることはない。問題はそうした垂直の次元の地上での働きにある。水平の「本当」から垂直の「本当」へ。それは病みつつ生きることに他ならない。

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