新・ユートピア数歩手前からの便り
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補足:「自同律の不快」と異化

嫌な奴とは付き合わなくてもいい。仲良くしたい人とだけ付き合えばいい。そんな人がいなければ一人でいればいい。しかし、一人でいることは可能なのか。孤独になることはできるが、部屋に閉じこもっても一人にはなれない。孤独を深めれば深めるほど、一人になれない原事実を思い知らされる。「自己という他者」がいるからだ。孤独において私は私と向き合うことを余儀なくされる。私は単独者になる。単独者は自己自身の異化から生き始める。それは「自同律の不快」を噛み締めるということだ。「私は私である」と言い切れない。主辞の私と賓辞の私がズレるからだ。私は私に同化したいのに、主辞の私は賓辞の私に包摂されることを頑なに拒む。そこに私が一人になれない理由もある。私は同化に値する私にならねばならない。かくして主辞の私は理想とすべき賓辞の私を求める旅に出る。その旅の途上で私は私以外の他者と出会う。そこで「人間の複数性」を自覚する。人は単数では未だ人間ではない。個としての人は「自同律の不快」を克服できず、賓辞の私は主辞の私から遠ざかるばかりだ。人が人間になる。それは「人間の複数性」を自覚して、「我である我々・我々である我」という理想に辿り着くことに他ならない。無論、その理想は未だ遥か遠くにあるのが現実だ。私は理想主義に徹する覚悟は決めているものの、現実は常に私を忸怩たる思いに陥らせる。私は一介の日和見主義者と罵られても仕方がない。因みに昨日、『政治犯にされて:クレムリンに抗う声』という昨年制作された海外ドキュメンタリイを観たが、ロシアの言論弾圧の現実を垣間見て、改めて理想主義の無力さを痛感した。反体制者の声を圧殺する警察や軍隊などの暴力もさることながら、反体制者を当局に密告する市民の存在がより絶望的だ。その中には教え子を売った教師もいれば、その逆に教師を売った生徒もいた。どうして人はこんなにも醜悪になれるのか。プーチンとその独裁体制を心から支持しているのか。それとも単なる保身から已むを得ず支持しているだけなのか。どちらにしても、そうした人々に「自同律の不快」の片鱗も見られないのが不思議で堪らない。ロシアでも中国でも、市民に銃口を向ける兵士たちが『戦艦ポチョムキン』の兵士のように銃口の向きを変えるにはどうすればいいのか。昨日観たドキュメンタリイのように、現実にそこで何が起こっているかを世界中に伝えるジャーナリズムの使命は大きい。しかし、現実を正しく(フェイクニュースや体制側のプロパガンダに踊らされることなく)認識することは極めて重要だが、その現実を変革するのはやはり理想の力ではないか。現実の暴力に対して理想主義は余りにも無力であるものの、その無力に全てを懸ける人の情熱を私は信じたい。人は必ず人間になれる。

補足:「呪われた部分」と異化

昔の映画を観ていると、病院であれレストランであれ、所構わず喫煙している場面によく遭遇する。そして、周囲にそれを咎める気配は全くない。他にも、セクハラ、パワハラ、モラハラと何でもありの過酷な職場、暴力団が蔓延る盛り場など、今では考えられない光景ばかりだ。そんな無法地帯のようなかつての社会に比べれば、現代社会は格段に健全になった。公共の場所はほぼ全面的に禁煙となり、働き方改革が徹底され、街には防犯カメラが張り巡らされている。コロナ以降、衛生面での管理も強化された。こうした傾向は今後ますます顕著になっていくものと予想されるが、果たしてこのままでいいのだろうか。善良なる市民の多くは管理社会の強化を歓迎しているように見受けられる。それは今回の選挙結果にも反映している。国防は言うに及ばず、政治経済のあらゆる分野で管理統制された方が、国民は幸福に生活できる。完全なる管理の下での幸福――これは正に大審問官の論理ではないか!成程、その論理はこの世界をパラダイスにしてくれるかもしれない。実際、かつては当たり前のこととして容認されてきた理不尽なことがもはや許されなくなった。社会は確実に合理化されている。しかし、私はそんなパラダイスにどうしても同化する気になれない。狂っているのだろうか。私はむしろ、パラダイスを異化せんとする意志に駆られている。さりとて当然のことながら、それはかつての非合理的で不健全な社会に戻ろうとすることではない。合理的で健全な社会が悪い道理はない。それにも拘らず、私はそれを異化すべきだと思う。何故か。バタイユは人間の活動における生産的消費の「祝福された部分」と非生産的消費の「呪われた部分」という区別について述べているが、「世界の異化」への意志は私の「呪われた部分」だとしか今の私には言えない。生産して消費する。それを繰り返して資産を増大させていくパラダイス。その異化は世界を消尽するものでしかないのか。

補足:合理化と異化

異化はどのように生まれるのか。余談ながら、2007年に放送された朝ドラ『どんど晴れ』の再放送を毎朝観ているが、今は老舗旅館の改革をめぐる軋轢が描かれている。横浜の大きなホテルで精力的に働いていた男(主人公の女性の婚約者)が生まれ育った盛岡の老舗旅館を継ぐ決心をする。そこはかつて自分の母親(既に他界)が女将をしていた実家でもある。近代的なホテルから伝統的な老舗旅館へ。その転向にはそれなりの覚悟があったと思われるが、彼が最初に着手したのは赤字続きの老舗旅館の経営改革、具体的には板場の無駄の多い仕入れの是正であった。言わば経営の合理化だ。無駄を省く。健全な経営にとって当然のことだ。ところが、その改革は板場を中心とした大きな反撥を招く。何故か。無駄が多いのは事実だが、そうした仕入れの仕方が老舗旅館の伝統だからだ。これに対して、強引に改革を推し進めようとする男には伝統が目に入らず、そこには悪しき慣習しかない。伝統か、悪しき慣習か。その見極めは難しい。建設業界の談合もそうだが、伝統の名の下に既得権益という甘い汁を吸っているだけの場合もある。男の改革がどのような結果を導くのか、今後のドラマの展開を見守るしかないが、それが老舗旅館の経営にとって異化の働きをしているのは間違いない。ただし、その改革が伝統を無視して単なる合理化に終始するようなものであれば、それは真の異化とは認められない。もしコスパとかタイパというような合理性だけの改革であるのなら、老舗旅館はどんどんホテル化していくだろう。伝統は失われ、効率性だけが追求される。さりとて無駄の多い伝統を容認すれば、老舗旅館は一部の富裕層のみが利用できる場所に堕していくに違いない。伝統への同化とそれに対抗する合理化。異化は合理化を超えていく。

同化と異化(10)

この世界の異化は断じて別世界への逃避ではない。そもそも逃避できるような別世界という場所はない。「宗教は民衆の阿片」と言うけれども、民衆がこの醜悪な世界とは別の世界に救いを求めるのは理解できる。宗教に限らず、凡百の文学が描くユートピアも然り。生きることの苦しみに耐え切れず、已むを得ず別世界に救いを求める。しかし、その救いはやはり自己欺瞞でしかない。むしろ、真の宗教やユートピアはそうした別世界への逃避という救いの拒否から始まる。その拒否こそ異化に他ならない。異化は別世界への逃避の拒否であると同時に、この世界への同化の拒否でもある。殆どの人は生活のために「この世界は何か間違っている」と感じながらも結果的に同化を余儀なくされている。寄らば大樹の陰。同化すれば仲間外れにされることもなく、それなりの幸福が約束される。さりとて皆が右を向いている時、あるいはその逆の時に異化を貫くことは容易ではない。それに皆が右を向いている時に左を向くこと、あるいはその逆は異化の単なる切掛(始発点)にすぎない。例えば、皆が白人優位を疑わない社会で黒人優位を主張することに異化の本質はない。異化は逆行に尽きるものではなく、その先にある同和の理想を目指す。白人優位でも黒人優位でもなく、「かつて奴隷だった者の子孫とかつて奴隷の主人だった者の子孫が友愛のテーブルを囲んで一緒に座る」理想だ。こうした同和の理想は言わば同化と異化のcoincidentia oppositorumだが、この理路だけでは単なる画餅だろう。言うまでもなく、問題は「その理想を如何にして実現するか」であり、当面の課題は「異化の拠点」の構築に他ならない。繰り返し述べているように、私はその拠点を「新しき村」に期待した。今やその期待は失望に、更に絶望に転化しているが、「異化の拠点」づくりへの期待そのものが死んだわけではない。ただし、それはもはや「新しき村」を新しく創るという期待ではあり得ない。凡そ百年前に実篤が創った「新しき村」を現代にそのまま再現しても意味がない。実篤の理想および「新しき村」の精神は尊重すべきだが、日本もしくは世界の何処かの土地を購入して、そこに理想郷を建設するという発想は今や決定的に古くなった。それは結局、別世界の発想を超えるものではない。誤解を恐れずに言えば、「異化の拠点」はもはや場所ではあり得ない。それは「何処にもない場」であるべきだ。この矛盾に満ちた言葉をどう理解すればいいのか。場所から場へ――更に思耕を深めていきたい。

同化と異化(9)

異化と言えばブレヒトの演劇理論である「異化効果」( Verfremdungseffekt)が連想されるが、Verfremdungは哲学では「疎外」と訳されることが多い。日常的に繰り返される同じことに不図fremdな感じを懐く。何かおかしい、本当ではない。殆どの人が当然のこととして生活している世界から疎外される。アウトサイダーになる。それは正に或る朝突然、甲虫になったような感覚ではないか。そうした異化から新しき世界は生まれる。未だ何処にもない世界。しかし、どうして新しき世界に執著するのか。世の中には既存の世界のままでいいと思っている人の方が未だ大半かもしれないが、「このままでは駄目だ!」と世界の一新を熾烈に希望する人も少なくない。既存の世界に生きる絶望と新しき世界への希望は表裏一体だが、そこから生まれるドラマを私は摸索している。そのために玉石混交、様々なドラマを観続けているが、どうも二つに大別できるような気がする。一つは娯楽のドラマであり、総じて物語への同化(感情移入)によって感動(カタルシス)を生み出すことを目的としている。それが水平の次元に終始するのに対し、もう一つのドラマは物語の展開の異化によって垂直の次元を切り拓いていく。では、「物語の展開の異化」とは何か。それは単なる違和感ではない。それ以上のものだ。違和感なら娯楽のドラマにも珍しくない。その典型がイヤミス(読んでイヤな気分になるミステリー)だが、その嫌な気分と異化は質的に異なっている。怪談(ホラー)や幻想小説、SFやファンタジーなども別世界へ誘ってくれるが、そこに垂直性があるドラマは極めて稀だ。とは言え、私は娯楽のドラマを否定するつもりはない。むしろ、十分に楽しんでいる。しかし、異化のドラマには娯楽の面白さを超える何かがある。その何かを表現するために、この拙い便りを書き続けているものの、なかなか理想には辿り着けない。選挙もほぼ大方の予想通りの結果に終わりそうだ。当分、既存世界に同化するドラマが続くに違いない。新しき世界へのドラマは如何にしてこの世界を異化できるのか。

同化と異化(8)

世の中は概ね多数決で動いていく。選挙も一票でも多く獲得した者が勝者となる。そして、その結果は民意の表明と見做される。多数派の意見が民意――それが民主主義の原理だ。しかし、そこに真理はあるのか。真理は多数決で得られるのか。そもそも多数決と言うけれど、それぞれの一票の重さは違う。チャラチャラしたミーちゃんハーちゃんの一票と学識あるエライ先生の一票が同じである筈はない。これは差別であろうか。余談ながら、いつの間にか冬季オリンピックが始まったが、スピードや距離を競う種目の勝敗は誰の目にも明らかであるのに対し、判定による種目の勝敗は素人にはよくわからない。例えば、フィギュアスケートの厳正なる審判員になるためには、それ相当の知識と経験が要求されるだろう。単なるフィギュアのミーハーに務まるわけがない。選挙も同様…と言いたいところだが、選挙は特別な芸術性や技術性を判定するものではない。日常生活には専門家も素人もない。もし政治経済に詳しい専門家だけで選挙が行われるなら、それはやはりおかしなことだ。ミーハーだって生活していることに変わりはない。むしろ、専門家の先生方の深い学識も、ミーハーを含めた一般庶民の幸福を目的としているに違いない。少しでも給料が上がり物価が下がること、総じて日常生活の平和と安定の要求が民衆の真実であって、選挙で問われるのはそうした民意としての真実に他ならない。真理ではない。選挙に真理を求めることは、理想を求めることと同様に野暮なことだ。しかし、それにも拘らず、世界に真理を求めるとしたら、一体どのような道があるのか。多数決の選挙では決められない。そこでは同化が余儀なくされるからだ。真理への道は同化する九十九匹の羊ではなく、異化する一匹の迷える羊に開かれている。

同化と異化(7)

ジョン・レノンも「世界が一つになる」夢を歌っているが、それは同化によるものではない。強いて言えば、無化によるものだ。天国や地獄を語る宗教も生産や所有を競う国家もない世界が理想とされている。確かに、そこでは同化も異化も問題にならない。争点になるものが何もないからだ。全ての人は日々平穏無事に暮らしている。しかし、それは言わば無色透明の存在として生きることではないか。そのように無化された人たちの世界が一つになることは容易にイマジンできる。当然だとも思う。ただ、私はどうしても共感できない。むしろ、同化と異化が拮抗する世界を望む。そうした世界が一つになるのでなければ意味がない。多数派が少数派を同化したり、その逆に少数派が多数派に対して異化を試みたりする世界はますます分断を深めていくばかりだ。その絶望的現状に比べれば、レノンのイマジンする理想世界は引き続き多くの人を魅了し続けるに違いない。その魅力は何処かエスペラントに似ている。エスペラントを創ったザメンホフもまた「世界が一つになる」夢を懐いていた。ただし、よく誤解されることだが、それは全ての民族語を廃してエスペラントだけにすることではない。成程、全世界の人がエスペラントだけを話すようになれば、世界は確実に一つになるだろう。しかし、そのような世界の統一はザメンホフの夢ではない。エスペラントの主たる役割はあくまでもpontlingvo、すなわちそれぞれの民族語の橋渡しをすることに他ならない。エスペラントは断じて様々な民族語を無化しない。それどころか、絶滅に瀕している少数民族の言語を救おうとさえしている。何れにせよ、我々は同一性と差異性の関係について改めて考えなければならない。差異性を無化すれば同一性が残るが、それは「全ての牛を黒くしてしまう暗闇」にすぎない。さりとて同一性を無化すれば差異性だけが残り、世界は分断を余儀なくされる。レノンの夢見た無化の理想を超えることは想像以上に厳しい。

同化と異化(6)

ここまで「同化は悪、異化は善」という論調で思耕してきたが、当然異化も悪をもたらすことがある。異化に固執して、徒に分断を深める場合だ。因みに、キング牧師はその公民権運動において人種差別と闘ったが、より厳密には「人種隔離」による差別と闘ったと言えよう。すなわち、白人と黒人を分離すること、それ自体が差別の原点なのだ。しかし、善良なる白人市民の多くはそう考えなかった。むしろ、分離が平穏な市民生活の基本だと信じた。敬虔なクリスチャンであればあるほど、分離の正当性を主張したように思われる。確かに、分離は平和をもたらす。同じものの社会に波風は立たず、異なるものとは交わるべきではない。しかし、分離の正当性は本当に成り立つのか。「分離すれど平等」とは言うものの、分離による平等は欺瞞でしかない。繰り返しになるが、分離すること自体が差別を生み出すからだ。とは言え、「学校の能力別クラスは間違っていない」という反論があるに違いない。人の能力に格差があるのは厳然たる事実だ。これは勉強に限らず、運動についても言えるだろう。オリンピックに出場するレヴェルの選手と一般選手とは分離して練習するのが双方にとって効果的だ。もとより人種や民族の差異は能力に関するものではないが、分離の正当性については一理ある。そう言わざるを得ない。たとい差異に基づく格差が悪だとしても、分離は必要悪だ。実際、コスパとかタイパが重視される現代社会においては、分離こそが社会を円滑に回していく。健常者と障害者もそれぞれの生活空間を分離した方がいい。バリアフリーなどと言うが、元々バリアがあるのが現実なのだ。障害者もバリアの内で生活した方が安心安全ではないか。このように分離の正当性と社会の効率性は密接に絡み合っている。私はそこに異化の堕落した形態を見出す。では、同化も異化も悪だとすれば、理想の社会は如何にして実現されるのか。社会の効率性を犠牲にしてでも分離の正当性を超克する道はあるのか。

同化と異化(5)

同化が先か、異化が先か。これは「鶏が先か、卵が先か」と問うに等しい。通常は同化の圧力があって、それに抵抗する異化が生じると考えられる。しかし、同じもので構成される組織が完璧なら、わざわざ同化をする必要は生まれないだろう。そこに異議を唱える異分子が登場して初めて同化の必然性が発動する。もしそうなら、異化が同化に先立つことになる。同化と異化、どちらが先立つかは俄かに決められないが、同じものの完璧な組織における亀裂が始点になることは間違いなさそうだ。そもそも「同じものの完璧な組織」などというものが存在するだろうか。亀裂の発生がその組織が完璧でないことの明白な証拠ではないか。例えば、イエスをキリストとする信仰の共同体として発展してきたローマ・カトリック教会が完璧な組織であるのなら、ルターの如きプロテストは生まれなかったに違いない。プロテスタントはカトリックの異化を試みる。それに対して、カトリックは同化の運動を始める。同化と異化は正反対の運動ではあるが、どちらも「本当の信仰」を目指している筈だ。すなわち、プロテスタントが試みるカトリックの異化は堕落したカトリックの「歪んだ信仰」を「本当の信仰」へと改革するものに他ならない。またカトリックの同化も、それが醜悪な排除の論理によるものでないなら、やはり「本当の信仰」への原点回帰を徹底させるものであるべきだ。ただし、「本当の信仰」はアプリオリに存在するものではない。プロテスタントの異化によって得られた「本当の信仰」もやがて堕落する運命を辿ったことを考えれば、それは歴史の中で体験的に実現していくべきものだろう。言うまでもなく、これはあらゆる宗教について該当する。仏教にせよ、イスラム教にせよ、その歴史において様々な分派が生じ、同化と異化の運動が繰り返されている。「本当の信仰」は一枚岩ではあり得ない。

同化と異化(4)

同化は異化を許容しない。同和は異化を包摂する。と言うより、同和の理想は異化の力によって推進される。異化なくして同和なし。しかし、現実の世界では同化が猛威を振るい、異化を胚胎する同和は反体制勢力としか見做されない。あるいは、同和は同化と区別されず、異化のみに希望を見出す場合もある。その方が同化に抵抗する力としては強くて効果的かもしれない。同化と異化の対立。これが当面の課題となる。確かに、同化は平和をもたらす。ウクライナも無駄な抵抗をせずにロシアに同化してしまえば、すぐに平穏無事な日常が戻って来るだろう。戦争をもたらすのは異化だ。台湾、香港、チベットも然り。ロシアでも中国でもアメリカでもいい。超大国による同化はやがて世界を一つにする。しかし、そのような「一つの世界」が果たして理想と言えるだろうか。同化の徹底によって同じものだけで構成される一枚岩の世界。極めて盤石で異議を唱える余地は皆無だが、正にその完全なる同一性が世界をディストピアにするのではないか。少なくとも私は「一つの世界」という同化の理想を嫌悪する。それは大審問官の論理に基づく偽りの理想にすぎないからだ。断じて大審問官の言いなりになってはならない。大審問官の力は絶大であり、その下での平和と繁栄は依然として多くの人たちを魅了しているものの、「一つの世界」の中で人は人間になれない。大審問官は人を人のままに止めておこうとする。それは人の畜群化であり、大審問官が保障してくれる安泰はペットの幸福に他ならない。それでいいのか。人はペットの如き幸福に甘んじるのか。異化は不可避だ。されど、それは戦争が不可避だということでもある。同化に対する異化は不可避だけれども、その可能性については更に思耕しなければならない。

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