新・ユートピア数歩手前からの便り
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過剰のニヒリズム(7)

やはり私は甘い。甘すぎる。殆どの人は食うための労働に忙しく、日常生活に退屈などしている暇はない。たまの休日には娯楽などで労働の疲れを癒し、家族団欒に幸福を見出す。その繰り返し。そこに退屈や倦怠を問題にする私の思耕には全く説得力がない。誰の心にも響かない。しかし、中沢新一氏によれば、数学者の岡潔氏は「日本から労働者階級を無くすること、すなわち国民の一人一人が皆生きがいを感じて生きることのできる国にすること」を求めたそうだ。マルクスが労働者階級の権力掌握、すなわちプロレタリアート独裁による社会変革を目指したのに対し、岡潔は労働者階級そのものを無くしてしまうことを求めたと中沢氏は言われる。この対比が正しいかどうかは別として、労働もしくは労働環境の改善ではなく、労働そのものの揚棄に究極的な理想があることは間違いない。実際、近代以降の機械の導入、更には今後のAIの活用によって、人は確実に労働から解放されつつある。果たしてこれは悦ばしき流れであろうか。重労働からの解放は歓迎されるだろうが、人の日常生活から手作業・手仕事が消えていくのはどうか。そもそも労働から解放されて、人は何をするのか。鄙見によれば、人は労働そのものからの解放という究極的な理想の実現を潜在的には恐れている。労働は嫌だと思いながら、労働に執著している。何故か。労働からの解放とは、すなわち欠乏のニヒリズムの克服を意味するが、その先には新たなニヒリズムがあるからだ。その現実をこそ私は問題にしたいのだが、私の思耕には説得力がない。如何にしてこの甘さを克服できるのか。

過剰のニヒリズム(6)

くどいようだが、欠乏のニヒリズムの克服が先決問題(目の前の問題)だ。それは自明であり、我々は万難を排してこの世界から飢餓や貧困を根絶しなければならない。同様に、自由の欠乏である抑圧もなくしていかねばならない。健康の欠乏である病気や怪我についても、皆が等しく適正な医療を受けられる保険制度が不可欠だ。要するに、全世界の人が欠乏に苦しむことのない自他共生の社会が求められる。楽観的に過ぎるかもしれないが、欠乏は相互扶助の精神によっていつか必ず満たされる。私はそう信じたい。ちなみに先日のNHKスペシャルで、能登大地震によって壊滅的な打撃を受けた中小企業を立ち直らせようと懸命に奔走する信用金庫の職員たちの姿を知った。私如きが言葉にするのもおこがましいが、実に尊いと思った。こうした名もなき人たちの地道な努力によって被災地はやがて復興していくに違いない。各地で続く悲惨な戦争もいつかは終わり、やがて平和が訪れるだろう。前途多難ではあるが、欠乏のニヒリズムの克服という明確な目的は揺るがない。心ある人は皆、その目的に向かって邁進する。しかし、欠乏が満たされても、それで終わりではない。問題は続く。誰しも欠乏からの復興を願う。やがて街のあちこちから復興を象徴する「トカトントン」という明るい音が聞こえてくるが、そこには新たなニヒリズムの響きが混じっていないか。決して復興にケチをつけるつもりはないが、取り戻された平穏無事な日常生活には何かが欠けている。ヴィクトール・フランクルは「豊かさの中の空虚」を問題にしたが、欠乏が満たされて生活が豊かになっても、正にその豊かさから新たなニヒリズムが生まれてくる。その一つの兆候が退屈だが、人は通常様々な娯楽で退屈を解消しようとする。そして、欠乏状況から解放された豊かさの中で娯楽に没頭できる幸福を味わうことになる。しかし、そうした幸福自体に退屈することはないか。どんな娯楽によっても解消できぬ退屈、私はそれを倦怠と称して区別したい。全て私の杞憂であろうか。

過剰のニヒリズム(5)

小松左京は「人間にとって文学とは何か」と問われて、次のように答えている。

「人間はたしかに、文学がなくても、小説がなくても、飯が食えれば生きられる。しかし私自身はその逆にぎりぎりに生きて腹減らしているときに、むしろ生理的空腹を精神的充実感で補うために、やたら小説を読んでいた。そして戦後は言論の自由、思想の自由、表現の自由、それから生き方の自由が保障されていると思い、小説はだれが何を読んでも書いてもよくなったと思っていた。そのときに、戦後にもその種の考え方(労働生産性に寄与しない小説は政治的プロパガンダとしてのみ役に立ち、文学とはやはり泰平の逸民の余技にすぎない)があるということにたいへんショックを受けたわけです。

しかし、文学は文学として、人間の何千年の、あるいはひょっとしたら、「文学」の出現以前にさかのぼる何万年の歴史の営為の中で生み出され、生物的に生きる上の必要性以外の理由によって維持されてきた。

そこには必要とは言わないまでも、文学が「あったほうがいい」という理由が、あるいはもう少し積極的に文学が果してきた独自の役割というものが、人間社会の中であったんじゃないか。そのグルントをなんとか探究できないだろうか」

 

ここで小松氏が言われている「精神的充実感」もしくは「生物的に生きる上の必要性以外の理由」は過剰のニヒリズムにとって重要なものだ。人は通常、欠乏のニヒリズムを克服するために生きている。例えば、空腹を満たすために生きている。では、狩猟採集にせよ、農耕牧畜にせよ、食べ物を得て満腹になったらどうするか。次の空腹時までノンビリと休息すればいい。しかし、やがて食べ物を保存蓄積できるようになって休息期間が長くなるにつれて、人は次第に退屈し始めるのではないか。おそらく、他のイキモノは退屈を知らないだろう。食うための労働と休息を繰り返して子孫繁栄に励むだけだ。人のみがそうしたサイクルに退屈して、食うための労働と子孫繁栄以上の活動を求める。それが「精神的充実感」に繋がり「生物的に生きる上の必要性以外の理由」となる。たとい欠乏のニヒリズムが克服されて生理的空腹が満たされても、人には未だ精神的飢餓がある。それが過剰のニヒリズム生み出す。かくして問題は、この言わば「満腹時の飢餓」を如何にして満たすか、ということに収斂する。ただし、それは「満腹して退屈した者の暇潰し」とは質的に全く異なる活動を要請する。鄙見によれば、欠乏のニヒリズムを克服した後の「退屈」と過剰のニヒリズムとしての「倦怠」は次元が違う。一体、どう違うのか。

過剰のニヒリズム(4)

人生に退屈するのは幸福なことかもしれない。戦争や大災害に巻き込まれたら退屈などしている暇はない。生きるのに精一杯の日々。食うために齷齪する人生は悲惨だ。何とかしてその地獄から這い出したいと誰しも願う。ただ生き延びるだけの生活から解放されて、日々ノンビリと過ごしたい。しかし、「その先」に何があるか。小松左京の『模型の時代』によれば、「生きることを機械にまかせてしまった時代、生まれてから死ぬまで、すべて『余暇』(レジャー)であるような時代」が到来するだろう。そこではもはや生活に齷齪する必要はない。単に食うことを超えて、美味しいものを食べるという美食を楽しむことができる。人生は「余暇」であり、様々な娯楽の享受が生活の本質となる。確かに、それはパラダイスだ。人類にとって長年の夢の実現だと言える。しかし、そこに我々の人間としての「本当の幸福」があるだろうか。日々ノンビリと無為に過ごすも良し。日本中、更には世界中を旅するも良し。今後は宇宙旅行も可能になるだろう。そうしたパラダイス、今は一部の金持連中にしか許されていないパラダイスを万人に普及させること、それこそが我々の為すべきことなのか。それが人類の総意であるなら、それでもいい。しかし、私はパラダイスに倦怠を懐く人間に新たな可能性を見出したい。パラダイスの「その先」にある理想について思耕したい。

過剰のニヒリズム(3)

私の拙い思耕の歴史を振り返ると、大学の卒業論文「倦怠の概念」がその原点だと思われる。キルケゴールの『不安の概念』並びに絶望を分析した『死に至る病』に基づいて現代のニヒリズム克服を摸索したものだが、私はその副題として「地下生活者の一歩」と記した。当時の私は臆面もなく自らをドストエフスキイの描く地下生活者と同定していたからだ。地下生活者とは何か。この世界(地上)に生きる意味を失った者、すなわちニヒリストだと私は理解している。言うまでもなく、生きる意味を失う理由は様々だ。病気や事故による身体の自由の喪失とそれに伴う苦痛。経済的破綻による貧困への転落とそれに伴う生活苦。失恋もしくは愛する人の裏切りによる厭世観。他にも多々あるだろうが、そこに見出されるのは何らかの欠乏のニヒリズムに他ならない。従って、論理的に言えば、それぞれの欠乏さえ満たすことができれば、その人はニヒリズムを脱して再び生きる意味を取り戻せるに違いない。実際、医療技術の飛躍的な進歩によって不治の病は減り、経済的発展によって生活苦も消えつつある。失恋についてはよくわからないが、総じて欠乏のニヒリズム克服の努力は今後も続いていくものと思われる。しかし、欠乏の完全なる充足は未だ遥か先のことであるものの、そこに我々の望む「地上の理想」はあるだろうか。欠乏のニヒリズム克服が地下生活からの一歩であることは間違いない。身体的に健康で、経済的に豊かで、それに加えて愛情にも恵まれれば、それ以上の幸福はない。多くの人はそうした幸福を求める。確かに、それはパラダイスだ。しかし、その水平的幸福には何かが欠けている。奇妙なことだ。水平的には欠乏は充足されている筈なのに、一体何が欠けているのか。その奇妙な空虚感を私は倦怠を通じて理解しようとした。そこから私の思耕が始まった。

過剰のニヒリズム(2)

「その先」の問題が究極的だとは言え、「目の前」の問題を無視することはできない。その意味では、「目の前」の問題の方が根源的だと言える。かく言う私も最近体調を崩し、健康の欠乏状態に陥った。自由に動け「ない」。自由に食べられ「ない」。自由に思耕でき「ない」。すると健康の回復、すなわち欠乏のニヒリズムの克服という「目の前」の問題しか目に入らなくなる。何とかして「ない」を「ある」に戻したい。健康で「ある」状態を回復できれば、私の生は充実する。幸い、手術などの医療の御蔭で私は健康を回復できた。欠乏のニヒリズムは克服され、「目の前」の問題は解決した。私は今、束の間の幸福を噛み締めている。束の間?どうして束の間なのか。「その先」の問題があるからだ。しかし、健康で「ある」ことの幸福の先に何があるのか。逆説的に言えば、健康という病が「ある」。健康も時に人を殺すことがあり、「ある」もまたニヒリズムを生み出す。おそらく、こうした「その先」の問題には多くの人たちの理解もしくは共感が得られないだろう。むしろ、病(健康の欠乏)と今まさに懸命に闘っている人たちは「何という倒錯か!」と怒り出すに違いない。実際、私も数日前までお世話になっていた病院では患者やその付き添い家族は言うに及ばず、医師や看護師、更には受付・支払などを担当する事務員や清掃員に至るまで、皆「健康の回復」という明確な目的で固く結び付けられていた。それのみが人生の目的であり、それこそが人を幸福にする。健康の欠乏というニヒリズムに苦しむ人たちがやって来て、そのマイナスをプラスにする技術を持った人たちが対応する。病院ほど単純明快な目的意識に貫かれた場所はない。それは自動車修理工場の単純明快さに匹敵する。勿論、廃車を余儀なくされる不幸な場合もあるが、故障した車が修理されて再び走行できるようになれば、それに優る幸福はない。どこにでも行ける。しかし、どこに行けばいいのか。どこにでも行ける自由に溺れた車は行き先を決定してくれる強大な独裁者を待望する危険性を孕んでいる。ゾーエーが満たされても、ビオスが満たされるとは限らない。

過剰のニヒリズム

「目の前」の問題と「その先」の問題。私は後者に究極性を見出している。「目の前」の問題が解決しても、「その先」の問題があるからだ。これは決して「目の前」の問題を無視することではなく、むしろその問題と究極的に格闘するためには「その先」の問題について徹底的に考える必要があるという意味に他ならない。その筈だった。しかし結果的に、今の私は「目の前」の問題から遠ざかっている。そう非難されても仕方がない。実際、「目の前」の問題と懸命に格闘している人、すなわち「善きサマリア人」を心から尊敬しているにもかかわらず、同時に私は疑念も懐いている。これは醜悪なる自己欺瞞なのか。何故、私は尊敬している「善きサマリア人」になれないのか。そもそも「目の前」の問題とは何か。様々な欠乏に苦悩する水平的問題だと私は理解している。例えば、お金の欠乏による貧困や自由の欠乏による抑圧だ。言うまでもなく、世界には未だ貧困や抑圧に苦しんでいる人たちが溢れている。従って、そうした欠乏のニヒリズムの克服こそが喫緊の課題であることは間違いない。しかし、人々が貧困や抑圧から解放される豊かで自由な世界が実現すれば、ニヒリズムは本当に克服されるのか。むしろ、豊かさや自由の中にこそ真のニヒリズムがあるのではないか。少なくとも私自身は欠乏のニヒリズムの克服の先にあるニヒリズム、すなわち過剰のニヒリズムに究極的な関心がある。だから、それを問題にしたい。ただし、先述したように、それが「目の前」の問題からの逃避であってはならない。では、「目の前」の問題(欠乏のニヒリズムの克服)は如何にして「その先」の問題(過剰のニヒリズムの克服)と関係するのか。

間奏曲:今後の思耕に向けてのノート

「おもろの世界では、天上にあるオボツ・カグラの神々が聞得大君という神女を媒体にして国王にセヂ(霊力)を付与し、支配権力を強化するという形が繰り返し強調されているが、天上の神、地上の神、その媒体者としての神女、そして太陽神崇拝という信仰を包み込んだ垂直構造のそういう形が、果たして沖縄のどの島々村々にも伝わる普遍的な神観念であり、世界観と言えるのであろうか。学生時代に、折口信夫先生から学んだ「まれびと」思想とも絡みながら、おもろを学ぶほどに私の想念は、そこの部分で立ち止まってしまう数年を繰り返してきたものである。

「まれびと」としてニライ・カナイから水平に来訪する神々と、オボツ・カグラから垂直に降臨する神々とが別なものとして振り分けて考えることができるようになってからもしばらくは、そのいずれを南島固有の神観念と考え、座標軸にすべきか、ということで迷いの連続であった。

そのうちに、私にも、水平神信仰と垂直神信仰の神観念に地域的偏差のあることが、南島の全体的展望の中で把握できるようになってきた。すなわち、垂直神信仰は首里王府を中心とする沖縄本島南部地域に密度の濃い信仰であり、沖縄北部や、奄美、宮古、八重山など、中央を離れる僻遠の地では、水平神信仰が分布し、未だに伝承されているという事実である。南島に対する民俗学や民族学の学問的開発が進むにつれて、沖縄の祭りの内容が明るみに出るようになってきたし、それらの報告によると、祭りの形式も、首里王府を中心とする沖縄南部地域とその他の地域とでは、いくつかの違いが指摘されている。」

「『古事記』で、底・中・上の語をかぶせられた海神たちがかかわったコスモスを垂直軸に立てないで、祖神たちが往来した水平軸を乗せたらどうなるだろう。「底」の語源が、「遥かなる海の果て」であったという解釈も成り立ちそうである。

古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生み出し、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。」

(外間守善『沖縄学への道』)

 

世界の腐敗は水平化に起因するものだと私は考えてきた。水平化とは、裏を返せば垂直の次元の喪失に他ならない。だから私は世界の垂直化を求めた。それが究極的な理想社会には不可欠な運動だと確信したからだ。しかし、問題はそんなに単純ではなかった。そもそも水平化=世俗化も我々の理想にとっては必要な運動なのだ。たとい世界の腐敗をもたらす結果になったとしても、一概に否定することはできない。加えて世界の垂直化という運動もファシズムという危険性を孕んでいる。おそらく垂直化と水平化は相即すべき運動なのだろう。問題はその相即のリアリティだが、そのヒントは「垂直神信仰と水平神信仰」もしくは「縦超と横超」の関係にあるように思われる。民俗学的にはやはり民衆の水平神信仰が根源的(古層)なのであって、垂直神信仰には文化的洗練(政治性)が感じられる。水平神信仰を宗教、垂直神信仰を神学、と理解してもいいかもしれない。鄙見によれば、「神の死の神学」は垂直神信仰のラディカル化だが、それが世界を根源的に変革する運動になるためには水平神との祝祭共働が要請される。それについて更に思耕していきたい。

補足:包括的理想

「生きるに値する世界」が理想社会だとしても、現「実」は未だ理想とは程遠い。殆どの人は「生きるに値しない世界」で生きることを余儀なくされている。理不尽なことが多すぎる。一体、「生きるに値する世界」はどこにあるのか。どこにもない。敢えて言えば、「生きるに値する世界」は「どこにもない場」としての空想(fantasy)であり、その空想が一般的にはユートピアと称される。しかし、私にとってユートピアは空想ではなく、あくまでも「虚」だ。その差異は何か。一応、空想は現「実」からの逃避であるの対し、「虚」は「実」のディコンストラクションだと言えるが、これだけでは何のことかわからないだろう。そもそも人は「生きるに値する世界」以前に自らの生存(ゾーエー)の安全を必要とする。従って、戦争などで生存の危機に瀕すると人は安住の地を求めて難民となる。余談ながら、日本にも難民申請をしている多くの外国人がいるが、その大半を入管が拒絶していることが問題になっている。これについては別の機会にじっくり考えたいが、ここでは安住の地と「生きるに値する世界」は質的に異なることに注目したい。確かに日本は戦乱が相次ぐ紛争地に比べれば天国のような場所だと言える。しかし、難民の人たちにとっては贅沢な言い草かもしれないが、今の日本は「生きるに値する世界」ではない。何故か。生存の安全が維持されていても、生活(ビオス)の充実が欠けているからだ。「いや、そんなことはない。自分は平和な日本でかなり充実した生活を送っている」と反論する人もいるだろう。その幸福を一概に否定するつもりはないが、それは個人の私的領域における充実にすぎない。実際、「生きるに値しない世界」に生きる人でも何かしらの個人の楽しみを見出すことはできる。娯楽による生活の充実だ。生存の安全が確保された安住の地で思う存分娯楽を満喫できる生活。これ以上の幸福はないと確信する人も少なくないだろうが、私は敢えてその先にある生活の充実を求めたい。単なる個人の私的領域を超える包括的理想を求めたい。

補足:垂直に生きる

世界には様々な問題が渦巻いている。カミュによれば、人生が生きるに値するか否かを判断することが哲学の根本問題であり、例えば「天動説か地動説か」などという世界の解釈は二次的な問題にすぎない。マルクスも「哲学者は世界を様々に解釈してきたが、重要なことは世界の変革だ」と述べている。これはどういうことか。私は「人生の意味は世界の解釈によって見出されるものではなく、世界の変革によって生み出されるものだ」と理解している。端的に、「生きるに値する世界をつくることが人生の意味になる」と言ってもいい。更に「生きるに値する世界」を理想社会と解するならば、人生の意味は理想社会の実現と密接に関係しているだろう。ただし、人生に意味を求めるのは「虚」であり、「生の意味を問う以前に生を愛さねばならない」というアリョーシャ・カラマーゾフの忠告こそ「実」だ。実際、「人生は生きるに値するか否か」と問うことなく生を愛せるならば、それに優る幸福はない。しかし、ここではそのような幸福とは無縁の現代人の問題、すなわち「生への愛」ではなく「生への懐疑」から始めるしかない人の「意味を問う病」に集中したい。そこには「こんな腐敗した世界に生きるのはウンザリだ!」という絶望がある。この絶望から人は如何にして生きるか。「垂直に生きる」ということが極めて重要だと私は考えている。そもそも世界の腐敗は人々の生活の水平化、言い換えれば世俗化によって聖なる次元が失われたことに起因する。従って、その失われた次元の回復が喫緊の課題になるが、それは単なる宗教的次元の復活でもなければ伝統的社会への回帰でもない。「垂直に生きる」とは、世俗化した社会を否定するのではなく、そこに聖なるものを受肉させることなのだ。そうした「受肉としての聖化」こそ包括的芸術の主題に他ならない。

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