新・ユートピア数歩手前からの便り
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補足:新しき人よ目覚めよ

ドストエフスキイは「美しき人」を表現しようとしてムイシュキンという白痴を生み出し、「美しき女」を表現しようとしてソオニャという娼婦を生み出した。綺麗は汚い、汚いは綺麗。ここに垂直の理想がある。ヴィクトール・フランクルは「それでも人生には意味がある」と述べているが、このtrotzdemに真理が胚胎している。過酷な真実(現実)にもかかわらず、生きていく真理の力が宿る。もし人生に水平の次元しかないのであれば、ムイシュキンは哀れな白痴にすぎないし、ソオニャも惨めな娼婦でしかない。垂直の次元が真実を真理に一変させる。しかしそれは、例えばアウシュヴィッツの現実を容認することではない。垂直の次元は「どこにもない場」なので、それだけに一層、過酷な真実からの格好の「逃げ場所」と化してしまう。ユートピアは現実逃避の阿片ではない。この致命的な誤解を粉砕することが野性の理想主義の第一歩になる。ブレイク曰く、Rouse up, O, Young men of the New Age ! 無垢な「美しき人」は、汚辱に塗れた世俗の経験を通じて「新しき人」とならねばならない。

補足:静かな生活

特に明確な理由もなく、かなり以前に録画しておいた伊丹十三監督の映画『静かな生活』を観た。原作は言うまでもなく大江健三郎。ドラマの主人公であるイーヨーの周囲では様々な騒動が起きるが、イーヨーの生活そのものは常に静かだ。その静かさは美しくもあるが、何だか異様な感じがする。何でもない人が何でもない日常を生きる。その美しさがドラマのテーマのようにも思えるが、「普通の人」の日常生活に通常美しさはない。そして、満員電車の中で見知らぬ女学生に「落ちこぼれ!」と怒鳴られるイーヨーは明らかに「普通の人」ではない。「普通の人」は何でもない日常を生きても美しくないが、「普通の人」ではないイーヨーが何でもない日常を生きると美しい。何故か。イーヨーは人間の理想とは全く無縁の次元に生きているからだ。私はそう考える。純粋に水平の次元だけに生きているから、と言ってもいい。尤も、イーヨーには彼なりの夢はあるだろう。おそらく、音楽に関する夢が。しかし、理想はない。理想と言うより、大義と言った方が理解しやすいかもしれない。イーヨーの生活には如何なる意味においても大義はない。もしかしたら、Sollenさえない。言わば「野の花・空の鳥」のような生活だ。だからこそ、その日常が美しく輝く。原作者の大江健三郎は、この世界に生きる「美しき人」のUrbildとしてイーヨーを創造したのではないか。ちなみに、ドストエフスキイは現代社会にイエス・キリストの如き「美しき人」を甦らせようと思ってムイシュキン公爵を創造したと言われている。しかし、周知のように、ドストエフスキイはその「美しき人」を「白痴」として描く他はなかった。大江健三郎もドストエフスキイと同じ轍を踏むしかなかったのであろうか。身の程知らずの言い草ながら、私は全く別次元の「美しき人」を摸索している。

補足:聖なるものと神聖なもの

特攻隊の若者たちは大義に殉じた。それなのに特攻を命じた上官たちは戦後ものうのうと生き永らえた。そして、「海軍反省会」かなんか知らないが、先の大戦を振り返って「特攻は作戦としては愚劣だった」とか何とか御託を並べている。何という醜悪!確かに、どんなに勇ましくとも、特攻は愚劣な作戦だった。それは厳然たる事実だ。しかし、大義に殉じたことも愚劣だったのか。理性はそれを野蛮と判断する。そもそもこの世に大義など存在しないのであり、そんなバカげた空想を信じて散華するのは愚の骨頂だ。戦後はこうした理性的判断が支配的となり、特攻を賛美する者は野蛮な狂信者のレッテルを貼られる運命を辿った。かくして曲がりなりにも平和で豊かな経済大国が生まれたが、それで良かったのか。大義は野蛮人のみが必要とする迷信もしくは狂信の産物にすぎないのか。私は決してそうは思わない。ただし、純真な若者に特攻を余儀なくさせるような大義を私は信じない。人生の輝きに聖なるものは不可欠だ。しかし、聖なるものはほぼ必然的に神聖なものへと実定化される。この実定化は聖なるものの現実化でもあるが、同時に聖なるものと人との関係の歪曲化にもなる。端的に言えば、我々が現実に関係し得るのは神聖なものでしかないが、それは往々にして人に対して他律的に作用する。大義も然り。大義に聖なるものが未だ主もなく客もない純粋経験として受肉していれば問題ないが、神聖なものとして人々の上に君臨すると大義は歪む。大義は野蛮なものにもなるが、真の大義は野性の理想主義を要請する。

野性の理想主義(10)

誤解を恐れずに言えば、私自身、ファシズムに魅了されている。ただし、ムッソリーニやヒトラーなどの独裁者に心酔しているわけではない。とんでもないことだ。むしろ、私にとってファシズムは独裁者を根源的に否定する力に他ならない。とすれば、ファシズムとアナキズムの見分けがつかなくなるではないか。実際、ケヴィン・パスモアがホセ・オルテガ・イ・ガセットを援用して強調しているように、ファシズムは「得体の知れない顔つき」をしていて定義不可能だ。オルテガ曰く、「ファシズムにどういう面からアプローチしても、ファシズムはあるものであると同時にその反対物でもあるのだ。それはAであるとともにAではない…。」極右と極左はウロボロスの様相を呈する。ただし、ファシズムの語源であるイタリア語の「ファッショ」(束)、更にはラテン語の「ファスケス」(束稈)に基づけば、ファシズムの基本は人と人とを結束させる理想にあると解することは可能だろう。従って、ファシズムは国民同士を結束させる理想としてはナショナリズムの顔つきをし、国や民族を廃棄した次元で人々を結束させる理想としてはアナキズムの顔つきをすることになる。勿論、人と人との結束そのものを嫌悪する反ファシズムの理想もあり得る。徹底した個人主義に基づき、個々人の私的領域の充実のみを追求する理想だ。これは日本国憲法第十三条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)に基づく理想だと言えるだろう。おそらく、日本国民の大半はこうした反ファシズムの理想を支持していると思われる。大事なのは私的領域であって、公的領域など眼中になし。オリンピックで金メダル目指して奮闘する日本選手に感動しても、それは所詮金メッキの結束にすぎない。オリンピックが終われば、束の間のナショナリズムはやがて剝がれ落ち、再び個人主義の日常が露わになる。それで幸福ならそれもよし。しかし、個々バラバラの幸福に本当の「生の充実」があるだろうか。個人として尊重されるのは結構だが、「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉も無視できない。さりとて世界全体の幸福とは何か。理性は個人の幸福を求め、それを踏み越える全体主義の野蛮は滅私奉公に流れる。公的領域とか世界全体の幸福は否応なくファシズムを要請する。それは極めて危険な理想ではあるが、先述したように様々な顔を持つ。私が魅了されているファシズムは、野蛮と理性の稜線上を行く野性の理想主義だ。この道を歩く。

野性の理想主義(9)

ウンベルト・エーコが述べているように、今やファシズムは普段着を装うている。かつてのようにアウシュヴィッツや黒シャツ隊といった醜悪な服装で登場すれば誰も近づきはしないが、「ウル・ファシズムは恰も罪のないような偽装の下に戻って来る」。その偽装を剥がすことが我々の使命だとエーコは言うが、それは至難の業だ。余談ながら、最近は先の大戦に関するドキュメンタリイやドラマを頻繁に観ているが、そこには一様に「正義の戦争などあり得ない。戦争はただ悲惨なだけで、御国のために死ぬなんて馬鹿なことだ。生命より尊いものなど皆無であり、ましてや身捨つるほどの祖国なんてない。平和が一番。どんなことがあろうと、戦争は二度としてはならない!」という叫びが通奏低音として響いている。それは既に大方の常識と化しているようだ。しかし、その常識の裂け目から次のように囁かれたらどうだろう。

「確かに戦争は愚劣だ。二度としてはならない。しかし、その平和主義が、例えば級友が虐められているのに見て見ぬ振りをする卑劣な態度を生み出しているのではないか。自分に禍が降りかからない限り、沈黙し続ける。いや、自分が虐めの対象になっても、泣き寝入りする。決して戦わない。下手に戦えば、虐めはますます酷くなる。堪忍は無事長久の基。自分が戦わなければ、戦いの相手にさえならなければ、戦いは始まらない。本当にそうか。それが平和なのか。たといそうだとしても、そんな平和に何の意味がある。平和に、平穏無事に生き続けることだけが人生ではない。むしろ、何かのために自らの生命を懸けることにこそ生の輝きがある。君は虐められている級友のために戦うべきだ。戦うことは暴力に身を委ねることではない。非暴力と無抵抗は質的に全く異なる。無抵抗の平和は卑劣だが、抵抗としての戦いは崇高なものだ。平和主義(何が何でも平和に固執する)は畢竟奴隷根性の産物にすぎない。」

この囁きにはファシズムへの誘惑がある。人は何かのために生きたいと願っている。誰かの役に立つ人になることを望んでいる。こうした願望にファシズムは巧みに忍び込む。そして、多くの人をいつしか魅了する。このファシズムの魅了がパラダイスとユートピアの分岐点となる。

野性の理想主義(8)

相対化=世俗化されたパラダイスでは全てが許される。だから人は自由に溺れ、「何故人を殺してはいけないのか」などという問いも生まれたりする。未だ絶対的なものが生きていた時代には、そんな問いはあり得なかった。「人を殺すべからず」は「他人の物を盗むべからず」と共に、わざわざその是非を問う必要のない自明のことだったからだ。絶対的なものが確固たるSollenの根拠になっていた。そして、絶対的なものが死んで倫理が崩壊した。勿論、現実には警察の存在が殺人の抑止になっている。しかし裏を返せば、それは警察に見つかりさえしなければ殺人も許容されるという口実を生む。警察も法律も絶対的なものにはなり得ない。では、絶対的なものが復活すれば、問題は全て解決するのか。教育勅語への復帰によって倫理は甦るのか。そんな馬鹿なことはあり得ない。絶対的なものは故なくして死んだわけではない。死ぬべくして死んだのだ。神が死んで、人は「魔術の園」(Zaubergarten)から解放された。以後、主に科学技術の力で便利で快適な世界が求められてきた。その成果が相対化=世俗化された世界に他ならない。その世界がパラダイスであることは厳然たる事実だ。しかし、人は神不在のパラダイスに耐えられない。「何にせよ、人は何かを崇拝せずにはいられない。神を否定すると、今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキイの言葉だが、近代の超克は偶像崇拝の超克に収斂する。それはパラダイスの超克にも通じる。

野性の理想主義(7)

様々な夢がある。才能に恵まれた人は大きな夢を、それほどでもない人はささやかな夢を、それぞれ懐く。そうした夢の大小は客観的には認められるが、主観的には意味を成さない。他人には下らないことでも、自分が夢中になれればそれでいい。殊に現代は多様性が尊重される世となった。もはや一つの価値観が全体を支配する時代ではない。「男はかくあるべし」とか「女はかくあるべし」などと言うことは時代遅れだ。Sollenは肩身が狭くなった。正に「ナンデモアリ」の世界。絶対的なものは死に至り、一切が相対化される。世俗化された社会の中で、人は自由に個人の夢を追求できる。多様性と個人の自由が際限なく許容される世界はパラダイスだ。言うまでもなく、このパラダイスは未だ実現していない。学歴社会の古い価値観が根強く残っているし、LGBTQへの偏見もなくならない。しかし、そうした課題が全て解決したとしても、全てが相対化=世俗化されたパラダイスに人は耐えられるだろうか。むしろ、それは早晩ディストピアと化すのではないか。尤も、これは私の杞憂なのかもしれない。殆どの人は水平の次元のパラダイス実現を歓迎し、それぞれの夢の追求に「生の充足」を得るとも考えられる。しかし、本当にそうか。ならば何故、「偉大なアメリカの復活」を訴えるトランプのような人物がかくも熱狂的に支持されるのか。ロシアにおけるプーチン支持も然り。鄙見によれば、大衆の多くは相対化=世俗化された世界にウンザリし、絶対的なものの復活を渇望している。それは或る意味「自由からの逃走」に違いないが、その渇望を無視することはできない。加えて、個人の夢が自由に追求できるとは言え、追求に値する夢が見つからない人も増えている。一体、人は何のために生きているのか。時代は今や、夢の追求から理想主義へと転換しようとしている。ただし、トランプやプーチンにその転換を期待するのは根源的かつ致命的に間違っている。彼らの掲げているのは「野蛮の理想主義」にすぎないからだ。「野性の理想主義」との差異を見逃してはならない。

野性の理想主義(6)

夢と理想の差異については何度も問題にしてきたが、改めて考えてみたい。人は夢のある人生を求める。夢のない人生を余儀なくされることがあるとしても、誰しも幼い頃に一度は夢を懐く。大抵、それは両親を中心とした周囲の身近な人たちの価値観、あるいはマスコミや人気ドラマの影響によって形成される。例えば、大金持、プロのスポーツ選手やミュージシャン、人気アイドル、スーパードクターなど。当然、大人になるにつれて、幼い頃の夢は現実的に再構成される。「現実的に」とは「自分の身の丈に合った」ということだ。私の場合、夢はプロ野球選手になることだった。理屈ではない。幼い私にとって、プロ野球選手ほどカッコイイ存在はなかった、ただそれだけのことだ。しかし、私の夢は叶わなかった。理由は明白、私にカッコイイ野球選手になるだけの才能がなかったからだ。それが現実であり、私の夢は挫折した。言うまでもなく、夢の挫折は何も私に限ったことではなく、殆どの人はその現実的な生を夢の挫折から始めることになる。或る人は「自分の身の丈に合った」別の夢を追い求め、また或る人は才能ある誰かに自分の夢の実現を託す。しかし、私はそのような夢の「現実的な再構成」に赴かなかった。私は端的に夢の挫折に絶望し、更に言えば挫折できた現実に絶望した。と言うのも、「プロ野球選手になる」という夢は自分にとって絶対的なものだと思っていたからだ。そして、絶対的な夢に挫折したら、もはや生きている意味はない。そう思った。私には趣味として草野球を楽しむとか、プロ野球の一ファンとして「推し」のチームや選手を応援するなどという選択はなかった。野球に挫折した途端、野球に対する絶対的な関心を失ったからだ。以前には夢中になって観ていた野球中継も退屈なものでしかなくなった。大谷翔平選手のようなスーパースターに対しても実にスゴイ!と感心するものの、今やそれほど関心はない。もしかしたら、こうした私の変化は野球に挫折した自己の巧妙な正当化なのかもしれない。その疑念は今も燻っている。ただ、燻る疑念と共に私の念頭に浮かぶのはマラソンの円谷選手の自裁だ。本当の理由はわからない。しかし、それがマラソンランナーとして生きられない自分の拒絶だとしたら、円谷選手は自らの夢に殉じたと言えるのではないか。私は夢に殉じることができなかった。殉じることができるほどの夢ではなかったからだ。私は殉じるに値する新たな夢を求めた。絶対的な何かを求めた。しかし、この世界に絶対的なものなど皆無であった。水平の次元に見出されるのは相対的なものばかりだ。その現実に、絶対的なものの不在に私は絶望した。私の理想の追求は、正にその絶望から始まる。

野性の理想主義(5)

かつて日航機ハイジャック事件(ダッカ事件)に際して、時の総理は「人の生命は地球より重い」と語ってテロリストの要求に屈する苦渋の決断をした。結果、乗客・乗員百五十一名は全員無事解放され、その超法規的措置は概ね国民の支持を得たように思われる。この時、法の遵守よりも生命尊重が優先されることが常識となった。鄙見によれば、それは理想主義の死でもあった。尤も、敗戦と同時に日本の理想は既に失われていた。ダッカ事件の七年程前に或る作家が「生命尊重以上の価値」を叫んで割腹自殺を遂げたが、その檄に耳を傾ける者は殆どいなかった。むしろ、「生命尊重以上の価値」などこの世にはあり得ないと頑なに信じ込み、総じて豊かになった戦後の経済的幸福を享受する生き方を選択した。このままでいいのだろうか。いいわけがない!さりとて戦前の日本の理想に回帰するつもりもない。例えば、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という軍人勅諭の言葉。あるいは、「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽し」という戦陣訓の価値観。そこには生命より重い大義があった。その大義こそ理想に他ならない。しかし令和の現在、大義など右翼の街宣車が撒き散らす騒音でしかない。理想は今や冗談だと一笑に付され、日常生活には無用の長物と化した。しかし、私は今こそ理想主義が必要だと考え、この拙い便りを続けている。果たして、理想主義の復活を求めることは時代錯誤であろうか。

野性の理想主義(4)

野蛮な人はケダモノのように生きる。醜悪だが、そこにはイキモノの真実がある。自由感がある。暴力が横行するヤクザ映画が人気を博する理由もその辺りに見出されるのではないか。尤も、鶴田浩二や高倉健の主演で任侠映画と称された往時、それは義理と人情で固められた世界であったし、菅原文太が切り拓いた仁義なき戦いも裏社会特有の掟に縛られた世界であった。つまり、反社会的な無法者たちの世界は決して自由なものではない。むしろ、法に縛られた堅気の方が自由かもしれない。少なくとも法を犯さない限り、善良なる市民は自由に生活できる。そして、警察などが無法者(犯罪者)を厳しく取り締まってくれることを切に望む。害虫は徹底的に駆除されるべきであり、限りなく無菌に近い清潔な社会こそが理想的と見做される。しかし、本当にそうか。もしそうなら、どうして無法者や犯罪者が活躍するドラマがなくならないのか。確かに、先述したように、法を踏み越えた者たち(アウトロー)の生活は決して自由ではない。しかし、そこには法に縛られた生活にはない生の輝きがある。鎖に繋がれた犬は食うに困らず、鎖に繋がれている限り快適に暮らせる。それに対して野良犬の生活は過酷だが、不思議な魅力がある。さりとて殆どの人は野良犬になりたいなどとは思わない。法を鎖とは考えず、法に縛られるのではなく、法に守られる生活を求める。かく言う私自身も基本的にはそうだ。法を否定することはできない。しかし、それにもかかわらず、野良犬への憧憬がある。犯罪者になろうとは思わないが、法を踏み越えてしまう(踏み越えざるを得ない)ドラマには関心がある。これはどういうことか。私は野蛮を嫌悪する。暴力を、無法を憎む。しかし同時に、全てが理性で割り切られることも嫌悪する。理性によって純粋に構築された水晶宮は私にとって理想とは程遠いものだ。私の生はアポロとディオニュソスに引き裂かれる。

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