この前の赤塚不二夫さんのブログで満州国や渤海のことに少し触れたことがあったが、そこで渤海国を建国した満州人であるツングースの人たちに興味を持った。
ツングースの人たちは高句麗人や渤海人を指すだけでなく、私達日本人にもツングースの人たちの血が混じっていると思ったからだ。
今まで知らなかったが、日本語はウラルアルタイ語族のアルタイ系の中のツングース系に属するらしい。
言葉がツングース的な発音や文法を使うなら、モノの考え方もよく似ているだろうし、私達の血の中にツングース的な思考方法が入っていると思った方がいい。
ツングースの人たちといえば黒澤明監督の「デルス・ウザーラ」の中で描かれていた主人公を想い出すぐらいで、遠い国の人達と思っていた。
それが親戚と思えるほど近いモノであったとは知らなかった。
私には難しいことは何も分からないが、それでも昔から買い集めた本などもあり、それらを読んでいたから薄らぼんやりだが分かるモノもあるはずだ。
日本は海に面した島国で、東西南北海に囲まれどこからでも海洋民族と言われる人たちは自由入れる。
日本人の混血の度合いは東アジアに限れば幅広いはずだ。
混血したのは当然北方系民族だけではないし、西の血も入れば、南の血も入っているだろう。
その証拠に日本人の顔をみれば、千差万別で様々な民族の特徴を見ることができる。
それだけ日本の地で幅広く民族の混血が行われたということだ。
ではツングースと言われる人たちはどのようにして私達の祖先となっていったのだろう。
縄文人と言われる人たちが生活していた跡が朝鮮半島にもあったことが最近報告されている。
また縄文時代にはすでに半島と交易、交流があったらしい。
縄文人は日本列島だけに生活していたと思ったら、朝鮮半島でも生活していたのだ。
その後大陸から漢族やツングースの人たちが山東半島経由やら、朝鮮半島からやってきたと思われる。
弥生人とはその人たちが朝鮮半島で交わったり、日本列島で交わった集団といっていいのかもしれない。
これがイコール弥生人といった典型的な人たちはいなかったはずだ。
縄文人が濃い血もあっただろうし、漢族の濃い血もあったはずだ。
そのころまでの朝鮮半島と日本列島に住んでいる人たちはよく似た人種、種族だったのだったかも知れない。
しかし高句麗がツングースといわれる人たちで手で建国される。
朝鮮半島を漢族とツングースが両方上手くすみ分けていたモノが、ツングースの手に落ちてしまった。
高句麗の始祖は沿海の扶余の生まれとされ、百済はその弟が建国したと伝えられている。
新羅はツングースではなく独自のルーツを持っているように伝えられていたが、獩貊(わいはく)ツングース系だと言われていることが多い。
新羅には時代によって、朴氏、昔氏、金氏と3つの始祖伝説がある。
初めは朴氏の始祖伝説で、朴氏の始祖は倭人と言われている。
それが神武天皇の兄、稲飯命だという説もある。
なぜかそれをアメノヒボコ伝説と重ね合わせる人たちもいるそうだ。
もう一つ倭人と関係がある昔氏の始祖伝説がある。
三国史記によれば、倭国東北1千里の所にある多婆群国(日本の丹波、但馬)の王妃が妊娠の後、7年経って大きな卵を産んだが、多婆群王は不吉とあるとし、卵を捨てるよう命じた。
王妃は捨てるに忍びず、絹の布で卵を包み、宝物と共に箱に入れて海に流した。
その後、金官国に流れ着いたが、金官国は警戒して箱を取り上げなかった。
ついで辰韓の阿珍海に流れ着き、そこに住んでいた老婆が箱を開けると中から一人の男の子が出てきた。
面白いことに、この始祖伝説はまるで桃太郎が流されてきた話とそっくりだ。
世界各国このように似た伝説があるのだろう。
少し分かりにくいが馬韓の小国の集まりが百済で、辰韓の集まりが新羅になる。
まだこの時は国といっても、各地方の村々の集まりと言った方が正確なんだろう。
高句麗に比べて百済と新羅は小さな国だった。
また新羅は高句麗、百済に押され気味だったのと別に、倭といわれる日本側からも攻められ続けていた。
この時代に任那(伽耶)という場所があったらしい。
韓国側は伽耶という国があったというが、この地方から最近日本特有の前方後円墳が発見されている。
日本側はこの地方に任那日本府があったと以前から主張していたのが、今回、前方後円墳の発見で裏付けられたことになった。
この場合日本ではなく大和というべきか、大和が朝鮮半島に何かしらの力をもっていたのは確かだろう。
そうでなければ後に百済復興を目指す人々に、神功皇后が力を貸すはずない。
百済が滅亡すれば朝鮮半島との足がかりを全て失うと考えたから、大和側は無理をしてでも半島に大軍を送った考えてもいいのではないか。
でもここで疑問が湧く、大和を建国したのは誰なのかと?
百済と大和は人的結びつきがとても強く、兄弟国といってもいいほどだったと書かれている本が多い。
高句麗と百済は兄弟国とすると、大和もその流れを汲んだ人たちがだったのだろうと思われる。
つまりツングースの中でも、天孫族は高句麗と同じ種族だったと考えてもおかしくはない。
九州には隼人や熊襲といわれた人たちがすでに住んでいた。
その人たちを負かすほどの武力が彼等にはあったいうことは、相当大きな集団が大陸から渡ってきたと言うことになる。
その高句麗も次第に勢いがなくなり、ついには滅びて渤海国が建国されるが、その渤海も同じ運命を辿り、勢いがあった新羅も滅びてしまう。
918年高麗が半島を統一する。
高麗は新羅と同じく仏教を保護する。
13世紀ごろからモンゴルの侵入を受けだす。
モンゴルとの主要な戦いは9度だったが、その後80年間、高麗はモンゴルの支配下に置かれる。
1274年文永の役と1281年弘安の役と2度モンゴルから侵攻される。
この時、船に乗っていた兵隊たちの多くはモンゴル人ではなく高麗人たちだったといわれている。
李氏朝鮮は1392年から20世紀にはいるまで500年以上続いた王朝だった。
李氏朝鮮では仏教が否定され、儒教を重んじることとなる。
1636年から1637年にかけて丙子胡乱がおこる。
清が李氏朝鮮に侵略し、制圧して服属させる。
この戦いにより李氏朝鮮は清国の支配体制に組み込まれた。
朝鮮の独立は日清戦争で日本が勝利したことで終わるが、それまで250年間、李氏朝鮮は清国に支配され続けていた。
1644年、明が清に滅ばされたことにより、儒教が基盤であった明の文化を正当に継承するのは朝鮮だという意識が生まれたらしい。
またこの時期に朝鮮人として言語、風習を同じくすることでアイデンティティも芽生えた。
日本と朝鮮半島の住人は初めほぼ同じような人種の人たちが住んでいたはずだ。
しかし、その後のモンゴルや清の長い支配下により、北方民族の血を濃く受け入れることになってしまった。
それにより私達日本人と、朝鮮半島に住む人たちの違いが少しづつ大きくなっていったのかも知れない。
また李氏朝鮮は明のマネをして、儒教に執着してまった為に仏教を捨ててしまった。
これにより祭りのような集団で集まり祝いをするような行事を行わないことで、文化的な色合いが少なくなったのだろう。
そのことにより更に日本人との民族間の違いがハッキリしてきた。
清の影響なのかシャーマニズムは朝鮮の人たちの中に深く根付いている。
シャーマンが霊媒をしたり、お祓いをしたり、呪詛をしたりする。
だがシャーマニズムは既存の宗教の教えまで発展しなかったようだ。
ここまでツングース、朝鮮半島と日本人のことを大雑把に書いてみた。
しかし今回のブログは私の独りよがり、妄想の類で書いたもので、人によっては何をと馬鹿な思われるか、それとも怒られるかも知れない。
だがそこはアホな素人が書いているとご容赦願えればありがたい。