「どですかでん」は黒澤明監督の作品だが、どうした訳か評価も認知度も低いようである。
この映画は1970年1月に小国英雄、橋本忍、黒澤明らが集まり、伊豆韮山の旅館で脚本を執筆した。
3月にはプリプロダクションを開始する。
この通称プリプロは撮影前の準備作業である。
脚本、絵コンテの完成や、スタッフやキャストを集めることもプリプロに入る。
この時に黒澤監督は東京都江戸川区堀江町にある約1万坪のゴミ捨て場に、オープンセットを組んでいる。
建物の材料も全てゴミの山から調達したという念の入れようであった。
撮影は4月23日に開始して、わずか28日間の速さで撮り終えている。
あの黒澤監督にしては信じられないほどの短い撮影期間だった。
なぜ黒澤映画なのにたった1か月足らずの撮影だったのだろう?
誰でも疑問が湧く。
実はそれには大きな事情があった。
1965年の「赤ひげ」の製作期間が2年に延び、製作費は過去最高の額になっていた。
「赤ひげ」はその年の最高の興行収益を上げ、キネマ旬報ベスト1位に輝いている。
だが、黒澤プロは東宝と不公平な契約を交わしていた。
東宝と交わした利益配分制だと、時間と予算をかけるほど黒澤プロが赤字になる仕組みだった。
それでも黒澤監督は芸術的良心は捨てきれなかった。
しかし限界を感じたのか、ついに東宝との契約を切ることになる。
1966年6月、アメリカの映画会社と「暴走機関車」の共同制作を準備していたが、途中で話が頓挫してしまう。
1967年4月「トラ・トラ・トラ」の日本側監督に黒澤明さんは起用されたが、東映の撮影所のスタッフと反りが合わなかったようで、スケジュールが大幅に遅れてしまう。
またハリウッドの映画作りの方法と、黒澤監督の映画作りも折り合わず、1968年結局日本側監督を解任されてしまうことになる。
1969年6月24日「黒澤よ映画を作れの会」が赤坂プリンスホテルで開かれ、関係スタッフや淀川長治さんなど黒澤監督を応援する人たちが集まった。
その翌月、木下恵介、市川崑、小林正樹と共に「四騎の会」を結成する。
その第一作として、4人の共同脚本、監督で「どら平太」を企画するが頓挫してしまう。
結局、黒澤監督が単独で「どですかでん」を監督することになり、自宅を担保にして製作費を捻出する。
黒澤監督にすれば日本が駄目なら、アメリカがあると思っていたのだろうがそれも結局上手くいかなかった。
当てが外れたのである。
自分ほどの才能がある人間がなぜ映画を作ることができないのだと考えたに違いない。
また自宅まで担保にしてお金を都合しないと映画を作れないことに、世の中に心底失望していたことだろうし、嘆いてもいただろう。
黒澤監督ほどの天才でもお金に苦労していることに、世の中の仕組みの複雑さが分かる。
「どですかでん」はそのような状況下で作られた映画である。
黒澤監督にすれば進退窮まった状態での映画作りであった。
でもそんな難しい状況下でも、黒澤明監督は自分に正直でありつづけた。
決して何事にも妥協をしなかった。
撮影期間が28日というから、通常の黒澤映画からすればかなり短い期間で撮影していることになる。
しかし映像を観ている限り、そんな短い期間の撮影だったとは思はないし、作り方に少しも迷いがないように見える。
「赤ひげ」から5年間、黒澤監督は映画を撮れなかった期間、常に頭の中で次回作を練って、撮っていたのだろう。
黒澤監督には久しぶりに映画を撮るという肩ひじ張った処ところもなければ、空回りするところもない。
何時もどうりの黒澤節だが、全てのモノが研ぎ澄まされている感じだ。
これはやはり予算の関係で、余計なモノを取り除くことにも躊躇がなくなったのかも知れない。
製作費がないということは、逆に俳優陣、スタッフすべての人たちに良い影響を与えていたといえる。
つまり俳優陣、スタッフ各自が自分たちの力を全て出し切れば、それが映画全体の質を上げることに繋がるということだろう。
分かっていそうで、なかなかできないのが普通だが、黒澤明監督はさすがに俳優陣、スタッフたちをまとめ上げて彼等の力を上手く引き出している。
監督に迷いがないから、俳優陣もスタッフたちも安心してついていけるのだろう。
「どですかでん」は短い間に撮っているにも関わらず、演出も美術も全てが定まったところに収まっていて破綻がない。
付け足すところも減らすところもないない。
予算も時間もないことで「どですかでん」は更に際立った映画になったような気がする。
またそれにも増して、黒澤監督が撮れる喜びを映像に滲ませていることがうれしい。
黒澤明作品の特徴は映画館のスクリーンからはみ出すような大きさがあることだ。
小さくまとまってテレビの画面にすぽっと収まってしまう最近の映画とは違う。
映像の力強さはスクリーンの大きさでも収まらいエネルギーを発している。
「どですかでん」の原作は山本周五郎の「季節のない街」だが、小説の舞台となっているのは1962年頃の横浜伊勢佐木町の貧民街と言われている。
黒澤監督は貧民街では余りにリアルになりすぎ、救いがないモノになってしまうと思ったのか、映画ではゴミの山の傍にある、おとぎ話風な架空の街になっている。
小説では可能な面白い話でも、映像には向かない話もある。
「季節のない街」がそうだった。
またゴーリキー原作の「どん底」もそうだっただろう。
家族間での性暴力や不貞に貧困、それらの綾なす物語に障害者などが加わり、悲喜こもごもの群像劇を作り出すのが山本周五郎の「季節のない街」である。
その小説に黒澤監督は正面からぶつかり、見事映像化に成功している。
小説「季節のない街」は15編の短編小話で組まれている。
映画はその中の8編を入れ、彫金師のたんばさんを通して一つの話としてまとめ上げている。
宮藤官九郎さんが同じ原作をDisney+でドラマ化しているが、ドラマは1話オリジナルのモノを入れ、全10話作られているらしい。
先でも書いたが小説での物語は貧しい長屋に住む人々の話からなる。
そこに住む六ちゃんという障害を持つ少年が、電車の音を「どですかでん」と擬音で表現している。
この擬音が映画の題名になっていて微笑ましい。
「どですかでん」は黒澤明監督作品にしては評価は低かったし、興行的にももう一つだった。
しかし評価が低いといって、キネマ旬報ベストテンの3位に入っているのだから、決して世間から認められてない訳でもなかった。
海外でも第44回アカデミー賞外国映画賞にノミネートされている。
また第7回モスクワ国際映画祭で、ソ連映画人同盟特別賞を受賞し、1978年にベルギー映画評価家協会賞でグランプリを受賞している。
2012年では英国映画協会は自身の映画雑誌で、10年毎に発表する史上最高の映画ベストテンで「どですかでん」に投票している。
海外では高い評価ではあったが、国内の興行ではふるわなかった。
それにより借金は更に増えてしまう。
大きな借金を抱えた黒澤監督はテレビ番組の監修の仕事などをするが、そのようなモノでやりがいを感じる訳でないし、借金が消える訳でもなかった。
1971年12月22日の早朝、何事にも失望し疲れ果てたのか、黒澤監督は自宅風呂場でカミソリで首と手首を切り、自殺を図るが命に別状はなかった。
我々からみれば、なぜ自信満々に見える黒澤監督が自殺を図ったのだろうと思うしかない。
だが自信満々に見えても、心の中は脆いものなのだろう。
またその自信は我々観客が支えていたりする。
その観客がそっぽを向けば、自信となるものはあっという間に崩れてしまう。
自分が良いと思うモノと、観客がいいと思うモノとの間に違いがあることに狼狽え、自分が作るモノが時代に合わなくなったのかと嘆くしかないのだ。
天才と言われている人たちも、傍が思うよりもずっと危ういモノの中で生活しているのが分かる。
その意味で抱えている不安感は、我々庶民と何ら変わらないのかも知れない。
黒澤明監督も観客にそっぽを向かれ、もう自分の映画が必要でなくなったのかと落胆したのだろう。
創作する人間すればそれが一番こたえる。
創作者は観てもらえると思っているから、頑張って良いモノを創ろうとする。
観客の応援が創作のエネルギーにもなる。
それがそっぽを向かれると、もう失意のどん底に落ちるしかない。
1973年3月14日、黒澤監督はソ連の映画会社モスフィルムと「デルス・ウザーラ」の制作協定に調印する。
1976年3月、第48回アカデミー賞でソ連代表作品にはなるが、外国映画作品賞を受賞する。
この「デルス・ウザーラ」で黒澤明監督は復活する。
1977年、「デルス・ウザーラ」で気を良くしたのか、ソ連で再び映画を作る事を画策する。
エドガー・アラン・ポーの短編小説「赤死病の仮面」を元にした「黒き死の仮面」の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった。
黒澤監督はこの「黒き死の仮面」の舞踏会の場面をフェデリコ・フェリーニーに演出させ、手塚治虫のアニメーションを部分的に使うことも考えていたようだ。
「黒き死の仮面」を映画化できなかったのが残念でならない。
とにかく黒澤明、フェデリコ・フェリーニー、手塚治虫と3人の天才が集まり映画を作るのだ。
どのような映画になるか観てみたかった。
本当は「デルス・ウザーラ」で黒澤監督が復活するのではない。
その前の「どですかでん」も素晴らしい映画だ。
作品の質では黒澤映画の中でもずば抜けているし、野心的作品でもある。
でも肝心のお客さんが見てくれなかった。
残念なことにそこから歯車が狂いだした。
黒澤監督が自殺から蘇るというなら、それは確かに「デルス・ウザーラ」から復活と言えるかも知れないが・・・・
宮藤官九郎さんも黒澤明作品で「どですかでん」が一番好きな作品と言っている。
私も黒澤明作品の中で「どですかでん」が一番好きな映画だ。
でもそれは人それぞれ好き嫌いがあるから、これを観なければというつもりもないし、まして作品に点数を付けるような烏滸がましいことをするつもりもない。
黒澤さんの作品もそうだが、後に名作として残る作品は活動屋たちの血と汗の結晶といっても大袈裟ではないだろう。