目の前に透明な膜がはってあると景色も違って見える。
こう書くと何か粘着質なドロッとした膜のようなモノが目に張り付いていると思われそうだが、そうではなく、私達が生活するなかで繭の殻の様なモノを膜として例えてみた。
そうしてみると、繭の殻のようなモノのを作り出して、その中で私達は安穏に暮らしているのが分かる。
私達人間を守ってくれる繭の殻のようなモノはなんだろう?
私達が毎日寝起きをしている住処も勿論そうだが、移動目的の手段であるクルマもそうなのだろう。
クルマのフロントガラスや、側面の窓ガラスなどは透明な膜そのような役目をはたしているように思えてしまう。
フロントガラスは走行中の風圧を防ぐ為だけではなく、外の環境、例えば雨や風から守ってくれる役目もある。
このクルマの窓ガラス、高級車ほど厚みは増してくる。
だから車外の音も当然聞こえにくくなる。
窓から見える景色はいつものスーパーや駅前のロータリーであったりするが、これら雑踏の音が聞こえないと、見慣れた風景が遠い世界の知らない土地に見えたりすることもある。
それこそYouTubeに使われている映像と何ら変わらないように感じることさえある。
ただの硝子板一枚で、自分がいる所はスーパーの駐車場や、駅前のロータリーではなく、遠く離れた所のように錯覚してしまう。
これはどうしたことだろう?
周りから見れば駅前のロータリーに、またスーパーの駐車場停めたクルマに乗っていることに変わりはないはず。
クルマは名前も知らない遠い離れた世界でもなく、映像の世界に紛れている訳でもない。
フロントガラス一枚隔てた場所にいるだけなのに、なぜそう錯覚させてしまうのだろう。
これらの錯覚は繭の殻に似たフロントガラスのせいだろうか?
ガラスは音も消し、匂いをも消してしまう。
クルマの車内の匂いの元はシートの匂いや、内装の接着剤の匂いだろう。
それが嫌だといって消臭剤を使うが、それ自体も強く匂う。
それらが重なり混ざり合って、車内は何ともいえない匂いになっている。
決して心地よい匂いとは言えない。
クルマの中は本来の自然な環境とは違う異質な匂いに溢れている。
住宅の中ならまだ自然な音や匂いも入ってくるが、クルマの車内にはそれら音や匂いは入って来にくくある。
今なら麦の穂の匂いや草木の若葉が茂る匂いも流れてくるのだが、エアコンで窓は閉めきり、車内は人工的な匂いしか嗅げない。
音もそうだ。
鯉のぼりがたなびく五月晴れの空を、雲雀の囀る様はそれだけで楽しい。
草むらに行けば、雉もキーイと鳴く。
トンビもピーヒョロロと鳴く。
これが日本の田舎の風景であり音だと思う。
ちょっと田舎に行けばこのようなのんびりとした子供時代に見たような風景に出会えるのに、クルマに乗っているとそんなことさえ分からずに何かに終われるように走り去ってしまう。
本当に勿体ない。
クルマの中にいてはこの匂いも音も感じられない。
エンジン音と共に舗装された道を走り去るだけである。
あちこちと車で走ってみたが、それはフロントガラス越しで、風景は確かに見ているはずだが、それを感じたかと聞かれれば言葉に詰まる。
自然を感じたいと郊外にドライブに行くが、それはただ通りすがるか、どこかでお茶を飲んだり土産物を買うだけだ。
マァそれでも少しは田舎の空気を吸うことはできるだろうが、ほとんどは人工的な匂いが混じったエアコンの空気を吸い、外気の風を直接感じることは少ない。
それでもその土地を知ったというふうに思えた。
本当に知ったというように思えるには最低昔の街道を1日歩いて、その土地で泊まり、その土地で摂れたモノを食べて、また土地の水も飲まなければならないのだろう。
昔の人たちは歩いて旅をしていたから、その土地土地の風物や、人柄、人情を肌で、足の裏で感じていただろう。
それが本当の旅と言えるのかも知れない。
本来、膜を張ったフロントガラスの様なモノは旅の邪魔なのかも知れない。
でも現代人は直接、自然や人と接するのに苦手な人たちが多い。
私も自然は別として、人と接するのは苦手だ。
こんな時には膜の役目が必要になってくるのだろう。
間接的に他人と上手く接することができるツールがあると便利だ。
今はスマホがその役目を果たしてくれる。
クルマだけではなく、バイクのヘルメットも眼の前に透明な膜、シールドがある。
クルマと同じで透明な膜越しに周りを見るのは変わらない。
だけど、口元はフルフェイスのヘルメットでも充分に外気は入ってきて風通しは良い。
ヘルメット特有の圧迫感と閉塞感は確かにあるが、それでも外気の匂いも嗅げるし、お天気の変わりようは湿度で感じることはできる。
その意味ではクルマよりも自然を感じることは可能なのだろう。
バイクは危険モノと認識しているからこそ、全身の感覚が研ぎ澄まされ匂いも風も感じられるのかも知れない。
だが微妙な鳥の鳴き声などは聞けない。
聞こえてくるのはマフラーから出る爆発音が主だ。
バイクと同じように、いろいろな情報を瞬時に正確に取り入れなければならないのはクルマも同じだ。
そんなクルマだが、エアコンやナビ、ラジオ、オーディオ機器など、便利な機能が満載されている。
それこそ使う人間の知識を試されいるような機能もある。
使いきれなければ宝の持ち腐れといったことだろう。
我々人間の生の感覚を覆い隠すようだ。
それどころか人間の感覚は当てにならないからと、捨て去るように作られているのが現代のクルマなのかも知れない。
代わりにカメラやレーダーで人間の感覚をサポートし補っている。
きっとそれらの機能の方が正確で敏感なのだろう。
以前、透明で大きなフロントガラスに囲まれて運転している時、そのフロントガラスを通して、私は本当に外が見えているのだろうかと疑問に思う時が度々あった。
あれだけ大きなフロントガラスだ。
全ての面を隙間なく見渡せることなど無理なのではなかろうかと思っていた。
長年運転していれば危ないと思ったことは一度や、二度ではすまないはずだ。
自分の命拾いもあるが、他人を死地に追いやることが一番怖かった。
でも今は自転車だからその可能性もかなり低くなった。
今度は私がクルマの被害者になる可能性が大きい。
最近のクルマがカメラやレーダーで運転をサポートしてくれるのは有難いが、それよりも何よりも、運転席が左に寄っている設計がおかしいと以前から思っている。
運転席は真ん中、中央に座らせるのが正解のはずだと・・・・
でもそうすると車体の設計に無駄が出るのだろうが、クルマ全体の重量バランスや視界の良さからいえばハンドルの位置は真ん中に持ってくるのが正しい。
でもフロントのエンジンから後輪にプロパラシャフトが真ん中を通っているから、どうしてもセンターシートを採用するとなると、エンジンの位置はミッドシップかリアエンジンになってしまう。
つまりクルマの構造からすれば高性能スポーツカーという範疇になる。
そうかといってこれらのクルマの性能がいいかと言われればそうでないらしい。
とにかく運転が難しいと聞く。
電子制御の技術が進んでも、やはり前輪が軽くなるマイナス面は補えないようだ。
エンジンが前輪を重みで抑えてくれるメリットはとても大きい。
直進性能や雨の日や風の強い時は安心して走れる。
運転が苦手な人でも安心して車を運転できるメリットがある。
ミッドシップは中心にエンジンがあるので重心もそこになる。
そうなるとカーブを曲がるときに遠心力に逆らうことなく、軽く簡単にカーブに回ることができる。
重いエンジンが前輪の上にあると、どうしても車体全体が遠心力によって大きくふられてしまう。
ミッドシップは重心に偏りがないので、遠心力が大きく働くことない。
だから高性能のクルマはミッドシップ車が多くなるのだが、日本のニッサンGTRやトヨタのレクサスFLAなどはミッドシップを取り入れることはなく、安全なフロントシップを採用した。
これはやはり見栄えを大事にするイタリア人と、クルマの安全性を追求する日本人との違いだったのだろう。
ミッドシップ車は限界点を越えると急に手に負えなくなってしまう。
これはプロのドライバーがそう言っているのだから、素人の私達ではどうすることもできない。
今まで面白いようにクルクルと簡単に曲がってくれていたのに、ある所で急に暴れて、クルマの挙動が抑えられなくなってしまう。
つまり事故ってしまうのだ。
日本車はそれを嫌った。
運転の難しい後輪駆動のミッドシップ車でなく、フロントシップのフロント駆動であれば、プロペラシャフトの心配もいらないし、それこそ構造も簡単で運転もしやすい。
なんだ従来のFF車ではないかと思ってしまうが、これでセンターシートのクルマをつくればおもしろい。
センターシートのクルマは今後どうなるか分からないが、フロンガラスを見ていると確かに普段の見慣れた風景が違って見えることがあった。
これは以前の私の気持ちだった。
今はクルマには乗っていないが、あの気持ちのまま車に乗っていれば・・・・・
早いうちに区切りをつけられて良かったと思う。
最近のクルマの計器盤は見ていると、どこか仮想現実の世界に入り込んでいるかのような気持ちになる。
センターパネルに映し出される計器類はやたら派手だ。
EV車になれば尚更未来的な気分になってしまいそうだ。
でもクルマがどれほど未来を煽っていたとしても、道路や人間はそのままで、以前となんら変わりがない。
それを万能なクルマのように見せてメーカーは売っている。
それに乗る私達も不安を抱えながら、運を信じて運転をしている。
本当はいつ事故をしておかしくないと心の中で思っている自分がいるのだが・・・
自動車の性能は上がり続けているが、人間の能力には限りがある。
クルマの能力に人間が追い付いていっていないのだろう。
私の若い時に見た1964年第2回日本グランプリで、生沢徹選手がのったスカイラインはポルシェと渡り合って、一時スカイラインが首位を取ったことがあった。
その時のスカイラインはたったの150馬力であった。
車体を極限的に軽くしたとはいえ150馬力では知れている。
最近のファミリーカーでも150ぐらいの馬力は出いるだろう。
ちょっとしたクルマなら300馬力はざらにある。
マイコンが動力の配分やスリップをサポートしてくれるから、女性でも300馬力でも安心して運転できる。
昔なら高馬力車だとスリップや急激な出足で肝を潰したり、ハンドルが取られることが普通にあったが、今はほとんどなくなっている。
更に最近ではカメラやレーダーが運転をサポートしてくれる機能がついている。
安全に運転できる環境は整いつつある。
だがそれでもクルマの性能に人が付いていけてないことは確かだ。
時代が進むにつれ、オブラートに包まれいるような心地になるのは何だろう?
クルマにしても自然にしても、人間関係にしてもそのような傾向が強まりつつあるような気がしてならない。
直接肌に触れ感じるられることは少なくなっている。
昔、エアコンが付いている車は少なかった。
暑くても無理して窓を閉め、エアコンが付いているようなフリをしていたクルマもあったという。
何かそんな時代がなつかしい。
繭の殻は必要だと思うけど、時には殻から出てみたい。
