有吉佐和子さんと、中上健次さんは和歌山の人である。
有吉さんは1931年に和歌山市に生まれた。
中上さんよりも15歳年上の先輩作家である。
ご自身の出世作作「紀ノ川」の花のモデルは母方の祖母であると言われている。
有吉さんの幼少期は銀行員だった父親の赴任先、インドネシア、ジャワで暮らしていた。
当然、戦前のジャワ島暮らしである。
この時代のジャワ島インドネシアはオランダ領だった。
有吉さん特権階級のエリート層として広い邸宅に住み、何人もの現地人メードを雇っていたらしい。
それがオランダ式の現地での暮らしであり、また統治方法だったのだろう。
有吉さんの母は大庄屋の娘であり、父親も銀行員として海外に働いていた。
有吉さん自身は「紀ノ川」で描かれたような超大地主の家庭で生まれていなかったけれど、私達庶民からすれば十分に恵まれた環境で育ったことは確かだ。
対して、中上さんは1946年新宮市で生まれた。
中上さんは地元の県立新宮高校を出ておられる。
有吉さんの東京女子大学からすれば、中上さんの高卒は見劣りするかも知れないが、それでもこの当時はまだ、大卒の若者は少なく、集団就職で東京や大阪に出る中卒の子供たちが少なくなかった時代である。
私達人間の全ての能力が学歴で語られることには無理があるが、家庭環境によって、その後の人生で世間での立ち位置が決まることは多いし、そもそも社会に踏み出すその一歩、スタートラインさえ見いだせない方も少なくなかっただろう。
その多くは学歴だけで判断され、どうあがいてもその後の人生が決まってしまうことが現実だった。
せっかくの能力を持ちながら、その能力を生かされなかった悔しさを味わった人たちもいただろう。
中上さんの小説はそのような方にも共感を持って読まれたのかも知れない。
また一方ではかなりセンシティブな問題を孕んでいる小説であることも確かである。
有吉佐和子さんの小説も含めて後にも書くが、中上健次さんの小説は一歩間違えれば際物になってしまう恐れがあるのも事実だ。
でも、得体の知れない際物的な処が魅力で、それが中上さんの力の源であったのだろう。
美術でも演劇でも、アカデミックになってしまったらもう終わりだ。
歌舞伎でも、オペラでも、どの様な分野でも初めは毒気があり、際物的な扱いだった。
それが次第に洗練されて権威になっていく。
美術、特に日本画の世界と違って、文学、文藝の分野はまだ際物を自分の体内に取り入れて、自分たちの古びた苔を取り払う原動力にしょうと考えているだろう。
中上さんは高校を卒業した後、義父から早稲田受験という名目で仕送りを受けながら、東京で生活をすることになる。
しかし予備校はすぐに中退し、新宿のジャズ喫茶に入り浸りながら、羽田闘争などの政治運動に関わりながら、長距離トラック助手や肉体労働で生計を立てながら執筆活動を続けていた。
有吉さんは大学卒業後、大蔵省の外郭団体で働いたのち、縁があったのか舞踏家の吾妻徳穂の秘書となる。
吾妻さんはアズマ・カブキを率いて世界ツワー行うなどして、世界に歌舞伎の素晴らしさを広めた人だった。
有吉さんは有能な秘書だったのだろう。
スケジュールの管理、衣装の手配、チケットや航空券の手配まで様々な雑務をこなしていた。
吾妻さんは自分にも厳しかったのだろう。
当然他人にも厳しく、気性の激しい人だったと言われている。
有吉さんはそんな吾妻さんを支え続け、精神的にも、肉体的にも疲弊していた。
だがそのような過酷な状況で有吉さんは睡眠を削りながら小説を書いていた。
小説の材料は溜まる一方で、その材料をいかせないままではおれなかった。
また溜まったモノを吐かずには、書かずにはおれなかったのだろう。
有吉さんの生まれ育ちは華やかである。
それに比べ、中上さんの場合はどうしても影が付きまとう。
それは中上さんの生い立ちによるものだろう。
行商をしていた母の私生児として中上さんは生まれている。
実父は複数の女性がいたため、母親を籍に入れることはなかった。
その後、母親は土建業請負の男性と結婚をする。
相手にも子供がいた。
中上健次12歳の時、異父兄が眼の前で首を吊って自殺をしたことがあった。
このことが中上の人生最大の傷であり、後に小説のモチーフになったと言われている。
兄の自殺は言いようのない罪悪感を健次少年に与えた。
小説家としての生きるなら、兄の自殺もマイナス面だけではなかったかも知れないが、そうでなければただ辛いだけの出来事だったはずだ。
中上さんは肉体労働をしながら、夜に小説を書いていた。
有吉さんも舞踏家の秘書をしながら、夜に小説を書いていた。
二人とも心身疲れきっているなかでの執筆である。
傍から見れば疲れているのに、なぜそんな無理な事をするのだろうかと思うだろう。
無理をすれば身体も壊れてしまう。
しかし、有吉さんも、中上さんも溜まったモノを吐き出したい欲求の方が強かったのだろうと思う。
つまり書く作業は少しも苦痛ではなく、それどころか楽しかったはずだ。
傍から見れば、執筆作業は地味に見えても、それこそ内面ではアドナリン全開の血沸き肉躍るような状態なのであった。
中上健次さんと、有吉さんが同じ和歌山県生まれと言っても、和歌山市と熊野への入り口である新宮市とではまるで環境が違う。
和歌山市にはJRもあるが、大阪難波から私鉄である南海電車が和歌山市まで通っている。
近くには関空があり、和歌山市は大阪圏の一つの街といっていい。
京都で言えば滋賀県の大津のような街だ。
三条京阪から電車に乗り、蝉丸の和歌で有名な「逢坂の関」を越えればもうそこは大津の港である。
大津は滋賀県の県庁のある最大の街だが、それでも今や京都市の一部だといっていい街である。
それと同じで、和歌山市はもはや大阪の一部の街なのだろう。
日頃の買い物や娯楽などの生活圏も大阪市が視野に入っている。
しかし、中上健次さんが生まれ育った新宮氏は違う。
熊野の広大な森の営みが滴となって熊野川に集まり、大きな流れとなって熊野灘に注いでいる。
新宮市は三重県の紀宝町と接している町だ。
近畿圏というよりも東海地方、名古屋圏に近いといっていい。
新宮は熊野信仰の入り口メッカのような地である。
また古くは熊野水軍の根城があった場所だ。
熊野水軍の中には後に九鬼水軍として名を馳せ、大名にまでなった九鬼氏がいる。
少し話がそれてしまうが、この九鬼氏にはオカルトチックな「九鬼文書」があり、この九鬼家は熊野本宮家の神官で中臣氏の系譜でもあるという。
昭和初期に九鬼家の当主が一部を公開し、新宗教の大本教の出口王仁三郎がそれを知り、後に大きな影響を与えたという。
この九鬼文書、いったいどのような内容かというと、これがまたとんでもなく想像力に富んでいる。
いや飛んでいるといった方がいい。
「九鬼文書」は神武天皇以前に73代にわたって古代王朝があったと記している。
それがウガヤ王朝であり、数万年続いて、世界をも統治していたと書いている。
私もこれらのオカルトチックな文献を写した本を何冊か持っている。
例をあげると「竹内文書」や、「宮下文書」、「上記」、とどめは「東日外三郡誌」になる。
なぜ止めかと言うと、「東日外三郡誌」のことを少し調べてもらいたい。
この騒動は一部の古代史ファンだけではなく、アカデミックや自治体まで巻き込んで、公的分野での史実、歴史自体が書き換えられそうになったからだった。
NHKでもこの「東日外三郡誌」を参考にしてドラマが作られたことがある。
大河ドラマの「炎立つ」である。
ドラマの原作者であり指導に当たった作家が「東日外三郡誌」を信じてしまい、アラハバキ神の信仰や、安藤氏のルーツをさも真実のように放送してしまったのである。
これには専門家だけでなく、歴史ファンからも偽書を史実のように扱うなと猛烈な抗議が寄せられたらしい。
私もこのドラマを観ていたのでよく覚えている。
アラハバキ神はちょっとと思った。
どこか外国の神のようであった。
原作者の高橋克彦さんはよほど東北に愛着があったのだろう。
東北は未開の土地ではない、大和に負けないだけの高度な奥深い文化があったのだと思いたかったのだろう。
ドラマの真偽自体ともかく、作品としては悪くなかった。
しかし、この「東日外三郡誌」で古代史学会での信頼が地に堕ちてしまい、大学から去ることになった先生もいた。
ファンタジーとしてこの文書見れば悪くなかったのだが・・・・
これらの偽書と言われる文書、一癖も二癖もあり、歴史の専門家でも思わぬ落とし穴に落ちることがあると証明されたのだった。
熊野の地、それも新宮は熊野灘を挟んで向かいに伊勢がある。
縄文の文化が信仰となって根付いているだろう熊野の地の側に、新しく入って来た天孫族の女神を少し離れた地に祀るのもおもしろい。
これをどう考えたらいいのだろう。
天孫族のリーダーたちは、アマテラスの神を縄文人の、いや、それ以降に列島に入ってきただろう弥生人たちも含め、混血した人たちの信仰の対象としょうとしたのだろうか?
当然縄文人は弥生系と混じっているのだろうけど、まだまだ紀伊の大きな森の中には山の民が純粋な形で残っていたのだろう。
奈良や飛鳥もそうだが、その後の京の地に近い熊野にある信仰のパワーを恐れた。
熊野の神には強い力と強い霊力があるように思えたのだろう。
その霊力に怯え、天孫族は狡猾にも熊野の神を自分たちのルーツの中に入れてしまったとも考えられる。
つまり熊野の神を天照の中の一つの神に格下げしたのだった。
賢い方法だけど、狡い方法だ。
しかし、これが統治の方法としては理に適っているのかも知れない。
有吉さんと、中上さんの話から大きくズレてしまったようだ。
このお二人、共に熊野を正面から描いていたことがある。
和歌山という土地に生まれたのだから、熊野を取り上げて当然なのだが、有吉さんはどこか熊野には馴染みがなく、余所者という感じがあったのだろう。
有吉さんの和歌山を題材にした小説は、「紀ノ川」を初めとして、川三部作と言われるほど、和歌山の川を題材として小説を書いている。
有田川の近くで営むミカン農家や、日高川で林業で働く女性をモデルにして、気高く苦難を乗り越える姿を情緒豊かに描いている。
しかし泥臭く、弱く、狡く、世の中に翻弄される女性は描いてはいなかった。
有吉さんにすれば、どこか綺麗ごとしか書いていなかったと思ったのだろうか?
万を期してというのか、1972~1973年にかけて、毎日新聞朝刊に「油屋おこん」を連載した。
物語りは伊勢の古市で実際に起きた殺人事件が元になっていて、それが「伊勢油屋騒動」であり、俗に古市10人切りと言われている。
この凄惨な騒動はわずか数日後に歌舞伎や浄瑠璃になっているのだから凄い。
事件をすぐさま舞台にかけるほどの即興性はどうだろう。
手際の良さは今では考えられない。
当時よほど有能な物書きがいたのだろうし、細かい処はアドリブでごまかしていたのだろうが、でもそれを大雑把だと否定はできない。
回を重ねるほど大雑把な処もまとまりがつき、歌舞伎の脚本である正本の完成度は増してくる。
また旬の出来事だから、お客の関心は高く、興行主としては事件を見逃すことはなかった。
有吉さんは「伊勢油屋騒動」を歌舞伎の演目にした「伊勢音頭恋寝刃」に登場する遊女をモデルにした作品を新聞に連載する。
遊女の出生地は三重県熊野市五郷町寺谷にした。
有吉さんにすれば画期的とも思えるタブーに踏み込んだ作品である。
まだ誰も手を出さなかった領域になるはずであった。
しかし連載が始まって次第に有吉さんの筆が進まなくなってくる。
それまでは熊野の貧しい少女が売られ、伊勢神宮の門前町での過酷な環境を生々しく描いたいた。
天皇制や性のタブーに深く切り込もうとした意欲作だったはずである。
それが突然に連載が止まった。
有吉さんのコメントもなく、読者に何の説明もなくただ連載を休止しますだけの文面であった。
後に理由として有吉さん自身がこの様な発言をされている。
「読者層の広さという壁」
「これが読者の少ない文芸雑誌であれば問題はなかったが、何百万部も発行される新聞だったから不可能になった」と新聞連載休止の一端を吐露していた。
でもこれは初めから分かっていたことだ。
新聞社に連載する前に大方のプロットは文芸部の担当者と細かく打ち合わせをしているはずだ。
今更小説の方向性が違うなどありえないし、新聞連載が始まる前から作家はもう書き始めていて、連載に穴が開かないようにようにしているのが通例だ。
だから優に一月分ぐらいの原稿はすでに出来上がっているはずなのである。
小説家が書けなくなったから休止などと新聞社がそれを簡単に認めるはずがない。
それも有吉佐和子さんである。
病気になったとしてもそう簡単に新聞連載に穴を開けるなどあるはずがない。
名前に大きな傷がつくからだ。
連載中止の責任のほとんどは毎日新聞にある。
有吉佐和子さんんがこの手の小説を書くとなったらトコトン調べ尽くして、綿密にメモを取っているはずである。
中止の件を毎日新聞の文芸部長が他人事のような発言を後にしていた。
「作中の女郎おこんが、有吉さんの娘さんと同じような年齢で、それで重ね合わせてしまい、辛くて筆が進まなくなった」ようなことを話しているが本当に卑怯である。
天皇制やまた部落問題、性のタブーに挑戦するなど、今までにない新聞小説である。
それも朝刊に連載していた。
どのような反響があるか事前に分かっていただろう。
それとも文芸部は予想していなかったのか?
各方面から圧力があろうと作家を守るべきであった。
それを作家に非があるようなことを言ってどうするのか。
中上さんの熊野へのアプローチ方法は内側からである。
有吉さんのように詳細に資料を調べ尽くして、それを組み立てる方法ではない。
自分の血を原稿に叩きつけるように小説を書く方法だ。
有吉さんの小説はそうは読んでないが、中上さんの小説は少しは読んでいる。
中上さんの小説が他の作家と違う処は匂いを感じる処だ。
他の小説では匂いを感じることなどない。
これが血の匂いなのだろうかと思うほど、独特な読後感がある。
またなぜこれほど同じような事を何度も書けるのか?
不思議に思はない事もないではない。
私なら吃音のことになるのだろうけど、1作か2作書けばもう充分書いたと思うはずである。
実際ブログでは吃音の事も多く書いたが、そこでの怒りや、疎外感、痛みと言ったモノは繰り返し書けるモノではない。
自分でも何時までも吃音の悩みをしつこく書くのも躊躇するし、読まれる方も嫌になるだろうと想像するとやはり筆は鈍る。
でも中上さんは読者を飽きさせないだけの筆力があったからずっと書き続けられたのだろう。
でもどのような大作でも3冊も書けば作家も飽きるしだろうし、もう書く尽くしたと思えるはずだ。
それが中上さんは熊野の血をエネルギーにして、飽きることを知らないように書き続けた。
中上さんはなぜそれほど熊野のことばかり書いていたのだろう。
熊野の血から離れると何も書けないと思っていたのだろうか?
それとも熊野の血以外に魅力的な題材がないと思っていたのか?
とにかく傍からは伺い知れない世界である。
中上さんは熊野を愛していた。
でもどこか疎外感も持っていた。
それがどこからきているのか?
そんな小説なのに、一部の読者は熱狂的になぜ読んでいた。
怖いモノ見たさだけだったのか?
中上さんの描いていた世界をインテリは支持していたそうだ。
そこに一つの答えがありそうだが、読者に支持されていたのはそんな処ではないと思っている。
中上さんは自分の小説をインテリたちがおもしろがって、政治的に利用していたことは充分に分かっていた。
でもそれを嫌がってもいなかったし、自分もそれ利用しょうと思っていた。
中上さんは通俗な世界とは無縁であると思っていたが、権力と繋がり神輿に乗ってみるのもおもしろいと思ったのかも知れない。
作家としてのお墨付きを否定しなかった。
この考えを誰も非難できるモノではない。
そんな生臭い事とは関係なく、純粋に中上さんの小説に酔って、熊野を愛している人たちも多くいるのである。
中上さんの小説は、ちょっと以前の韓国映画や、現代のネットフリックスの濃い目のドラマに似ている。
ドロドロとした近親憎悪的な側面が強くある。
良いも悪いも、中上さんは自分の色に熊野の地を色付けてしまった。
でもそれは中上さんのコンプレックスだった。
本当の熊野の血からは程遠いという、どうしょうもない飽くなき血の渇望だったような気がする。
有吉さんの性へのタブーと天皇論読んでみたかった。






