私は鬼になった人を見たことがある。
それは本当に鬼だった。
とある会合に出た時、そこに鬼がいた。
初めは何だか分からなかった。
なぜここに鬼がいるのだと思った。
でも良く見るとやはり鬼だった。
鬼を始めて見た。
その時、ああこれが鬼なのかと感心した。
何が感心したのか?
それはやはり鬼の顔だったからだ。
よくある鬼そのものの恐ろしい顔である。
でも、見ている顔は鬼そのものだったが、不思議と怖くはなかった。
それよりも、なぜそこに鬼がいるのか分からない。
鬼は周りの人達と同じように椅子に座っていた。
鬼の周りの人たちは、鬼がいることを知らないのか、それとも椅子に座っているのが鬼と気が付いていないのか?
そのどちらかだった。
私もただ鬼を凝視しているだけである。
誰もそこにいるのが鬼とは思っていない。
なぜだろう?
私には鬼に見えるのに。
眼を凝らして鬼をじっと見ると誰かに似ている。
あ、あの人だったのか?
その時、やっと鬼の正体が分かったのだった。
でもなぜあの人が鬼に見えたのだろう。
正直、初め見た時は驚いた。
顔が鬼そのモノだったからだ。
昔から鬼の伝承はどこの地方にもある。
大江山の鬼もその一つだ。
「鬼殺し」として清酒のラベルに鬼の顔が描かれている。
私にはあの怖い鬼の顔が想い出されたのだ。
大江山の鬼の他に有名なのは桃太郎の話だろう。
鬼が島に出かけ桃太郎が鬼を征伐する話だ。
今思えば桃太郎とその一行は勝手に鬼が島に出かけて行って、そこに住む鬼たちを一方的に征伐するのだから酷い話だ。
今で言えば他国を侵略し殲滅するような話である。
怖い顔だから悪い奴だ、征伐しなければならない。
ヘンな格好をしているから、また人と違うからこれは酷い目に遭わせなければならない。
何かそんな意図が見え隠れする昔話でもある。
子供の頃なら素直に鬼が悪いと思っていた話なのに、今ではすっかり違って見える。
一方的に鬼が虐められて可哀そうに思えるのは歳のせいだろうか?
少しは鬼の話も聞いてやれという気持ちに、ついなってしまう。
鬼の顔になっていたあの人も、何か思い悩んでいて怖い形相になっていたのかも知れない。
憎悪が心を蝕み、それがとうとう顔にまで表れ、形作ってしまったのだろう。
誰でも行き場のない悩みを抱える時がある。
それは自己犠牲を伴ったモノである場合が多い。
でもその犠牲を当たり前のように受け取る家族や、職場の人たちがいる。
信頼関係がまだあるうちはそれでもいいが、その信頼関係が崩れた時が問題になる。
また誰かを想っていても、その想いが叶えられない時もそうだ。
心を踏みにじられたような気持になるのだろう。
そこに憎悪が湧く。
この感情は誰にでもある。
私にもあるだろう。
でも鬼の様になったことはあるだろうか?
ないような気もするが?
でも誰かが私を見た時、あ、鬼がいたと思ったかも知れない。
自分の姿形は見えないから、ひょっとしたら私も鬼になっていた可能性はある。
誰しもちょっとした拍子に鬼や般若になるのだから怖い。
身も心もボロボロになって鬼になってしまう。
でもまだ間に合うはず。
あの人もまだ本物の鬼はなってはしない。
誰かが救ってやればいい。
また救ってほしいはず。
誰にも救える人はいるだろうから・・・・
もう一つ、はっきりと角が生えた鬼を見た時があった。
怖い顔ではなかったが、角は私にしか見えなかった。
私には怖い顔よりも、角が見えたのが何より怖かった。
見てはならぬモノを見た感じがしたからだ。
角が生えるなど、その人に何があったのだろうと思う。
尋常のことではなかったはず。
何があっても、そこまで追い込んではいけない気がする。
こんな事を書いていると、何でそんなモノが見えるのかと不審がられるが、私にもそれは分からない。
ただそれは私の生い立ちにも繋がるのだと思う。
私はそんなモノを見たくはない。
でも見えてしまう。
子供の頃大人の考えが良く見えた時期があった。
何を考えているか、悪意があるかないか、また嘘をついていないか?
それらのことが良く分かった。
でもそのことが私を臆病にしてしまい、人間不信にしてしまった。
誰も鬼になりたくはない。
でも鬼にされる可能性は誰しもある。
鬼は悲しいから鬼になるのだろう。
その鬼が私には見える。
鬼さん、鬼さん、隠れん坊しましょう。
もういいかい、ま~だだよ。
子供の頃遊んだなつかしい隠れん坊だ。
それよりも子供たちは隠れずに、鬼さんと一緒に遊ぶほうが、鬼さんも喜んでくれるし、子供達もそのほうがずっと楽しいような気がする。
