今年もまた綺麗なサクラを見ることができた。

若い時はサクラが咲いていていても気にすることはなかった。

毎年春になれば咲くサクラは咲く。

それが当たり前のように思ってじっくりとサクラを見たこともない。

いつも地味な土手沿いや、峠沿いの風景がサクラが咲くことで辺りは一変する。

だがそれさえ気にしていない私だった。

 

 

だがいつの頃からかサクラの花を気にするようになった。

少しは心に余裕が生まれたのだろうか。

花が咲くと辺りの風景が華やかになるのは当り前だけど、それがずっとは続かない。サクラは突然とぱっと咲いて、ぱっと散る。

サクラの花は一夜の夢のように儚く消えていく。

一年ぶりに咲いたというのに、あっという間に散ってしまうのは残酷なようにも思える。

しかし不思議なことに、夢のようにサクラが咲いていた頃の残像が頭の中に残っている。

バラや梅やボタンなど他の花ではこのようなことはないが、サクラが咲いていた頃の華やかな様子はなぜか覚えている

いつまでもサクラの綺麗な残像は消えそうにない。

これから先1年、来年また花が咲くまで私を楽しませてくれるのだろう。

 

 

サクラの花粉にはエフェドリンという興奮を誘発する物資が含まれているそうだ。

視覚的だけではなく、脳内に何かしら作用を及ぼすモノが含まれていて、私達はサクラの下で浮かれやすくなるのかも知れない。

 

いつの頃だっただろう、サクラを題材にした歌が大ヒットしたことがあった。

森山直太朗さんの「さくら」や福山雅治さんの「桜坂」、中島美嘉さんの「桜色舞うころ」などの曲だった。

 

 

この時期、卒業式や入学式、また就職という出会いと別れという人生において大きな節目の時と重なり、サクラの花と歌が心に沁みた。

サクラの花と歌は春と言う季節相まって、私達の心に残り忘れられないモノとなっている。

これからもサクラの歌は生まれ続け、そして私達を楽しませ、慰め勇気づけてくれる。

 

 

今年は例年よりもサクラの開花が遅れたという。

いつも標準木もモデルに開花の時期を予想するのだが、今年は見事に外れてしまった。

いつもより5日ぐらい遅くなったと言う。

観光客はサクラの開花いつかと気が気ではなかっただろう。

特に外国からの観光客はサクラの開花を期待して京都に来ていたのだろうが、あいにくサクラの開花が遅れ、サクラの花を見られなかった人たちもいた。

これだけは自然現象だからどうしょうがない。

この時期の京都のホテルの宿泊費は一泊平均5万円以上だという。

うまく桜の花を見られた人たちは幸運だった。

最近の京都の観光地は信じられないことに欧米人が5割から6割以上を占めていることもある。

以前は中国の人たちや、韓国の人たちが6割7割占めていたのにいつの間にか逆転してしまった。

 

 

これはやはり中国や韓国の経済状況によるものだろうか?

それにしても最近の京都の街はどこも歩きにくいほど欧米人がいることに驚く。

昨年鞍馬の火祭りに行った時、叡電の中は欧米人ばかりだっとブログに書いたが、今は京都の街全体がそのような状況になっているようだ。

それほど欧米人が京都とサクラの花の魅力を知るようになったことが誇らしい気持ちにもなる。

サクラの花を目当てに青い眼をした人たちが大勢日本にやってくるなど誰が想像できただろうか。

 

 

これはやはりSNSの力でもあるのだろう。

ガイドブックを見て期待して行ったが、いざ行ってみると期待するほどでもなかったことがよくある。

だがガイドブック違い、SNSは忖度のない生の観光客の感想を知ることができるし、感想も一つや二つだけではないから信用もできる。

私はまだまだ上手く使いこなせていないが、彼等は普通に上手く使いこなしているのだろう。

 

 

そのうち欧米人がサクラの木の下で宴会をする姿も珍しくない時代がやってきてもおかしくない。

それほど花見が外国の人達にも受け入れられている。

私達はサクラが自分たち文化だと思っていたら、もうそういう時代ではなくなってくるのかも知れない。

 

 

日本人がクリスマスや、ハロウィンの行事を行うように、遠い異国の地で花見が行われてもおかしくはない。

クリスマスやハロウィンは宗教行事だが、花見はただの行楽、レジャーだ。

それでも欧米人にすれば、サクラを愛でる日本人に、何か東洋の神秘を感じるのかも知れない。

特に夜に見るサクラは魅力が倍加する。

昼のあでやかな美から、夜は怪しげな美に変わるのだがそれがまたいい。

 

 

源氏物語に花宴という巻があったと思う。

そこに朧月夜の君という奔放な女性が出てくる。

朧月夜と言う名前が珍しいので覚えていた。

夜の宴に朧月の歌を吟じていて、朧月夜という名前になったらしい。

その姿に光源氏は惹かれ、二人は和歌を交換しあうのだが、サクラの花びらが匂うような設定なのである。

 

 

光源氏と朧月夜の君の出会いのようなことが、現在の夜桜見物でも行われているのだろう。

誰もが光源氏なり、朧月夜になる。

これも夜桜の魔法なのかも知れない。