本日は旧暦五月十四日ですが、承久三年(1221年)、803年前のこの日は承久の変が始まった日です。

※改暦が何度かされていますので単純に旧暦にあてはめています。

 

この年の一月、鎌倉三代将軍実朝が暗殺され、鎌倉幕府を興した源氏の血は三代にて途絶えており、幕府は北条氏中心のものとなっていました。
 
そこで後鳥羽上皇は、院内の親鎌倉派を粛清し、流鏑馬揃いとして諸国の兵を招集しましたが、京都守護として上洛していた伊賀光季は拒んだため、翌十五日に討伐し、時の執権、北条義時追討の院宣を渙発されました。これが承久の変の始まりで、この時、光季は討ち死にする前に、下人を落延びさせ鎌倉に知らせており、鎌倉方は上皇挙兵の報に動揺しました。
 
ここで鎌倉初代将軍源頼朝の未亡人で北条義時の姉である政子が、鎌倉の御家人たちの今があるのは源頼朝公のおかげであり、その恩顧に報いるためにも鎌倉方として闘うよう説得し、御家人たちはこれに応えました。
 
しかしそもそも源頼朝は天皇の子孫である源氏であり、その母は皇室の宝である宝剣を守る熱田神宮の宮司の娘でありました。また、鎌倉幕府を開いたのも征夷大将軍という朝廷の勅命によりますし、建久二年(1191年)の伊勢の遷宮にも尽力された皇室への崇敬の篤い人でした。そして第三代将軍となった実朝も皇室への尊皇の念が強くそれは多くの尊皇歌としても残されており、しかもその妻は後鳥羽上皇の従姉妹でありました。ところが、この年の一月、兄の遺児である公暁に暗殺されていたのです。その兄が二代将軍から降ろされたのも、この実朝暗殺にも、北条氏が深くかかわっており、北条氏は鎌倉幕府の実権を握るため立ち回ったといわれています。政子がどのような思いで御家人たちを説得したのかわかりませんが、夫や子供のことを理解しておらず、実家にうまく使われたのではないかとしか思えないのです。

 
あるいは政子も、説得された御家人たちも当時からすれば都から遠く離れた東国で、皇室への知識が足らず無知であったため、その生活に直結することに流されたのかもしれません。
 
それは北条義時の嫡男で総大将となった泰時が、途中引き返して天皇(順徳天皇、この時には譲位をされて上皇となられていた)が自ら軍を率いた場合の対処の仕方を父に尋ねていることにも表れています。そのような知識・意識がないため問い合わせをしたのではないでしょうか。義時はこの時ばかりはこう答えています。「天皇に弓は引けぬ。直ちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。京から兵だけ送ってくるのであれば力の限り戦え」。皇室への崇敬の念が低いと言われた義時でさえ、天皇へ弓引くような畏れ多いことはできなかったのです。
  
鎌倉方はその大軍と勢いで1ヶ月で勝利し、承久の変に関わった人達を処分していきました。 
 
そしてそれは上皇にも及ぶのです。後鳥羽上皇は隠岐島に流され、順徳上皇は佐渡島へ、そして関わりがなかった土御門上皇は自ら土佐に赴きました。そして順徳上皇が譲位した仲恭天皇を廃して後鳥羽上皇系ではない後堀河天皇が即位されることになりました。
 
後鳥羽上皇の前に院政を敷かれていた後白河上皇が天皇になられた頃、崇徳上皇が讃岐に流され、また鎌倉幕府が滅亡した頃には、後醍醐天皇がこの承久の変を先例として隠岐島へ配流されています。鎌倉幕府が始まる前後からの武士の時代の始まりは、小説などにも華々しく描かれていますが、その実おどろおどろしい時代であったのだと歴史を知るにつけ感じられるようになります。
 
しかし、ここはとても重要なことですが、北条氏は畏れ多くも上皇を島流しにして天皇を廃してはいても、皇統に基づいた天皇をちゃんと次に即位させており、天皇の地位にとって替わろうなどとはしていないのです。つまり天皇や皇室とは、日本において皇統以外に誰もなれるものではないことが尊皇心のないような北条氏にも刷り込まれているのです。
  
現代に生きる私たちは、その鎌倉幕府、武士の時代になったことが日本を救ったことを知っています。公家社会がずっと続いていたら、二度の元寇どころか最初の元寇で日本は滅んでいたかもしれません。日本は不思議な国で、どうしようもない時代の流れが実は国を守る道のためにあったということがままあります。しかし、その時代の人に次の時代まで見通すことはできません。当時の人達がどうあがいても変えられぬ時代の流れに無常観を感じたであろうことを察してあげることしか現代の私たちにできることはないのです。 
 
そうした中、和歌に親しまれた後鳥羽上皇と親交の深かった藤原定家が選出したのが百人一首でした。この百人一首の深い意味は、人気ブロガーから作家となられたねずさんこと小名木善行さんの本で読み解かれています。実は百人一首は、百首で一首であると紐解かれおり、この時代の流れが歌で構成された叙事詩になっているのです。
 

★百人一首百番 順徳院

百敷きや
古き軒端の
しのぶにも
なほ余りある
昔なりけり

 

百敷きとは、内裏や宮中のことですが、その百敷き(宮中)の建物が古くなっているだけでなく荒れ果てているということは、みんなが支えてきた朝廷=社会が崩壊し荒れ果てているということです。そしてその荒れ果てた建物を見ながら、いくら忍んでも忍びきれないのは古き良き時代のことだと国を憂いているのがこの歌だといいます。この御製が藤原定家により百人一首に選ばれた当時、順徳院は佐渡で存命中のことでした。定家は順徳院の父君の後鳥羽上皇とその祖父である後白河天皇へ仕え、『新古今和歌集』編纂に関わり、後嵯峨天皇の時代まで朝廷に出仕していた人物です。その朝廷近くにいた定家が、天皇が国を憂いているのを聴けば、それは当時の官僚であった公家社会では至上課題になったであろうと思われるのです。彼らは昔から続いた雅な世の中を取り戻そうと、真剣に取り組み努力していたはずです。しかし、時代の流れはどうしても止められなかった。どうすることも出来なかった。その無念が定家が百人一首を撰し形となったから、その百番目が順徳院の歌となったのだと「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」に書かれています。(詳細は本書を是非ご覧ください。)

 

  
私達は戦後、天皇という存在を消し去るような歴史を教わってきました。しかし、日本の根幹にはいつの時代にも天皇がいらっしゃったということを知り、天皇について考えて歴史を見直した時、そこに見えてくるものは今までとは違ったものとなってきます。そしてそのように紐解かれている一つがこの百人一首の本であり、日本を見る目が養われる一冊となっています。そしてそのように歴史を見るようになれば、「承久の変」を「承久の乱」ということもなくなります。「承久の乱」では鎌倉幕府の目線になっていますが、日本は天皇の国ですから、これは「変」でなくてはおかしいのです。
 
承久の変は、現在は承久の乱という名称で授業などでは教えられています。「乱」と「変」の違いは、大まかにいえば「乱」は戦争で日本では朝廷や幕府に対しての反乱、「変」は事件で政治的陰謀や謀殺・暗殺を指します。
戦前は承久の変と教えていましたが、現在は乱と教えているということは、つまり天皇が反乱を起こしたと教えているわけです。朝廷や幕府に対しての反乱は、朝廷あるいは幕府が事を起した場合はどうなるのか?ということになると思います。
歴史はつい現在の視点で見てしまいがちですが、当時の視点で考えるべきものです。現在の歴史教育では、武士が台頭してきた鎌倉時代以降の天皇の存在が見えづらくなっています。
源頼朝が征夷大将軍に任命されたことを考えても、権力が幕府に移ってはいても、権威は朝廷が上という形を幕府は維持しているのですから、天皇が反乱を起こしたと教えることは言葉の意味からもおかしいのです。
建久三年(一一九二)の征夷大将軍任命により、朝廷から鎌倉幕府に権力の中枢が移ってからの時代を、連綿と続いてきた朝廷と比較すれば、少なくとも千年は続いている時代と、たった二九年しか経っていない時代では、その二九年が異常な時期なわけですから、それを元に戻そうとした行動は反乱とはいえません。
 
そういう視点で考えると、戦後いかに言葉のすり替えが行われているかが見えてくるかと思います。
 
なお、明治の教科書には「承久の役」と書かれています。黒矢印の左側です

 

 
「役」は戦そのものを指して使われるもので、現在~の戦いと言われるものも、昔は~役と表現されていました。これは戦いがあったということで、役という言葉が使われていたということになります。

 

竹田恒泰チャンネルで中学生からの質問に竹田さんが答えています。
 

皇學館大学の松浦教授のこの御製シリーズも大変勉強になります。
 

 

 

復刻版初等科国史の該当箇所です。頼朝についての記載の後から始まる段落となっています。

しかし、こうした源氏の全盛も、頼朝がなくなると、もうあとが続かなくなりました。これまで、源氏を助けて来た、外戚の北条氏が、そろそろ、わがままをふるまうようになったからです。頼朝の長男頼家は北条時政に、次男実朝は頼家の子公暁に、その公暁は腹黒い北条義時に殺され、源氏は、頼朝からわずか三代で、ほろびてしまいました。あとは、まったく北条氏の思い通りで、義時は、まず朝廷にお願い申して、源氏の遠縁に当たる藤原頼経を、名ばかりの鎌倉の主として迎え、自分は執権という役目になって、勝手なふるまいをしました。

これでは、もう武士に政治をまかしておけないと、朝廷では、お考えになるようになりました。後鳥羽上皇は、義時をお討ちになる御決心から、兵をお集めになりました。それと知った義時は、急いで大軍を京都へさし向け、この御くわだてにあずかった公家や武士を、斬ったり流したりしたばかりか、おそれ多くも、後鳥羽上皇をはじめ、土御門上皇・順徳上皇御三方を、それぞれ隠岐・土佐・佐渡へうつしたてまつりました。まことに、わが国始まって以来、臣下として無道きわまるふるまいです。その後北条氏は、泰時や時頼が、ともに身をつつしみ、政治にはげんで、義時の罪をつぐなうことにつとめました。

 

ここには、承久の乱も変も記載はありませんが、どうみても朝廷側視点での文章にまとめられています。

 

戦後、天皇について学校で教わることが減った中でも、日本の在り方が変わる転機となった事件として歴史教育から消えることなく、また幕末の孝明天皇の詔にも登場するほどの重要な事件を表す言葉が変わるとはどういうことなのか?私達はもっと考えたほうがいいのではないでしょうか?言葉が変われば意識も行動も変わるほど、言葉とは思考と切り離せないものだからこそ、言葉は大切です。

 

ここ数年英王室のニュースが目立っておりますが、英国王室のニュースでは王室を離脱したヘンリー王子とその王子妃メーガンにも称号を絶対忘れない日本のメディアは、日本の皇室ニュースでは、天皇陛下以外は「さま」や「さん」付けにして称号はもちろん敬称も使用しません。こうしたメディアのおかしな言葉遣いは、言葉の破壊にほかなりません。言葉、国語を維持するのはその言葉を使用する私たちにしかできません。そして思考は言葉から形作られますから、そうした言葉を軽んずることは、我が国のアイデンティティともいえる天皇と皇室を軽んずることになっていきます。そして日本をジワジワと破壊する時限爆弾としてGHQが仕掛けたものを一度も外すことなく侵されてしまっているのが現在の日本です。時限爆弾の効果は、現在の日本の状況を見れば一目瞭然です。一度壊されたものを元に戻すことは困難ですから、これを爆発させないためにも、この時限爆弾を外す必要があります。

 

一方で、日本の不思議は健在で、GHQが多くの時限爆弾を仕掛け、言葉の破壊や神話教育の撲滅を狙って日本を弱体化させようとしてきましたが、いつの頃からか多くの漫画やアニメ、ゲームの根底に日本神話が潜み、古事記編纂1300年の頃から神話教育も復活してきています。また神話教育を受けていない大人にも、パワースポットブームや御朱印ブームによって神社が注目されることで、神話に注目する人も出てきています。私が子供の頃、神社は何かさえない古臭い場所に思えていました。実際、有名神社などを見てもそういうところが多かったように記憶しています。歴史を知るようになって、それは戦後神社のパワーを削ぐために抑えられてきていたがためにそうなっていたことがわかります。しかし今は、そうした神社でさえも魅力的な場所となっているところがたくさんあります。それも、今という時代の流れの中でそうした魅力、神社のパワーの復活となってきているのだと思います。そして、そうした日本の不思議な時の流れが健在であるのは、日本に天皇がおわすからではないか、天皇が日々祈られ、宮中祭祀を続けられているからではないか、と考えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

昨今の刀剣ブームで、その刀剣にハマっていた後鳥羽上皇も注目されています。

 

 

『KATANA』の後鳥羽上皇が登場する巻

 

 

 

 

 

 

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