このブログを始める前に歴史の学び直しや日本の学び直しを始めていましたが、このブログを始めてからそれが加速していきました。それはあまりにも知らないことが沢山あることに気がついたからです。


歴史や日本を学び直す中で、神話や神社文化、伝統、何よりも天皇文化の重要性に気づかされました。しかもどれも日常に深く繋がりあっていて、自分の預かり知らぬところで、自分がその影響を受けてきていることには、あらためて驚かされました。


ちゃんとした歴史を教えられていないことは本当に怖いことですが、日本は幸いなことに自分で学ぶことが可能な国であり、今や歴史を学び直す為に情報発信している方々が沢山いらっしゃるし、本も多くある。選び方さえ間違えなければいいのです。


しかし、ちゃんと教えられて来なくても、それでも日本人としての基本的な考え方はできるように育ってきている。大部分の日本人がそうです。


それはなぜか?


日本語、大和言葉から続く言葉のおかげです。


言語にはその民族の特徴が現れるといいます。


例えば議論をするのに不利といわれる、日本語の文法構成。最後まで何を言いたいのかわからないのは、ちゃんと相手の言葉を聞かせるため、と考えると凄い文法です。世の中には色んな考えがあり、深く聞かないとなかなか理解しにくいことも多い。だからこそ、最後まで聞かないとわかりずらい文法が生まれた。人の言うことは最後まで聞きなさい、です。そして、これは相手を尊重することの表れでもあります。


また、言霊を大切にする国ですから、悪い言葉使いを嫌い、世界の言語と比べて悪態等の語彙が少ないといいます。面白いですよね、雨や雲他、沢山の言い方があるのに、悪態は少ないだなんて。



でも、これ重要です。なぜなら、脳は言葉を自分向けか、相手向けか区別できないからです。誰彼構わず自分のものとして聞いてしまうのです。だからいつも人に悪態ついている人は、自分に向かって言っていることになるのです。だったら、そんなことは言わずに相手を褒めたり応援するのがいい。


わかりやすく言えば、スポーツ選手が競争相手に負けろ!、失敗しろ!と念ずると自分が負けたり失敗し、相手がうまくいくよう、勝つよう念ずると自分がうまくいき、勝つ。これはタイガー・ウッズが実戦している精神論で、なるほどとうなずけるものです。


もともと、日本で何かを極めようとする人は最終的には必ず自分との闘いの道に入っていく。人との競争などは重要ではなくなります。


そういう精神性が生まれるのには、日本語の影響も大きいのではないでしょうか。ということは、実は歴史よりも何よりも国語が一番重要ということです。意思の疎通はもちろん、自分が何かを考えるにもなんにしても、言葉なしに表現できることはなく、その言葉が脳に与える影響も大きいのであれば、その言語の仕組みが整っていれば、最強です。


ちゃんとした歴史を学ぶことはもちろん重要です。そして神話を学ぶことも、伝統文化を学び維持していくことも重要です。でも、それを伝えていくのは言葉。そしてその記録媒体である文字です。


その読解力がなければ、歴史も神話も伝統も伝えていくことなどできないのです。文字のない口伝でさえも。


助戸校の100年を読むと、その時間割りからいかに国語が重要視されていたかがよくわかりました。実は江戸期の寺子屋でも国語は重要視されており、明治になって学校制度ができたとき寺子屋から引き継がれたのは、ただ学校としての機能だけではないのです。


そこには無駄のない学び方が、寺子屋方式から受け継がれていました。つまり昔から、読み、書き、そろばんと言いましたが、その「読み」や「書き」の内容の充実で色んなことを学んだのです。


だから読めば読むほど、書けば書くほど色んな知識が身に付く。言葉や言葉使いも知る。読解力も身に付く。良いことづくしのわけです。国語力をつけるということは、同時に他のことも学べる便利な勉強法なのです。


戦前の教科書では、この国語の大切さを読本で教えていました。「いま日本人に読ませたい戦前の教科書」日下公人著に載っていた「国語の力」、素晴らしいです。


国語の力

ねんねんころりよ、おころりよ、
ぼうやはよい子だ、ねんねしな。

だれでも、幼い時、母や祖母にだかれて、こうした歌を聞きながら、快い夢路にはいったことを思い出すであろう。このやさしい歌に歌われている言葉こそ、わがなつかしい国語である。

君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで

この国歌を奉唱する時、われわれ日本人は、思わず襟を正して、栄えますわが皇室の万歳を心から祈り奉る。この国歌に歌われていることばも、またわが尊い国語にほかならない。


われわれが、毎日話したり、聞いたり、読んだり、書いたりすることばが国語である。われわれは、一日たりとも、国語の力をかりずに生活する日はない。われわれは、国語によって話したり、考えたり、物事を学んだりして、日本人となるのである。国語こそは、まことにわれわれを育て、われわれを教えてくれる大恩人なのである。


このように大切な国語であるのに、ともすれば国語の恩をわきまえず、中には国語ということさえも考えない人がある。しかし、ひとたび外国の地を踏んで、ことばの通じないところへ行くと、誰でも国語のありがたさをしみじみと感じる。こういうところで、たまたまなつかしい日本語を聞くと、まるで地獄で仏にあった心地がし、愛国の心が泉のように湧きおこるのを感じるのである。


わが国は、神代このかた萬世一系の天皇をいただき、世界にたぐいなき国体を成して、今日に進んできたのであるが、わが国語もまた、国初以来継続して現在に及んでいる。だから、わが国語には、祖先以来の感情・精神がとけ込んでおり、そうして、それがまた今日のわれわれを結びつけて、国民として一身一体のようにならしめているのである。 もし国語の力によらなかったら、われわれの心は、どんなにばらばらになることであろう。してみると、一旦緩急ある時、国を挙げて困難に赴くのも、皇国のよろこびに、国を挙げて万歳を唱えるのも、一つには国語の力があずかっているといわなければならない。


国語は、こういうように、国家・国民と離すことのできないものである。国語を忘れた国民は、国民ではないとさえいわれている。

国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿るところである。


国民学校国語読本 第二十課
(旧仮名遣い及び旧漢字は変換しました)


転載以上。


この本の第一章は「国語がすべての基本である」から始まっており、本一冊を通じて戦前の教科書の本文が紹介されていてお薦めです。


昔の唱歌の言葉遣いの美しさ、靖国神社で読む兵士の手紙のきちんとした言葉遣い、それと比較すると現在の世の中の言葉遣いの悪さには唖然とするほどの差があります。メルマガをよく転載させていただいている施さんも含め、言葉の重要さを訴えている人は沢山いますが、まだまだ不十分だと感じています。


国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿るところである。