野球の神は死んだ
WBC2次予選、日本対アメリカ戦。お互いの選手が力を出し切って鎬を削り、緊迫した非常にすばらしいゲームだった。
しかし、選手ではない人間が、その試合の価値を台無しにしてしまった。
はっきりいって、アメリカ主催で、アメリカの球場で、アメリカの審判で、試合をしている時点で、アウェーの不利益はある程度仕方がないものだと思う。審判だって人間だし、絶対的に公平なジャッジなんてできっこない。逆にこちらはどうしても日本側を贔屓目に見てしまうことも否めない。
清水投手の反則球も「うーん、何か難癖付けられてる」と思ってしまうが、それはしょうがない。微妙な判定でアウトになっても、それもまあ、しょうがない。
しかし、
”審判がアメリカの抗議で判定を覆す”というのは、一体どういうことだ。そんなことが許されて良いのだろうか?そもそも野球で一度出た審判の裁定が覆るなんて聞いたことがない。
説明によれば、本来ジャッジの権限がない2塁塁審がジャッジしてしまったため、主審が訂正した、ということらしい。しかし、こんなものは審判間で罪のなすりつけ合いをしているだけで、結局少なくともどちらかの審判は間違いを犯しているということである。はっきり言って、見てる観客やプレーしている選手にとって、どの審判が悪いかなどということは関係ない。ただ審判が間違いを犯しているという事実が残るのみである。
”審判は神様である”自分でそう思いたければ、勝手に思っていればいい。この神様は、もはや野球人の信仰の対象にはならないのだから。
しかし、選手ではない人間が、その試合の価値を台無しにしてしまった。
はっきりいって、アメリカ主催で、アメリカの球場で、アメリカの審判で、試合をしている時点で、アウェーの不利益はある程度仕方がないものだと思う。審判だって人間だし、絶対的に公平なジャッジなんてできっこない。逆にこちらはどうしても日本側を贔屓目に見てしまうことも否めない。
清水投手の反則球も「うーん、何か難癖付けられてる」と思ってしまうが、それはしょうがない。微妙な判定でアウトになっても、それもまあ、しょうがない。
しかし、
”審判がアメリカの抗議で判定を覆す”というのは、一体どういうことだ。そんなことが許されて良いのだろうか?そもそも野球で一度出た審判の裁定が覆るなんて聞いたことがない。
説明によれば、本来ジャッジの権限がない2塁塁審がジャッジしてしまったため、主審が訂正した、ということらしい。しかし、こんなものは審判間で罪のなすりつけ合いをしているだけで、結局少なくともどちらかの審判は間違いを犯しているということである。はっきり言って、見てる観客やプレーしている選手にとって、どの審判が悪いかなどということは関係ない。ただ審判が間違いを犯しているという事実が残るのみである。
”審判は神様である”自分でそう思いたければ、勝手に思っていればいい。この神様は、もはや野球人の信仰の対象にはならないのだから。
民主主義と武士道に基づく政治家像
最近、政治家は民主主義の原点を忘れている、ということに気付いた。
それは、”公僕”すなわち、政治家は国民の奴隷たるべき、という考え方である。
巷の政治家を見渡しても、箸にも棒にも引っかからない人たちはまあ別として、指導者として立派に見える人はいても、国民に奉仕しているなぁと感じるような人はあまり見あたらない。
それに気付いた時、少し悩んでいた”政治家としてあるべき姿”に対する疑問が解けた気がした。
その疑問というのは、”国民に選ばれた政治家は、常に国民の声に従うべきなのか、それとも国民に選ばれた自分の信念というものに従うべきなのか”というものである。
政治家を国民に仕える物として考えると、この疑問は”家臣は主君のいうことを常に聞くべきなのか、それとも自分の信念に従うべきなのか”という問題に置き換わる。
この解答は、”武士道の精神”で導かれる。すなわち、政治家が国民に対して誓うべき”忠義”とはどうあるべきか、と考えるわけである。”主君が正しかろうと間違っていようと、常に主君の命には従う”これもひとつの忠義の姿であり、間違いではない。だがこれは、下の忠義である。
最高の忠義とは、”主君を誠の名君にすること”であり、もし主君が間違いを犯したと思ったならば、命を賭してでも主君を諫めるのが忠義の表れである。このような精神は葉隠の中などにも書かれている。
すなわち、国民から選ばれた政治家というのは、自分の信念に従って政治を行って良いのである。ただし、もし国民の意見と違うことを行おうとするならば、”最終的に国民の信が得られなかった場合に切腹も辞さない”、ぐらいの覚悟を持って臨まなくてはならない、ということである。果たして、世の政治家のどれだけがこういった信念を持って政治に臨んでいるだろうか?
思えば、小泉首相の”郵政解散”というのはまさにそういった心意気の表れだったという気もする。法案自体の是非は議論の分かれるところであろうし、私は政治の中身についてはまるっきり素人なので意見は差し控える。しかし少なくとも、その信念と行動たるや、立派な物だと私は思う。
それは、”公僕”すなわち、政治家は国民の奴隷たるべき、という考え方である。
巷の政治家を見渡しても、箸にも棒にも引っかからない人たちはまあ別として、指導者として立派に見える人はいても、国民に奉仕しているなぁと感じるような人はあまり見あたらない。
それに気付いた時、少し悩んでいた”政治家としてあるべき姿”に対する疑問が解けた気がした。
その疑問というのは、”国民に選ばれた政治家は、常に国民の声に従うべきなのか、それとも国民に選ばれた自分の信念というものに従うべきなのか”というものである。
政治家を国民に仕える物として考えると、この疑問は”家臣は主君のいうことを常に聞くべきなのか、それとも自分の信念に従うべきなのか”という問題に置き換わる。
この解答は、”武士道の精神”で導かれる。すなわち、政治家が国民に対して誓うべき”忠義”とはどうあるべきか、と考えるわけである。”主君が正しかろうと間違っていようと、常に主君の命には従う”これもひとつの忠義の姿であり、間違いではない。だがこれは、下の忠義である。
最高の忠義とは、”主君を誠の名君にすること”であり、もし主君が間違いを犯したと思ったならば、命を賭してでも主君を諫めるのが忠義の表れである。このような精神は葉隠の中などにも書かれている。
すなわち、国民から選ばれた政治家というのは、自分の信念に従って政治を行って良いのである。ただし、もし国民の意見と違うことを行おうとするならば、”最終的に国民の信が得られなかった場合に切腹も辞さない”、ぐらいの覚悟を持って臨まなくてはならない、ということである。果たして、世の政治家のどれだけがこういった信念を持って政治に臨んでいるだろうか?
思えば、小泉首相の”郵政解散”というのはまさにそういった心意気の表れだったという気もする。法案自体の是非は議論の分かれるところであろうし、私は政治の中身についてはまるっきり素人なので意見は差し控える。しかし少なくとも、その信念と行動たるや、立派な物だと私は思う。
日本は潘基文韓国外交通商部長官を国連事務総長に支持すべきか
韓国の潘基文韓国外交通商部長官が、次期国連事務総長の候補者に名乗りを挙げている。
立候補するのは勝手なのだが、日本に支持しろと要請をしているようだ。
今までさんざん日本を非難し、常任理事国入りも支持せずにおきながら、今さら何を言うか、というのが普通の神経だと思うが、感情論だけで政策を決めてはいけない。あくまで論理的に、彼は国連事務総長にふさわしくない、と反論しなければならない。
日本は、G4による国連改革案というものを提出している。この主旨は、”より世界の平和と秩序を護るために、国連の改革を行う”ということであり、決して自分の国が常任理事国になりたいというわがままな主張のものではないはずである。すなわち、G4案こそがより平和な秩序ある世界を創るための改革案である、という信念のもとに動いている、少なくとも建前上はそうなっていなければいけないはずである。
一方で、次期国連事務総長、これも、”次世代の国連の運営を担い、世界の平和と秩序を護る”人物を選定しなければならないはずである。
従って、もし日本が本当に、”G4案こそがより平和な秩序ある世界を創るための改革案”という信念を持っていると主張したいならば、これを支持しない人間というのは、日本が考える”次世代の国連の運営を担い、世界の平和と秩序を護る人物”ではないということであり、そのような人間を支持するというのは全く一貫性のない、自国の信念を疑われかねない話なのである。
つまり、今の日本の立場を堂々と主張するならば、G4案を支持しない韓国の立候補者というのは、絶対に支持出来ない人物であるのだ。
「未来志向の日韓関係のため」?バカを言ってはいけない。それこそ、自国のわがままのために世界の平和を蔑ろにする発言である。一体、”一国とその隣国との関係”などというちっぽけなものと、”世界の秩序と平和”、どちらが大切だと思っているのだろうか。
立候補するのは勝手なのだが、日本に支持しろと要請をしているようだ。
今までさんざん日本を非難し、常任理事国入りも支持せずにおきながら、今さら何を言うか、というのが普通の神経だと思うが、感情論だけで政策を決めてはいけない。あくまで論理的に、彼は国連事務総長にふさわしくない、と反論しなければならない。
日本は、G4による国連改革案というものを提出している。この主旨は、”より世界の平和と秩序を護るために、国連の改革を行う”ということであり、決して自分の国が常任理事国になりたいというわがままな主張のものではないはずである。すなわち、G4案こそがより平和な秩序ある世界を創るための改革案である、という信念のもとに動いている、少なくとも建前上はそうなっていなければいけないはずである。
一方で、次期国連事務総長、これも、”次世代の国連の運営を担い、世界の平和と秩序を護る”人物を選定しなければならないはずである。
従って、もし日本が本当に、”G4案こそがより平和な秩序ある世界を創るための改革案”という信念を持っていると主張したいならば、これを支持しない人間というのは、日本が考える”次世代の国連の運営を担い、世界の平和と秩序を護る人物”ではないということであり、そのような人間を支持するというのは全く一貫性のない、自国の信念を疑われかねない話なのである。
つまり、今の日本の立場を堂々と主張するならば、G4案を支持しない韓国の立候補者というのは、絶対に支持出来ない人物であるのだ。
「未来志向の日韓関係のため」?バカを言ってはいけない。それこそ、自国のわがままのために世界の平和を蔑ろにする発言である。一体、”一国とその隣国との関係”などというちっぽけなものと、”世界の秩序と平和”、どちらが大切だと思っているのだろうか。
養老孟司”超バカの壁”の護憲論に対する反論
ちょっと他の言動から見ると不思議な気がするが、養老先生は護憲派らしい。
その理由が”超バカの壁”書いてあった。要約すると、「やむを得ず戦わないといけないことはあるだろう。でも、戦争には後ろめたい気持ちを常に持って臨まなくてはならない。だから憲法はこのままにして、常に議論が紛糾しているぐらいの方がいい」ということだったと思う。
確かに、他の平和ボケした護憲論よりは、ある程度納得する部分がある。しかし、これはあくまで”戦争放棄”の条文についての話である。
ここで、憲法9条の条文を見てみたい。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
私がむしろ問題にしたいのは、第2項である。私には、この条文を何度読んでも、自衛隊という戦力を保持することが合憲となる理由がわからない。実際、自衛隊は違憲だと騒いでる人たちも存在する。
確かに、戦闘を決定したり指揮したりする立場にいる人たち、すなわち政治家や、それを選ぶ国民は、戦争に対する後ろめたさを常に持っているべきだと思う。それについては養老先生の意見に異論はない。
しかし一方で、この憲法によって、実際前線に立って国を護るために戦ってくれる人が、自分の存在自体に後ろめたさを感じなければならなくなっているのである。こんなことが許されて良いのだろうか?
我々護ってもらう側の人間は、前線に立って国を護る人たちに畏敬の念を払うべきであり、自衛隊員には、自分の仕事と信念に誇りを持ってもらいたい。
だから、第1項はそのままでも構わない。せめて第2項には、”国防と世界平和維持のための自衛隊”を明記し、その存在の正当性を確立して欲しい。これが私の考える、最低限の改憲論である。
その理由が”超バカの壁”書いてあった。要約すると、「やむを得ず戦わないといけないことはあるだろう。でも、戦争には後ろめたい気持ちを常に持って臨まなくてはならない。だから憲法はこのままにして、常に議論が紛糾しているぐらいの方がいい」ということだったと思う。
確かに、他の平和ボケした護憲論よりは、ある程度納得する部分がある。しかし、これはあくまで”戦争放棄”の条文についての話である。
ここで、憲法9条の条文を見てみたい。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
私がむしろ問題にしたいのは、第2項である。私には、この条文を何度読んでも、自衛隊という戦力を保持することが合憲となる理由がわからない。実際、自衛隊は違憲だと騒いでる人たちも存在する。
確かに、戦闘を決定したり指揮したりする立場にいる人たち、すなわち政治家や、それを選ぶ国民は、戦争に対する後ろめたさを常に持っているべきだと思う。それについては養老先生の意見に異論はない。
しかし一方で、この憲法によって、実際前線に立って国を護るために戦ってくれる人が、自分の存在自体に後ろめたさを感じなければならなくなっているのである。こんなことが許されて良いのだろうか?
我々護ってもらう側の人間は、前線に立って国を護る人たちに畏敬の念を払うべきであり、自衛隊員には、自分の仕事と信念に誇りを持ってもらいたい。
だから、第1項はそのままでも構わない。せめて第2項には、”国防と世界平和維持のための自衛隊”を明記し、その存在の正当性を確立して欲しい。これが私の考える、最低限の改憲論である。
濫用・流用される科学研究費
昨日のエントリーの続報だが、小坂文科相は荒川選手及びスルツカヤ選手に対するお詫びのコメントを発表したようだ。
誰に悪いことをしたか、ということは理解しているようで、民主党よりは遙かに救いがある。
政治家の発言などと言う物は、常に最悪の曲解でもって報道されるものだ、というぐらいの気持ちで、今後発現には気をつけて欲しいものである。
さて、本題。たまには科学者らしいエントリーもしてみたい、と思いつつやっぱり政治的な話になってしまう。
科学研究というものは、当然利益に直結しない物も含まれるので、そういった研究を行う費用は国からの補助金でもって行われる。
研究者は、国に対して”自分の研究がいかに世のためになるか”を訴え、その有用性と能力が認められた者に研究費が与えられる。
この理念には全く問題がない、というか恩恵に預かっている身であるのでむしろ感謝しているところである。ただ、システム上に問題があるので、それを提起して検証したいと思う。
研究費というものは、通常年度ごとに与えられる。3年で1500万円という場合でも、年間500万円×3年、という様に年ごとに使用する額が区切られる。
ここで問題が生じる。それは、1年に400万円しか必要でなかった場合と、600万円以上の物が必要になった場合である。
1年に400万円しか使わなかった場合、次の年に600万円使えるか?答えは、不可である。それどころか、この研究者は400万円しか必要でないと判断され、次の年からも400万円しか研究費が与えられなくなるのである。また当然、前倒しで600万円使うことも不可である。このような問題は、結局公務員的な感覚に由来している。要するに、融通が利かないのである。
そうなった場合、研究者はどうするだろう。
まず、400万円しか必要なかった場合には、次の年にまた500万円の予算を得るため、100万円は不必要な物の購入に消える。これが、研究費の濫用。不正ではないが、非効率的である。
次に、600万円の物が必要であった場合は、もっとたちが悪い考えが浮かぶ。600万円の物を、メーカーに頼んで500万円で購入し、差額の100万円は、次の年、何も買っていないのに100万円の物を買ったことにして支払うのである。これは明らかな不正行為、研究費の流用である。
とまあ、研究者の極悪ぶりを書いたわけだが、良く見てみると、別に自身の懐は全く潤っていない。ただ、研究上の必要に迫られて不正を余儀なくされているということなのだ。
もちろん、モラルが崩壊すれば、同じ手口で研究費を懐に入れることが可能であるので、このような行為は取り締まられて当然である。ただ、予算の融通の幅をもう少し広げてくれれば、我々も良心を痛めながらこんなことをする必要はなくなる。予算を効率的に使うためにも、是非”公務員的な融通の利かなさの改革”とでも言うのだろうか、ご一考頂きたいものである。
誰に悪いことをしたか、ということは理解しているようで、民主党よりは遙かに救いがある。
政治家の発言などと言う物は、常に最悪の曲解でもって報道されるものだ、というぐらいの気持ちで、今後発現には気をつけて欲しいものである。
さて、本題。たまには科学者らしいエントリーもしてみたい、と思いつつやっぱり政治的な話になってしまう。
科学研究というものは、当然利益に直結しない物も含まれるので、そういった研究を行う費用は国からの補助金でもって行われる。
研究者は、国に対して”自分の研究がいかに世のためになるか”を訴え、その有用性と能力が認められた者に研究費が与えられる。
この理念には全く問題がない、というか恩恵に預かっている身であるのでむしろ感謝しているところである。ただ、システム上に問題があるので、それを提起して検証したいと思う。
研究費というものは、通常年度ごとに与えられる。3年で1500万円という場合でも、年間500万円×3年、という様に年ごとに使用する額が区切られる。
ここで問題が生じる。それは、1年に400万円しか必要でなかった場合と、600万円以上の物が必要になった場合である。
1年に400万円しか使わなかった場合、次の年に600万円使えるか?答えは、不可である。それどころか、この研究者は400万円しか必要でないと判断され、次の年からも400万円しか研究費が与えられなくなるのである。また当然、前倒しで600万円使うことも不可である。このような問題は、結局公務員的な感覚に由来している。要するに、融通が利かないのである。
そうなった場合、研究者はどうするだろう。
まず、400万円しか必要なかった場合には、次の年にまた500万円の予算を得るため、100万円は不必要な物の購入に消える。これが、研究費の濫用。不正ではないが、非効率的である。
次に、600万円の物が必要であった場合は、もっとたちが悪い考えが浮かぶ。600万円の物を、メーカーに頼んで500万円で購入し、差額の100万円は、次の年、何も買っていないのに100万円の物を買ったことにして支払うのである。これは明らかな不正行為、研究費の流用である。
とまあ、研究者の極悪ぶりを書いたわけだが、良く見てみると、別に自身の懐は全く潤っていない。ただ、研究上の必要に迫られて不正を余儀なくされているということなのだ。
もちろん、モラルが崩壊すれば、同じ手口で研究費を懐に入れることが可能であるので、このような行為は取り締まられて当然である。ただ、予算の融通の幅をもう少し広げてくれれば、我々も良心を痛めながらこんなことをする必要はなくなる。予算を効率的に使うためにも、是非”公務員的な融通の利かなさの改革”とでも言うのだろうか、ご一考頂きたいものである。
小坂文科相に政治家の本質を見る
あまり個人名を挙げて中傷するのは気が進まないが、あまりに腹が立ったのでお許し頂きたい。
フィギュアスケートの荒川静香選手が、小坂文科相に金メダルの報告に訪れて、対談した時の一コマである。
小坂文科相:「人の不幸を喜んじゃいけないけど、(スルツカヤ選手が)こけた時は喜びましたね~。これはやった~って言ってね~。」
荒川選手:「・・・・・。」
彼は自分が何を言っているのか解っているのだろうか?人の不幸を喜んじゃいけない?そういうことではない。これは、”荒川選手が金メダルを取れたのはスルツカヤ選手が失敗したおかげ”という、荒川選手に対する侮辱以外の何者でもない。
思うに、ここにはスポーツ選手と政治家との本質的な思考回路の違いが現れているのではないだろうか。
スポーツというのは、努力して”自分の能力を相手より高めていく”という世界である。自分が高みへ登ることをせず、相手が落ちることで相対的に相手より高いところにいく、という努力は存在しない。(存在するかもしれないが、少なくとも邪道であろう。そんなことを誇る選手はいないはずだ)
政治というのも、本来そうあるべきものである。選挙戦だって、”いかに相手より良い政治をするか”をアピールして戦っていくのが、あるべき姿のはずである。
ところが、昨今の政治を見ていると、”いかに相手を貶めるか”に血道を挙げているようにしか見えない。民主党の偽メール事件は記憶に新しいが、何のことはない、与党だって根底に流れる思考回路は一緒なのだ。
考えて見て欲しい。AとBという政治家がいたとする。Aの方が政策の面で勝っている時に、BがAを貶めることをして、それで当選したとしよう。結果として行われるのは、Aの政策より劣るBの政策である。つまり、この思考回路というのは、決して”政治が良くなる”ということには繋がらないのである。政治を良くするためには、BがAよりも良い政策を示して、その結果選挙に勝利しなければならないのである。
もちろん、”相手を貶めれば選挙に勝てる”と政治家に思わせている、我々国民にも責任の一端はあろう。こういった戦略に惑わされず、本当に良い政治をしてくれるという基準で、政治家を選ぶようにしたいものである。
フィギュアスケートの荒川静香選手が、小坂文科相に金メダルの報告に訪れて、対談した時の一コマである。
小坂文科相:「人の不幸を喜んじゃいけないけど、(スルツカヤ選手が)こけた時は喜びましたね~。これはやった~って言ってね~。」
荒川選手:「・・・・・。」
彼は自分が何を言っているのか解っているのだろうか?人の不幸を喜んじゃいけない?そういうことではない。これは、”荒川選手が金メダルを取れたのはスルツカヤ選手が失敗したおかげ”という、荒川選手に対する侮辱以外の何者でもない。
思うに、ここにはスポーツ選手と政治家との本質的な思考回路の違いが現れているのではないだろうか。
スポーツというのは、努力して”自分の能力を相手より高めていく”という世界である。自分が高みへ登ることをせず、相手が落ちることで相対的に相手より高いところにいく、という努力は存在しない。(存在するかもしれないが、少なくとも邪道であろう。そんなことを誇る選手はいないはずだ)
政治というのも、本来そうあるべきものである。選挙戦だって、”いかに相手より良い政治をするか”をアピールして戦っていくのが、あるべき姿のはずである。
ところが、昨今の政治を見ていると、”いかに相手を貶めるか”に血道を挙げているようにしか見えない。民主党の偽メール事件は記憶に新しいが、何のことはない、与党だって根底に流れる思考回路は一緒なのだ。
考えて見て欲しい。AとBという政治家がいたとする。Aの方が政策の面で勝っている時に、BがAを貶めることをして、それで当選したとしよう。結果として行われるのは、Aの政策より劣るBの政策である。つまり、この思考回路というのは、決して”政治が良くなる”ということには繋がらないのである。政治を良くするためには、BがAよりも良い政策を示して、その結果選挙に勝利しなければならないのである。
もちろん、”相手を貶めれば選挙に勝てる”と政治家に思わせている、我々国民にも責任の一端はあろう。こういった戦略に惑わされず、本当に良い政治をしてくれるという基準で、政治家を選ぶようにしたいものである。
自虐史観の靖国参拝論
日本の総理大臣が靖国神社に参拝することについて、反対の声が大きい。
その主張は、「靖国神社にはA級戦犯が合祀されているので、戦争に対する反省の気持ちがあるのならば、参拝を控えるべき」ということであろう。
これに対する反論としては、A級戦犯の定義とか、東京裁判の正当性とか、赦免決議の有無とか、要するにA級戦犯という罪状に対する不当性を挙げるものが多い。だが今回は、逆の立場から”靖国参拝の意義”について論じたいと思う。つまり、”A級戦犯”というものがたとえ非常に重い罪であったとしても、いや、重い罪であればあるほど、靖国神社には参拝するべきだ、ということである。
考えて見て欲しい。まず、「過去の戦争に責任がある、反省しなければならない」と主張する人たち、彼らは、誰が反省し、責任を取らなければならない、と言っているのか?
1.悪いのは日本という国、政府であるから、現日本政府において全ての責任を負うべき
2.悪いのは当時の軍部・首脳部、すなわちA級戦犯であり、過去の戦争犯罪人が責任を負っている
どっちもという回答は無し、だった場合、上記の人々は100%1番と答えると断言する。そうだろう。だからこそ、現政府に反省を求めているのだから。
さて、ここで気付かないだろうか。今ここで彼らは、「A級戦犯より現政府の方が重い責任を負うべきだ」と自分たちで認めてしまったのである。
この視点に立ってみた場合、被害者の立場から見れば、日本政府がA級戦犯を祀ろうが祀るまいが、大した問題ではないはずである。だって、日本の存在自体の方がより罪深いのだから。
逆に、罪を負うべきとする人々(これは本来、全ての国民、ということになるだろうが、便宜的に”日本政府”としよう)の立場から見れば、A級戦犯というのは、本来自分たちが負うべき罪をかぶって処刑された人々、ということになる。だとすれば、日本を護って死んでいった英霊として祀られることに何の違和感もない。
A級戦犯とされる人々の、国内における責任については、話がややこしくなるので別問題としよう。諸外国に対しては、日本が自分たちの責任を認め、痛切に反省しているからこそ、その日本が負うべき罪を代わりに負って死んでいった人々に対し、哀悼の意を捧げるのである。”反省しているならA級戦犯を祀るな”というのは、全く逆の話なのだ。現小泉総理の”政府の見解は村山談話を踏襲している。だからこそ、不戦の誓いのために靖国神社に参拝する”というのは、ダブルスタンダードでもなければ反省の色が見えないわけでもない、極めて当然の論理なのだ。
それとも、”悪いのはA級戦犯です。だから彼らを未来永劫断罪し続けます。これでいいでしょ。もうこれで、今の日本には何の責任もありませんね。”とでも言って欲しいのだろうか。もしそう言えたなら、どんなに楽だろうか。
その主張は、「靖国神社にはA級戦犯が合祀されているので、戦争に対する反省の気持ちがあるのならば、参拝を控えるべき」ということであろう。
これに対する反論としては、A級戦犯の定義とか、東京裁判の正当性とか、赦免決議の有無とか、要するにA級戦犯という罪状に対する不当性を挙げるものが多い。だが今回は、逆の立場から”靖国参拝の意義”について論じたいと思う。つまり、”A級戦犯”というものがたとえ非常に重い罪であったとしても、いや、重い罪であればあるほど、靖国神社には参拝するべきだ、ということである。
考えて見て欲しい。まず、「過去の戦争に責任がある、反省しなければならない」と主張する人たち、彼らは、誰が反省し、責任を取らなければならない、と言っているのか?
1.悪いのは日本という国、政府であるから、現日本政府において全ての責任を負うべき
2.悪いのは当時の軍部・首脳部、すなわちA級戦犯であり、過去の戦争犯罪人が責任を負っている
どっちもという回答は無し、だった場合、上記の人々は100%1番と答えると断言する。そうだろう。だからこそ、現政府に反省を求めているのだから。
さて、ここで気付かないだろうか。今ここで彼らは、「A級戦犯より現政府の方が重い責任を負うべきだ」と自分たちで認めてしまったのである。
この視点に立ってみた場合、被害者の立場から見れば、日本政府がA級戦犯を祀ろうが祀るまいが、大した問題ではないはずである。だって、日本の存在自体の方がより罪深いのだから。
逆に、罪を負うべきとする人々(これは本来、全ての国民、ということになるだろうが、便宜的に”日本政府”としよう)の立場から見れば、A級戦犯というのは、本来自分たちが負うべき罪をかぶって処刑された人々、ということになる。だとすれば、日本を護って死んでいった英霊として祀られることに何の違和感もない。
A級戦犯とされる人々の、国内における責任については、話がややこしくなるので別問題としよう。諸外国に対しては、日本が自分たちの責任を認め、痛切に反省しているからこそ、その日本が負うべき罪を代わりに負って死んでいった人々に対し、哀悼の意を捧げるのである。”反省しているならA級戦犯を祀るな”というのは、全く逆の話なのだ。現小泉総理の”政府の見解は村山談話を踏襲している。だからこそ、不戦の誓いのために靖国神社に参拝する”というのは、ダブルスタンダードでもなければ反省の色が見えないわけでもない、極めて当然の論理なのだ。
それとも、”悪いのはA級戦犯です。だから彼らを未来永劫断罪し続けます。これでいいでしょ。もうこれで、今の日本には何の責任もありませんね。”とでも言って欲しいのだろうか。もしそう言えたなら、どんなに楽だろうか。
皇室のDNA
皇室典範改正論議が最近かまびすしい。
まず最初に断っておくと、私はかなりガチの男系維持派である。そして、一応科学者としての意識を持って仕事をしているものである。
その視点から見て、納得しがたい男系論がある。
それは、”男性の染色体はXY、女性の染色体はXX。このY男性染色体を継承していることに正統性がある”というものである。
一見、説得力があるように見える。だが私が許せないのは、この論法が”科学を騙っている”ことである。
この論理を展開している人に、私は問いたい。「Y染色体を継承していることを、誰か確認したのですか?」
科学的な根拠を論じるならば、科学的に証明がなされなければならない。「そんなことは無理!」というならば、それは科学的な根拠はない、ということなのである。以下、そういうものをオカルトと呼ばせて頂く。(言葉は悪いが、他に良い言い方が思いつかないので悪しからず)
思うに、科学というものを誤解している人が世の中には多い気がする。簡単に言うと、
科学->正しい
オカルト->間違い
という誤解である。
良くオカルト好きの人が言う言葉「世の中には科学で説明出来ないことがある」その通りである。現代の科学で説明出来ないことなんて、世の中にいくらでもある。科学が常に正しいとは限らない。逆もまた然りで、オカルトにだって正しいことはあるかもしれないのだ。
それなのに、そこまで主張しておいて、いざ自分のオカルトな説を唱える時に、波動エネルギーがどうの、スカラー波がどうのと”科学っぽく”演出して正しそうな気にさせる人の何と多いことか。
こういう人たちは、自分で”科学が正しいとは限らない”と言っておきながら、科学至上主義から抜け出せていない、もしくは利用している、のである。
オカルトを語りたければ、科学を騙る必要など無い。「科学では説明出来ないけど、実際起こっているんだ。実際起こっているんだから文句あるか!くやしかったら科学者ども、科学で説明してみな!」これでいいのだ。オカルトの勝利、科学の敗北で終わらせればいいのである。
皇室の正統性を論じる時に、DNAなどという”一見科学的っぽい”根拠など必要ないのである。「皇室はずっと男系を維持してきた。だからこれからも維持しなければならない。」これで十分だ。
まず最初に断っておくと、私はかなりガチの男系維持派である。そして、一応科学者としての意識を持って仕事をしているものである。
その視点から見て、納得しがたい男系論がある。
それは、”男性の染色体はXY、女性の染色体はXX。このY男性染色体を継承していることに正統性がある”というものである。
一見、説得力があるように見える。だが私が許せないのは、この論法が”科学を騙っている”ことである。
この論理を展開している人に、私は問いたい。「Y染色体を継承していることを、誰か確認したのですか?」
科学的な根拠を論じるならば、科学的に証明がなされなければならない。「そんなことは無理!」というならば、それは科学的な根拠はない、ということなのである。以下、そういうものをオカルトと呼ばせて頂く。(言葉は悪いが、他に良い言い方が思いつかないので悪しからず)
思うに、科学というものを誤解している人が世の中には多い気がする。簡単に言うと、
科学->正しい
オカルト->間違い
という誤解である。
良くオカルト好きの人が言う言葉「世の中には科学で説明出来ないことがある」その通りである。現代の科学で説明出来ないことなんて、世の中にいくらでもある。科学が常に正しいとは限らない。逆もまた然りで、オカルトにだって正しいことはあるかもしれないのだ。
それなのに、そこまで主張しておいて、いざ自分のオカルトな説を唱える時に、波動エネルギーがどうの、スカラー波がどうのと”科学っぽく”演出して正しそうな気にさせる人の何と多いことか。
こういう人たちは、自分で”科学が正しいとは限らない”と言っておきながら、科学至上主義から抜け出せていない、もしくは利用している、のである。
オカルトを語りたければ、科学を騙る必要など無い。「科学では説明出来ないけど、実際起こっているんだ。実際起こっているんだから文句あるか!くやしかったら科学者ども、科学で説明してみな!」これでいいのだ。オカルトの勝利、科学の敗北で終わらせればいいのである。
皇室の正統性を論じる時に、DNAなどという”一見科学的っぽい”根拠など必要ないのである。「皇室はずっと男系を維持してきた。だからこれからも維持しなければならない。」これで十分だ。
情報民主化論
かつて、世界に向けて情報を発信するという行為は、マスコミだけの特権であった。
一国民がそれをしようと思えば、マスコミにお願いして、発信して頂くしかない。
国民にその任をまかされたわけでもない、限られた特権階級の存在。まさに封建主義的な情報社会である。
ところが、最近はインターネットの普及により、国民一人一人が自由に世界に向けて情報を発信することが可能になった。これはマスコミの専制君主制を打ち破る、自由民主主義の台頭である。
実際の世界においても、民主主義というものは一朝一夕に成立したわけではなかった。特権階級の弾圧に耐え、自らの民度を成熟させ、少しづつ権利を勝ち取っていったのである。そして今、十分に成熟した国民により、ほぼ完全な民主主義が成立している。
現在のネット世界は、マスコミに”便所の落書き”と酷評され、目の敵にされている。これは既得権益を守らんとする特権階級の弾圧になぞらえることが出来る。だが実際に発信される情報も玉石混淆であり、十分にモラルが成熟しているとは言い難い。情報発信の民主化は、未だ発展途上なのである。
だが、実際に 十分な民度が形成されれば、やがて封建社会は民主主義に取って代わられることになることは、歴史が証明している。その時、旧特権階級であるマスコミ、は一体どうなっているであろうか。
以上、情報化社会をイデオロギーに見立てた思考実験、でした。
でも、あながち間違いではないような気がする。
一国民がそれをしようと思えば、マスコミにお願いして、発信して頂くしかない。
国民にその任をまかされたわけでもない、限られた特権階級の存在。まさに封建主義的な情報社会である。
ところが、最近はインターネットの普及により、国民一人一人が自由に世界に向けて情報を発信することが可能になった。これはマスコミの専制君主制を打ち破る、自由民主主義の台頭である。
実際の世界においても、民主主義というものは一朝一夕に成立したわけではなかった。特権階級の弾圧に耐え、自らの民度を成熟させ、少しづつ権利を勝ち取っていったのである。そして今、十分に成熟した国民により、ほぼ完全な民主主義が成立している。
現在のネット世界は、マスコミに”便所の落書き”と酷評され、目の敵にされている。これは既得権益を守らんとする特権階級の弾圧になぞらえることが出来る。だが実際に発信される情報も玉石混淆であり、十分にモラルが成熟しているとは言い難い。情報発信の民主化は、未だ発展途上なのである。
だが、実際に 十分な民度が形成されれば、やがて封建社会は民主主義に取って代わられることになることは、歴史が証明している。その時、旧特権階級であるマスコミ、は一体どうなっているであろうか。
以上、情報化社会をイデオロギーに見立てた思考実験、でした。
でも、あながち間違いではないような気がする。
民主党は何をしたのか
現在偽メール騒動で揺れる民主党について考えてみたい。
この問題は既にさんざん語り尽くされている感があるが、その主張はメールが偽物だったことが問題だという方向に傾いている。だが、問題は本当にそこなのだろうか?
思えば、総選挙後、前原民主党は対案路線を掲げて出直しを図った。これは、民主党の政策能力をアピールし、自民党が駄目ならば政権交代して民主党に政権を執らせる、という選択肢を国民に与える、二大政党制を実現するための布石となるはずであった。
ところが民主党は、この路線をあっさりと放棄する。対案路線から追求路線への変更。要するに、民主党は自らの政策能力をアピールすることを放棄した訳だ。追求しかしないということは、どんなに良い方に解釈したとしても、”民主党は国民のために自民党の監視役となります”という結論しか導かれない。これは、”野党”の仕事である。すなわち、民主党は政権交代して自らが与党になるという意志を放棄したのだ。
まあ、100歩譲ってそこまでは良しとしよう。また55年体制に戻るだけで、そんなに末期的な訳ではない。
かくして、民主党は由緒正しき野党の仕事を始める。自民党の疑惑を追及するためなら、多少の嘘やごまかしもしょうがない。それが国民のためになるならば。
・・・ううん、そこにもかなりの違和感がある。だが大盤振る舞いで、そこも譲ってしまおう。だって国民のためだもの。
はっきり言って、民主党があやしい噂話やガセネタで自民党を追求したのは、これが初めてではない。ここ数ヶ月の間に、何度もそういうことがあった。それでも国民がそれを許容し続けたのは、”国民のため”という大義名分があったからだ。
そこで今度のメール騒動は何だ。ガセネタで名指し攻撃されたのは、自民党ではない。”自民党幹事長の息子””逮捕された社長の会社社員”どちらも、一般の”国民”である。
何ということだ。民主党は自ら、”自民党の疑惑を追及するためなら、国民を犠牲にしても構わない”と告白したのである。自民党を攻撃するのは国民のためではなく、ただ自分たちのためだけであったと。
こんなことを国民が許すはずはない。そのことに気付いていない民主党は、もはや政権交代はおろか、日本の政党としての資格すらない。
この問題は既にさんざん語り尽くされている感があるが、その主張はメールが偽物だったことが問題だという方向に傾いている。だが、問題は本当にそこなのだろうか?
思えば、総選挙後、前原民主党は対案路線を掲げて出直しを図った。これは、民主党の政策能力をアピールし、自民党が駄目ならば政権交代して民主党に政権を執らせる、という選択肢を国民に与える、二大政党制を実現するための布石となるはずであった。
ところが民主党は、この路線をあっさりと放棄する。対案路線から追求路線への変更。要するに、民主党は自らの政策能力をアピールすることを放棄した訳だ。追求しかしないということは、どんなに良い方に解釈したとしても、”民主党は国民のために自民党の監視役となります”という結論しか導かれない。これは、”野党”の仕事である。すなわち、民主党は政権交代して自らが与党になるという意志を放棄したのだ。
まあ、100歩譲ってそこまでは良しとしよう。また55年体制に戻るだけで、そんなに末期的な訳ではない。
かくして、民主党は由緒正しき野党の仕事を始める。自民党の疑惑を追及するためなら、多少の嘘やごまかしもしょうがない。それが国民のためになるならば。
・・・ううん、そこにもかなりの違和感がある。だが大盤振る舞いで、そこも譲ってしまおう。だって国民のためだもの。
はっきり言って、民主党があやしい噂話やガセネタで自民党を追求したのは、これが初めてではない。ここ数ヶ月の間に、何度もそういうことがあった。それでも国民がそれを許容し続けたのは、”国民のため”という大義名分があったからだ。
そこで今度のメール騒動は何だ。ガセネタで名指し攻撃されたのは、自民党ではない。”自民党幹事長の息子””逮捕された社長の会社社員”どちらも、一般の”国民”である。
何ということだ。民主党は自ら、”自民党の疑惑を追及するためなら、国民を犠牲にしても構わない”と告白したのである。自民党を攻撃するのは国民のためではなく、ただ自分たちのためだけであったと。
こんなことを国民が許すはずはない。そのことに気付いていない民主党は、もはや政権交代はおろか、日本の政党としての資格すらない。