自虐史観の靖国参拝論 | Logic of Silent Majority

自虐史観の靖国参拝論

 日本の総理大臣が靖国神社に参拝することについて、反対の声が大きい。
 その主張は、「靖国神社にはA級戦犯が合祀されているので、戦争に対する反省の気持ちがあるのならば、参拝を控えるべき」ということであろう。
 これに対する反論としては、A級戦犯の定義とか、東京裁判の正当性とか、赦免決議の有無とか、要するにA級戦犯という罪状に対する不当性を挙げるものが多い。だが今回は、逆の立場から”靖国参拝の意義”について論じたいと思う。つまり、”A級戦犯”というものがたとえ非常に重い罪であったとしても、いや、重い罪であればあるほど、靖国神社には参拝するべきだ、ということである。

 考えて見て欲しい。まず、「過去の戦争に責任がある、反省しなければならない」と主張する人たち、彼らは、誰が反省し、責任を取らなければならない、と言っているのか?
      1.悪いのは日本という国、政府であるから、現日本政府において全ての責任を負うべき
      2.悪いのは当時の軍部・首脳部、すなわちA級戦犯であり、過去の戦争犯罪人が責任を負っている
 どっちもという回答は無し、だった場合、上記の人々は100%1番と答えると断言する。そうだろう。だからこそ、現政府に反省を求めているのだから。
 さて、ここで気付かないだろうか。今ここで彼らは、「A級戦犯より現政府の方が重い責任を負うべきだ」と自分たちで認めてしまったのである。

 この視点に立ってみた場合、被害者の立場から見れば、日本政府がA級戦犯を祀ろうが祀るまいが、大した問題ではないはずである。だって、日本の存在自体の方がより罪深いのだから。
 逆に、罪を負うべきとする人々(これは本来、全ての国民、ということになるだろうが、便宜的に”日本政府”としよう)の立場から見れば、A級戦犯というのは、本来自分たちが負うべき罪をかぶって処刑された人々、ということになる。だとすれば、日本を護って死んでいった英霊として祀られることに何の違和感もない。

 A級戦犯とされる人々の、国内における責任については、話がややこしくなるので別問題としよう。諸外国に対しては、日本が自分たちの責任を認め、痛切に反省しているからこそ、その日本が負うべき罪を代わりに負って死んでいった人々に対し、哀悼の意を捧げるのである。”反省しているならA級戦犯を祀るな”というのは、全く逆の話なのだ。現小泉総理の”政府の見解は村山談話を踏襲している。だからこそ、不戦の誓いのために靖国神社に参拝する”というのは、ダブルスタンダードでもなければ反省の色が見えないわけでもない、極めて当然の論理なのだ。

 それとも、”悪いのはA級戦犯です。だから彼らを未来永劫断罪し続けます。これでいいでしょ。もうこれで、今の日本には何の責任もありませんね。”とでも言って欲しいのだろうか。もしそう言えたなら、どんなに楽だろうか。