Logic of Silent Majority
Amebaでブログを始めよう!

中国史に学ぶ外交の戦略

 まず、このコラムを読んで頂きたい。

外相に望みたいプロフェッショナルな中国論 2006/05/09(火) 12:20:01 [中国情報局]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2006&d=0509&f=column_0509_003.shtml

 おおむね正論だと思う。最近どちらの論調にしても、感情的で非論理的な文章が目立つ中、冷静に問題点を指摘している。

 ただ、問題にしたいのはこの文章である。
>安倍氏や福田氏から大きく水をあけられている麻生外相が逆転の一発を放つとしたら、アジア外交の突破口を開くことではないのか。
 これも、間違ったことは言っていない。正しいと思う。だが、よく考えてみれば、これこそ正論ではあるが実現不可能な”絵に描いた餅”にすぎないと思えるだろう。

 考え方はこうである。麻生外相が総裁選に出馬の姿勢を見せており、そのために外交で得点を稼ぎたいのは、中国も承知のはずだ。そして、中国は麻生外相に総理になって欲しくない。だとすれば、中国が麻生大臣の得点になるような交渉を受け入れるはずはないだろう。

 この考え方は、孫子の兵法や韓非子などに見られる、言わば中国古来からの戦略である。
 確かに麻生外相は最近アジア外交関係で何も動いていないように見えるが、東洋史に詳しそう(勝手な想像)な彼のこと、この辺のことも熟知していて、今自分が行っても意味がない、逆効果だと認識しているのではないだろうか(これも勝手な想像)。

 だとすると、真にアジア外交を改善したいとするならば、今中国が一番総裁になってほしいと思っている福田氏に交渉を任せれば、思わぬ手土産を頂けるかもしれない。
 ただし、これを福田氏の成果として、彼に得点を与えるのもまた考えなければいけない。自国の人事を他国が支配しようとしていることを見破り、それに踊らされないようにせよ、というのもまた韓非子の教えである。外交手腕を評価の対象にすることは、なかなか危険なことなのだ。
 

平和主義者の不思議なLogic

”世界は一つ、みんな仲良し、話し合えば分かり合えるんです。”

こんなことを言っている人がいる。
私はこれ自体を非難するつもりはない。崇高な理念だと思う。考え方は人それぞれあっていいと思う。
でも、賛成もしない。世の中利己的で悪い人はいると思う。
そういうと、彼らは”そんなことはない”と反論するだろう。
意見が折り合わず平行線をたどり、物別れに終わったとき、彼らはこう言うだろう。
”あいつは右翼だから、何を言っても無駄だ”

ちょっと待て。隣の人間とも分かり合えない奴が、何で世界中の人間と仲良くできるんだ。

結局彼らの言ってることは、”(全ての人間が自分と同じ考えになれば)仲良くできる”ということ。
だがそれは、民主主義とは言わない。宗教と言うのだ。

竹島の不法占拠

 最近やっと竹島問題で事態が動きつつあるようだ。
 日本政府は、”竹島は日本の領土で、韓国が不法占拠している”という認識を徹底させることにするそうだ。

 ここでちょっと疑問。
 これは、韓国の人が、日本に不法入国して、日本の土地を不法占拠してる、ってことだよな。
 その論理でいけば、これを排除するのは、
 
 実は警察の仕事なのではなかろうか?
 
 いや、憲法9条がとか、国の交戦権がとか、自衛隊うんぬんとかいう以前の問題なのではなかろうか?ということに最近気づいた。

 海だから、”海の警察”海上保安庁でよいのだろうが、いずれにせよ、自衛隊とか国際法とか交戦権とかは、日本の立場として議論する必要がないと言ってしまってよいのではなかろうか?

イデオロギーでわかる日本とアジアの関係

 最近、日本とアジア(中国、韓国、北朝鮮)との関係悪化が叫ばれ、問題となっている。
 そもそも日本とこれらの国は、仲良くしなければいけないのだろうか?どうだろうか。
 私は難しい国際関係の話はよくわからないので、ものすごく単純化してみることにする。込み入った難しい話は一番根源の問題に単純化することで見えてくる。
 要するに、”日本は民主主義で資本主義の国家なので、同様のイデオロギーの国とは仲良くする。違うイデオロギーの国とは仲良くしない”ということである。

 これをそれぞれの国に当てはめてみよう。
 中国:政治は独裁制なので、仲良くしない。経済は民主化してきているので、どんどん交流が盛んになっている。
 韓国:政治がどんどん共産よりになってきているので、関係が悪化してきている。経済は資本主義なので、交流は盛ん。
 北朝鮮:政治も経済も共産主義独裁制なので、仲良くしない。

 なんとまあ、現在の関係が的確に表現できるではないか。実は、別に反日であろうが無かろうがこれらの国との関係は結局変わらないのではないかと思えてしまう。

 まあ、久々の思考実験なので、ぶっ飛んだ論理はご容赦を。

談合と社会格差の関係

 この間、亀井静香議員が国会の質問に立って、面白いことをいったらしい。
 要約すると、「談合は業者に均等に仕事を割り振るためのもので、それが無くなったら特定の業者だけが仕事を独占し、仕事のとれない業者はつぶれてしまう。だから談合を認めるべきだ。」ちょっと曲解かもしれないが、こういう趣旨のことを言っていたようだ。

 この意見に賛成か反対かは別として、理屈としては合っている話だと思った。要するに、今の構造改革というのは”小さな政府”すなわちあまり規制をしないで、勝手に働く市場原理に任せる社会にするということだからだ。結果、成功したところは利益を上げて成長し、失敗したところはつぶれる。市場原理にだけ任せていれば、社会格差は広がるに決まっている。社会格差というのは、確かに小泉政権の弊害かもしれないが、その方針上当然起こることなのだ。それに対し、国民新党らの”保守派”は、従来の政府が介入して、みんな仲良く格差のでないように行きましょうと言っている。どういう方向に行くかは国民が決めるとして、この対立軸は正しい。

 さて、最大野党である民主党はどうだろうか。その主張を見てみよう。”談合はダメ。でも社会格差もダメ。”
である。言うことは心地良いが、どうすればそんなことが出来るのだろうか。そんな夢物語が不可能ということがわからないほど、国民は馬鹿ではない。先の衆議院選挙の前、岡田元代表が田原総一朗に”自民党は小さな政府で、低税率低福祉。国民新党は大きな政府で高税率高福祉。じゃあ民主党は?”と聞かれ、”民主党は低税率高福祉です。”と言ったのを思い出した。全く同じ構図である。高速道路無料化とか、本当に夢物語ばかりで、そのための具体的な政策とか何も考えていないのだろう。

 民主党の人はよく”小泉政権はワンフレーズ政治で、国民は騙されている”と言うが、この構図を見ると、国民を一番騙そうとしているのは他ならぬ民主党である。そして、国民はそれに騙されず、ちゃんと自分たちの求める政治を選んでいるのだ。いい加減に、民主党は自分達が何故支持されないのか考えてみるべきではないだろうか。国民はあなた達が思っているよりずっと賢いのである。
 

愛国者のふりをした新たな分祀論

新しく民主党の代表に選ばれた小沢一郎氏が、靖国神社についてこんなことを言っていた。
「東京裁判は不当であるが、時の指導者には戦争を指導した責任がある。だから、戦没者と一緒に靖国神社に祀ってはいけない」
どうやら、中曽根元首相においても講演会で同様の発言があったらしい。

 申し訳ないが、私にはこの意味が全く分からない。

 私は、戦犯で死刑になった人々が靖国神社に祀られているのは、戦争の後処理で敵国に死刑にされた、ということで、戦死と同じ扱いにしたいという意味だと思っている。だから、東京裁判は正当な裁判だから、戦犯は罪人であり、戦死者と同じ扱いにするべきでない、という主張ならば、賛成は出来ないが意味は理解できる。

 しかし、東京裁判は不当である、というならば、その史観は靖国神社と同じではないか。戦犯というのは、裁判の形を借りて、敵国に殺された人々ということになる。
 敗戦の指導責任を国内的に裁いて、償ってもらわなければならない、という意味なのであろうが、そもそも戦犯の赦免決議というのは後の国会で承認されており、それに基づいて戦犯の靖国神社合祀が行われたはずである。つまり、国内的な裁きはもう終わっているはずである。それを50年後、死人をまた引っ張り出してきて裁かなければならないとは、彼らは一体自分のことを何様だと思っているのだろうか?

 東京裁判は間違い、でも戦犯が死刑になったのは敵国に殺された訳ではない、という論理ならば、”死刑になった戦犯は、国内法で裁いても死刑に値する”ということになる。つまり、国民を間違った方向に導いた政治家の罪は死刑に値する、と言っているわけである。よろしい、そんなことを言う政治家ならば、もし自分の政治が間違っていたら、自分は死をもって償うことであろう。その心意気や良し、是非自分の政治信念にも命を懸けてもらおうではないか。

”ニセ科学”に見る科学至上主義

 春の物理学会期間中につき、更新が滞っておりました。

 さて、今回その物理学会で興味深いシンポジウムがあった。
 それは、”ニセ科学とどう向き合うか”という題目のもので、現在巷にあふれるニセ科学に対して、科学者としてどう対処すべきなのか、という議題であった。
 シンポジウムの内容については特に触れることはしないが、私なりに思っていることを書いてみたいと思う。

 ニセ科学の定義というのもいろいろあるだろうが、私の定義としては”科学的な根拠がないのに、さも科学的に根拠があるかのようにふるまうこと”とする。従って、「これは現代科学では解明されてませんが、すごい効果があるんです」というのは、ニセ科学ではなくて、私は有りだと思っている。現代科学で解明されていないことなんてこの世にいくらでもあるし、科学者として、自分たちが理解できないものを全て排除するというような傲慢な気持ちは私にはない。

 ニセ科学というのは、例えば、「波動測定器で測定した結果、従来の100倍の波動エネルギーが放出されていることがわかった」とか、こんな感じのものである。波動などというものは科学的に全く証明されていないし、従って波動測定器などというものはその原理も全くわからない代物である。それなのに、測定器とか100倍とか、いかにも科学的な根拠があるかのように装っているのである。

しかし、一番問題なのは、一般の人々が「これは現代科学では解明されてませんが、すごい効果があるんです」よりも「波動測定器で測定した結果、従来の100倍の波動エネルギーが放出されていることがわかった」の方を信頼してしまう、ということである。科学者から見ればどちらもオカルトで、後者の方が嘘をついているだけタチが悪い、と思うところだが、一般の人から見れば、前者はオカルト、後者は科学に見えるようだ。
 いや、科学に見えるのは仕方がない。問題は、”オカルトより科学の方が信頼できる”という盲信である。

 もう一度言う。世の中に科学的に解明されていないことは山ほどある。それどころか、科学的に解明できないことが解明されていることだってあるのだ。科学というのは万能ではない。
 「科学的に解明されていないからと言って、嘘だとは限らないでしょ?」その通りでございます。科学的に解明されていないことは、あくまで科学的に解明されていないだけであって、真実か嘘かは科学では判断できない。

 科学に携わる人の大部分は、科学が万能ではないことを理解していると思う。しかし一般の人はそうではないようだ。同じようによく分からないものでも、オカルトっぽければ信じないし、科学っぽければ信じてしまう。科学を志していない人ほど科学を至上のものとしているという、不思議なことが起きている。

 これを正すにはどうしたらよいのだろうか?結局、”なんか難しいものを崇める”というところに問題がある。本当に科学的に解明されているものならば、それは出来るだけ皆にわかりやすく伝えようという試みがなされるはずである。それをしていないものは信じない、要するに、自分が理解できないものは例え科学っぽくっても信じない、という意識が必要である。そして、それこそが”科学的な思考論理”なのだ。崇めるべきものは、”科学的な知識”ではなく、”科学的な思考”でなければならない。これが、科学者のLogicである。

愛国心の誤解

 まず、下のページに目を通して欲しい。新潟日報のコラムである。
 http://mail.niigata-nippo.com/20s/
 この記事を読んで、私はとてつもない衝撃を受けた。

 実を言うと、私は同様の出発点から”愛国心”というものについて論じようと思っていた。それは、”スポーツで自国を応援する”というような行為ならば、万人に違和感なく受け入れられ、そこから”愛国心というものは何も特別なものではなく、自然に沸き上がるもの”という結論に持って行けると思ったからである。

 だが、どうやらそうではないらしい。愛国心を憎む人にとっては、”スポーツで自国を応援する”ことすら、悪であるようだ。
 彼らは一体何を求めているのだろうか?”隣人を愛せよ”ということだろうか?結構なことだ。しかし、何故隣人を愛するために自分を憎まなければならないのだ。自分を愛せない人間に、どうして他人を愛することが出来ようか。

 そもそも彼らが憎むべきは”ナショナリズム”であって”愛国心”ではないはずだ。ナショナリズムの定義は人それぞれかもしれないが、私の解釈では、それは”自国を愛する心”ではなく、”自国以外を憎む心”だと考えている。両者には明確な差があるはずだ。そこを理解していないのか、あるいは意図的にミスリードを誘っているのだろうか・・・

 日本代表選手に日の丸を振って応援している観客は、相手国を憎むがためにそうしていると思っているのだろうか?彼はWBC日韓戦で、韓国選手のファインプレーに拍手で応えた日本人観客の姿を見ていなかったのだろうか?同様に、プレー中のイチローにブーイングを浴びせた韓国人観客の姿を見ていたのだろうか?彼の目には、一体どちらが正しい行為だと映っているのだろうか?私には理解出来ない。

皇室の人権

 皇室典範改正問題についてのエントリーは2回目である。今回は、女系論者の意見「男女平等・同権の理念に反するからだ」というものについて考えてみたい。

 もちろん男系論者として、この意見に賛成することは出来ないのだが、実をいうと少し引っかかるものはある。それは後回しとして、とりあえず反対意見を述べてみたい。

 この意見には、前提として、「皇室の方々にも国民と同じ基本的人権が存在する」というものがなくてはならない。これを存在しないといってしまえば反論は終わりなのだが、それでは議論にならない。

 自分の信条としては、昭和天皇陛下が”人間宣言”をしたのだから、もちろん人間としての人権は存在すると思っている。ただ、巷の人権屋とは人権に対するスタンスが異なる。
 自由とか権利とかいったものは、無制限なものではない。自分の所属している組織の都合などで制限を受けることはある。それは自由がなくなるのではなく、その組織に所属し続けるために自由を犠牲にするといった方が正しい。例えば公務員は秘密書類を公開すると処罰される。いくら言論の自由を叫んでみても駄目である。これは自分が公務員でいるために、言論の自由をある程度犠牲にしているといえよう。
 この考えに従うと、皇室の方々というものは、自身が”日本国の象徴・国民の象徴”たるために、犠牲にしなければならない自由があるのではないかと思う。従って、皇室の人権というのは一般国民のそれと同じではない。

 さて、ここで先に述べた”引っかかるもの”が登場する。じゃあ皇室の人権というのは、どこまで認められるべきなのだろうかということである。これは、公務員法のように明確な規定があるわけではない。

 考えなくてはならないことは、皇室の属するものが”日本国の象徴・国民の象徴”というものだ、ということである。かみ砕いて言えば、国民が”これぞ日本だ”と胸を張って紹介出来るもの、ということであろう。
 私は、”これまでの伝統こそ日本の象徴”だと思っているので、その伝統を固持することが日本国の象徴たりえるという信念で、男系維持を主張している。しかし、これは明らかに私見である。”今の日本は民主主義社会、みんな自由で平等だ。当然日本国の象徴もそうあるべきだ”という意見には、残念ながら論理的に反論する術はない。
 だからこそこの問題は、国民全員が、”何が日本国の象徴としてふさわしいか”ということを考えて決定していかなければならない。その結果、”男女平等の皇室”が選択されたならば、残念ではあるが仕方のないことである。

 しかし、ここは男系論者として、皇室に全ての人権を与えた場合の起こりうる極論を以て、その違和感を訴えたい。あくまで仮定の話なので、不敬はお許し頂きたい。
 ・例えば天皇陛下が外国人と結婚する権利はあるだろうか?次の皇太子が金髪碧眼のハーフであってもよいだろうか?
 ・例えば男性の天皇陛下が、性転換して女性になりたいといったらどうだろうか?
 いずれも一般の国民には許される権利である。しかし、皇室がこの権利を有することにはやはり違和感があると言わざるを得まい。

 最後にもう一つ私見を述べる。もし皇室の方に一般の国民と同じ人権を認めるならば、まず最初に認められるべきものは職業選択の自由、すなわち、”皇籍を自由に離れる権利”であるべきだと思う。

教師の自由・生徒の自由

 今日のテーマは、学校の卒業式等における君が代斉唱時の不起立問題である。

 君が代斉唱に反対する教師の中に、「教師・生徒の自由を侵害している」という人がいる。この、”自由”というのは、一体なんなのだろうか?確かに人間には自由に生きる権利があるのだが、この問題については、どちらの自由も片手落ちとしか思えない。片方だけの自由とは、すなわちただのわがままである。

 教師の場合、
 ”内心の自由””信仰の自由”は認めても良いだろう。心の中で何を思っていても勝手である。
 しかし、実際に”君が代斉唱時は起立するように、生徒にも起立させるように”という命令が来てしまっている時に、”雇用主の命令に従わない自由”などというものが存在するのだろうか?もしこの自由が保障されるならば、雇用主にも”命令に従わない者を処分する自由”が存在するはずである。
 従って、起立しないことは別に構わないが、それで処分を受けたからといって文句を言う筋合いはないのである。

 命令が不当だから、という言い訳は聞かない。不当な命令なら撤回を求めて戦うべきで、撤回されるまでは命令は命令である。不当だから従わなくて良いというのは、やはりただのわがままであろう。

 生徒の場合、
 教師がちゃんと任務をこなしていると仮定すれば、”起立しない自由”とは、すなわち”教師のいうことに従わなくていい自由”ということになる。これはもはや、片手落ちどころの騒ぎではなく、学校というものの存在意義が解らなくなってしまう。教師達は、いくら自分たちの主張を通したいからといって、こんなことを認めてしまって良いのだろうか?
 

 そもそもの矛盾点は、これらの学校が”義務教育”という点だ。親は子供に教育を受けさせる義務があり、教師は子供を教育する義務がある。ここに、”子供が教育を受けなくていい自由”は、存在しないだろう。子供は教師を選ぶ自由すらない。
 子供に教師を選ぶ権利がないとすれば、あるべき権利は”みんなが平等に教育を受ける権利”である。教師によって教えることが変わってはいけない。定められたとおりの教えを全ての子供が等しく受けることこそが、子供に与えられた権利なのだ。

 平等な教育は嫌だ、自由な教育をしたい、受けたいというならば、”義務ではない”教育を求めて、私立にでも行くしかない。義務教育の中心で自由を叫ぶのは、見当違いであろう。