”ニセ科学”に見る科学至上主義
春の物理学会期間中につき、更新が滞っておりました。
さて、今回その物理学会で興味深いシンポジウムがあった。
それは、”ニセ科学とどう向き合うか”という題目のもので、現在巷にあふれるニセ科学に対して、科学者としてどう対処すべきなのか、という議題であった。
シンポジウムの内容については特に触れることはしないが、私なりに思っていることを書いてみたいと思う。
ニセ科学の定義というのもいろいろあるだろうが、私の定義としては”科学的な根拠がないのに、さも科学的に根拠があるかのようにふるまうこと”とする。従って、「これは現代科学では解明されてませんが、すごい効果があるんです」というのは、ニセ科学ではなくて、私は有りだと思っている。現代科学で解明されていないことなんてこの世にいくらでもあるし、科学者として、自分たちが理解できないものを全て排除するというような傲慢な気持ちは私にはない。
ニセ科学というのは、例えば、「波動測定器で測定した結果、従来の100倍の波動エネルギーが放出されていることがわかった」とか、こんな感じのものである。波動などというものは科学的に全く証明されていないし、従って波動測定器などというものはその原理も全くわからない代物である。それなのに、測定器とか100倍とか、いかにも科学的な根拠があるかのように装っているのである。
しかし、一番問題なのは、一般の人々が「これは現代科学では解明されてませんが、すごい効果があるんです」よりも「波動測定器で測定した結果、従来の100倍の波動エネルギーが放出されていることがわかった」の方を信頼してしまう、ということである。科学者から見ればどちらもオカルトで、後者の方が嘘をついているだけタチが悪い、と思うところだが、一般の人から見れば、前者はオカルト、後者は科学に見えるようだ。
いや、科学に見えるのは仕方がない。問題は、”オカルトより科学の方が信頼できる”という盲信である。
もう一度言う。世の中に科学的に解明されていないことは山ほどある。それどころか、科学的に解明できないことが解明されていることだってあるのだ。科学というのは万能ではない。
「科学的に解明されていないからと言って、嘘だとは限らないでしょ?」その通りでございます。科学的に解明されていないことは、あくまで科学的に解明されていないだけであって、真実か嘘かは科学では判断できない。
科学に携わる人の大部分は、科学が万能ではないことを理解していると思う。しかし一般の人はそうではないようだ。同じようによく分からないものでも、オカルトっぽければ信じないし、科学っぽければ信じてしまう。科学を志していない人ほど科学を至上のものとしているという、不思議なことが起きている。
これを正すにはどうしたらよいのだろうか?結局、”なんか難しいものを崇める”というところに問題がある。本当に科学的に解明されているものならば、それは出来るだけ皆にわかりやすく伝えようという試みがなされるはずである。それをしていないものは信じない、要するに、自分が理解できないものは例え科学っぽくっても信じない、という意識が必要である。そして、それこそが”科学的な思考論理”なのだ。崇めるべきものは、”科学的な知識”ではなく、”科学的な思考”でなければならない。これが、科学者のLogicである。
さて、今回その物理学会で興味深いシンポジウムがあった。
それは、”ニセ科学とどう向き合うか”という題目のもので、現在巷にあふれるニセ科学に対して、科学者としてどう対処すべきなのか、という議題であった。
シンポジウムの内容については特に触れることはしないが、私なりに思っていることを書いてみたいと思う。
ニセ科学の定義というのもいろいろあるだろうが、私の定義としては”科学的な根拠がないのに、さも科学的に根拠があるかのようにふるまうこと”とする。従って、「これは現代科学では解明されてませんが、すごい効果があるんです」というのは、ニセ科学ではなくて、私は有りだと思っている。現代科学で解明されていないことなんてこの世にいくらでもあるし、科学者として、自分たちが理解できないものを全て排除するというような傲慢な気持ちは私にはない。
ニセ科学というのは、例えば、「波動測定器で測定した結果、従来の100倍の波動エネルギーが放出されていることがわかった」とか、こんな感じのものである。波動などというものは科学的に全く証明されていないし、従って波動測定器などというものはその原理も全くわからない代物である。それなのに、測定器とか100倍とか、いかにも科学的な根拠があるかのように装っているのである。
しかし、一番問題なのは、一般の人々が「これは現代科学では解明されてませんが、すごい効果があるんです」よりも「波動測定器で測定した結果、従来の100倍の波動エネルギーが放出されていることがわかった」の方を信頼してしまう、ということである。科学者から見ればどちらもオカルトで、後者の方が嘘をついているだけタチが悪い、と思うところだが、一般の人から見れば、前者はオカルト、後者は科学に見えるようだ。
いや、科学に見えるのは仕方がない。問題は、”オカルトより科学の方が信頼できる”という盲信である。
もう一度言う。世の中に科学的に解明されていないことは山ほどある。それどころか、科学的に解明できないことが解明されていることだってあるのだ。科学というのは万能ではない。
「科学的に解明されていないからと言って、嘘だとは限らないでしょ?」その通りでございます。科学的に解明されていないことは、あくまで科学的に解明されていないだけであって、真実か嘘かは科学では判断できない。
科学に携わる人の大部分は、科学が万能ではないことを理解していると思う。しかし一般の人はそうではないようだ。同じようによく分からないものでも、オカルトっぽければ信じないし、科学っぽければ信じてしまう。科学を志していない人ほど科学を至上のものとしているという、不思議なことが起きている。
これを正すにはどうしたらよいのだろうか?結局、”なんか難しいものを崇める”というところに問題がある。本当に科学的に解明されているものならば、それは出来るだけ皆にわかりやすく伝えようという試みがなされるはずである。それをしていないものは信じない、要するに、自分が理解できないものは例え科学っぽくっても信じない、という意識が必要である。そして、それこそが”科学的な思考論理”なのだ。崇めるべきものは、”科学的な知識”ではなく、”科学的な思考”でなければならない。これが、科学者のLogicである。