《 カミの爆弾 落下傘ニュース投下 》
1999,3,22 nimaari
イチブ改め
国民に告ぐ!
近頃、科学的進歩的現代医学にたいする誹謗中傷する様な怪しげな情報が出回っている。
これに対して、決して気持ちを動かしてはならない。
くれぐれも言うが、現代医学は人類最高の科学的叡知の結晶であり、専門外のど素人がそれを云々したり、とやかく論じたりすることの出来ない聖域であるゆえ、けっして門外漢の発する異情報を取り込んではならない。
たとえその中に専門家が居たとしても、それは科学的立場を忘れて虚構論を盲信し、非科学的迷信論を真実と思い込んで発表する異端者であるから、いつも学会からは追放される運命にある。
あくまでも、彼等は現状の安定した医療社会を乱し、いたずらに人々に不安感を与え社会に混乱を与えることを目的とする“非国民的”輩(ヤカラ)である。
繰りかえす。
彼等の発する情報に目を向けるべからず!耳を傾けるべからず!
正しい情報は国家の責任をもって流しているのであるから、安心して正規の情報源を信頼するべきことである。それが、科学的進歩的である正常な人間性をもつ者の正しき道である。
ちょっと、目先が変わった内容だからといって好奇心を起こしてはならない。
好奇心を少しでも持ったその時から、その人の転落への第一歩は始まって居るのである。
それゆえ、異情報には決して心を動かしてはならない。非国民的輩の推薦する書籍類もけっして見てはならない。彼等の息のかかったもの、彼等の信じるものすべてが清純無垢である国民の正常な精神を蝕むものであるからである。
仮學懲忌夢局 大本 影
う~~~ん、もしも、こんな当局からの通達が発せられたら、僕も情報を出しにくいだろうなあ
もっとも、これはひとりふた役だからね(爆笑)・・
しかし、真実かどうかを決めるのは国民であるはずだけどねえ‥‥
大本影‥‥いや、大本営発表だけを信じていてダイジョウブなのかなあ?
べつに僕は米軍でもないし、国民なのだけど、ナゼカ非国民に見られることもあるんだなあ。
これも教育がヨシなのか、アシなのか分からないが、何千年来その成果は上がった事は確かな様だな。
昔から「お上のお達し」は間違いないからねえ~~
医療に関するものは今までは完璧に間違いはなかった様だし、これからも全戦全勝の発表しかないだろうし。現代医学は安泰だな。(これ皮肉のつもりなのだが‥‥)
ところで、読売新聞を読んで(99年3月22日付け)
おや!ま!なんとその本家本元に対する怪情報をまいたという記事が出ているではないか!
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
太平洋戦争末期、連日のような本土空襲の後、黒煙の立ちのぼる空からはきまって米軍の貢伝ビラが舞い降りてきた。その中に、本土やフィリピンで大量にまかれた「落下傘ニュース」という新聞形式の宣伝ビラがあった。
「紙の爆弾」と呼ばれ日本国民の戦意喪失を拒う宣伝戦の一環だが、米軍の進撃を刻々と報じる紙面からは、統制下の日本の新聞には出てこない頭争の実態が伝わる。そこには、編集に参加した日本人捕虜たちの「早く事実を伝えて戦争を終結すべきだ」との思いも込められていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ほ~う、これは立派な敵国の行った怪情報なんだろうなあ。国民はこれを読んで信じたかどうか? きっと「お上からのお達し」で破り捨てたかどうか?
なにしろ、本気で竹槍で立ち向かうつもりでいた無垢で純情な国民だったんだからなあ。 こんな敵国の怪情報を信じる馬鹿?はいなかったんだろうね。
なにしろ、全戦全勝の神国の威厳を侵すような非国民は排除されるべしと、隣組も目を光らせているからねえ。
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
「落下傘ニュース」はマニラの米軍司令部心理作戦部の作成で、第一号は一九四五年三月十三日。ほぼ毎週、百万から二百万部が印刷され、日本本土や沖縄、ア
ジア各地にまかれた。戦後散逸した落下傘ニュースは、来バージニア州のマッカーサー記念館や外地からの帰還兵らが保存。近く、全二十二号を収集した大阪の
出版社が、全号をまとめた復刻版を出版する予定だ。
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なになに、その怪情報の元となった『落下傘ニュース』が近く出版されるという。ふ~む、事実は後世になってからやっと真実となると言うわけか‥‥
大本営発表と敵国の怪情報のどちらが真実に近かったんだろうなあ?
ちょっとのぞいて見ようかな。
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
A4判よりやや小さめで、日本の新聞と同じレイアウトの「落下傘ニュース」第一号トッブ記事は「B29連続猛襲」。同三月十日の東京大空旗に関する記事
だ。日本の新聞が、東京の被害は「軽微」で朝までに火災は鎮火したと東京の壊滅的な打撃を隠す一方で、「(敵機)十五機を撃墜、五十機に損害」(読売報
知)と、まるで戦勝のように報道したのに対して、落下傘ニュースは二千トンの焼夷弾で東京は「文字通り火の海」(空襲を指揮した少将、バウアー)だったと
実態を描写している。同ニュースによれば、米軍の損害は二機だった。
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東京空襲の記事を見ると、
これはどうやら落下傘ニュースの方に軍配は上がるようだな。
「文字通り火の海」と「軽微」の大違いだったようね。
そうして‥‥惨劇の沖縄戦では‥‥
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
多くの惨劇を生んだ沖縄戦。日本の報道は「皇軍の神髄発揮。米、戦史類なき出血に呻(ウメ)く」(朝日)と米軍八万人を殺傷、艦船計六百隻を撃沈破したという勇ましい記事ばかり。
これに対して、落下傘ニュースは「激闘連続八十二日、日本軍の戦死十万を越ゆ」と戦果を強調する一方で、米軍にも戦死九千六百二人、負傷二万五千五百四人が出たことを明らかにしている。
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新聞の発する記事は大本営発表の情報であるから、なにも新聞社だけが悪いのではない。ただ、新聞というのはそういうものだという事を知って居れば良いのである。
またそうでなければその新聞社はとっくに潰されてしまう。
それが現代においては、時の政府の意向や一般的国民感情の平均的線上から極端に掛け離れている情報はカットされるだろう。(それが真実でもウソでも)
それが新聞ばかりかマスコミとして営業採算を出して行けるかの生き残る道なのだから、機構上仕方がないのだ。だから、マスコミとは、ある程度は現状を肯定
しながらも、ほんのチョッピリだけその線から進んだ情報を流すことで、国民からも指示され、時の権力機構からも排除されず、営業収入の元となる広告主から
も愛されるのである。
べつに報道関係を聖職と思うこともなければ、それでもいいんだが、中には真っすぐな人も居て、何でもかんでも報道したものを信じてしまう。
そういう人は長良川にでも行って漁をするとよいのかも(爆)
しかし、当時の国民は純粋無垢な赤子のごとく素直(という様に教育されたから)であったから、上のからの情報はそのまま素直に飲み込むしかなかった。
それが社会の安定に結び付き、これが国家としての統制がとれた理想なのであっただろうが‥‥‥
これがすべて悪いと言うんではないが、ただ社会の安定が壊れる、という理由だけにおいて異なった情報を拒否し続けると、どうなるか‥‥‥
上記の沖縄戦の情報が真実を伝えない『大本営発表』であったため、大多数の国民の意識はいまだに戦勝の夢を捨て切れず、“本土決戦”を信じて居たのであろう。(その結果として原爆投下まで行き着くが‥‥)
そんな中において、「日本は負けている」とか、「日本は負ける」などと言おうものならたちまち、敵国に通じる“非国民”と言われ、隣組からは村八分、官憲からは取り締まり捕縛を受けてしまっただろう。
それに較べ今の時代は何と自由な時代になったか‥‥‥しかし、まだ精神的に目に見えないところでその非国民的排除の精神は生きている。
それは現代においては強制的な取り締まりをしないかわりに、異端を無視することか村八分的制裁であろうか。
医学会だったら発表の機会を奪ってしまう。医師だったら就職に支障。一般人だったら異質な者として人格を疑ったり、医療費は現代西洋医学に頼らない者には給付しない等。
村八分の精神は今でも生きているのが現実だ。人はそれを妄想とか被害者意識と呼ぶ者もいるが、自分をその立場に置いて見るとよく理解できるだろう。(本気でなくて演技であっても試してみると良いだろう)
だいいち、国民皆保険と言って、健康保険制度をさも民主的な制度の様に言うが、事実上は現代西洋医学の独占支配を続けるための片寄った制度でしかない。
世界では現代西洋医学は半分になっているのに、日本の医学制度はこれに頼らないと何も援助はしないし、それに「頼らない」ことだけで、異常な人間として見て世間の風も冷たくなる。それは医療現場だけではない、役所、一般にまで共通していることなのだ。
それほど、「教育が実っている」結果なのだろうが‥‥‥
また横道にそれてしまった。さて、記事にもどろうか
“紙の爆弾”と呼ばれた『落下傘ニュース』だが、その真実性はどうであったか。
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
中には明らかな宣伝記事もあり、来国内の日系人収容所に関する記事では「ここ(収容所)の方が暮らし易いといってそのまま留まることを決意した人も多数いる」などと美化しているが、基本的には戦況の”客観報道”が中心だ。
すでに日本の限色が濃厚だっただけに、「大本営発表」でない事実を伝えること自体が、米軍にとっては最大のプロパガンダだったとも言えるだろう。マッカーサーの宣伝戦は、フィリピン上陸作戦とともに本格化した。
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相手をやっつけるが為に作られた宣伝ビラ等は、けっこうウソの部分も多いのである。相手をことさら以上に悪く書き、自分側を事実以上に良く書いてあるものも多いのだが。
しかし、相手がその不利な実態をさらけ出した時、何もことさら事実以上に書く必要もないのである。事実そのものを書くだけで、それが一番の効果になるの
だ。『落下傘ニュース』ではそういう点を良く知っていて、大本営発表で情報統制されている日本に、ただ真実の情報を流すだけで十二分にその成果を上げたの
かも知れない。
ところで、敵国の怪情報をして忌み嫌われたこの“紙の爆弾”は、日本の国内では拾ったら憲兵隊に届けなければ処罰されたそうである。
とうぜん、当時の大本営お抱えの大新聞(そうでなかったら生き残れなかった)はビラについてはこう報道したという。
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
読〇報〇 「敵の“紙の爆弾”の正体はこれ 嘘八百の迷句羅列」
朝〇 「目先の変わった内容に好奇心を覚えたりしたらその瞬間、 “紙の爆弾”で爆死したのと同じ」
敗色が濃くなると、宣伝ビラの危険性を強調する記事が増えており、逆に軍部がビラの影響に神経をとがらせていた様子がわかる。
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それでは、ビラを見た者はそれを信じたのかどうか?
戦後の聞き取り調査では、約3分の一強が「全く信じなかった」そうで、残り三分の二は留保付きを含め、信じたという。
昭和天皇も宮中に舞い落ちたビラを見つけ、戦況の悪化を認識されたといわれている。(これが後に大きな影響を与えたのかも知れない)
やはり過去の歴史を見ると、おぼろげに「真実が見えて来た時」にその真実を語るとき人々に受け入れやすいのだろう。きっと、この落下傘ニュースにしても、もっと以前からばらまいていても、その当時には人々の心の中にあまり反応は起きなかったのではないだろうか。
それがいくら真実に近い情報であっても、その時代の人々に受け入れる心が出来ていないと世の中の共鳴は得られない様である。
さて、この敗戦の色濃くなった日本に向けたこの宣伝ビラの編集に参加した日本人捕虜や日系人は、どういう思いでこれに携わっていたのだろうか。
ーーーーーーーーー記事よりーーーーーーーーーーーーーーー
約二十年前にツカ〇〇を取材し、「秘録・謀略宣伝ビラ」を書いたノンフィクション作家鈴木〇は「日本の敗戦が決定的になる中で、『戦後日本の復興を担うは
ずの若い人たちに一人でも多く、捕虜になって生き残ってもらいたい』という情熱が強く感じられた」と、日系人としてのツカ〇〇の心情を代弁している。
捕虜になって敵の謀略ビラ作成に協力するのは、当時の日本軍人にとっては“大罪”だ。だが、〇〇は生前、読売新聞社の取材に対して「最初は信じられなかっ
た。だが、事実だとわかるにつれ、少しでも多くの日本人に読んでもらおうと思った」と語り、事実を伝えることが日本のためだと確信した気持ちを語ってい
た。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その当時の日本国民は徹底した“教育”のため、お上からのお達し以外の思想を主張しようものなら、国を乱す思想を持つ“国賊”ものとして非難され、まして
や軍人ともなれば、敵国思想の宣伝に加担することは大罪であり、子々孫々にまで汚名を残す恥ずべき行為だと教えられていた。
しかし真実を知ったとき、彼らは本当に『勇気ある選択』をしたのだった。
一時は国を乱し、国民を裏切る国賊とされ、非国民的行為だと非難されても、いつか時が来れば、真実がそれを癒してくれることを信じ、彼らは真実を同胞に知らせることこそ“真の日本人魂ヤマトダマシイ”だと知っていたからに違いない。
現代では、戦前戦時中の日本のすべてを悪いものとして否定する者もいるが、それも片寄った思想になりやすい。
私たちが今やらないといけないのは、すべてをオープンにして、大本営や敵国という片寄った側だけの情報だけを取り入れて反対側をすべてを否定することをしないことで、いづれは落ち着くところに落ち着くと思うのだが。
そういう面で僕が発する情報は片寄った敵国側、非国民的はものだけに見えるが、なにしろ大本営発表のものはすべて、マスコミを始め他方面でまんべんなく行き渡っており、それをあえてする必要性もないからである。
だから、敵国側の爆弾ニュースと思われても結構なのである。
しかし、受け取る側は両方の情報を取りいれてこそ、公正な判断が出来るというものだ。
公正というのは、強制をしないことだが、大本営側(現代医学)はそれを半ば強制している様な制度を作ってしまった。非国民側(非現代医学)は決して強制はしない(出来得ない)し、してはならない。ただ異質としての情報を流すだけである。
後は国民(世界人類共通)がそれを理解するかどうかを選択するだけのことである。
その結果は時が来れば真実として現れて来るだけのことで、それは各個人においての体験から得られる真実と言えるだろうが。
ところで、戦争時の落下傘ニュースはその効果を表したのだろうか?
一般国民にはその荷が重すぎたのだろうか?
それによって直接日本人の意識が変わったかどうかは表面的には現れてなかったようだ。
国民の意識が変わったのは、と言うよりも、強制的に意識を変えさせたれたのが、あの二度の原爆投下によっての様だった。
しかし、あれで一変したのは軍部(大本営)の意識だった。不敗を誇っていた「神国日本」の夢はこの核爆弾で崩壊したのだろうか? 結局最後まで国民は、お上からのお達しでしか事実の認識が出来なかったのかもしれない。その情報さえも詳しくは与えられなかった様だ。
「お上」からの敗戦の告知をされてから、やっと気が付いたというのが国民のほとんどだったのかも知れない。
しかし、すべての責任を「お上」だけのせいにも出来ない。戦争開始前後は国民自身の大半が熱狂していて、軍部も大衆も「その気になっている」社会におい
て、その当時では戦争反対を主張する英明な指導者たちの出番などなかったのであろう。もしそんな事を言う指導者が出ても国民自らが排除してしまったのであ
ろう。
こんな事を想像して思うのは、一番の責任は、いつの世も「責任をとれない」気持ちで、いつも「お上からのお達し」を待っている「純情無垢で善良で素直な国民」と言われて来た『私』たちなのかも知れない。
『情報を受け入れる側の責任』ということも考える時代になって来たのかも知れない。
僕がこんな戦争時の事を医療の世界に結び付けようというのは少し無理があるかもしれないとは思うが、こんな類いがけっこう今でも生きて来るのではないだろか。
そうして、僕は「落下傘ニュース」をまく側である。それはべつに難しい作業でも無いのである。真実に近いと思う情報を選んで流すだけのことだから、それに現代はそんな情報はあふれて来ている。
それも・・・・「大本営側が努めて?控えている情報」を選んである。
『カミのバクダン』を読んで、少しでもたくさんの方から「真実とは何か?」という疑問をもっていただけることで、僕の非国民的は立場もいつかは晴れて解消されて来るものと信じて、ひたすら落下傘ニュースをまき続けているのである。(笑い)
プッ!(くわえヨウジが飛んだ音)
《薬害根絶の誓いの碑はむず痒い》
1999、6、19 himaari
薬害エイズ事件の被害者側から出されていた『薬害根絶の誓いの碑』は、厚生省の反対によって実現しなかったーーーというニュースを新聞で見たんですが、これについてはごもっともな応対だと思いました。
この問題はけっして難しいのではなく、少しばかりむず痒いというのが本音でしょうか。
なぜか?って言うと、ごくごく当たり前のことでして、医療に薬を使うかぎりは今後も薬害は起きるということを意味しているんですね。
だから、「薬害根絶を約束する事はできないのでそんな碑は立てられない」という意味なのでしょうから、これについては厚生省の誰かが言っているのでしょうが、その関係者の名前は出ていないので分かりませんが、その方はとても正直な方だと思いました。
だから「根絶は不可能だが、せめて努力する誓い」の碑は建てようという妥協案を受け入れたのではないのでしょうか。 そこんとこが少しむず痒い決着だったと思うのです。
これは担当者が決して悪意でこれに反対した訳でもなんでもなく、医療に薬というものを使う以上は必然的に起こり得るのが薬害、すなわち薬の副作用と言われるものですから、これを無くすには薬を使わないことしか解決のしようがないと知っているのです。
しかしながら、現代医学においてこの医薬品無しに治療行為を行おうということは、これも無理な相談ですから、これは薬害根絶の要求を出した側が、薬というものの本質を無視した無理難題の要求だったというわけです。
薬害被害者の方は心情的にも「根絶の誓い」を出して欲しかったのですが、厚生省側(誰が担当者なのかは不明ですがーーーーよって、いつも責任は厚生省イ コール国が相手になって賠償問題を論じ合うのだが)それは「難しい!」と言って反対し、内心はもう少し解りやすくその理由を説明してやりたいのだが、それ もちょっと・・という「むず痒い」気持ちがあった・・・のかどうかは私の妄想像のはなしです。
そこでついど素人の私が横からちょっかいを入れて解説してみたわけなのです。
という事はこれからも必然的に薬害はいつ起きても不思議はないか?と言うと、私にはまったくその通りとしか思えません。
わが家が火災になったとき、消防署に対して「うちはつい最近建ったばかりの新築なんだから、決して家には水をかけてはいけない! 火だけを消してちょうだい」などと、のたまう人に消防署の人はどう答えて良いか分かりません。
「家に水はかけないから安心してください。ただし放水もやりませんが・・」などと言われるかも知れません。
そう、薬の本質を知れば決して害の起きない薬など無いに等しいと言われるでしょう。では、どうしてそんな危険をともなう医薬品を使うんだと食いつかれそうですが、これはもう大昔から「病気に対しては薬」という信仰が出来上がってしまったからでしょう。
いまさら、その薬信仰を全面的に廃止してしまったら、医学はいったい何をしたら良いんだという様に、そのジレンマに専門家も頭を悩ませているのではないでしょうか。
薬剤信仰?----病気を治し身体を癒す助けになるのが薬剤----この鉄壁とも言える常識から抜け出せない限り、これからもずっと「薬害」という切っても切り離せない裏面を抱えたまま、つき進み続けるのが薬剤医療と言えると思います。
なにをど素人が! と怒りと非難を向けられるかもしれませんが、続出する薬害事故の報道を見ていて、いつかきっと多くの方が深い疑問をいだいて医学の本 質の深いところを探る日も近いものと、被害者には申し訳ないのですが、薬害事件は我々に貴重な教訓を与えてくれているんだなと感じている次第なのでありま す。(ウホン)
それでは、薬剤中心の現代医療を見離してしまったらどうなるんだという不安もあります。薬剤治療、それに代わる信頼できる代替え医療などがあるものかという疑問もあります。
しかし、現実に巷には多くの民間医療が見いだされています。
その多くの体験者が語る文には、私は〇〇によって薬から離れられた・・私は〇〇で薬害から救われた・・などという様な報告が多いのです。
なかには信仰によって、精神面によってとか、治療法とは言えない様なものもありますが、それらの多くは現代医学から見離された患者が非医学的とも言われるものに走っている結果なのです。
もちろん、中にはいかがわしいものも数多くあります。しかし、多くの効果ある治療法には共通したものが見られるのです。
それは、まず、「安全性」 という事です。
「効無くして安全性」と言われればそれまでですが、「効果あり、しかも安全である。」というのが人間本来の健康に戻すための本当の「治療」なのですから、まず何よりも第一番は安全な治療ということです。
自然治癒力に働きかけるーーーーこれは、どの療法(現代医学においてさえも薬の役目をそう意味付けているようだが)も唱えているようですが、本当にそうなのかどうかは、「生命に対して安全である」かと言うことが重要なカギです。
「効あり、しかし危険もあり」 などと言うのでは人間本来の健康体にする、「治癒」をもたらすものではないでしょう。
「薬」---その本質はやはりリスクを伴うのですから、けっして安全とは言えないと気づく人は賢いのでしょうね。
だから反対に読んでクスリと言うーーなどと聞いたことがありますが。
現代人なら、そして英明な方々ならもうそろそろ気づいてもよいのではないでしょうか。
薬は毒である。
毒は薬になる。
この裏返しにもなる定式を理解できるなら、「薬害根絶の誓い」という矛盾した要求は、必然的に薬剤を使用する現代医学(古来からの医学がそうであった)には突き付けられない酷な誓いなのだとお分かりになりそうですが。
こんな事は別に知恵があるから理解できるとかできないというものではないでしょう。
こんな浅はか短気(無関係?)な私めでさえ、単純な自然な道理としか思えません。
ただし、いくら知恵あふれるひとであっても、薬剤信仰をやめられない方には、ちょっと難問に思えるかも知れませんが。
では、そのかたいカタイ薬信仰がなぜ出来上がり、こうも永く人類に信じられ続けて来たのかという疑問。危険と知りつつも止められないのは?---こんな疑問に少しはお役に立ちますかどうか、押し付けはしませんが、暇有りの方はどうぞ覗いて見てらっしゃい~~。
すべてが真実かどうか、それは別にしても、病気というものの考え方がいっぺんにいっぺんするかも知れませんネ?
1999、6、19 himaari
薬害エイズ事件の被害者側から出されていた『薬害根絶の誓いの碑』は、厚生省の反対によって実現しなかったーーーというニュースを新聞で見たんですが、これについてはごもっともな応対だと思いました。
この問題はけっして難しいのではなく、少しばかりむず痒いというのが本音でしょうか。
なぜか?って言うと、ごくごく当たり前のことでして、医療に薬を使うかぎりは今後も薬害は起きるということを意味しているんですね。
だから、「薬害根絶を約束する事はできないのでそんな碑は立てられない」という意味なのでしょうから、これについては厚生省の誰かが言っているのでしょうが、その関係者の名前は出ていないので分かりませんが、その方はとても正直な方だと思いました。
だから「根絶は不可能だが、せめて努力する誓い」の碑は建てようという妥協案を受け入れたのではないのでしょうか。 そこんとこが少しむず痒い決着だったと思うのです。
これは担当者が決して悪意でこれに反対した訳でもなんでもなく、医療に薬というものを使う以上は必然的に起こり得るのが薬害、すなわち薬の副作用と言われるものですから、これを無くすには薬を使わないことしか解決のしようがないと知っているのです。
しかしながら、現代医学においてこの医薬品無しに治療行為を行おうということは、これも無理な相談ですから、これは薬害根絶の要求を出した側が、薬というものの本質を無視した無理難題の要求だったというわけです。
薬害被害者の方は心情的にも「根絶の誓い」を出して欲しかったのですが、厚生省側(誰が担当者なのかは不明ですがーーーーよって、いつも責任は厚生省イ コール国が相手になって賠償問題を論じ合うのだが)それは「難しい!」と言って反対し、内心はもう少し解りやすくその理由を説明してやりたいのだが、それ もちょっと・・という「むず痒い」気持ちがあった・・・のかどうかは私の妄想像のはなしです。
そこでついど素人の私が横からちょっかいを入れて解説してみたわけなのです。
という事はこれからも必然的に薬害はいつ起きても不思議はないか?と言うと、私にはまったくその通りとしか思えません。
わが家が火災になったとき、消防署に対して「うちはつい最近建ったばかりの新築なんだから、決して家には水をかけてはいけない! 火だけを消してちょうだい」などと、のたまう人に消防署の人はどう答えて良いか分かりません。
「家に水はかけないから安心してください。ただし放水もやりませんが・・」などと言われるかも知れません。
そう、薬の本質を知れば決して害の起きない薬など無いに等しいと言われるでしょう。では、どうしてそんな危険をともなう医薬品を使うんだと食いつかれそうですが、これはもう大昔から「病気に対しては薬」という信仰が出来上がってしまったからでしょう。
いまさら、その薬信仰を全面的に廃止してしまったら、医学はいったい何をしたら良いんだという様に、そのジレンマに専門家も頭を悩ませているのではないでしょうか。
薬剤信仰?----病気を治し身体を癒す助けになるのが薬剤----この鉄壁とも言える常識から抜け出せない限り、これからもずっと「薬害」という切っても切り離せない裏面を抱えたまま、つき進み続けるのが薬剤医療と言えると思います。
なにをど素人が! と怒りと非難を向けられるかもしれませんが、続出する薬害事故の報道を見ていて、いつかきっと多くの方が深い疑問をいだいて医学の本 質の深いところを探る日も近いものと、被害者には申し訳ないのですが、薬害事件は我々に貴重な教訓を与えてくれているんだなと感じている次第なのでありま す。(ウホン)
それでは、薬剤中心の現代医療を見離してしまったらどうなるんだという不安もあります。薬剤治療、それに代わる信頼できる代替え医療などがあるものかという疑問もあります。
しかし、現実に巷には多くの民間医療が見いだされています。
その多くの体験者が語る文には、私は〇〇によって薬から離れられた・・私は〇〇で薬害から救われた・・などという様な報告が多いのです。
なかには信仰によって、精神面によってとか、治療法とは言えない様なものもありますが、それらの多くは現代医学から見離された患者が非医学的とも言われるものに走っている結果なのです。
もちろん、中にはいかがわしいものも数多くあります。しかし、多くの効果ある治療法には共通したものが見られるのです。
それは、まず、「安全性」 という事です。
「効無くして安全性」と言われればそれまでですが、「効果あり、しかも安全である。」というのが人間本来の健康に戻すための本当の「治療」なのですから、まず何よりも第一番は安全な治療ということです。
自然治癒力に働きかけるーーーーこれは、どの療法(現代医学においてさえも薬の役目をそう意味付けているようだが)も唱えているようですが、本当にそうなのかどうかは、「生命に対して安全である」かと言うことが重要なカギです。
「効あり、しかし危険もあり」 などと言うのでは人間本来の健康体にする、「治癒」をもたらすものではないでしょう。
「薬」---その本質はやはりリスクを伴うのですから、けっして安全とは言えないと気づく人は賢いのでしょうね。
だから反対に読んでクスリと言うーーなどと聞いたことがありますが。
現代人なら、そして英明な方々ならもうそろそろ気づいてもよいのではないでしょうか。
薬は毒である。
毒は薬になる。
この裏返しにもなる定式を理解できるなら、「薬害根絶の誓い」という矛盾した要求は、必然的に薬剤を使用する現代医学(古来からの医学がそうであった)には突き付けられない酷な誓いなのだとお分かりになりそうですが。
こんな事は別に知恵があるから理解できるとかできないというものではないでしょう。
こんな浅はか短気(無関係?)な私めでさえ、単純な自然な道理としか思えません。
ただし、いくら知恵あふれるひとであっても、薬剤信仰をやめられない方には、ちょっと難問に思えるかも知れませんが。
では、そのかたいカタイ薬信仰がなぜ出来上がり、こうも永く人類に信じられ続けて来たのかという疑問。危険と知りつつも止められないのは?---こんな疑問に少しはお役に立ちますかどうか、押し付けはしませんが、暇有りの方はどうぞ覗いて見てらっしゃい~~。
すべてが真実かどうか、それは別にしても、病気というものの考え方がいっぺんにいっぺんするかも知れませんネ?
山菜 ぜんまい 三昧
山菜時期 ゼンマイ採り ざんまい
ワシは女しか好まない。
男はこの痴呆では「キンタマ」とも呼ぶ。
あの、巻かれた先端部が膨らんでいるから駄郎か?
男は避けて、女だけを採っている
男は胞子を飛ばすので、残すのだと。
それに必ず、一本は残す。
全部とったら、ゼンマイの終わりだ。
それが山菜師の掟だ (くく~;
山菜時期 ゼンマイ採り ざんまい
ワシは女しか好まない。
男はこの痴呆では「キンタマ」とも呼ぶ。
あの、巻かれた先端部が膨らんでいるから駄郎か?
男は避けて、女だけを採っている
男は胞子を飛ばすので、残すのだと。
それに必ず、一本は残す。
全部とったら、ゼンマイの終わりだ。
それが山菜師の掟だ (くく~;
《BCGなんて意味ないじゃんーー先見の 迷? 初版 2000、3、25 himaari
先回「BCGは意味ないじゃん」という、浅はかな少考にて世界の医学関係者の先見の明を紹介したのですが、その「先見の明」のある方よりももっと「先見の明」をもった方の論を見つけたので紹介したいと思います。
それを紹介する私もホンノちょっと先見の明(迷?)があるということを言いたかったわけです。(だれもほめないから自分で言っている・・)
それでは、まずその論の要点を抜き書きしました。
ーーーー 論文より、 ーーーーーー
(要点抜粋)
昨今、BCG問題については、医学家の間でも賛否両論に分かれていて、決着がつかないでいる。
米国ミネソタ大学の教授、マイヤース博士がBCGの有害無益論を8月18日発行の米国医学協会雑誌に掲載。
日本においては武見太郎博士が『結核撲滅対策を撲滅せよ』との題にて、文芸春秋4月号に「BCGの効果に疑問あり、法によって強制するのは不可なり」という意見を発表。
最近になって橋本厚生大臣が「BCGの効果はまだ不確実な点があり、十分確定するまで接種は見合わした方がいいい」との趣旨を発表したことから、俄然波紋を巻き起こし、政治問題なども絡んで面倒臭くなったようである。
BCGにかぎらず、どんな薬でも効果は一時的で、時が経てば必ず薬害が表れる。この薬は2、30年前からさかんに使用されて来たにもかかわらずここでこんな問題が起こったのは、その原因を究明しなければならない。
しかし、それは無理であろう。
なぜなら、今の科学の分野には属しないからで、それは唯物科学の知識では知り得ない霊界の事象が真の原因となっているからである。
それは、霊界が、長い間「夜の世界」から「昼の世界」へと転換することになったからである。
霊界においては太陽の精である火素が増え、浄化力が日一日と旺盛になって来たので、以前は薬で固め得たものが今日では固まり得なくなったためである。
そのような訳で今後時日を経るにつれて、すべての医薬に疑問を起こすことになり、結局薬毒の恐るべきことがハッキリ分かって、ついには医学の再出発ということになるであろう。
そのときここで始めて眼を他の方面に向けることになり、医学の大革正となり、世界の医学会に大センセーションを巻き起こすのは時の問題。
今度のBCGの問題は「その時期の接近の示唆」と言える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いかがでした。
あわてて新聞を探したり、文芸春秋を開いても、きっと無駄でしょうね。(笑い)
それに、「橋本厚相」って、だれのことか分かりませんが、(前総理大臣の御方ではないのは確かなようですが)その当時はだいぶ物議をかもし、大問題になったようです。
今は故人となられた武見太郎さんのお名前が登場しているようですが、もちろん日本医師会の会長となられたのはずっと後のことです。
(彼もそうですが、大正天皇の侍医となられた入沢達吉博士も当地方の出身で、私は彼らの業績のしりぬぐいをするため当地に誕生・・・・爆笑!)
彼も当時はきっと若々しくて、一本気な正義感を持ち合わせていたころかもしれないと想像していますが、その肝腎な「BCGの是非論」は日本ではすぐに決着がついたようですね。その決着が正しい手続きによる正確な判断であったかどうかは別問題ですが。
なぜなら、それから後年になって、私の小学校時代(昭和30年代)にはちゃんとツベルクリンとBCG接種は義務化されていたというような記憶がありますから、きっと何かの理由ですぐに決着をつけてしまったのですね。
そしてそれは、世界においても同様であったのでしょう。現代医療の先進国アメリカでも欧州でもBCG禁止が行われなかったということは、前回の掲示板で明らかですから。
そこには多数原理と利益主導型の権力が働いたのかどうかは憶測でしか分かりませんが、「真実はかならずしも多数ならず」というのが世界の歴史上の多くの出来事でしたから、当然な結果だったのかも分かりません。
BCG接種そのものが有害か無害かは、「十分な結果を見極める時間・・」 を行使されないうちに全面実施されたということは、「BCG有用論」がすぐに少数意見(無用論)を封じ込めてしまったということであり、それはきっと容易なことであったと想像できます。
有用だからと言って無害であるとは断定できないのは、レントゲン撮影が有害であるのは承知で有用論がまかり通っている事実と同様な理由なのでしょうか。
ところで、この論文は誰が書いたか知りたいのはじゅうぶん承知していますが、今はそれを「読者が先入観という壁を作りだす」という理由で発表の時期のみを書きます。
その当時---それがなんと、昭和26年11月半ばの論文だったのです。
西暦では1951年。いまから50年弱も前のことです。約半世紀も古い昔の事だったのです。
これはおどろきです。びっくりしたことです。
それをやっと今頃になって再びBCG有害無益論が世界の一部(いまでも少数意見)の医学者たちが問題にしてきたのですから、科学とはなんとあやふやであり仮(カガク)なのでしょうか。
それに対して上記のこの論文はなんと先見の明”があったのでしょうか。
で、当時のひともんちゃくはどうなったことでしょう。
その後、日本医師会の強力な統帥者となられた武見医博はそんなことは忘れたかのようです。なにしろ医師会という医療権力の頂点に達したころには「BCGの効果に疑問あり」などを問題とされたかどうかは疑問だからです。(私が知らないだけかもしれませんが)
そ んな昔になってしまったBCG問題は、半世紀もの長いあいだ棚上げされたかの様にほったらかしにされていたものですが、世界中の結核患者急増にWHOの “非常事態宣言”やら日本の厚生省の“緊急事態宣言”などが発せられる異常事態をまねき、いやがうえでも医学界ではBCG接種の効果の是非と有害無益論を 再検討しなければならない時期に入ったことになるのでしょう。
そのことを論文ではこう指摘して未来への警鐘を発していたのでした。
《今後時日を経るにつれて、すべての医薬に疑問を起こすことになり、結局薬毒の恐るべきことがハッキリ分かって、ついには医学の再出発ということになるであろう。
そのときここで始めて眼を他の方面に向けることになり、医学の大革正となり、世界の医学会に大センセーションを巻き起こすのは時の問題。》
「先 見の明」とは、時期が早すぎる時には“愚か者の異端論”となり早々に闇に葬られることとなるようです。それは、原因に対する結果がまだ見えて来ない時期 に、その結果を予測するものですから、それはだれにも証明することができないものゆえに理解がむずかしく認められないのでしょう。
アメリカでは『沈黙の春』などによって地球や人類の将来の化学物質汚染がすでに予測されていたのにもかかわらず、最近になってようやく見直されてきたのですから気が付くのが異常に遅いのは海外でも同様でした。
いつも“賢明”と言われている当時の科学者たちの多くが実際には真実を否定する側にまわっていたのは過去の事実です。
まして“科学信者”の一般の人たちは科学者たち(多数側)の論を信じるのは常のことですから、後は「結果」という事実が表れてくるまではその真実を認識することができないのです。
そして、未来を予測した者は、その事実が明らかに現れる時になってからようやく“先見の明あり”という称賛が与えられることになります。
それほどに人間とはあまり賢くないようなのですが、そんなに賢かったなら、辞書から「後悔」という文字は消えうせてしまうのでしょうから、人類にとってそういうつらい体験もきっと必要なんでしょうか。
さて、この論文の「先見の明」の予測ではBCG問題に終わらず、薬剤すべてについて将来の大変な予測をされていたのですから驚きなのです。
そして、これはまだすべて完全には証明されていません。なぜならこれからの将来にかかわることになりそうですから、それが「先見の明」となるか、あきらかな愚説に終わるか、これから起こる結果を見つめて行くことになりそうです。
なにしろ、それは科学的と言われる論から離れているためであり、どちらかと言えば宗教的な論に属するものから予見しているからです。
しかし、あきらかに“予兆”現象は現実として表れ始めています。
副作用で認可されていた薬剤が回収されるーーーーこのような新聞記事が一面で載せられたのもついこの間のことです。
し かもそれには副作用に対する疑問が専門家からも既に発せられていたのに、時が経過して“じゅうぶん”使用されてしまっていたものがようやくの禁止ですか ら、なんで?という疑問がわいてきますが、肝腎の服用した方から出るのは当然なのに、そんな声もあまり聞こえて来ないかのようですから、なおのこと??で す。
こんな事は既になんどもなんども繰り返して行われて来たことですから、不思議でもなんでないのでしょうか。
「しょうがないね、医学の進歩の途上のことだから・・」--なんてお人が良いというか、信じるものにとっては何とかに念仏なのでしょう。
たとえそうであっても、薬害がこれからもどんどんと明るみに出ることは明らかなことだと思います。
なにしろ、これから生じてくるいろんな現象は、霊界現象が『昼の世界』に入ったということが大元の原因だという奇想天外な論ですから、まともには受け取れないでオカルト論で片付けられてしまうのかも知れません。
しかし、近年では科学の第一線級の科学者たちはすでにその“霊界”(名称は違う呼び方をされるかも知れないが)という物質以外の世界の存在を認知し始めているというのですから、いまだに反論されているのは二級三級クラスの・・・(失礼)
夜 の暗闇から昼の明るみ入ると、いままで隠されていたいろんなことが明らかになって来るというのですから、「夜の世界」、「昼の世界」という呼称は名言だと 思いますが、いま世間をにぎわしている今まで隠されていたいろんな事実が明るみに出て来ているのは、そんな事に関係あるのかも知れません。
ここでは主に病気に関係する論ですから、「病気の発生」、「薬剤とその効果と害作用」ということで説明しています。
人間の病気発生の原理は霊界の太陽の精である『火素』の増量が原因である。というよりか、「人間の霊体の曇りを火素が浄化する」ことにありそうです。
それが現(うつし、写し、映し)世に現象化して主に病気現象となって表れるーーことです。
その火素が昼の世界に入ったからうんと増えたんだから、いかに効果あるとされた薬剤であっても今後はあぶり出されるかのように溶け出して来るーーーー
もちろん、薬剤の本質は毒物ですから、隠されていた本性(正体)が表れて来るーーー
対症療法の薬は固め作用として一時的に病気を治したかのように見えていたが、その固め作用が効かなくなるばかりか、過去に入れた薬剤までが浄化作用(病気)として次々に表れ始める。----
そのことが、薬害のために使用禁止される薬の続出や、新薬が次々と表れては消えて行くという変な現象の原因であって、究極にいくとどんな薬剤も効かなくなり、ついには薬を使うやたちまち悪化する者が続出するーーー
そうなると、治療側の医師たち自身が恐ろしくて薬を手を出しかねてしまうーーーそこで、やっと“愚者の異論”を見たくなるーーー
なんてことを言っているものと解説する私ですが、きっと遠からずの内容でしょう。
こんな風に恐ろしいオカルト宗教小説でも読むかのような内容を含んだ驚きの論なのですから、今から「先見の明あり」などと言われることはおそらく無いでしょう。
やはり、“先見の明”という言葉は後からいただくのがテーセツのようです。(笑い)
それでも一部の予測は結果として現実に表れています。
それらを無益な恐怖感で拒否するのではなく、このままではいけないという前向きのプラス方向で検討をして行かないとならないでしょう。
いくら先見の明であっても、悪い方向の予測が当たってしまうのでは不幸です。
悪い結果を予測してそれを良い結果に変えて行くというのが、二十一世紀人の特権であり能力でしょうから、先見の明をうまく利用して当たらないようにするのがさらに進んだ先見の明なのでしょう。
いまは情報の自由でいろんな未来の医療が表れだしています。ダイオキシンの毒でも消せるかも知れないという期待をもたせる物質的科学や非物質的科学の情報も出始めているようです。
さすが、“昼の世界”は悪いものも正体を現してくれるのだが、良いものもはっきりと正体を現してくれることになりそうで、未来への予測も明るくなりそうな気がして来ます。
では、そんなことで、BCG問題をきっかけにして、むりやり『薬剤有害無用論』にまで発展させてしまい、現代医学の大覚醒を目指したこの論。“先見の明”か、“先見の迷”か、近い未来にはきっとはっきりと示して来れるでことしょう。
・・・・・チガッタラゴメンネ
先回「BCGは意味ないじゃん」という、浅はかな少考にて世界の医学関係者の先見の明を紹介したのですが、その「先見の明」のある方よりももっと「先見の明」をもった方の論を見つけたので紹介したいと思います。
それを紹介する私もホンノちょっと先見の明(迷?)があるということを言いたかったわけです。(だれもほめないから自分で言っている・・)
それでは、まずその論の要点を抜き書きしました。
ーーーー 論文より、 ーーーーーー
(要点抜粋)
昨今、BCG問題については、医学家の間でも賛否両論に分かれていて、決着がつかないでいる。
米国ミネソタ大学の教授、マイヤース博士がBCGの有害無益論を8月18日発行の米国医学協会雑誌に掲載。
日本においては武見太郎博士が『結核撲滅対策を撲滅せよ』との題にて、文芸春秋4月号に「BCGの効果に疑問あり、法によって強制するのは不可なり」という意見を発表。
最近になって橋本厚生大臣が「BCGの効果はまだ不確実な点があり、十分確定するまで接種は見合わした方がいいい」との趣旨を発表したことから、俄然波紋を巻き起こし、政治問題なども絡んで面倒臭くなったようである。
BCGにかぎらず、どんな薬でも効果は一時的で、時が経てば必ず薬害が表れる。この薬は2、30年前からさかんに使用されて来たにもかかわらずここでこんな問題が起こったのは、その原因を究明しなければならない。
しかし、それは無理であろう。
なぜなら、今の科学の分野には属しないからで、それは唯物科学の知識では知り得ない霊界の事象が真の原因となっているからである。
それは、霊界が、長い間「夜の世界」から「昼の世界」へと転換することになったからである。
霊界においては太陽の精である火素が増え、浄化力が日一日と旺盛になって来たので、以前は薬で固め得たものが今日では固まり得なくなったためである。
そのような訳で今後時日を経るにつれて、すべての医薬に疑問を起こすことになり、結局薬毒の恐るべきことがハッキリ分かって、ついには医学の再出発ということになるであろう。
そのときここで始めて眼を他の方面に向けることになり、医学の大革正となり、世界の医学会に大センセーションを巻き起こすのは時の問題。
今度のBCGの問題は「その時期の接近の示唆」と言える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いかがでした。
あわてて新聞を探したり、文芸春秋を開いても、きっと無駄でしょうね。(笑い)
それに、「橋本厚相」って、だれのことか分かりませんが、(前総理大臣の御方ではないのは確かなようですが)その当時はだいぶ物議をかもし、大問題になったようです。
今は故人となられた武見太郎さんのお名前が登場しているようですが、もちろん日本医師会の会長となられたのはずっと後のことです。
(彼もそうですが、大正天皇の侍医となられた入沢達吉博士も当地方の出身で、私は彼らの業績のしりぬぐいをするため当地に誕生・・・・爆笑!)
彼も当時はきっと若々しくて、一本気な正義感を持ち合わせていたころかもしれないと想像していますが、その肝腎な「BCGの是非論」は日本ではすぐに決着がついたようですね。その決着が正しい手続きによる正確な判断であったかどうかは別問題ですが。
なぜなら、それから後年になって、私の小学校時代(昭和30年代)にはちゃんとツベルクリンとBCG接種は義務化されていたというような記憶がありますから、きっと何かの理由ですぐに決着をつけてしまったのですね。
そしてそれは、世界においても同様であったのでしょう。現代医療の先進国アメリカでも欧州でもBCG禁止が行われなかったということは、前回の掲示板で明らかですから。
そこには多数原理と利益主導型の権力が働いたのかどうかは憶測でしか分かりませんが、「真実はかならずしも多数ならず」というのが世界の歴史上の多くの出来事でしたから、当然な結果だったのかも分かりません。
BCG接種そのものが有害か無害かは、「十分な結果を見極める時間・・」 を行使されないうちに全面実施されたということは、「BCG有用論」がすぐに少数意見(無用論)を封じ込めてしまったということであり、それはきっと容易なことであったと想像できます。
有用だからと言って無害であるとは断定できないのは、レントゲン撮影が有害であるのは承知で有用論がまかり通っている事実と同様な理由なのでしょうか。
ところで、この論文は誰が書いたか知りたいのはじゅうぶん承知していますが、今はそれを「読者が先入観という壁を作りだす」という理由で発表の時期のみを書きます。
その当時---それがなんと、昭和26年11月半ばの論文だったのです。
西暦では1951年。いまから50年弱も前のことです。約半世紀も古い昔の事だったのです。
これはおどろきです。びっくりしたことです。
それをやっと今頃になって再びBCG有害無益論が世界の一部(いまでも少数意見)の医学者たちが問題にしてきたのですから、科学とはなんとあやふやであり仮(カガク)なのでしょうか。
それに対して上記のこの論文はなんと先見の明”があったのでしょうか。
で、当時のひともんちゃくはどうなったことでしょう。
その後、日本医師会の強力な統帥者となられた武見医博はそんなことは忘れたかのようです。なにしろ医師会という医療権力の頂点に達したころには「BCGの効果に疑問あり」などを問題とされたかどうかは疑問だからです。(私が知らないだけかもしれませんが)
そ んな昔になってしまったBCG問題は、半世紀もの長いあいだ棚上げされたかの様にほったらかしにされていたものですが、世界中の結核患者急増にWHOの “非常事態宣言”やら日本の厚生省の“緊急事態宣言”などが発せられる異常事態をまねき、いやがうえでも医学界ではBCG接種の効果の是非と有害無益論を 再検討しなければならない時期に入ったことになるのでしょう。
そのことを論文ではこう指摘して未来への警鐘を発していたのでした。
《今後時日を経るにつれて、すべての医薬に疑問を起こすことになり、結局薬毒の恐るべきことがハッキリ分かって、ついには医学の再出発ということになるであろう。
そのときここで始めて眼を他の方面に向けることになり、医学の大革正となり、世界の医学会に大センセーションを巻き起こすのは時の問題。》
「先 見の明」とは、時期が早すぎる時には“愚か者の異端論”となり早々に闇に葬られることとなるようです。それは、原因に対する結果がまだ見えて来ない時期 に、その結果を予測するものですから、それはだれにも証明することができないものゆえに理解がむずかしく認められないのでしょう。
アメリカでは『沈黙の春』などによって地球や人類の将来の化学物質汚染がすでに予測されていたのにもかかわらず、最近になってようやく見直されてきたのですから気が付くのが異常に遅いのは海外でも同様でした。
いつも“賢明”と言われている当時の科学者たちの多くが実際には真実を否定する側にまわっていたのは過去の事実です。
まして“科学信者”の一般の人たちは科学者たち(多数側)の論を信じるのは常のことですから、後は「結果」という事実が表れてくるまではその真実を認識することができないのです。
そして、未来を予測した者は、その事実が明らかに現れる時になってからようやく“先見の明あり”という称賛が与えられることになります。
それほどに人間とはあまり賢くないようなのですが、そんなに賢かったなら、辞書から「後悔」という文字は消えうせてしまうのでしょうから、人類にとってそういうつらい体験もきっと必要なんでしょうか。
さて、この論文の「先見の明」の予測ではBCG問題に終わらず、薬剤すべてについて将来の大変な予測をされていたのですから驚きなのです。
そして、これはまだすべて完全には証明されていません。なぜならこれからの将来にかかわることになりそうですから、それが「先見の明」となるか、あきらかな愚説に終わるか、これから起こる結果を見つめて行くことになりそうです。
なにしろ、それは科学的と言われる論から離れているためであり、どちらかと言えば宗教的な論に属するものから予見しているからです。
しかし、あきらかに“予兆”現象は現実として表れ始めています。
副作用で認可されていた薬剤が回収されるーーーーこのような新聞記事が一面で載せられたのもついこの間のことです。
し かもそれには副作用に対する疑問が専門家からも既に発せられていたのに、時が経過して“じゅうぶん”使用されてしまっていたものがようやくの禁止ですか ら、なんで?という疑問がわいてきますが、肝腎の服用した方から出るのは当然なのに、そんな声もあまり聞こえて来ないかのようですから、なおのこと??で す。
こんな事は既になんどもなんども繰り返して行われて来たことですから、不思議でもなんでないのでしょうか。
「しょうがないね、医学の進歩の途上のことだから・・」--なんてお人が良いというか、信じるものにとっては何とかに念仏なのでしょう。
たとえそうであっても、薬害がこれからもどんどんと明るみに出ることは明らかなことだと思います。
なにしろ、これから生じてくるいろんな現象は、霊界現象が『昼の世界』に入ったということが大元の原因だという奇想天外な論ですから、まともには受け取れないでオカルト論で片付けられてしまうのかも知れません。
しかし、近年では科学の第一線級の科学者たちはすでにその“霊界”(名称は違う呼び方をされるかも知れないが)という物質以外の世界の存在を認知し始めているというのですから、いまだに反論されているのは二級三級クラスの・・・(失礼)
夜 の暗闇から昼の明るみ入ると、いままで隠されていたいろんなことが明らかになって来るというのですから、「夜の世界」、「昼の世界」という呼称は名言だと 思いますが、いま世間をにぎわしている今まで隠されていたいろんな事実が明るみに出て来ているのは、そんな事に関係あるのかも知れません。
ここでは主に病気に関係する論ですから、「病気の発生」、「薬剤とその効果と害作用」ということで説明しています。
人間の病気発生の原理は霊界の太陽の精である『火素』の増量が原因である。というよりか、「人間の霊体の曇りを火素が浄化する」ことにありそうです。
それが現(うつし、写し、映し)世に現象化して主に病気現象となって表れるーーことです。
その火素が昼の世界に入ったからうんと増えたんだから、いかに効果あるとされた薬剤であっても今後はあぶり出されるかのように溶け出して来るーーーー
もちろん、薬剤の本質は毒物ですから、隠されていた本性(正体)が表れて来るーーー
対症療法の薬は固め作用として一時的に病気を治したかのように見えていたが、その固め作用が効かなくなるばかりか、過去に入れた薬剤までが浄化作用(病気)として次々に表れ始める。----
そのことが、薬害のために使用禁止される薬の続出や、新薬が次々と表れては消えて行くという変な現象の原因であって、究極にいくとどんな薬剤も効かなくなり、ついには薬を使うやたちまち悪化する者が続出するーーー
そうなると、治療側の医師たち自身が恐ろしくて薬を手を出しかねてしまうーーーそこで、やっと“愚者の異論”を見たくなるーーー
なんてことを言っているものと解説する私ですが、きっと遠からずの内容でしょう。
こんな風に恐ろしいオカルト宗教小説でも読むかのような内容を含んだ驚きの論なのですから、今から「先見の明あり」などと言われることはおそらく無いでしょう。
やはり、“先見の明”という言葉は後からいただくのがテーセツのようです。(笑い)
それでも一部の予測は結果として現実に表れています。
それらを無益な恐怖感で拒否するのではなく、このままではいけないという前向きのプラス方向で検討をして行かないとならないでしょう。
いくら先見の明であっても、悪い方向の予測が当たってしまうのでは不幸です。
悪い結果を予測してそれを良い結果に変えて行くというのが、二十一世紀人の特権であり能力でしょうから、先見の明をうまく利用して当たらないようにするのがさらに進んだ先見の明なのでしょう。
いまは情報の自由でいろんな未来の医療が表れだしています。ダイオキシンの毒でも消せるかも知れないという期待をもたせる物質的科学や非物質的科学の情報も出始めているようです。
さすが、“昼の世界”は悪いものも正体を現してくれるのだが、良いものもはっきりと正体を現してくれることになりそうで、未来への予測も明るくなりそうな気がして来ます。
では、そんなことで、BCG問題をきっかけにして、むりやり『薬剤有害無用論』にまで発展させてしまい、現代医学の大覚醒を目指したこの論。“先見の明”か、“先見の迷”か、近い未来にはきっとはっきりと示して来れるでことしょう。
・・・・・チガッタラゴメンネ
なんだなんだ!
題名がいい加減だなあ
それよりも、この動画の始めになにかうめき声が・・・
ブナ林に囲まれて、残雪を名残惜しむ 早老症爺読む
魚沼の奥地にて
魚沼大白川、大原スキー場慕情 誰か作曲して!
作詞はもちろん、 おえ、じゃない、ワシ。
滑ってくる若者達よ、ちょっとだけワシよりうまいなあ 痔余り
そんなに急いでどこへ逝く
あ、わしのことじゃないぞ。
それより、シルバー券 半日1,600円
長岡より約1時間ちょっとでたどり着いたのは以外と近かったのだなあ。
「くださ~~い♪」
受付嬢
「はよ、死ねば~」
え!?
(はいよ、シルバーね♪)がそう聞こえた。
次のときはもうシルバーは使わないぞ。
「くださ~い♪」
「はよ、死ねや」
JJJえ~~~!
(はいよ、シニア-券ね♪)
どうも最近は耳が遠くに行ってしまって・・・
あたまから離れがちだな
↓ 撮影者 はよ、しにや~
題名がいい加減だなあ
それよりも、この動画の始めになにかうめき声が・・・
ブナ林に囲まれて、残雪を名残惜しむ 早老症爺読む
魚沼の奥地にて
魚沼大白川、大原スキー場慕情 誰か作曲して!
作詞はもちろん、 おえ、じゃない、ワシ。
滑ってくる若者達よ、ちょっとだけワシよりうまいなあ 痔余り
そんなに急いでどこへ逝く
あ、わしのことじゃないぞ。
それより、シルバー券 半日1,600円
長岡より約1時間ちょっとでたどり着いたのは以外と近かったのだなあ。
「くださ~~い♪」
受付嬢
「はよ、死ねば~」
え!?
(はいよ、シルバーね♪)がそう聞こえた。
次のときはもうシルバーは使わないぞ。
「くださ~い♪」
「はよ、死ねや」
JJJえ~~~!
(はいよ、シニア-券ね♪)
どうも最近は耳が遠くに行ってしまって・・・
あたまから離れがちだな
↓ 撮影者 はよ、しにや~
5月連休の最後
残雪少なし、越後の山々 新緑の息吹まぶしく 光り輝く 大原スキー場
ああ残雪に ブナ林 ♪ (作詞 談耕作)
鳥の鳴き声とブナ林の緑、そして残雪少なし、大原スキー場慕情
《協力無比“だんご●きょうだい”》
1999、3、26 himaari
だんご、だんご、だんご〇きょ~うだい・・
最近なんだか知らないけど、こんな歌が良く流されている。
きっとこれは、談合三強大のことかしらん?
カミはこんなことから人間たちにある真実を教えているのに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。
と僕はすぐ独断先行的判断を下してしまう。
どんなことでも、み~~~んな、そこへ結び付けてしまうのだな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【世界医薬産業の犯罪】 ―化学・医学・勳物実験コンビナー
ト(副題))
ハンス・リューシュ著 大田龍訳 / 発行所――株式会社 三交社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
を読んで、今さらながら、その先見の明に驚くと共に、団子三兄弟の結び付きの強さは本場アメリカからやって来たのかしらン?
だから、ほんとうは串団子は輸入物だったんではないか?と、本気で考えているのだナ。
けれど、普通は団子の本場と思われている日本国においても、この三色だんごを一本の棒で結び付けているものは、一体なんなんだろう?
この串の棒にさされてしまった団子は急につながりが強くなるのだな。
一個一個ではなんて事ないようでも・・
そこで、「談合三強大」と言っても良いんではないかな?
この事の詳しい内容は本に聞いてください。
2800円もするから、貴重な本である。お金のない人は市町村の図書館から買ってもらえば?
しかしこれは、世界支配の論理から見ると、とてつも無いほどの裏側秘密暴露の本だから、勇気の無い人、女子供は読まない方が平和かな(ただし一時的)?
男でも、意気地の無い人も読まない・・というウワサもあるとか?
世の中には、原子爆弾が落ちるまで真実を知りたくないと言う人もいるんだから、あまり真実だの暴露だのという事を言わない方がよいのかな?
それほどにこれは世界支配側から見ると“禁断の書”であり、反面では世界謀略の本筋を暴いて人類清浄化を目的とする者にとっては、“聖書”となるのであろうな。
じつはこれ読んでいたら、“だんご三兄弟”ならぬ、“だんご四きょうだい”、“だんご五きょうだい”ともなって行くようであるが・・。
いくつもの団子を差し通すクシの正体が、巨大な怪物であり、そのクシの謀が見えないと、団子はいつまでも仲良くならんで兄弟づらした、強大な串談合としてもてはやされるのだろうかな?
では、その三きょうだいとは?
化学(製薬)=医学=動物実験コンビナート
ということらしい。
しかし、よく見ると、団子はもう一つ増えて、
化学(製薬)=医学=動物実験=マスコミ
と四色団子になるそうだ。
こうなるともうこの共同結合体(コンビナート)の威力はまさに“天下無敵”となるそうな。
この「システム」を真っ先に確立したのは、二〇世紀初頭のアメリカであると言う。
それが欧州、そして日本を含む全世界へと輸出されたと言うから、だんごは、やはり輸入物だったんかいな?
ところが、その強力な「だんご四きょうだい」にもう一つ加わって、超々強力な「だんご五きょうだい」となったとか?
化学(製薬)=医学=動物実験=マスコミ=動物実験反対運動への潜入変質
こうなると何がまことかウソか見分けがつきにくくなるなあ。
それが串のねらいめか? あんまり団子がくっついて串が見えないぞう。
団子はうまそうだが、ハヤトチリして串でノドを突き刺さないように気をつけないとね。
この“だんご5きょうだい”は二〇世紀の初めから一九六〇年代にかけて、この半世紀の内にヨーロッパ、アメリカではもう完成されているらしい。
そうすると、アチラでは「だんご五きょうだい」の歌が流行っているんかいな?
僕のみたところ、わが日本ではもう「だんご四きょうだい」になっているようだなあ。
その中のマスコミ団子が大衆には一番食べやすい色あいをしているからな~~。
しかし、いくら団子がうまそうで色合いが良くても、そういつまでも仲良くならんでいられないだろうね。
そうそういつまでもくっついていると、腐ってくるよね。
腐り始めたら、いくら団子囃しをうたっても、もう食いつく人もいなくなるだろうさ。
なんてったって、太陽さんも強く照りはじめ出して来たようだからなあ。
さすがの団子も長持ちしなくなって来たようだし、団子も串からズルっと落ち始めて来ると、それはもう一個づつの団子で、それも腐りかけて来たんじゃ・・・
ま、僕は腐らない内から団子は食べないで来たからねえ。なんてったって糖尿っぽいから。 いくら甘いにおいをさせても近づかないようにしているんだ。
それにしてもこの串が問題なんだなあ・・
串さえ良く見えて来れば、だれも団子きょうだいの正体を知るんだけどねえ~~
もうひとつあった。これもアメリカの「だんごきょうだい」の正体を暴いているらしい・・・ ちょっと題名が怖いが・・
◆【世界医薬産業の犯罪】 ―化学・医学・勳物実験コンビナート(副題))
ハンス・リューシュ著 大田龍訳 / 発行所――株式会社 三交社
◆【医療殺戮】ユースタス・マリンズ著/矢部真訳/面影橋出版/2000円
アメリカの医療界の裏の支配権力を暴く、
全世界に向けたメッセージ
上記は、だんご兄弟のルーツとも言えるアメリカ本舗の実態を暴いた、
スパイスがきいたものである。
ついでに、
“串”の材質がどんなもので出来ているのか、ちょっとした“ヒント”に
略
1999、3、26 himaari
だんご、だんご、だんご〇きょ~うだい・・
最近なんだか知らないけど、こんな歌が良く流されている。
きっとこれは、談合三強大のことかしらん?
カミはこんなことから人間たちにある真実を教えているのに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。
と僕はすぐ独断先行的判断を下してしまう。
どんなことでも、み~~~んな、そこへ結び付けてしまうのだな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【世界医薬産業の犯罪】 ―化学・医学・勳物実験コンビナー
ト(副題))
ハンス・リューシュ著 大田龍訳 / 発行所――株式会社 三交社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
を読んで、今さらながら、その先見の明に驚くと共に、団子三兄弟の結び付きの強さは本場アメリカからやって来たのかしらン?
だから、ほんとうは串団子は輸入物だったんではないか?と、本気で考えているのだナ。
けれど、普通は団子の本場と思われている日本国においても、この三色だんごを一本の棒で結び付けているものは、一体なんなんだろう?
この串の棒にさされてしまった団子は急につながりが強くなるのだな。
一個一個ではなんて事ないようでも・・
そこで、「談合三強大」と言っても良いんではないかな?
この事の詳しい内容は本に聞いてください。
2800円もするから、貴重な本である。お金のない人は市町村の図書館から買ってもらえば?
しかしこれは、世界支配の論理から見ると、とてつも無いほどの裏側秘密暴露の本だから、勇気の無い人、女子供は読まない方が平和かな(ただし一時的)?
男でも、意気地の無い人も読まない・・というウワサもあるとか?
世の中には、原子爆弾が落ちるまで真実を知りたくないと言う人もいるんだから、あまり真実だの暴露だのという事を言わない方がよいのかな?
それほどにこれは世界支配側から見ると“禁断の書”であり、反面では世界謀略の本筋を暴いて人類清浄化を目的とする者にとっては、“聖書”となるのであろうな。
じつはこれ読んでいたら、“だんご三兄弟”ならぬ、“だんご四きょうだい”、“だんご五きょうだい”ともなって行くようであるが・・。
いくつもの団子を差し通すクシの正体が、巨大な怪物であり、そのクシの謀が見えないと、団子はいつまでも仲良くならんで兄弟づらした、強大な串談合としてもてはやされるのだろうかな?
では、その三きょうだいとは?
化学(製薬)=医学=動物実験コンビナート
ということらしい。
しかし、よく見ると、団子はもう一つ増えて、
化学(製薬)=医学=動物実験=マスコミ
と四色団子になるそうだ。
こうなるともうこの共同結合体(コンビナート)の威力はまさに“天下無敵”となるそうな。
この「システム」を真っ先に確立したのは、二〇世紀初頭のアメリカであると言う。
それが欧州、そして日本を含む全世界へと輸出されたと言うから、だんごは、やはり輸入物だったんかいな?
ところが、その強力な「だんご四きょうだい」にもう一つ加わって、超々強力な「だんご五きょうだい」となったとか?
化学(製薬)=医学=動物実験=マスコミ=動物実験反対運動への潜入変質
こうなると何がまことかウソか見分けがつきにくくなるなあ。
それが串のねらいめか? あんまり団子がくっついて串が見えないぞう。
団子はうまそうだが、ハヤトチリして串でノドを突き刺さないように気をつけないとね。
この“だんご5きょうだい”は二〇世紀の初めから一九六〇年代にかけて、この半世紀の内にヨーロッパ、アメリカではもう完成されているらしい。
そうすると、アチラでは「だんご五きょうだい」の歌が流行っているんかいな?
僕のみたところ、わが日本ではもう「だんご四きょうだい」になっているようだなあ。
その中のマスコミ団子が大衆には一番食べやすい色あいをしているからな~~。
しかし、いくら団子がうまそうで色合いが良くても、そういつまでも仲良くならんでいられないだろうね。
そうそういつまでもくっついていると、腐ってくるよね。
腐り始めたら、いくら団子囃しをうたっても、もう食いつく人もいなくなるだろうさ。
なんてったって、太陽さんも強く照りはじめ出して来たようだからなあ。
さすがの団子も長持ちしなくなって来たようだし、団子も串からズルっと落ち始めて来ると、それはもう一個づつの団子で、それも腐りかけて来たんじゃ・・・
ま、僕は腐らない内から団子は食べないで来たからねえ。なんてったって糖尿っぽいから。 いくら甘いにおいをさせても近づかないようにしているんだ。
それにしてもこの串が問題なんだなあ・・
串さえ良く見えて来れば、だれも団子きょうだいの正体を知るんだけどねえ~~
もうひとつあった。これもアメリカの「だんごきょうだい」の正体を暴いているらしい・・・ ちょっと題名が怖いが・・
◆【世界医薬産業の犯罪】 ―化学・医学・勳物実験コンビナート(副題))
ハンス・リューシュ著 大田龍訳 / 発行所――株式会社 三交社
◆【医療殺戮】ユースタス・マリンズ著/矢部真訳/面影橋出版/2000円
アメリカの医療界の裏の支配権力を暴く、
全世界に向けたメッセージ
上記は、だんご兄弟のルーツとも言えるアメリカ本舗の実態を暴いた、
スパイスがきいたものである。
ついでに、
“串”の材質がどんなもので出来ているのか、ちょっとした“ヒント”に
略
《 手術の進歩は医学の退歩 》
1999、3、27 ひのもと異学
現代医学は進歩したと言う者は多い。ほとんど大多数の者はそう思い込んでいる。
なかでも、『手術の進歩が医学の進歩』と同じ意味を持つものと信じている者がいかに多いかということには呆れかえってしまう。
「手術が進歩する」という事は、「医学が進歩していない」と言うことに気が付かないのだ。
『手術とは病に冒された機能を除去する手段であって、病そのものを除去する手段ではない』のである。
『病気とその機能とは密接な関係はあるが、本質は異なっている』ことに気が付かないのである。
『真の医術とは病だけを除いて、機能は元のままでなくてはならない』
ところが、医学はそれができないために、やむを得ずに冒された機能までを除去してしまうのである。
その結果、必要な機能を失った患者は、人間本来もつ真の健康者には戻れないことになる。人体に不必要なものがあるはずもなく、手術とは、本来が自然の姿で ある人体を不自然な状態にしてしまう欠陥をもっているのだから、手術という治療手段は、決して医術の本道ではなく、横道にそれた方向性を持つのである。 言ってみれば邪道である。
ほとんどの人が、
近年、手術の技術は大きく進歩したので、それを医学の進歩と思い違いしているが、本当に医学が進歩した暁には、手術という野蛮な方法はほとんど必要なくなるはずである。
あくまで手術とは二義的手段でしかないことを知れば、この真理を簡単に理解できるはずであるのだが、医学はその二義的手段を本道の様に宣言するためか、手術そのものを本来の治療と思い込んでいる人がいかに多いかというだけのことである。
しかし、現状は除去手術の横行はもとより、臓器の取り替えまで行うほど手術手段に頼る現代医学は、その手術という行為そのものが、すでに医学の末期的症状を現して来ていると感じるものである。
繰り返すが、『本当の医術の進歩というのは、病に冒された身体を五体満足のまま、元の健康の状態に戻してやる』ことであり、手術で切り取ることは『医学の退歩』である。
これが「医学が進歩していない」という理由と根拠である。
ゆえに、今後手術が進歩すればするほど、医学はその無力を表明しているということになる。
マスコミが手術の成功を大々的に発表すればするほど、医学は真の医術から遠ざかって来ていることに気が付かえねばならないのである。
人類の歴史として見ても、
手術の「技術的な進歩」を「医学治療の進歩」と“錯覚”して、邪道を驀進し続ければ、結果は自ずと明らかになるだろうが、そこに行き着くまでにどれだけの『体験者』が必要なのかーーー今はだれもそれを語れないだろう。
そうして、いつの頃からかこの『手術』という手段方法が必要不可欠かの様に『思わされ』続けて来たのには、いくつかの理由があるのだろう。
その最大原因とは、人間をただの物質として見たからであろう。
無生物も生物も同様な扱いで見ているから、人間をまるで無機物であるかの様に切ったり、くっつけたりするのが手術なのである。
「人体という物質」という感覚で人間を見ているから、人間を人形かロボットの様に簡単に考えてしまう思想は、唯物科学から生まれたのが現代医学だからであろう。
もちろん、唯物科学は人類に絶大な貢献をし、人類を数々の迷信から科学的進歩をもたらした功績は称えきれない程のものであるが。
しかし、人間という生物までを唯物科学で解決できるものと思い込んだのが失敗の原因なのだ。生物を無機物と同様に扱い、そればかりか、動物と人間をほとん ど同等であるかの様に錯覚したのが現代唯物医学だから、そこから手術という野蛮な方法が生まれたのも当然の成り行きなのかも知れない。
真実は簡単に考えてみればすぐ分かる事である。
人体に不必要なものが果たしてあるだろうか?
盲腸も扁桃腺も卵巣も片方の腎臓も・・・
必要であるからこそ生まれながらに皆満足に揃っているのであろう。
それを、さも不要物であるかの様に切り取ってしまい、また、この大胆極まる暴力的手段に対して随喜の涙までこぼしている。
しかも、国を挙げてそれを奨励する文明じんと称する御仁方には何と言ってよいか、無知蒙昧なる文明国人と言うべきなのだろうか。
たしかに、冒された臓器や(手足その他の)機能等を切り取ってしまえば、そこはもう決して病に冒されることは無い。
それはもう“無い”のだから、病に冒される心配もないというわけだ。
しかし、その手術の結果は『不具者』となるのでるある。
手の指一本でも足の指一本であっても、一生涯その不自由さは悩みの種となる。
しかも、外的でなく、内的不具者となると、これは目に見えないところで重大な欠陥を生み出してしまうのである。
盲腸にしても、扁桃腺にしても、不要であるとして簡単に除去してしまうが、医学はその機能の働きをいまだ発見していないだけであり、その働きの重要さを知ったなら二十一世紀の人類はその無知で野蛮的な旧医学を知って落胆するのであろう。
人間の身体の個々の機能の働きはどれひとつ不要なものがあるはずも無く、それらが密接に関連しあって人体という総合機能の働きをしているのだから、病を治す医学の進歩とは、手術という手段から遥かに遠ざかって行く道である。
その事も知らないで、手術の成功をさも医学の進歩と思わせるような記事にするマスコミもそうだが、それを鵜呑みにして得々と語る一般信者さんにも辟易してしまう。
1999、3、27 ひのもと異学
現代医学は進歩したと言う者は多い。ほとんど大多数の者はそう思い込んでいる。
なかでも、『手術の進歩が医学の進歩』と同じ意味を持つものと信じている者がいかに多いかということには呆れかえってしまう。
「手術が進歩する」という事は、「医学が進歩していない」と言うことに気が付かないのだ。
『手術とは病に冒された機能を除去する手段であって、病そのものを除去する手段ではない』のである。
『病気とその機能とは密接な関係はあるが、本質は異なっている』ことに気が付かないのである。
『真の医術とは病だけを除いて、機能は元のままでなくてはならない』
ところが、医学はそれができないために、やむを得ずに冒された機能までを除去してしまうのである。
その結果、必要な機能を失った患者は、人間本来もつ真の健康者には戻れないことになる。人体に不必要なものがあるはずもなく、手術とは、本来が自然の姿で ある人体を不自然な状態にしてしまう欠陥をもっているのだから、手術という治療手段は、決して医術の本道ではなく、横道にそれた方向性を持つのである。 言ってみれば邪道である。
ほとんどの人が、
近年、手術の技術は大きく進歩したので、それを医学の進歩と思い違いしているが、本当に医学が進歩した暁には、手術という野蛮な方法はほとんど必要なくなるはずである。
あくまで手術とは二義的手段でしかないことを知れば、この真理を簡単に理解できるはずであるのだが、医学はその二義的手段を本道の様に宣言するためか、手術そのものを本来の治療と思い込んでいる人がいかに多いかというだけのことである。
しかし、現状は除去手術の横行はもとより、臓器の取り替えまで行うほど手術手段に頼る現代医学は、その手術という行為そのものが、すでに医学の末期的症状を現して来ていると感じるものである。
繰り返すが、『本当の医術の進歩というのは、病に冒された身体を五体満足のまま、元の健康の状態に戻してやる』ことであり、手術で切り取ることは『医学の退歩』である。
これが「医学が進歩していない」という理由と根拠である。
ゆえに、今後手術が進歩すればするほど、医学はその無力を表明しているということになる。
マスコミが手術の成功を大々的に発表すればするほど、医学は真の医術から遠ざかって来ていることに気が付かえねばならないのである。
人類の歴史として見ても、
手術の「技術的な進歩」を「医学治療の進歩」と“錯覚”して、邪道を驀進し続ければ、結果は自ずと明らかになるだろうが、そこに行き着くまでにどれだけの『体験者』が必要なのかーーー今はだれもそれを語れないだろう。
そうして、いつの頃からかこの『手術』という手段方法が必要不可欠かの様に『思わされ』続けて来たのには、いくつかの理由があるのだろう。
その最大原因とは、人間をただの物質として見たからであろう。
無生物も生物も同様な扱いで見ているから、人間をまるで無機物であるかの様に切ったり、くっつけたりするのが手術なのである。
「人体という物質」という感覚で人間を見ているから、人間を人形かロボットの様に簡単に考えてしまう思想は、唯物科学から生まれたのが現代医学だからであろう。
もちろん、唯物科学は人類に絶大な貢献をし、人類を数々の迷信から科学的進歩をもたらした功績は称えきれない程のものであるが。
しかし、人間という生物までを唯物科学で解決できるものと思い込んだのが失敗の原因なのだ。生物を無機物と同様に扱い、そればかりか、動物と人間をほとん ど同等であるかの様に錯覚したのが現代唯物医学だから、そこから手術という野蛮な方法が生まれたのも当然の成り行きなのかも知れない。
真実は簡単に考えてみればすぐ分かる事である。
人体に不必要なものが果たしてあるだろうか?
盲腸も扁桃腺も卵巣も片方の腎臓も・・・
必要であるからこそ生まれながらに皆満足に揃っているのであろう。
それを、さも不要物であるかの様に切り取ってしまい、また、この大胆極まる暴力的手段に対して随喜の涙までこぼしている。
しかも、国を挙げてそれを奨励する文明じんと称する御仁方には何と言ってよいか、無知蒙昧なる文明国人と言うべきなのだろうか。
たしかに、冒された臓器や(手足その他の)機能等を切り取ってしまえば、そこはもう決して病に冒されることは無い。
それはもう“無い”のだから、病に冒される心配もないというわけだ。
しかし、その手術の結果は『不具者』となるのでるある。
手の指一本でも足の指一本であっても、一生涯その不自由さは悩みの種となる。
しかも、外的でなく、内的不具者となると、これは目に見えないところで重大な欠陥を生み出してしまうのである。
盲腸にしても、扁桃腺にしても、不要であるとして簡単に除去してしまうが、医学はその機能の働きをいまだ発見していないだけであり、その働きの重要さを知ったなら二十一世紀の人類はその無知で野蛮的な旧医学を知って落胆するのであろう。
人間の身体の個々の機能の働きはどれひとつ不要なものがあるはずも無く、それらが密接に関連しあって人体という総合機能の働きをしているのだから、病を治す医学の進歩とは、手術という手段から遥かに遠ざかって行く道である。
その事も知らないで、手術の成功をさも医学の進歩と思わせるような記事にするマスコミもそうだが、それを鵜呑みにして得々と語る一般信者さんにも辟易してしまう。
《 医療事故の多発に想う 》
1999、3、19 himaari
隠されていたのが急に出始めたのか、それとも急にミスが多くなったのかは知らないが、間違われた方も間違った方も気の毒なーーと言うしかない。
人は必ず間違いをおかすのはこれは、医療に限らずどの職業でも同じことである。普段からいかに気を使っていても、人は、あるとき思いもかけないようなミスをしてしまう。
しかし、私はここで、ミスをおかした事への感想を言うつもりではないんだが。
いつも言う様に医療に使われる薬品というものが、それほどの危険性があるということに気が付く事なのである。
鯛焼き屋さんが、中身のアンコとクリームを間違っても、生命には関係ない。ところが、医薬品というのはちょっとの使用ミスでも生命に危険性が常にあるということである。
だからというだけの理由ではないのだが、私はいっさい薬品を使用しないでいる。
だから、そんなミスもなければ危険性も無い療法を採用している。
もちろん、消毒剤などはいかに人体にとって猛毒となるかは知っているので、最近はそのごく微量な塩素さえも嫌なので、なんと!うんと高い浄水器まで使っている始末である。(売ってもいるーー大笑い)
何十年も水道水をそのまま飲んでいたのに、今さらという様な気もするが、とにかく消毒は呼び名を替えるべきである。
増毒・・・加毒・・・・散毒・・・撒毒・・・いっそのこと、その本性、『猛毒剤』とすれば、少しは考えて使うようになるのではないだろうか。
本来、医療とは人を健康にする事を目的にする。
だから、そこに危険性が潜んでいたのでは、真に安心した医療は行われにくいという事になる。
安全性の確保された医療こそ、真の医療であり、癒しの本道であろう。
そこで、
真に安全な医療とは、安全な薬品を使うしかないのだろう。
しかし、この世の中に、安全は薬品などあるはずもないか?
薬の効能の裏には、常に危険性が潜んでいることを忘れていると、ちょっとしたミスでそれに気がつかされる。
たとえミスをしても人間には安全な医薬品を使ってもらいたいものだ。
それと、患者もものを知らら過ぎる。自分の身体に入れる薬剤の性質くらい把握しておかないと、確かめようも無いではないか。それが出来ないのなら、爼の鯉で何も文句言えないか?
やはり、私はそれじゃ嫌だから、文句も言い、注文も出すつもり。
今回の多発した医療ミスに、私はこんな想いをしたものだが・・・
1999、3、19 himaari
隠されていたのが急に出始めたのか、それとも急にミスが多くなったのかは知らないが、間違われた方も間違った方も気の毒なーーと言うしかない。
人は必ず間違いをおかすのはこれは、医療に限らずどの職業でも同じことである。普段からいかに気を使っていても、人は、あるとき思いもかけないようなミスをしてしまう。
しかし、私はここで、ミスをおかした事への感想を言うつもりではないんだが。
いつも言う様に医療に使われる薬品というものが、それほどの危険性があるということに気が付く事なのである。
鯛焼き屋さんが、中身のアンコとクリームを間違っても、生命には関係ない。ところが、医薬品というのはちょっとの使用ミスでも生命に危険性が常にあるということである。
だからというだけの理由ではないのだが、私はいっさい薬品を使用しないでいる。
だから、そんなミスもなければ危険性も無い療法を採用している。
もちろん、消毒剤などはいかに人体にとって猛毒となるかは知っているので、最近はそのごく微量な塩素さえも嫌なので、なんと!うんと高い浄水器まで使っている始末である。(売ってもいるーー大笑い)
何十年も水道水をそのまま飲んでいたのに、今さらという様な気もするが、とにかく消毒は呼び名を替えるべきである。
増毒・・・加毒・・・・散毒・・・撒毒・・・いっそのこと、その本性、『猛毒剤』とすれば、少しは考えて使うようになるのではないだろうか。
本来、医療とは人を健康にする事を目的にする。
だから、そこに危険性が潜んでいたのでは、真に安心した医療は行われにくいという事になる。
安全性の確保された医療こそ、真の医療であり、癒しの本道であろう。
そこで、
真に安全な医療とは、安全な薬品を使うしかないのだろう。
しかし、この世の中に、安全は薬品などあるはずもないか?
薬の効能の裏には、常に危険性が潜んでいることを忘れていると、ちょっとしたミスでそれに気がつかされる。
たとえミスをしても人間には安全な医薬品を使ってもらいたいものだ。
それと、患者もものを知らら過ぎる。自分の身体に入れる薬剤の性質くらい把握しておかないと、確かめようも無いではないか。それが出来ないのなら、爼の鯉で何も文句言えないか?
やはり、私はそれじゃ嫌だから、文句も言い、注文も出すつもり。
今回の多発した医療ミスに、私はこんな想いをしたものだが・・・
いつもお読み戴き愛光楽秋遊(ありがとう)ございます。
コメントも嬉しくて・・・愛光楽秋遊
お返事をかかなくてすみません。
《臓器移植と人間の生命》
1999、7、16 himaari
近ごろ、この大日本●国ではマスコミをはじめ、臓器移植を推進しようという働きが進められているかの様に思いますが、なぜか、それに反対する声がかき消されているのではないかと、自称“非国民”としては少々心配しているわけです。
こんな風潮に歯止めをかけないと、いつかは国民全体が知らず知らずのうちに巻き込まれてしまい、とんでもない事になりそうな気がして、小市民としては出来 る限りの意思表示をしておかなければいけないと思い、“大本営”一辺倒のの片寄った情報を切り崩すべく、少しでも異端情報をご紹介したいと思う所存でござ います。
さて、地方新聞での記事から表題のごとく『臓器移植と人間の生命』という本の紹介が載っていましたので、このわたくしメまだ未読ながらも、人様からお先に読んで戴きたく、新聞切り抜き判を・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新潟大名誉教授(元法学部教授)の沢登佳人さん(七二)=新潟市=がこのほど、脳死移植に反対する立場から「臓器移植と人間の生命」を出版した。
すでに日本でも脳死移植が行われているが、沢登さんは「この風潮に待ったをかけ生きることの意味を問い直したい」としている。
論点となっている「脳死は人の死か否か」という命題について、人の死と認める側は「脳が死ねば人間らしい知情意の働き(理知)なくなる」を論拠にしている と分析。沢登さんは「理知的な牛命の働きはなくなっても、本能的(生理的)な生命の働きは存続していて、それは脳死者という『人』の生命の働きだ」とし て、脳死は人の死ではないと主張する。
そして、そのうえで「生きている身体を切り刻むのは残酷」と、現段階での脳死移植に反対している。
このほか、同書では、人生や生命、現代社会や文明など幅広い分野についても論じている。
同書は、白順社刊、B6判、二百四十ぺージ、千八百円。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ということで、
「臓器移植」という“絶対善”?の旗印の元に、『脳死』という不自然なことが堂々と認められ、しかもそれが着々と実施されはじめて来た現実に、深い憂慮を示す有識者も多いということをこの無識者からお知らせ致したくご紹介しました。
なほ、ほかにも数々ある脳死に対する異論もあるということを是非とも多くの方から知っていただき、どうぞどうぞ出来るだけ反対の意思表示をして頂きたいのであります。
わしには関係ないわい・・・なぞと申しておりますと、いずれ御身にふりかかる危うき事態にトホホと言わねばならぬことが起きるやもしれず、何ごとも大事は早めに対処しておかねば間に合わぬのであります。
そういえば、テレビの特集で欧州の一部ではすでに国民が半強制的に臓器提供のシステムに組み込まれ始めているそうです。
【脳死は、死ではない。】梅原 猛編/思文閣出版/1600円
【生命をもてあそぶ現代の医療】現代社会を考える会・山口研一郎/社会評論社/2200円
【クスリで病気は治らない】丹羽 靭負ユキエ(医学博士)/(株)みき書房/1300円
ほかにも数多い異見がありますが、ここではチョット専門家からのものを選んで見ました。この本の中にはその道の専門家からの意見や実状が書かれています。その他、あなたの市町村図書館をのぞいても結構脳死問題についての本があるはずです。
いつも無関心でいると、気がついたら「国民皆徴兵制度」が出来上がっていた・・・なんてことあるかも。
いつも真理とは簡単なことです。
なにもむずかしい事を考えなくても、人間にとって死とは、
心の臓が止まったときなのです。
それを小難しい理屈をつけて、オツムに手を当てて考えるから、しかめ面で変な方向に向かってしまうのです。
長屋の八つぁんや熊さんは胸に手を当てて考えますからまずは安心です。
ホッと胸をなでて「あっしはまだ生きておりますゾ!」
生命のみなもとは心臓にあり、生きている証しは心臓の鼓動です。
それでも分からないのは血のめぐりが悪いからなのでしょうね(笑い)。
それは、手を当てる場所が違うのでしょうね、きっと。
コメントも嬉しくて・・・愛光楽秋遊
お返事をかかなくてすみません。
《臓器移植と人間の生命》
1999、7、16 himaari
近ごろ、この大日本●国ではマスコミをはじめ、臓器移植を推進しようという働きが進められているかの様に思いますが、なぜか、それに反対する声がかき消されているのではないかと、自称“非国民”としては少々心配しているわけです。
こんな風潮に歯止めをかけないと、いつかは国民全体が知らず知らずのうちに巻き込まれてしまい、とんでもない事になりそうな気がして、小市民としては出来 る限りの意思表示をしておかなければいけないと思い、“大本営”一辺倒のの片寄った情報を切り崩すべく、少しでも異端情報をご紹介したいと思う所存でござ います。
さて、地方新聞での記事から表題のごとく『臓器移植と人間の生命』という本の紹介が載っていましたので、このわたくしメまだ未読ながらも、人様からお先に読んで戴きたく、新聞切り抜き判を・・・
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新潟大名誉教授(元法学部教授)の沢登佳人さん(七二)=新潟市=がこのほど、脳死移植に反対する立場から「臓器移植と人間の生命」を出版した。
すでに日本でも脳死移植が行われているが、沢登さんは「この風潮に待ったをかけ生きることの意味を問い直したい」としている。
論点となっている「脳死は人の死か否か」という命題について、人の死と認める側は「脳が死ねば人間らしい知情意の働き(理知)なくなる」を論拠にしている と分析。沢登さんは「理知的な牛命の働きはなくなっても、本能的(生理的)な生命の働きは存続していて、それは脳死者という『人』の生命の働きだ」とし て、脳死は人の死ではないと主張する。
そして、そのうえで「生きている身体を切り刻むのは残酷」と、現段階での脳死移植に反対している。
このほか、同書では、人生や生命、現代社会や文明など幅広い分野についても論じている。
同書は、白順社刊、B6判、二百四十ぺージ、千八百円。
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ということで、
「臓器移植」という“絶対善”?の旗印の元に、『脳死』という不自然なことが堂々と認められ、しかもそれが着々と実施されはじめて来た現実に、深い憂慮を示す有識者も多いということをこの無識者からお知らせ致したくご紹介しました。
なほ、ほかにも数々ある脳死に対する異論もあるということを是非とも多くの方から知っていただき、どうぞどうぞ出来るだけ反対の意思表示をして頂きたいのであります。
わしには関係ないわい・・・なぞと申しておりますと、いずれ御身にふりかかる危うき事態にトホホと言わねばならぬことが起きるやもしれず、何ごとも大事は早めに対処しておかねば間に合わぬのであります。
そういえば、テレビの特集で欧州の一部ではすでに国民が半強制的に臓器提供のシステムに組み込まれ始めているそうです。
【脳死は、死ではない。】梅原 猛編/思文閣出版/1600円
【生命をもてあそぶ現代の医療】現代社会を考える会・山口研一郎/社会評論社/2200円
【クスリで病気は治らない】丹羽 靭負ユキエ(医学博士)/(株)みき書房/1300円
ほかにも数多い異見がありますが、ここではチョット専門家からのものを選んで見ました。この本の中にはその道の専門家からの意見や実状が書かれています。その他、あなたの市町村図書館をのぞいても結構脳死問題についての本があるはずです。
いつも無関心でいると、気がついたら「国民皆徴兵制度」が出来上がっていた・・・なんてことあるかも。
いつも真理とは簡単なことです。
なにもむずかしい事を考えなくても、人間にとって死とは、
心の臓が止まったときなのです。
それを小難しい理屈をつけて、オツムに手を当てて考えるから、しかめ面で変な方向に向かってしまうのです。
長屋の八つぁんや熊さんは胸に手を当てて考えますからまずは安心です。
ホッと胸をなでて「あっしはまだ生きておりますゾ!」
生命のみなもとは心臓にあり、生きている証しは心臓の鼓動です。
それでも分からないのは血のめぐりが悪いからなのでしょうね(笑い)。
それは、手を当てる場所が違うのでしょうね、きっと。