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1937 キャデラック シリーズ90 フリートウッド クーペ

1937 CADILLAC SERIES 90 FLEETWOOD COUPE

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1930年、キャデラックは前年までの353cu:in 90°V型8気筒サイドバルブに加えて、新たに新設計のV型12気筒とV型16気筒エンジンをそのラインナップに加えた。前者の排気量は368cu:in(135hp)、後者は452cu:in(165hp)。いずれもVバンク角は45°、バルブトレインはOHVへとサイドバルブが多かった当時としては先進のメカニズムを備えていた。この当時、アメリカではパッカードとピアース・アロウがV型12気筒エンジンの搭載を計画し開発中とされていたが主力はあくまで6気筒と8気筒であり、いずれも直列が大勢を占めていた。


こうした中、キャデラックが12気筒に加えて16気筒までラインナップに加えることを決心したのは言うまでもなく高級車として市場での優位性を確保することが目的だった一方、創業以来の先進技術に対する敏感な感性があったことは間違いない。いずれにしてもキャデラックの新しいこの戦略はライバル他社に対して強烈な刺激となったことは間違いなく、翌年から翌々年に掛けてパッカード、ピアース・アロウ、リンカーンが次々とV型12気筒エンジンを市場に投入、さらにマーモンはキャデラックに続いてV型16気筒をラインナップすることとなった。


V12を搭載したキャデラック・シリーズ370と同じくV16を搭載したシリーズ452は、発売と同時に新時代の高級車を求めていた層からの高い支持を取り付けることに成功した。そしてシリーズ370は5725台、シリーズ452は3250台というこの手のプレミアムモデルとしては異例というべき多くの販売台数を記録した。ただしこの初年度で行き渡るべきところには行き渡ってしまったこと、そしてパッカードとリンカーンという極めて強力だったライバルの台頭もあってその販売台数は年を経るごとに激減、1933年にはそれぞれ952台/125台とほぼ注文生産レベルにまで落ち着くこととなった。


さて今回紹介しているのは1937年型のキャデラック・シリーズ90フリートウッドクーペである。当初、シリーズ452と称されていたV16搭載モデルは452A(1931年)、同B(1932年)、同C(1933年)、同D(1934年)を経て、1935年モデルからシリーズ60 452Dとその型式名を改めた。さらに1936年からの新しい呼称こそがシリーズ90フリートウッドだったというわけである。ここでのフリートウッドとはもともと独立したコーチビルダーだったのだが1920年代半ばにGMに買収され、以降はキャデラックを中心とするいわゆるファクトリースペシャルコーチワークを手掛ける部門となっていた。


この時点でのシリーズ90はホイールベース154インチを誇る堂々たるプレステージカーシャシーとあって架装されるボディの大部分は極めてフォーマルな存在だったインペリアルセダンとなっていたのだが、既に完全注文製造車でもあったことから、年間数台のオーダーで非常にユニークなボディが存在していたのがプレステージカーの常でもあった。


ちなみに1937年モデルにおけるシリーズ90の総生産台数はわずかに49台。その中でも写真のクーペはわずかに4台。ホイールベース154インチシャシーに乗車定員はわずか2名という贅沢極まりない1台だった。なお生産された4台の中で現存が確認されているのはこの1台のみである。


プレステージカーシャシーにおいてフォーマルリムジンやタウンカー(セダンカ・ドゥ・ヴィル」といったフォーマルユースを前提としたボディが架装された例は珍しくない。しかし敢えて2シータークーペといったパーソナルユースボディを選択した最初のオーナーは誰だったのか? 興味は尽きないマニアックモデルである。


キャデラックのV16は翌1938年モデルにおいてエンジンを新設計の135°V型16気筒サイドバルブへとモデルチェンジした。排気量も431cu:inへと縮小されていたもののパワー自体は185hpへと向上していた。Vバンク角を広げサイドバルブとしたのはボンネットを下げた新時代のボディデザインへとマッチングさせると同時に重心を下げハンドリングを向上させることが目的だった。なお前年まで存在していたV12にこのメカニズムは継承されず消滅している。


キャデラック・シリーズ90はエンジンをモデルチェンジした後、1940年モデルまで生産された。この時代のモデルの生産台数はいずれの年も二桁止まりであり現代では全てのモデルがコレクターズアイテムとなっている。なお第二次世界大戦後の1948年にデビューした戦後新設計のキャデラックにV16もコーチビルドモデルも存在せず、その基本となるキャラクターに大きな変化が訪れたことに多くの人が気付くのは少し時間が経ってからのことだった。








1933 デューセンバーグ モデルSJ ビバリーセダン

1933 DUESENBERG MODEL SJ BEVERLY SEDAN

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1920年代から1930年代にかけてのアメリカではT型フォードやシボレー490といったリーズナブルな価格の大衆車が大量生産される傍らで、設計者の情熱が迸るような超高性能車が主要な顧客たる大富豪の許へと次々と送り出されていた。デューセンバーグこそはまさにそんな高性能車を代表する一台だった。


デューセンバーグという名車を世に送り出した人物の名をフレッド&オーガスト・デューセンバーグという。2人は3つ違いの兄弟だった。アイオワ州在住のドイツ移民の子孫であった兄弟は、少年時代からの機械好きが高じて最初に小さな自転車工房を開いた。20世紀初頭の頃である。兄弟は高性能のレース用自転車の製作とレースそのものにのめり込んでいく傍らで、新時代の乗り物であったガソリンエンジン自動車に心を奪われていくこととなった。


デューセンバーグ兄弟は独力でエンジン設計技術を修め、初期のレースカー用やモーターボートレース用エンジンを製造市販するまでになった。この兄弟の技術力に注目したのがレースカー・コンストラクターのメイソンである。


1913年、フレッドとオーガストが設計したエンジンを搭載したメイソンはインディ500に初出場。その後1916年には見事2位に入賞するまでになった。この時点でメイソンは速いレースカーとしてその評判はとみに高くなっており、大小のレースで獲得した勝利数は数え切れないほどだったという。


1916年、兄弟はメイソンから離れ、エンジンメーカーのデューセンバーグ・モーター・カンパニーを設立。レースカーエンジン・コンストラクターとして、本格的な活動を開始することとなった。ちなみに1916年のインディ500で2位に入賞したレースカーは「デューセンバーグ」の名が檜舞台に登場した最初の例でもあった。


その後、第一次世界大戦への本格参戦に伴い、デューセンバーグ兄弟はアメリカ政府からの要請を受けて数々の航空機及び船舶エンジンの設計とライセンス生産に携わることとなった。 この数年間に兄弟が得た知識と経験は後の2人の設計者人生に大きな影響を及ぼすこととなった。何よりも最新技術に触れることができたのは大きかったといっていい。


こうして自身の技術力に強い自信を持ったデューセンバーグ兄弟は第一次世界大戦後の1920年に満を持して自動車メーカーであるデューセンバーグ・オートモービル&モータース・カンパニーを設立した。


デューセンバーグの最初の仕事は従来通りレースカー・エンジンの設計&製作と他社の設計コンサルタント的なものではあったものの、同時に会社としての収益を得るためのオリジナル市販車の設計も進行していった。レースカーは相変わらず優秀であり、1921年にはジミー・マーフィーと共にフランスGPで優勝。これはアメリカのレースカーがアメリカ人ドライバーによってGPに勝利した最初の瞬間だった。


1922年についに最初のオリジナル車、「モデルA」が登場した。モデルAは直列8気筒エンジンと世界初という4輪油圧ブレーキを備えた高性能な小型車だった。しかし販売ノウハウを持っていなかったデューセンバーグは結局会社経営に失敗、オーバーン社を率いていたE.L コードによって買収されることとなった。


コードには、オーバーンとデューセンバーグを中心に世界を代表する超高級車メーカーを作り上げるという大きな戦略があった。そしてコード率いるデューセンバーグが、その名声を世界的に高めるきっかけとなったのは1929年にデビューした「モデルJ」だった。


モデルJは1929年から1937年まで481台が生産された事実上の最終モデルだった。シャシーはオーソドックスなラダーフレームながら、デューセンバーグの真価はそのエンジンにあった。6.9リッター直列8気筒DOHC4バルブ(265hp)。GPやインディレースカーで培ったノウハウをフルに注ぎ込んだ最高のエンジンだった。


デューセンバーグ自体はこのエンジンを搭載したシャシーのみを生産、ボディはル・バロン、マーフィー、ウイロビー、ロールストンといったコーチビルダーで、ロードスターからセダンまで様々なスタイルのものが架装されていた。価格はシャシーのみで8000ドル以上。完成車は2万ドル近くに達していた。ちなみに同年代のA型フォードの価格はおよそ500ドルである。オプションで320hpを発生するスーパーチャージャー仕様(2250ドル高)も用意されており、こちらはモデルSJと呼ばれた。


デューセンバーグは他のどんなクルマよりもハリウッドの映画スターに愛された。クラーク・ゲーブルとゲイリー・クーパーが競ってスペシャル仕様をオーダーしたというのは有名な逸話である。


さて今回紹介している個体は1933年型のモデルSJビバリーセダン(シャシーナンバーSJ-512)である。SJことオプションのスーパーチャージャー付320hp仕様。481台製造されたモデルJの中でSJはわずかに45台。しかもその多くはロードスターやデュアルカウルフェートンであり写真のクローズドセダンボディを架装された個体は5台を数えるだけだった。


ちなみにこの素晴らしく端正かつフォーマルなルックスと怒濤のパワーを両立した一台をオーダーした人物の名をパウエル・クロスレイ・ジュニアという。オハイオ州シンシナティでラジオ局を経営する傍らでメジャーリーグのシンシナティ・レッズのオーナーも務めていた彼は後にクロスレイという自動車メーカーを興すことになるのだが、それに関しては過去に執筆した一文 を参考にして欲しい。


1937年、デューセンバーグはコードの破産によって消滅を余儀なくされた。現在、デューセンバーグ車は全生産台数の半数以上が、コンクールコンディションと共に熱心なファンの元で大切に維持保存されている。








1970/1971 ポルシェ917K

1970/1971 PORSCHE 917K


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1967年半ば、FIAは翌1968年度のInternational Championship for Makes(世界耐久選手権)のタイトル対象カテゴリとその車両ルールを新たにI/排気量3リッターまでのグループ6スポーツプロトタイプ、Ⅱ/排気量5リッターまでのグループ4スポーツ、Ⅲ/排気量無制限のグループ3GTの3種に変更するというアナウンスを行った。これらの中でポルシェはⅠまでは予想し3リッターフルスケールユニットを搭載した908を開発し準備を進めていたものの、Ⅱについてはほとんど青天の霹靂だったといわれている。


実際、Ⅱについてはシリーズのエントラントの中で決して少なくない勢力となっていたアメリカンストックブロックV8を搭載したレースカーの参加を可能とするため急遽追加されたものであり、ここに該当していたフォードGTとローラT-70はいずれも総合優勝も狙える強力なマシンへと熟成が進んでいたことがポルシェを悩ませることとなった。すなわち908は現状で考え得るベストな仕様となっていることは疑いない。しかし客観的に見ても明らかに強力なグループ4の存在は決して看過することができるものでは無かったということである。


というわけで1968年度の世界耐久選手権におけるポルシェの体制は、とりあえず前年までの主力マシンだった2.2リッターDOHCフラット8を搭載する907に加えて、新たに3リッターDOHCフラット8を搭載する908を併用するというスタイルで闘われることとなった。この両者の違いは基本的にエンジンを含めたメカニカルコンポーネンツだけであり外観上はほとんど同じだった。両者の住み分けはル・マンに代表される高速コースではパワーに勝る908を、それ以外の比較的低速なコースでは軽量でハンドリングに優れる907を使う様になっていた。もちろん既述の通りグループ4対策を諦めたわけではなく、こちらは1968年シーズンも開幕しヴァイザッハのファクトリーが一息つくことができた7月から新たなマシンの開発が始まることとなった。これが後の917である。


917は最大5リッターというグループ4のルールに合わせて4.5リッターというそれまでポルシェでは考えられなかった大排気量エンジンが採用されていた。912型と命名されたこのユニットはDOHC空冷フラット12というデザインを選択した。グループ4で容認されていた5リッターフルスケールとしなかったのは開発を早めるためピストンとコンロッドを908の3リッターユニット(908型)からの流用としたためであり、要するに912型は908型の12気筒版という単純な図式だったというわけである。この他、燃料噴射システムやバルブトレインなども基本的に908型に準じていたものの、シリンダーヘッドを新設計とすることで新たにバルブアングルを71°から65°に変更するなど燃焼室のコンパクト化を実現していたのが特徴である。


こういった設計変更は画期的なDOHC4バルブだったコスワースFVAの登場以来多くのレーシングエンジンコンストラクターで検討されてきたことだったのだが、依然としてシリンダー当たり2バルブというスタイルに固執していたポルシェにおいては根本的な解決は不可能だった。せいぜい可能な限りバルブアングルを少なくし、ツインプラグなどを採用することで燃焼速度を向上されるくらいが関の山だったのである。


また排気量が50%もアップした912型にとって熱対策と大幅に長くなったクランクシャフトの捻り剛性アップは大きな課題となった。熱対策については冷却ファンのパワーを上げダクト類の設計を改めた他、オイルポンプを強化するといった正攻法でクリアすることができたが、クランクシャフトについては少々時間を必要とした。コンベンショナルな設計ではどうしてもクランクシャフトの捻れに伴うパワーロスと耐久性の低下から逃れることができなかったのである。ちろんクランクシャフトそのものを強化すれば問題をクリアすることはできたが、軽量&ハイパフォーマンスを是としていたポルシェにとって頑丈さと引き替えに重くなることは許し難い悪設計だったのである。


結局912型のクランクシャフトは少々設計が複雑になるのを承知でセンターパワーテイクオフを採ることとなった。これなら事実上2基のフラット6ユニットを連結した構造に等しく、クランクシャフトの剛性的には何の問題も無かった。こうして完成した912型ユニットはクランクセンターアウトプットとあって、クランクシャフトの下部をメインアウトプットシャフトが通っていたことからやや全高があったものの大排気量フラット12としてはシンプルにまとまっていた。ユニットのてっぺんにプラスチック製の大きな冷却ファンが設けられていたのは他のポルシェフラットと同じ。シリンダーヘッドを新設計したことで気持ち小振りになってはいたものの全体の印象はほとんど変わっていなかった。冷却ファンの両側にはインテークファンネルが6本づつズラリと並んでいたが、インジェクターがファンネルの入り口近くに設けられていたのが908から採用されていたポルシェの特徴でもあった。


最高出力は最初の試作機による計測で542ps。熟成が進むに従ってそのパワーは580ps/8400rpm、最大トルクは52.0kg-m/6600rpmに向上し、耐久レースにおける無理の無い仕様ということで、これが912型の実戦仕様となった。エンジンの単体重量はクラッチ&ミッションレスで240kg。ポルシェとしてはマグネシウムやチタンを多用するなど軽量化には留意したものの、この辺りが限界だった。ちなみに機械駆動の冷却ファンはピーク回転時で17psものパワーを消費したが、トータル出力に占める比率そのものは908などよりは向上していた。


トランスミッションはその手持ちのユニットの中に580psのパワーに耐えうるものが存在しなかったため、908用のケースをベースに新設計されることとなった。構造的には908の強化型であり、トルクが大幅に増大していたことからシャフトやベアリングなどが見直されていた。またこのトランスミッションはレース用としては珍しくウェットサンプとなっていたが、これは構造の簡易化に伴う軽量化と信頼性のアップが期待できた。正しく設計すればミッションオイルの冷却性能もドライサンプに劣っていなかったといわれている。さらに4速もしくは5速で構成されていたギアセットはヒューランドの様なドグリング式ではなくポルシェならではのサーボシンクロが装着されていたのも特徴といって良いだろう。


さてシャシー&ボディだが、基本的に908のデザインを踏襲しながらより大きくなったエンジン&トランスミッションのマスをクリアするためにリア周りが変更されていたのに加えて、908の330psから580psへと大幅に増加したパワーに対応するためクロスメンバなども適宜追加されていた。フレームの素材はアルミ合金。単体重量は47kgに収まっていたのは見事であった。ボディは908に似たデザインのものがショートテールとロングテールの2パターンが用意されていた。ホモロゲ取得のため最初に生産された25台の中の相当数がロングテールでありボディの後端にはリアサスペンションに連動する可動フラップが装着されていた。このフラップはブレーキングなどでリアサスが伸びた時には立ち上がり後輪を路面に押しつける方向へと作用し、ノーズが持ち上がりリアが下がった場合は逆に作用した。なおフラップは左右両後輪ごとに独立作動するようになっており、コーナリング中の姿勢変化などにも対応していたのが特徴である。ボディ関係アッセンブリーの重量は83kgである。


エンジン、フレーム、ボディの主要コンポーネンツの合計重量はわずかに370kg。グループ4の最低重量は800kgとされていたこともあって、ポルシェにとってはこれ以上の軽量策は特に必要では無かった。ちなみにグループ6の908の場合はそうはいかず、最低重量規制が撤廃された1969年以降は新たに超軽量スパイダーであった908/2及び/3を投入することによって初期型クーペの660kgから最終的には545kgにまでシェイプされている。
こうしてポルシェ917は1969年3月に完成し、FIAグループ4のホモロゲを取得するために25台が市販されることとなった。


ポルシェ917は1969年シーズン半ばから実戦に参加し始めたが初期は熟成が伴わず、何かとトラブルに見舞われることが多かった。とはいえ580psのビッグパワーがもたらすスピードは素晴らしく、この年のル・マンにワークスとして出走した2台の917LH(ラングヘック/ロングテール)は共に完走は適わなかったもののロルフ・シュトメレン/クルト・アーレンス組みの♯14(シャシーナンバー007)が3分22秒900のタイムでポールポジションを獲得した他、もう一台のヴィック・エルフォード/リチャード・アトウッド組みの♯13(シャシーナンバー008)は見事3分27秒200(平均速度234.017km/h)のファステストラップを叩き出している。そしてこの年、ポルシェは待望の世界耐久選手権マニュファクチャラーズ総合タイトルを獲得した。しかし917による総合優勝は最終戦のエステルライヒリンクのみであり、ポイントの大半はグループ6の908によるものだった。


1970年、ポルシェは世界耐久選手権における主力マシンを917にスイッチすべく主として空力特性を向上されるためのモディファイに入った。これは908の軽快な操縦性を考慮しても、917のパワーとスピードがもたらす魅力となると決して少なくなかったことが理由である。なおこの年から昨年までのグループ4は新たにその名がグループ5に改められることとなり、さらにこのカテゴリにフェラーリが5リッターV12を搭載した512Sと共に参入してくることが確実となったため、ポルシェ、フォード、ローラ、フェラーリという5リッターマシンの激突の場となることが決定的となったのである。


1970年度世界耐久選手権においてポルシェ917は開幕戦のデイトナ24時間を始め全10戦中7戦を制し2年連続マニュファクチャラーズチャンピオンの座に輝いた。なお他の3戦中2戦は並行して投入されていた908/3が制しており、最強のライバルというべきフェラーリ512Sは1勝に止まっていた。さらにこの年からは純ワークスに加えてガルフ・ポルシェ(ジョン・ワイヤー)とマルティニ・ポルシェ(ポルシェ・ザルツブルグも含む)というセミワークスというべきチームが917を運用しいずれも好成績を収めていた。


1970年型の917はルマンで総合優勝を果たしたクルツヘック(ショートテール)の917Kを見てもわかる通り、スパイダーのテールをほうふつとさせるアグレッシブなルックスだったのが特徴である。ちなみに空力的にはたとえばル・マンの様な高速コースでもクルツとラングの差はここ一番の最高速度はともかくレース全体を通したラップスピードを見る限りそれほどでもなく、概ね25kgと言われていたその重量差とオーバーハング部のマスをどう評価するかというドライバーの好みで選択されていたに過ぎない。またこの年の第4戦モンツァからは5リッターのフェラーリ512Sに対抗するため排気量を4.9リッターにアップした新しい912型が投入された。その最高出力は600psである。


続く1971年、世界耐久選手権におけるポルシェ917K/LHはほぼ無敵となっていた。この年は開幕3連勝を飾るなど驚異的な強さを発揮し、シリーズのハイライトというべきル・マンまでにタイトルの獲得を決めてしまっていたのだから。ライバルのフェラーリはパワーアップした512Mを投入してきたものの917の牙城を崩すことは叶わず、ランキング2位には抜群の操縦性を誇ったT33/3と共に3勝を挙げたアルファロメオが入った。


1972年、またもやFIAルールの変更がポルシェの戦略に大幅な軌道修正を強いることとなった。すなわちこの年からのメイクス・タイトルはグループ5スポーツカーとグループ4スペシャルGT(かつてのグループ3に近いマシン)に集約され、グループ5の最大排気量は3リッターに制限されることとなったのである。


この措置によって4.9リッターのポルシェ917はメイクス・タイトル対象外となり、ポルシェは908を再び引っ張り出さざるを得なくなった。そして、行き先が無くなった917はというと1969年と1971年の2年間に渡って試験的に参戦していたSCCA Can-Amへとスイッチする道を選択せざるを得なくなるのである。グループ4として誕生し、途中グループ5にスイッチ、最終的にはグループ7として戦ったポルシェ917は、その様々な形態と共に59台が生産された。この数字は、カテゴリー的にはFIAが定めるスポーツカーでありながら、実態はプロトタイプに近かった純レースカーとしては異例に多い数字として認識されている。そしてそれはポルシェ917の完成度の高さを証明する客観的な評価に他ならなかった。



写真上
ハンス・へルマンとリチャード・アトウッドによって1970年のル・マンを制した917は本命ともいえるヴィック・エルフォード/クルト・アーレンス組のラングではなく最高速度では遅れを取っていたクルツだった。シャシーナンバーはそのレースナンバーと同じ「023」。すなわち1969年の3月までに完成していた最初の25台の中の一台であり、本来は908に似た可動リアウイング付きボディが架装されていた。1970年シーズンを前にボディを新しいデザインのものへと換え、さらにエンジンも4.5リッターから4.9リッターに換装してあった。023の917Kは翌1971年にはマルティニ・レーシングの手に渡り、ボディを1971年型に一新した上で優勝マシンであった053のバックアップカーとなっていた。現在の仕様はオリジナルに戻されている。


写真下
ヘルムート・マルコとギジェ・ヴァン・レンネップが駆った1971年度の優勝マシンもまたラングではなくクルツだった。シャシーナンバーは「053」。これはグループ7の917/10や917/30、さらには空力実験仕様として1台だけ製造された917/20を除く、いわゆる普通の917の最終車だった。ただしシャシーナンバーは途中が飛んでいたので全部で53台あったわけではない。ボディはクルツながら前年のラングのような垂直安定板をリアにセットしていたのが特徴であり、リアカウルの後端もより強いスポイラー効果を持たせるため1970年仕様のクルツより大きく反り返っていたのが特徴である。シャシー周りはマグネシウム合金チューブのフレームが採用され、チタンパーツの使用割合も増えていた。現在の仕様はおそらくレストア無しのフルオリジナルである。