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1961 フェラーリ 400 スーパーアメリカ カブリオレ

1961 FERRARI 400 SUPER AMERICA CABRIOLET

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ


一般に多くの人がF1を除く市販車としてのフェラーリというクルマに対して抱いている印象というものは、派手で高価なスポーツカーといったところだろうか? 確かにその通りである。しかしレーシングチームとしてではない、自動車メーカーとしてのフェラーリがこうした一般公道走行を前提としたフラッグシップスポーツカー製造に乗り出したのは1948年の創業からしばらく経ってからのことだった。


それというのも当時のフェラーリに付加価値の高いスポーツカーを全て完成させることができるだけの設備も人材も無かったことが理由。その結果、レースカーとして設計されたシャシーをベースにピニンファリーナやヴィニヤーレ、ギア、ツーリングといったカロッツェリアでワンオフのボディと内装をしつらえるという手間の掛かる製法を取らざるを得なかった。すなわち現代で言うところの量産車などでは決して無く、言ってみればロールスロイスやベントレーのフラッグシップにも似たコーチビルドモデルだったというわけである。


こうした時代の代表モデルと言えば、以前にも紹介したフェラーリ340アメリカ などがあった一方、車名の由来となった当のアメリカ市場ではさらなる大排気量エンジンを搭載したグランツーリスモ的なモデルが要求され初めていた。そうした要求に応えてリリースされたのが1955年から1959年まで生産された410スーパーアメリカであり、初期のフェラーリにおいてトルク重視の大排気量エンジンとして高い信頼性を発揮したアウレリオ・ランプレーディ設計のV12を搭載したモデルとしては最後の存在でもあった。


410スーパーアメリカは全てのバリエーションを合わせてもその生産台数はわずかに58台と少量生産に終わったものの、北米市場において非常に高性能かつプレミアム性の高いスポーツカーとして高い評価を受けた。創業から10年少ししか経っていなかった新参メーカーの作としては望外の高評価だったと言っていいだろう。しかしその一方でランプレーディ・エンジンはレーシングユニットとしての頑丈さや信頼性はともかくスポーツカーとしてのドライバーの感性に訴えかける官能性さに欠けるという評価もあり、フェラーリは市販モデルにおける主力エンジンを当初のメインラインというべきジョアッキーノ・コロンボ設計によるものにスイッチすることを決定した。その結果誕生することとなったのが今回紹介するフェラーリ400スーパーアメリカである。


フェラーリ400スーパーアメリカは1959年の終わりにブリュッセルショーにおいて発表された。エンジンはコロンボ設計によるTIPO163こと4リッターV型12気筒SOHC。シリンダー単室当たりの排気量を車名とするというそれまでのフェラーリのやり方に照らすのであれば車名は330となるはずだったのだが、ここでは敢えて400という数字が使われた。これは4リッターの排気量と公称400hpの最高出力(実際は340hp程度だったとも言われている)を併せて考案されたものと言われており、当の北米市場での分かりやすいイメージ戦略を重視してのことだった。


こうして無事デビューを飾った新しいスーパーアメリカは、新設計のシャシーにピニンファリーナによってデザインされたボディを纏って市場へと送り出されていった。ボディの製作を担当したのはカロッツェリアのスカリエッティである。主要なターゲットはあくまでアメリカ市場ではあったものの、ヨーロッパでの注目度も高かった。特にコンベンショナルなクーペボディに加えて、非常に魅力的なコンバーチブルの存在がその人気に拍車を掛けたと言って良いだろう。スポーツカーとしてのパフォーマンスも優秀であり、260km/h前後の最高速度が期待できた他、フェラーリのストリートモデルとは初めてダンロップの4輪ディスクブレーキを装備するなど、シャシー周りの近代化も積極的に実施されていた。


ちなみにごらんの一台はシャシーナンバー2407SAの初期型コンバーチブルであり、1959年から1962年まで25台が生産された400スーパーアメリカSr.1の中でわずかに7台しか存在しなかった。現代、生産車の多くは生存していると思われるものの、コンクールデレガンスなどに姿を見せているSr.1のコンバーチブルはこの2407SAしか確認されてはおらず、他にはSr.2のプロトタイプというべきSr.1最終型のロングホイールベースシャシーをベースに後の250GTカリフォルニア・スパイダーに流用されるピニンファリーナ・デザイン・ボディが架装されたシャシーナンバー2311SAが確認されているに過ぎない。


フェラーリにおけるプレミアム性の高い市販GTは1963年に登場することとなる250GTベルリネッタ・ルッソにおいて、スペシャルコーチワークが事実上廃止されることとなった。それは400スーパーアメリカの後継機種というべき500スーパーファストでも例外ではなく、今となっては職人によるハンドメイドでの少量生産という佳き時代の個性が生きていたフェラーリとして非常に貴重な一台である。







1962 フェラーリ ディーノ 196SP

1962 FERRARI DINO 196SP

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このフェラーリには複数の呼称がある。最初は248SP、その次は268SP、そして最後はディーノ196SP(ディーノが付かないとする説もある)。シャシーナンバー♯0806のこの個体は1962年にスクーデリア・フェラーリが運用するワークスレーシングスポーツカーとして生を受けた。


1950年代の終わりから1960年代の初めに掛けて、レーシングマシンの世界ではそのカテゴリーを問わず従来型のフロントエンジンに代わってミドシップが大きく注目される様になっていた。この流れに対してフェラーリは1959年の半ばから開発を進めていたミドシップフォーミュラの246F1を1960年シーズンに試験的に投入。続く1961年はレギュレーションの変更でF1の最大排気量がそれまでの2.5リッターから1.5リッターに改められたことを受け、本命中の本命である156F1を通じて大成功を修めることとなった。


一方、レーシングスポーツカーはいわゆるテスタロッサの系譜が熟成の極地にあり、ワークスドライバーの多くもそのハンドリングを好んでいたこともあり、なかなかミドシップの採用には踏み切れないでいた。しかし早晩レースカーの世界がミドシップオンリーになることが容易に推測できたこともあり、フェラーリは1961年シーズン用の2.5リッタークラスマシンから具体化に着手されることとなった。


こうした決定の背景に存在していたのは、既に開発が先行していたF1のシャシーデザインの基本レイアウトが流用できたこと。そしてサイズ的に3リッターオーバーのV12エンジンの搭載はハンドリングの面でリスキーという判断である。こうしてフェラーリ初のミドシップレーシングスポーツカーは2.4リッターのV型6気筒SOHCと共にデビューを飾った。シャシーは前述の通りフォーミュラの流れを汲むマルチチューブラースペースフレーム。ボディはジェスティオーネ・スポルティヴァによるシンプルなデザインのモノがファントゥッティに拠って架装された。


さて今回紹介している♯0806は6台生産されたこのモデルの最終生産車である。既述した通り最初に搭載されていたエンジンは2.4リッターV8SOHC。ちなみに設計本来時のエンジンである2.4リッターV6で無かった理由だが、この時代のフェラーリはたとえ同じシャシーであっても参戦するカテゴリーやコースごとにエンジンの異なる個体を用意するのが普通であり、より高速コースでの柔軟な運用を想定していたものと思われる。


♯0806は1962年のシーブリング12時間で実戦デビュー、総合13位で完走した。その後はヨーロッパに渡りニュルブルクリンク1000kmとタルガフローリオに参戦、後者では見事総合2位を飾った。なお1962年の後半からはエンジンをV12の3リッターとした新型ワークスマシンである250Pが完成したことでこのシリーズは二線級へと格下げとなり、エンジンを2.6リッターV8SOHCに換装、268SPとなった。ちなみに268SPとしてのレース歴は無い。


さらに程なくして北米にてセミワークス体制でSCCAスポーツレーシングとUSRRCに参戦していたルイジ・キネッティの要請を受けてエンジンを2リッターV6SOHCに換装したことで196SPへと型番が改められたのだが、このV6エンジンはエンゾ・フェラーリの息子であり新進設計者でありがら夭折したアルフレディーノ・フェラーリが残した基本設計をベースとしていたことから「ディーノ」のサブネームが付けられた。


北米に戦いの現場を移した♯0806は1963年シーズンをセミワークス体制で戦った後、シーズン終わりにはプライベーターに売却され1964年シーズン終わりまで幾つかのチームを経つつSCCAスポーツレーシングとUSRRCを戦った。しかし宿命とライバルというべきポルシェの追撃は著しく、元々がワークスマシンとはいえその戦闘力に陰りが見えてきたこともあり1965年シーズンを前にコレクターに売却され戦いの場からは引退することとなった。


基本設計が完成してからほぼ4年。優勝こそ記録できなかったものの充実したコンペティションヒストリーだったと言って良いだろう。ちなみにこの個体のステアリングを握ったフェラーリのワークスドライバーとしては、ペドロ・ロドリゲス、ロレンツォ・バンディーニ、ルドヴィコ・スカルフィオッティ、ジャンカルロ・バゲッティなどの名を挙げることができる。








1938 リンカーン ゼファー ル・バロン コンバーチブル

1938 LINCOLN ZEPHYR LE BARON CONVERTIBLE

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1936年、リンカーンは前年までのモデルKA(ショートホイールベース)、モデルKB(ロングホイールベース)というラインナップに加えて、新たにゼファーという名のニューモデル市場に投入した。ホイールベース122インチとそれまでリンカーンより10インチ以上も短く、プレミアム性に優れかつ扱いやすいというパーソナルユースをより強く意識していたのが特徴だった。


エンジンは267cu:in(4.4リッター)という小さめなV型12気筒サイドバルブ。最高出力は110hpとそれなりではあったものの、静かで滑らかなエンジンという意味では従来のモデルに対して遜色はほとんど感じられなかった。何よりもリンカーンとしては初めてヘッドライトがフェンダーに埋め込まれたこと、そしてアールデコの象徴というべき流線型ボディが採用されていたことで、従来のモデルとは一線を画する新時代のイメージに溢れていたと言って良いだろう。


なお従来のモデルは基本的にリンカーンのファクトリーで生産されるスタンダードセダンやリムジンの他に、ル・バロン、ブルン、ジャドキンス、ウイロビー、ディートリッヒといった各コーチビルダーによるスペシャルボディが各種用意されていたのだが、ゼファーは4ドアと2ドアの各ファクトリーセダンのみというラインナップだった。


1938年、リンカーン・ゼファーはホイールベースを125インチに拡大すると共に新たに2ドアクーペ、4ドアタウンリムジン、そして2/4ドアコンバーチブルをラインナップに加えた。このことはゼファーに対してより多くのバリエーションを求める声が高まっていたことの証明でもあり、一部のコアなユーザーの中にはスタンダードボディをコーチビルダーに持ち込み独自のボディを架装する例も現れることとなった。


今回紹介するモデルはまさにそうしたスペシャルコーチワークモデルに他ならない。ベースとなったのは4ドアコンバーチブル。ただしそのボディ外板とインテリアはコーチビルダーのル・バロンによってオリジナルのイメージを残しながらも全面的に変更されており、非常に高い質感を感じるものとなっている。


一見しただけでわかるスタンダードとの違いはフロントグリル形状、ボンネットライン、ウインドシールド形状、そして最大の違いはスタンダードのリアドアが後ヒンジだったのに対して、このボディは前ヒンジとなっていたこと。またドア自体の大きさも拡大されており、相対的にウインドウ面積が縮小され非常にタイトなキャビンイメージが表現されていたと言って良いだろう。


このル・バロン4ドアコンバーチブルは事実上のワンオフと伝えられており、この個体の他に現存するモノは確認されていない。もしかしたら当時他に製造されたのかもしれないが、リンカーンのヒストリーブックを紐解いてもその詳細については言及が無い。すなわち歴代リンカーンの中でも超一級のレアモデルである。