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1938 タトラT97

1938 TATRA T97
乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

1920年代の終わりから1930年代の初めにかけて、世界的なアールデコブームと共に大きくクローズアップされることとなった新たなテクノロジーに流線型ボディがあった。タトラの屋台骨を支えていた設計者だったレドヴィンカの新たな計画、それはエンジンを含めたメカニカルコンポーネンツをワンパッケージに集約した上でボディ後部に搭載。エンジンが無くなったことで新たに低いデザインが可能となったフロントからリアにかけて、滑らかな流線型ボディと組み合わせた量産車の実現だった。


レドヴィンカとしてはこれらRR(リアエンジン・リアドライブ)の流線型ボディ車をタトラのメインモデルとしてベーシックラインから幅広く展開することを望んでいたと言われているが、当のタトラ経営陣はその先進設計ゆえに冒険過ぎるとして、まずは付加価値の高いフラッグシップモデルでの展開しか認めなかった。これが1934年に発売されたT77である。フラッグシップゆえにエンジンは空冷V型8気筒の3リッターという大型。その流線型ボディはかなりのインパクトがある存在だったものの、基本的に数が売れるクルマでは無かった。T77は数回のマイナーチェンジを経てT87へと進化する。


一方、T87と同じ頃、タトラの開発室ではT87を小型化したシャシーに1.8リッターの空冷水平対向4気筒エンジンを搭載したベーシックモデルの設計も進んでいた。これがT97であり、構造的にはエンジンが既存のT30用などとは異なりチェーン駆動のSOHCになるなど一層の進化を見せていた。T97の設計において主導的役割を果たしたのは、ハンスの息子のエーリッヒ・レドヴェンカと長年ハンスの右腕的役割を勤めて来たエーリッヒ・ウベールレッカーである。


T97は客観的に見てその完成度は極めて高く、量産化の暁には世界的に大きな注目を集めることは確実だった。しかし、またもや経営陣は生産コスト高を理由に量産化をためらうこととなる。対してレドヴェンカ親子とウベールレッカーに熱心に経営陣を説き伏せる道を選択する。その結果、タトラT97は1938年から遂に量産が開始されることとなった。しかし量産開始決定を受けて全ての関係者が胸をなで下ろしていたまさにその時、時代は大きく動き始めていたのである。


1938年6月、アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツは隣国のオーストリアを併合し、同時にチェコをも武力を以て恫喝に掛かった。この圧力にチェコは結局屈さざるを得なくなる。そして1938年10月のズデーテン地方の割譲に続いて、翌年3月にはドイツ軍のプラハ進駐を容認、同年9月に至りチェコはドイツに併合されることとなる。


これら一連の政治的かつ軍事的な示威行動の結果、ドイツはタトラやシュコダ、プラーガといったチェコ固有の先進重工業の担い手というべき優良企業を労せずして手に入れることに成功した。こうした行動の背景には、かねてからチェコの技術力を極めて高く評価していたヒトラー直々の意志が強く作用していたことは明らかであり、それは程なくしてとあるプロジェクトが進行する過程でも証明されることとなる。


チェコが心ならずもドイツの一部となった1939年から遡ること5年前の1934年。政権を奪取したばかりのヒトラーは、国民の心を捉える様々な政策を発表し、次々と実行に移していった。その中にあったのが国民の誰もが気軽に購入できるローコストで高性能な自家用車を国家が主導となって開発するという、いわゆる国民車構想である。このヒトラーの国民車構想にあたって、その主任設計者というべき立場にあったのはご存じフェルデナント・ポルシェだった。


ここでポルシェが提案したトルクチューブバックボーンフレームと強固なフロアパンを組み合わせたセミモノコックボディのリアに、1リッターの空冷水平対向4気筒エンジンを搭載した流線型ボディのリアエンジン・リアドライブ車は、後にフォルクスワーゲン・ビートルとして全世界的な大ヒット作となる。ところが実はこのクルマのコンセプト及び構造が、一連のリアエンジンのタトラ車のそれとが極めて類似していたのである。


実のところここに至るまでには極めて複雑な事情が絡み合っていた。まず重要だったことは、計画自体に強大な決定権を持っていたヒトラー自身がタトラの熱心な支持者だったことである。実際、1933年にナチスの肝入りでベルリンで開催された自動車ショーにおいて、ヒトラーは自ら率先してハンス・レドヴィンカとの長時間に渡る会談を行った。そこでどんな会話が為されたのかは定かでは無いものの、時期的に見て国民車構想の話が主だったことは明らかであろう。


またこのプロジェクトの開発側リーダーだったフェルディナント・ポルシェは、前年の1932年に中堅モーターサイクルメーカーだったNSUの依頼を受けて、空冷水平対向4気筒エンジンをリアに搭載した、後年のフォルクスワーゲンの原型と言えなくもないクルマ、「NSUタイプ32」を設計している。


この頃、ポルシェはダイムラー・ベンツ時代の最後に基礎設計に携わったとされる130H/170Hといったヘックモトールことリアエンジン車の可能性に執心していたのは明らかであり、NSUからのリクエストに対してリアエンジンデザインを選択したのは半ば当然のことだった。そしてここでNSUタイプ32の技術的母体になったとされていたのが、ポルシェがダイムラー・ベンツの後に勤務していたオーストリアのシュタイアーに残されていた設計資料の数々とも言われており、その資料こそは1916年から1921年までタトラを離れてシュタイアーに在籍していたレドヴィンカが残したモノに他ならなかったというのが全てのウワサの根拠である。


レドヴィンカが前述のタトラT77の試作車の開発に着手したのが1931年頃。試作車の完成はNSUタイプ32とほぼ同じ1933年のことである。なおレドヴィンカとポルシェはどちらもオーストリア人であり、顔を合わせればお互いに会話を交わす程度の面識もあったと言われている。空力的に優れたボディを持つシンプルで高性能な大衆車、共に目指していたところが同じであれば、おそらく会話は弾んだはずである。すなわちT11に端を発するレドヴィンカの一連の設計の妙と併せて、彼とタトラの存在こそがポルシェがインスピレーションを閃かせる上での大きなきっかけとなった可能性は極めて高いと思われるのである。そしてその背景の一部には、ヒトラー自らの「タトラの様なクルマが望ましい」といった意の命令が強く作用していたことは想像に難くない。


1938年5月、フェルディナント・ポルシェ設計による「kdf」ことドイツの国民車(フォルクスワーゲン)は新たに建設された工場と共に大々的にお披露目された。程なくして購入のための積み立てプランなども政府から提示され、少しづつではあるが国民車構想は動き始めることとなった。ところがkdfが発表された時点で、タトラからkdf社(製造会社もクルマと同名だった)に対して、自社の明らかなパテント侵害であるとの正式な抗議文が寄せられていたのである。


しかしこの抗議はナチス政権下の強権の前に完全に無視された。それどころか、ナチスは自身の支配下にあったタトラに対して、kdfと明らかに競合すると思われたT97の製造禁止を申し渡したのである。これはどう好意的に解釈しても無法であった。結局第二次世界大戦後の1961年に大戦中の理不尽な製造禁止命令のみに関しての訴訟がチェコで提起され、最終的にはkdf改めフォルクスワーゲン側の賠償金支払いで決着している。


この賠償問題とパテント侵害問題は切り離して考える必要があることは言うまでもない。kdfはその誕生に至る過程でポルシェがタトラの設計を盗んだと主張する過激な層がいないわけでは無いのだが、実際は以前からリアエンジン車の将来性に注目していたポルシェに対して、先進的な考えと共に先行していたタトラの存在が大きく作用し、両者の相乗効果で最終的にフォルクスワーゲンという大きな実が結んだと解釈するのが一番妥当な様に思える。


現在、世界の自動車史においてkdfからフォルクスワーゲンに至る系譜を語るとき、そこにタトラという存在が極めて重要な役割を果たしていたことは、まず間違いなく言及されるというセオリー中のセオリーである。この事実でおそらく今は亡きハンス・レドヴィンカも満足してくれているのではないかと思うのは、決してポルシェ寄りの偏った考え方では無いはずである。










1930 タトラT26/T30

1930 TATRA T26/T30

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1923年、第一次世界大戦後の東欧の工業国チェコを舞台に、とある革新的なメカニズムを備えたクルマが登場する。その名は「タトラT11」。現在は主としてトラックを手掛けているタトラは、1850年創業の馬車メーカーを母体に19世紀末に自動車製造業に乗り出したという歴史ある存在。初期にはベンツのメカニカルコンポーネンツを使った各種自動車を製造していた。


そんなタトラに大きな転機が訪れたのは、社内の権力闘争の影響を受けて一時期会社を離れオーストリアのシュタイアーに移籍していたかつての主任設計者であったハンス・レドヴィンカが、第一次世界大戦終結後の会社再編成に伴って戻ってきたことがきっかけだった。レドヴィンカは1921年から長年暖めていた小型自動車の設計に着手。このクルマのエンジンこそが1.1リッターの4ストロークサイクル空冷水平対向2気筒だったのである。しかもこのクルマ、他にも独創的なアイディアに溢れていたという意欲作だった。


そのディテールはフロントに搭載されたエンジン&トランスミッションユニットとリアの駆動アクスルケースとの間は太いトルクチューブで連結され、プロペラシャフトはその中を通されていたというもの。フロントサスペンションはエンジンと結合されたサブフレームにマウントされた横置リーフスプリングによる独立懸架。リアサスペンションはアクスルケースの上部にセットされた横置リーフスプリングで吊られた左右のスイングアクスル・ハーフシャフトで構成されたシンプルな独立懸架というもの。トルクチューブは事実上のバックボーンフレームであり、ボディ無しでも成立し得る最小限のメカニカルコンポーネンツ構成としては、かなりの革新であり先進だったということである。


軽量小型かつ低重心の水平対向エンジンをベースに駆動系を強固なワンパッケージでまとめた上に、サスペンションにはハンドリングと悪路でのトラクションに優れる独立懸架を採用するというそのメカニカルスペックから理解できたこと、それは1920年代初めという時代からは想像できない先進性の塊の様なクルマに仕上がっていたということである。ちなみに完成車としてのタトラT11の外観は何の変哲も無い1920年代のクルマそのものであり、その中身が革新的な構造だとは想像できないものだった。


T11に端を発するタトラの水平対向エンジン搭載車は、エンジンを1.7リッターの4気筒に拡大したT26/T30、さらに排気量を1.9リッターにアップしたT52、T30の改良型であるT75、T11とその改良型であるT17の後継車として登場したT54/T57と数年の間に矢継ぎ早に進化を重ねていった。水平対向シリーズで最大排気量だったのは2.5リッターの4気筒を搭載していたT82であり、T57と共にチェコ陸軍の装備となった。ここでのT57は小型の前線指揮車、対してT82は6×4(後輪2軸駆動)のコマンドカーと小型トラックがラインナップされていた。


とはいえこれらタトラの空冷水平対向エンジン搭載のFR(フロントエンジン・リアドライブ)シリーズは、レドヴィンカの熱意溢れる設計ではあったものの、架装ボディとシャシーを含めたトータルパッケージングで見る限り、正直言って水平対向であることの必然性は薄かった。もちろんこれらはレドヴィンカも先刻ご承知であり、実は彼が考える本命というべきクルマの設計案はさらに水平対向エンジンであることを活かすべく先進性に溢れていたのが特徴だった。そのクルマについてはまた稿を改めて。










1973 ポルシェ917/10 ハーレイ・ヘイウッド

1973 Porsche 917/10/Hurley Haywood

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1972年のワールド・チャンピオンシップ・フォア・メイクス、すなわち世界耐久選手権の開幕を前に、FIA/CSIはメイクスタイトル対象カテゴリーを新たにグループ5スポーツカー(最大排気量3リッター)とグループ4GT(排気量無制限)に変更する旨を発表した。この決定でポルシェ917はタイトル対象外となり、ポルシェはその新たな道をかつて試験的に参戦していたカンナムに見出すこととなった。


1969年に限定的ながらカンナム参戦を行っていたポルシェにとって、1972年からの世界耐久選手権におけるレギュレーション変更はカンナムに本格的に復活する上で大きな動機となった。ちなみに1969年に使った917PAはシリーズ終了後もアメリカに残され、運用を望んだプライベーターの手で熟成作業が行われていたものの作業ははかどらず、ミルト・ミンターのドライブで復活したは1971年のこととなった。しかもこの年の半ばからポルシェはそのワークスの手でほぼ新造マシンへと生まれ変わった917/10をジョー・シフェールと共に投入。その変更点は912型水平対向12気筒エンジンの排気量を4.5リッターから5リッターへと拡大していたこととシャシー周りを軽量化していたこと。さらには本来低速コースでの運用を主眼としていた908スパイダーのボディをベースとするなど空力的に熟成不足の感が否めなかった917PAから、一転して非常に複雑な形状のフロントノーズと大型の後部垂直安定板を装備するなど高速域でのダウンフォースとスタビリティ向上を狙っていたのが特徴である。



軽量化のために新たに導入されたパーツはアルミ合金製のフロントハブ、チタン合金製のリアハブ、マグネシウム合金製の本体に加えてアルミ合金製ピストンとマグネシウム合金製のボルトを採用したブレーキキャリパー、マグネシウム合金製のステアリングボックスサポート、アルミ合金製のシフトロッドなど多岐に渡っていた。これは構造上スチールでなければ強度が保てなかった部分以外はそのほとんどが軽合金化されたことを意味しており、かつてのヒルクライムマシンであるベルクスパイダー並の軽量化への取り組みが為されるようになったことを意味していた。


これら軽量化の努力の結果は1969年型917PAの775~780kgに対して、1971年型917/10の740kgという車重に現れていた。この40kgこそは血の滲むような努力から導き出された数字であり、これまでも数々の軽量化に対するトライを実施してきたポルシェノウハウの集大成というもの。操縦性に影響を与えたことからその使用が限定されていたマグネシウム合金フレームを使用するとさらに15kgの軽量化も可能だったと言われている。


エンジンの排気量アップに伴う最高出力の向上は4.5リッター仕様の580ps、4.9リッター仕様の600psに対して5リッター仕様は630psというもの。700psを超えていたシボレー・ビッグブロックにはまだ及ばなかったものの、マルチシリンダーならではの伸びの良さでほぼ互角に戦うことができるようになった。


1971年シーズンのカンナム、シフェールと917/10はシーズン半ばというハンデをものともせずに68ポイントを挙げランキング4位に食い込んだ。上位3台は2台のワークスマクラーレンと1台のワークスローラ。まったくの新型レースカーによる参戦としてはまあまあ納得できる結果だったといって良い。そして翌1972年、確かな手応えを掴んだポルシェは大量の917/10と共にシリーズの制覇に乗り出すこととなった。


1972年度カンナム開幕戦モスポート。そのスターティンググリッドには3台の917/10が並んでいた。そこでデビュー戦でポールポジションを取ったのは久しぶりの参戦となったペンスキー・スノコ・レーシングのマーク・ダナヒューに託された917/10Kだった。10KのKとは何か? 実はコンプレッサーの頭文字であり、917/10のニューモデルは新たにターボチャージャーを装着してきたのである。ターボ本体はエーペルシュペヒャー社製のターボユニットを使ったツインターボである。なおエーペルシュペシャーは後にその社名をKKKと改めることとなる。


開幕戦に現れた「K」は1台だけだったもののクオリファイ時のフルブーストセットで1000ps、パワーを抑えた決勝セッティングでも850psという大幅なパワーアップによって驚異的にスピードを披露した。ボディカウルもさらにダウンフォースを高めたフロントノーズと大型のリアウイングを加えた新型となり、その200km/h前後の速度域におけるダウンフォースは車重に匹敵する800kgに達していたと言われている。ターボ化に伴って車重は820kgに増大していたものの、パワーアップ効果はその増加分を補ってまさに余りあったのである。


1972年度SCCAカンナムは第2戦から917/10Kで参戦を開始したジョージ・フォルマーが圧倒的な強さを見せ初めてのチャンピオを獲得した。遂にマクラーレンの牙城は崩れたのである。これ以降917/10の参戦も増え続け、最終的には5台を数えるまでになった。5台の中で純ワークスはペンスキーの2台だけだったものの、他の3台もエンジンはワークスチューンが供給されていた。また第8戦のラグナセカまではターボエンジンの供給量が十分では無かったためペンスキー以外のエントラントはコースに合わせてターボとNAを適宜併用していたものの、最終戦のリバーサイドでは全車ターボとなった。純然たるプライベーターとして3年落ちの917PAを駆っていたサム・ポージーにまでターボエンジンが供給される様になったことから見て、プライベーターでもその運用が可能となる程熟成が進んでいたということであろう。


続く1973年、純ワークスのペンスキーには最新型の917/30が供給されることとなり、前年に大活躍した917/10勢はその大半がターボエンジンを搭載した上でプライベーターに供給されることとなった。開幕戦のモスポートにおけるそのラインナップはジョディ・シェクター、ジョージ・フォルマー、チャーリー・ケンプ、ハーレイ・ヘイウッド、ハンス・ウィドマーというもの。この他にNAエンジンの910/10を駆っていたスティーブ・ダーストがいたものの、こちらは途中で乗り換えている。ちなみに917/10Kといった具合にターボエンジン搭載車についてはKを付加した表記は一部のエントリーリストなどで見られた識別のための表記であり、ポルシェ側の正式な車名はいずれも917/10でありKの表記は付加されなかった。


1973年のカンナムにおけるポルシェ917勢の中で、ワークスの917/30だけはフルブースト1200psの5.4リッター仕様を搭載していた。この5.4リッターユニットはシーズン半ばには他の917/10勢にも搭載される様になったともいわれているが、その詳細は明らかにされてはいない。なお今回紹介しているレースナンバー59のハーレイ・ヘイウッドはチャンピオンを獲得したフルワークスのマーク・ダナヒュー、そしてダナヒューに次ぐ存在だったセミワークスのジョージ・フォルマーに続いてランキング3位を獲得していた。この成績は純プライベーターとしては最上位であり、翌1974年も917/10と共に健闘している。そして1990年代まで歴戦のポルシェ使いとしてその名を轟かせることとなるのはご存じの通りである。