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1929 ブルース ウッドワード スペシャル

1929 BRUCE WOODWARD SPECIAL

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ


タイトルには車名を表記しているものの、実はこの小さなレースカーには正確な名前というものが存在しない。このクルマが現在収蔵展示されているサクラメントのカリフォルニア・オートモービル・ミュージアムにおいても案内表示板には「1929 American Race Car」と表記されているだけである。


このレースカーはいわゆる専門メーカーの作ではなく、初期のスピードウェイレーサーだったブルース・ウッドワードがハンドメイド&ワンオフで製作したスペシャルだった。もちろん同型車などは他に一台も無く、社外から調達したのはハル・ホスターマン製の「HAL DO(ダブルオーバーヘッドカムの略)」ことDOHCヘッドのみだったと言って良いだろう。


1929年という製作年を踏まえて気になるのは何と言ってもそのDOHCエンジンだろう。この当時、欧米には既にDOHCエンジンが幾つか存在していたが、その多くはグランプリレースカー(今でいうところのF1)用というもの。対してアメリカではインディカー等用にグランプリカー用エンジンに準じたパフォーマンスのミラーやデューセンバーグ等が供給されていた。その一方でアメリカには当時大量に国内流通していたフォードのT型やA型用の直列4気筒シリンダーブロックを対象とした、レース用DOHCチューニングシリンダーヘッドが幾つかのコンストラクターからキットパーツとして供給されていた。


1920年代という早い時期にレースカー用市販チューニングパーツとしてDOHCヘッドが既に供給されていたという事実をどう見るか。実はその背景には現代にもその名が広く伝えられているとある男の挑戦があったことは、当のアメリカのヒストリックモータースポーツ研究者以外にはほとんど知られていない。


クルマは好きだがアメリカ車には疎いという人でも「シボレー」という名前くらいは聞いたことがあると思う。それはアメリカ車を代表するビッグブランドであり、GMの中核を成す存在でもある。このシボレー(シヴォレーと表記した方が良いのかもしれないが、現在の主流であるシボレーに以下は統一したい)と市販DOHCヘッドには実は極めて深い関わりが存在している。まずはシボレーのショートヒストリーから話を進めたい。


シボレーというブランドの由来となった人物の名をルイ・シボレーという。正確にはガストンとアーサーという2人の弟を含めたシボレー・ブラザースなのだが、業績としてはルイによるものが圧倒的に多く、現代ではガストンとアーサーの名は忘れ去られつつある。 ルイ・シボレーは1878年12月25日、スイスに生まれた。父親はスイスの地場産業でもある時計工業を支えていた腕利きの時計職人だった。1883年、弟のガストンが誕生、これを機に一家はフランスへと移住した。


少年時代のルイは父親の影響を受けて機械全般に深い興味を示していたという。ただしその対象は時計ではなく、当時やっと大衆の間に普及し始めていた文明の利器としての自転車である。ルイと彼の弟達は自転車を熱心に弄ることで乗り物の何たるかを学んでいったのだが、そうこうしているうちに、今度は市場に自転車をベースに小さなエンジンを搭載した初期の自動車が登場するようになった。


ある日、ルイは近所の馴染みの自転車店で1.25HPのエンジンを搭載したド・ディオン・ブートンの3輪自動車を見た。彼はこの新しい時代の乗り物に魅せられていった。強い興味は他のどんな動機よりも勝る。強い動機に背中を押されたルイは、独学でこの小さな3輪自動車の構造をカンペキにマスターしメカニックとしての道を歩み始めたのである。


1900年、一家は新天地を求めてカナダのモントリオールへと移住した。そして程なくアメリカはニューヨーク州ブルックリンへと移り、ルイは弟たちと共にここでド・ディオン・ブートン社のアメリカ代理店を営むこととなった。すでに一人前のメカニックとして生計を立てていたルイとその兄弟達にとって、次なる課題は商品の宣伝だった。ここでルイが選んだ道はようやく盛んになり初めていたレースへの参戦である。1902年にはフィアット社の代理店兼も得たシボレー・ブラザースは、一躍レーシングファミリーとしてその名を轟かせていくこととなる。


1906年、ルイは請われてペンシルバニア州フィラデルフィアに住んでいたウォルター・クリスティの元で画期的なFFレースカーのテストドライバー&エンジニアとして同車の熟成に努めた。しかしこのレースカーは熟成の見込みがほとんど立たなかったことから翌年には職を辞して戻っている。


次にルイに声を掛けたのは当時デトロイト近郊に点在していた自動車メーカーを統合し、巨大メーカーとするビッグビジネスを目論んでいたウイリアム・デュラントだった。デュラントはルイのテストドライバーとエンジニアとしての腕と経験を高く評価し、彼が実現に努力していたGM(ジェネラル・モータース)の中核となるべきブランド、ビュイックのテストドライバーとして招聘したのである。


ルイは与えられた仕事に対して期待以上の結果を残した。しかし会社が軌道に乗り始めた1911年になるとデュラント自身が社内での権力闘争に敗れてGMを追い出されてしまったのである。そんなデュラントにとって切り札だったのがルイである。デュラントはルイを誘って共に独立した自動車メーカーである「シボレー」を設立。彼を追い出したGMに一泡吹かせようと目論んだのである。


ルイは「自身が理想とするクルマを自身のブランドで作ることができるなら」とデュラントと共に歩むことを決心した。しかし2人の良好な関係は長くは続かなかった。攻撃的な性格の経営者だったデュラントと、炎のような熱い走りのレーサーであり生粋のエンジニアだったルイはことごとく対立。そしてローコストな量産車の開発に嫌気がさしたルイは1913年に自身の名を冠した自動車メーカーを去ることを余儀なくされたのである。その後、デュラントは1916年になると自動車メーカーとして成功の兆しを見せ始めたシボレーを携えてGMの経営陣に復活することとなる。


前置きが極めて長くなってしまった。ここからが今回の本筋でもある。シボレーを後にしたルイは、兄弟達と共にレースカー&レースエンジンメーカーの「フロンテナック」を立ち上げた。この時点で自身の姓だった「シボレー」はGMの商標であり彼らが使用することは許されなかった。フロンテナックの主力商品は当時大量に普及しつつあったT型フォード用のエンジンチューンナップキットである。T型フォードのサイドバルブユニットにボルトオン装着できるルイのSOHC/DOHCシリンダーヘッドは、主としてオーバルトラックレースで高く評価された。しかしあくまでレースエンジンとレースカーの開発にこだわったルイの経営姿勢は、会社を大きく育てる上ではマイナス以外の何物でもなかった。


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ルイとその弟たちは1920年代を通じてレーサーとして、そしてレースカーコンストラクターとして名声を蓄えていった。その結果、1920年代半ばには相当のレベルでフロンテナックを参考とし極めて大きな影響を受けた後発メーカーの製品(コピーともいう)がレース界を賑わせることとなった。今回紹介しているレースカーに搭載されているHALなどはまさにその代表であり他にはギャリヴァン、グリーン、ラジョー、ロベリー・ルーフといった当時のキットフォームDOHC/SOHCレースエンジンは、残らずフロンテナックの影響を受けていたと言って差し支えない。しかしこうしたことが逆にフロンテナックの経営を圧迫したこともまた事実であり、その開発技術力はともかく健全な経営センスに乏しかった兄弟ゆえ会社の経営は常に苦しく、1930年代に入ると航空機エンジンの開発にも着手したが、結局完成することはなかった。


1941年6月6日、ルイ・シボレーは62才でこの世を去った。晩年は家族にも先立たれ、寂しい最後だったといわれている。現在、シボレーは揺るぎないGMの大看板であり、そのルーツがルイ・シボレーという名のレーサーであるということも一部では良く知られている。しかしそのルイが自動車メーカーとしてのシボレーと共にあったのは、シボレーがGMの一部となる以前のわずか3年足らずの間だけだったという事実が顧みられることはほとんど無い。加えて1920年代のアメリカというある意味モータースポーツの創生期において、華やかだったグランプリレースとは一線を画するある意味グラスルーツ的カテゴリーを対象に精緻なDOHCエンジンが供給されていたこと、そしてそのバックグラウンドに存在していたのが「シボレー」だったという事実こそは不思議な縁が紡ぎ出した興味深いエピソードである。










1937 フォード カニンガム タウンカー

1937 FORD CUNNINGHAM TOWN CAR

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フォード、それは言うまでもなく大衆車の歴史において偉大なる成果を記録しているパイオニア的ブランドの一つである。そして現在でこそ総合自動車メーカーとしてさまざまなラインナップを構成しているものの第二次世界大戦以前、特に1908年に登場したモデルT以降は高性能高品質しかも低廉な価格をセールスポイントにアメリカは元より世界の自動車市場に君臨していた。良いものをできるだけ安く。それがフォードが目指した企業戦略に他ならなかった。


しかし長いフォードの歴史の中にはこうしたフォードの社是に必ずしもマッチしないモデルも社外製品という形で存在していた。それが今回紹介する1937年型フォード・カニンガム・タウンカーである。製造したのはカリフォルニア州サクラメントにファクトリーを構えていたコーチビルダーのジェームズ・カニンガム&サン・カンパニーである。ベースとなっているのは85hpの221cu:in V型8気筒サイドバルブを搭載したモデル78。おそらくステーションワゴン用と思われるシャシーには当時のアメリカで「タウンカー」と呼ばれていた一種のリムジンボディが架装されていた。


タウンカーというのは、フロントのショーファー席がオープンコクピットだったのに対して、リアには独立したクローズドキャビンが設けられていたという馬車時代からの伝統あるスタイルが特徴だった。同様のスタイルはヨーロッパにおいてはセダンカ・ドゥ・ヴィルと呼ばれており、ある意味通常のリムジンとはまた違った意味でのフォーマルカーとして非常に保守的な層から支持されていた。


ジェームズ・カニンガム&サン・カンパニーは1882年に創業した。ジェームズの代になったのは4年後の1886年のこと。当初はいうまでもなく馬車製造業であり、その営業品目を自動車のボディにまで拡大したのは1907年のことである。これ以降、カニンガムはサクラメントを中心とした西海岸における代表的なコーチビルダーの一つとして、主として極めてフォーマルなリムジンを中心に架装して行くこととなった。ちなみに顧客名簿の中には映画俳優のハロルド・ロイドや新聞王のウイリアム・ハーストなどの名前を垣間見ることができた。1920年代半ばにおけるカニンガム・リムジンの価格は5000ドルから10000ドルというもの。これは同年代のキャデラックのファクトリーモデルが3000ドル前後だったことを考えると相応に高価だったといえる。


しかしご多分に漏れず1929年の大恐慌の影響でカニンガムの経営は急激に悪化、本丸というべきリムジンボディの架装からは1931年を最後に撤退することを余儀なくされた。そんなカニンガムが再起を賭けたビジネス、それが今回紹介している様なベーシックモデルをベースとしたリーズナブルなタウンカーの製造だった。その価格は2600ドルとベースモデルが700ドル前後だったフォードとしてはそれなりに高価だったものの、キャデラックやリンカーン、そしてパッカードなどをベースとしたフォーマルリムジンが10000ドル近くもしたことを思えば遙かにリーズナブルだったと言って良いだろう。


しかしいくら価格を安く抑えたところで当の主要なユーザー層にとってフォードベースのタウンカーは必ずしも魅力的には映らなかったことは想像に難くない。その結果、カニンガム・タウンカーは少数の生産を記録しただけで歴史の中に消えて行くことを余儀なくされたのである。現在、こうして生存が確認されている個体は極めて貴重である。


最後に同年代の本格的なタウンカーというべき1940年型のリンカーン・コンチネンタル・ブルン・タウンカーの写真を紹介しておこう。前年までのモデルKから大幅にダウンサイジングされてはいたものの依然としてリンカーンのトップモデルだったコンチネンタルのシャシーをベースにコーチビルダーのブルンがボディを架装したこの個体は、他でもないヘンリー・フォードの妻だったクレア・フォードの専用車として製造されたという歴史を持つホンモノのプレステージモデルである。この年の生産台数はこの個体を含めてわずかに4台。その正確な価格は記録に残されていない。


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1939 パッカード スーパーエイト ダーハム デュアルカウルフェートン

1939 PACKARD SUPER EIGHT DERHAM DUAL COWL PHEATON

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パッカード、それはアメリカの自動車史の中に燦然と輝くブランドであり工業製品として理想を追求した歩みの記録でもある。パッカードはオハイオ州ウォーレンにおいて19世紀半ばからさまざまな工業製品ビジネスを手掛けていた名家だった。製材業、機械工具商、そして圧延製鋼業、電気事業などその活躍の場はまさに産業革命末期を象徴したものだったと言って良いだろう。


自動車メーカーとしてのパッカードを創業したのは、このパッカード家における二代目だったウイリアム・ダウドとジェームズ・ワードの兄弟だった。1890年から兄弟でパッカード・エレクトリックという電気会社を経営していた彼らは家業の傍らで19世紀末における最新技術の賜だった自動車にことの他強く心惹かれ、まずは同じオハイオのクリーブランドで創業したばかりのウィントン製のクルマを購入した。しかしその性能は満足できるものでは無く、このことが彼らの心の中に自動車メーカーの創業を強く印象づけるきっかけとなったと言われている。


1899年、二人は資本家を募りオハイオ・オートモービル・カンパニーを創設。パッカードは最初のクルマから採用されていたいわばブランドだったのだが、1902年に至り社名もパッカード・モーターカー・カンパニーへと変更された。


ここから先のパッカードは年を重ねるごとにその技術力を高め、1920年代半ばには押しも押されもしないアメリカにおける最良の自動車の一つに数えられるブランドへと成長していた。パッカードがその社是としていたこと、それは最良の品質を目指した揺るぎない追求であり、そのために設計と生産管理に妥協というものが存在しなかった。その意味では自動車の世界に初めて部品の完璧な規格化をもたらしたキャデラックに並ぶエポックメイキングな存在だったと言って良いだろう。パッカードのこうした技術者の良心というべき生産理念は、ある意味ロールス・ロイスに並び称されるものだったということは高く評価すべきことである。


さて今回紹介するのはパッカードにとってその技術力がほぼピークに達していた1939年型のパッカード・スーパーエイト。ボディはコーチビルダーのダーハムによって架装されたデュアルカウルフェートンである。それまでシングルシックスと呼ばれていた直列6気筒とツインシックスと呼ばれていたV型12気筒で構成されていたパッカードのラインナップにV型12気筒に代わる存在として直列8気筒のシングルエイトが加わったのは1924年型からのことだった。その後エイトは1928年型からバリエーションを増やし、同じ年には一時途絶えていたツインシックスことV型12気筒モデルが復活。さらに1932年型からはそれまでのデラックスエイト/カスタムエイトがスーパーエイトという名に統一された。パッカードにとってスーパーエイトはいわゆるパーソナルユースを想定した現代で言うところのスポーツモデルであり、ベーシックフォーマルというべきエイトとフラッグシップフォーマルだったツインシックス改めトゥエルブとの間に位置するミドルレンジモデルだった。


このことは写真を見ればわかって貰えると思うのだが、デュアルカウルフェートンというボディは、ある意味4ドア4シーターのロードスターというべきユニークな存在という意味でまさにフォーマルとスポーツの融合を具現化したものだった。一般にフェートンというボディ形状は基本は簡易型トップ及びサイドカーテン(ウインドウ)無しというある意味シンプルな形態こそが存在意義だった。オールスチールのセダンボディが既に一般化していた1930年代半ば以降はどちらかというとマイナーな存在であり、ややノスタルジックなイメージを感じることができるものでもあった。


その一方でフェートンの持つシンプルさゆえのスポーティーさを再評価する動きに応えて登場したのがボディデザインをスマートかつ前後シートの周囲をロードスター風にアレンジ。それぞれのシートの前方には独立したウインドシールドをセットしたその名もデュアルカウルフェートンだったというわけである。


ちなみにこの個体にはこうしたクルマそのものにまつわるエピソードの他にもう一つ興味深い事実が伝えられている。それはこのクルマのオリジナルオーナーの名前。実はこのクルマはアルゼンチン大統領としてその名を知られているフアン・ペロンとその妻である「エヴィータ」ことエヴァ・ペロンの愛車だったのである。


そういえばこのクルマ、デュアルカウルフェートンでありながら、リアシートには立派なサイドウインドウとフェートンの名には相応しくない完璧なソフトトップが仕立てられていることに気付く。これはリアシートに相応の人物が乗ることを前提としたデザインであり、ある意味ドロップヘッドタウンカー、もしくはコンバーチブル・セダンカ・ドゥヴィルといった方が相応しいボディ形状だった。当然その価格は極めて高価であり、当時の金額でおよそ10000ドル。これはスーパーエイトの標準レンジだった約7000ドルを大きく上回る数字だった。


余り知られていないことだが、実はエヴィータには無類のクルマ好きというエピソードが伝えられており、プライベートではマセラーティ他、さまざまなスポーツカーを所有し自らドライビングを楽しんでいたという。そうした彼女であれば、このパッカードの特徴的なコーチワークの意味も理解できるというものである。


エヴィータが亡くなりフアンが失脚した後、このパッカードはその所在が不明となりしばらく後に発見された時は相当に酷い状態だったという。その後、1970年代にアメリカ国内のコレクターに転売された折、レストアと同時にボディカラーを現在のライトイエローに塗り替えられ、ステアリングもオリジナルの右から左へと改められて現在に至っている。できることならオリジナルのボディカラーとステアリングに戻して欲しいところだが、現在の華やかな佇まいも悪くはない。


パッカードは第二次世界大戦中には名作中の名作とされた航空機エンジンのロールス・ロイスV-1650-1/3/5マーリンのアメリカ側ライセンス生産担当メーカーとなり、最終的には本家ロールス・ロイスを上回る生産台数を記録すると共に多くがイギリスに逆輸出されアヴロ・ランカスター爆撃機やデ・ハヴィランド・モスキート戦闘爆撃機と共に戦場の空を飛んだ。しかし自動車メーカーとしてのパッカードは戦後の新時代に対応することができず、1960年代の声を聞くことなく消滅を余儀なくされた。


ただし自動車メーカーの母体となった電気メーカーのパッカード・エレクトリックの方は1930年代の早い時期にGMの傘下に収まったことから戦中戦後は常にGMと共にあり、その系譜は現在の総合部品メーカーとしての「デルファイ」に継承されている。ちなみに現在アメリカにはパッカードを名乗る小さな自動車メーカーが存在しているが、それはブランドを継承した存在であり直系というわけではない。