1962 フェラーリ ディーノ 196SP | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

1962 フェラーリ ディーノ 196SP

1962 FERRARI DINO 196SP

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ


このフェラーリには複数の呼称がある。最初は248SP、その次は268SP、そして最後はディーノ196SP(ディーノが付かないとする説もある)。シャシーナンバー♯0806のこの個体は1962年にスクーデリア・フェラーリが運用するワークスレーシングスポーツカーとして生を受けた。


1950年代の終わりから1960年代の初めに掛けて、レーシングマシンの世界ではそのカテゴリーを問わず従来型のフロントエンジンに代わってミドシップが大きく注目される様になっていた。この流れに対してフェラーリは1959年の半ばから開発を進めていたミドシップフォーミュラの246F1を1960年シーズンに試験的に投入。続く1961年はレギュレーションの変更でF1の最大排気量がそれまでの2.5リッターから1.5リッターに改められたことを受け、本命中の本命である156F1を通じて大成功を修めることとなった。


一方、レーシングスポーツカーはいわゆるテスタロッサの系譜が熟成の極地にあり、ワークスドライバーの多くもそのハンドリングを好んでいたこともあり、なかなかミドシップの採用には踏み切れないでいた。しかし早晩レースカーの世界がミドシップオンリーになることが容易に推測できたこともあり、フェラーリは1961年シーズン用の2.5リッタークラスマシンから具体化に着手されることとなった。


こうした決定の背景に存在していたのは、既に開発が先行していたF1のシャシーデザインの基本レイアウトが流用できたこと。そしてサイズ的に3リッターオーバーのV12エンジンの搭載はハンドリングの面でリスキーという判断である。こうしてフェラーリ初のミドシップレーシングスポーツカーは2.4リッターのV型6気筒SOHCと共にデビューを飾った。シャシーは前述の通りフォーミュラの流れを汲むマルチチューブラースペースフレーム。ボディはジェスティオーネ・スポルティヴァによるシンプルなデザインのモノがファントゥッティに拠って架装された。


さて今回紹介している♯0806は6台生産されたこのモデルの最終生産車である。既述した通り最初に搭載されていたエンジンは2.4リッターV8SOHC。ちなみに設計本来時のエンジンである2.4リッターV6で無かった理由だが、この時代のフェラーリはたとえ同じシャシーであっても参戦するカテゴリーやコースごとにエンジンの異なる個体を用意するのが普通であり、より高速コースでの柔軟な運用を想定していたものと思われる。


♯0806は1962年のシーブリング12時間で実戦デビュー、総合13位で完走した。その後はヨーロッパに渡りニュルブルクリンク1000kmとタルガフローリオに参戦、後者では見事総合2位を飾った。なお1962年の後半からはエンジンをV12の3リッターとした新型ワークスマシンである250Pが完成したことでこのシリーズは二線級へと格下げとなり、エンジンを2.6リッターV8SOHCに換装、268SPとなった。ちなみに268SPとしてのレース歴は無い。


さらに程なくして北米にてセミワークス体制でSCCAスポーツレーシングとUSRRCに参戦していたルイジ・キネッティの要請を受けてエンジンを2リッターV6SOHCに換装したことで196SPへと型番が改められたのだが、このV6エンジンはエンゾ・フェラーリの息子であり新進設計者でありがら夭折したアルフレディーノ・フェラーリが残した基本設計をベースとしていたことから「ディーノ」のサブネームが付けられた。


北米に戦いの現場を移した♯0806は1963年シーズンをセミワークス体制で戦った後、シーズン終わりにはプライベーターに売却され1964年シーズン終わりまで幾つかのチームを経つつSCCAスポーツレーシングとUSRRCを戦った。しかし宿命とライバルというべきポルシェの追撃は著しく、元々がワークスマシンとはいえその戦闘力に陰りが見えてきたこともあり1965年シーズンを前にコレクターに売却され戦いの場からは引退することとなった。


基本設計が完成してからほぼ4年。優勝こそ記録できなかったものの充実したコンペティションヒストリーだったと言って良いだろう。ちなみにこの個体のステアリングを握ったフェラーリのワークスドライバーとしては、ペドロ・ロドリゲス、ロレンツォ・バンディーニ、ルドヴィコ・スカルフィオッティ、ジャンカルロ・バゲッティなどの名を挙げることができる。