保育園、幼稚園、小学校で使うお道具のお名前つけの大変さを軽減したいの話ね。






私が全然動かない。
すまんね…!

なんだどうした?
と観察していたのですよ。




どうも私はその前のところで
そもそも学校に行くことが前提で話を進めようとしているところが腹に落ちておらず、そのハートが怒ってストライキを起こしているようです。



私は「不登校」という呼び方があまり好きじゃなくてね。

不登校じゃなくて、家で勉強している人を「自宅学習者」という呼び方をしている人を見たこともあって、そのように言える心がいいなと感じている。

「学習は、学校もいい、学校以外の場でもいい。学校だけに限定しなくていい」
「学校に行けないんじゃない、ほかのところにいるんだ」
の心。

これは今まさに、だんだんと広がっているところだと思う。



社会のしくみ的には「学校」という形式も それなりに続くと思うけど、学校に行くか行かないかは選べるものであってほしい。

たぶん、これから選べるようになっていくというか、

深く考えずに「学校には行くものだ」とするのではなくて、どんな場で どのように学ぶかを考えて選ぶ意識が 私たちにどんどん育っていったり、
学校とは違う場での学習のしかたを大いに活用せざるを得ない状況が増したり
ということが起きてくる。

というか、既に起きている。


こんなふうに思っている節があるんだ。

私は学校に行きたくなかったけど(特に小中)、その頃に「学校に行かない」という選択肢を思いつくことができなかったのが 今になってやけに歯痒いのもあるかな(^_^;)

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今まで「こうするものだ」と思って深く考えずに 流されていたところを、自分で感じて 自分で考えて どうするか決めるのって すごく大変。

高校や大学でも進路を考えるのは大ごとなのに、小学校の年齢から 学校に行くか行かないかを考えるのって大変。


それは、山羊座から水瓶座へ、土星から天王星へということでもあるんだ。



「山羊座から水瓶座へ」「土星から天王星へ」といえば、時流と生きている感じでかっこいいし、ステキに聞こえる。

言うのはカンタン。

でも、
「天王星をやるのは」というか、
「土星から天王星への“変化”をやるのは」、今まで深く考えずに「当たり前」としていたものがあったなら それは「当たり前」がぶち壊される、えらいこっちゃなこと。


だから、「学校じゃなくてもいい」と いきなり大声では言いにくいところもあるんだけどね。




「お名前つけをしなければならん場に そもそも参加しない」というのを 選択肢の一つとして持てている

これをいったん経てからでないと、お名前つけについて 私は動かないかもしれん。




自分で言い出してさんざん騒いでこんなふうですまんね…!

ここに触れておかないと、「お名前つけの負担を軽減」というアクションそのものが 無駄になりそうに思えてしまってな。

私が動くようになったらやります。





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