『メイドインアビス』にボンドルドという登場人物がいる。
この画像の中央の黒っぽい鎧を着込んでいる人だ。

画像は公式ページより。http://miabyss.com/




ボンドルドのことをどう考えたら…
というところで、あれを見て以来 ずっとくすぶっている。




それは、言ってみれば
私たちの暮らしを支える技術や知識のための研究で、実験台になって死んでいった マウスや動物たちに対して、あるいはそういう実験についてどう考えるか
ということでもある。

その技術の恩恵を受けて暮らしている以上、私たちは少なからずボンドルドなのだ。




ボンドルドは、物語の中でおぞましい実験をするサイコパスのように描かれる。
それで、「ひどい」「人でなし」と言われることが多い。

でも、私たち自身も少なからずボンドルドなので、今の暮らしでぬくぬくしながら「ひどい」「人でなし」なんて思ってもいいのだろうかと考えていた。

しかし、その暮らしから抜けることは この社会のシステムから逸脱する覚悟がいる。


その辺りを真面目に考え出すと
今のままではいられなくなるので
私たちの多くは
そっと考えるのをやめ、目をそらす。

これを考えることは、自らを危険にさらす側面がある。
でも、考えないこともそれはそれで危険だ。
それをうすうす気づいているからこそ、そっと考えるのをやめ、目をそらすのであるが。




私たちのためにすさまじい実験をされて
あるいは酷い苦痛を受けて死んで食べ物になった者たちに
「ありがとう」と感謝をすればいい。
「いただきます」を言えばいい。
という考え方もあるが

そんな簡単なことで済むような酷さや苦痛ではないだろう。

「◯◯すればいい」「◯◯すれば問題ない」という考え方は、こんなふうに言ってしまって申し訳ない、どうにも浅はかに思えてしまう。
私たちが奪ったもの、いただいたものは、そんな安いものだろうかと。



しかし、
「現代の科学技術や文明の一切を捨てよう」
「全員で今すぐ根本から変えよう」
というのも どこか違うように思う。

いや、「やめよう」の考え方に賛同する人がゼロではないことはいいことだと思うのだが、それを全員にやらせようとするのは なにか違和感がある。

そこに意識を向ける必要はあれど…


動物を食べずに 植物を食べるという考え方もある。
「植物は、痛くないから」ということだそうだが、植物も痛むから、その理屈はそもそも通らないとも聞いたことがある。
(食糧問題や飢餓問題だけの範囲で考えるなら、肉食を離れることには意味があると言えるが。それだけの問題でもない)



最近、私は以前よりも食べなくても大丈夫になってきたので 以前よりも気がラクになったところはあるが…

これはどう考えたものか…
というのを ずっと考えていた。



これを真面目に考えると
「生命とはどうあるべきか」
「生命とはなんなのだ」
ということになってくる。

へんなお題かもしれないけどね。
生命は、どうあっても生命だ。
それをどうこう言って 型にはめるようなこともどうもおかしい。



でも、答えが出ようが出まいが、これについていろんな人の考え方を聞かせてもらったり、自分の頭で考えられるところまでギリギリいっぱい考えることは とても意義のあることだと思う。

心と頭の筋トレのようだ。





それで、
今日はボンドルドのことを思い出し、いつもよりもちょっとがんばって、あーでもない、こーでもないと考えていた。

こういうテーマは大変だし 考えるのもしんどいから、なかなか本腰入れて考えることが減っていた。

でも、自分の中で なんらかの結論を出しておきたい。
一生大事にする結論じゃなくていい。
今の自分がいけるところまでギリギリ粘って考え至った結論がほしい。
今の自分はどう考えるか、なにかしらの姿勢を持っていたい。




蠍座は、こういうのを考えるのに強い星座だ。

石井ゆかりさんの『蠍座』を読んだときに、
“蠍座はこういうことを考えることから逃げない。
だからこそ、誰かを助けたいと思うときに うわべだけの励ましではない、心の深いところから救おうとできる。
そんな声かけや姿勢に救われるものは多い。”
といった話があった。

私も太陽蠍座だ。
誇らしいような、しかし私だって逃げたいときは逃げたい。
考えるのを放棄してラクしたいこともある。
実際、私はよく逃げてラクしている。


でも、石井ゆかりさんがそんなふうに言うなら、もうちょっと踏みとどまって考えたい。




手塚治虫先生の『火の鳥』『ブッダ』を思い出した。

人間の私たちが 自分を差し出すぶんが圧倒的に少ないから、それでアンバランスに感じるのかもしれない。
それで、人間がズルく、ほかの生物から奪ってばかりに思えるのかもしれない。
ということを思いついた。

自分を差し出さずに いただくことばっかりしているから、人間は奪ってばかりになり、それでも許されるような理屈を構築しようと躍起になり
「『ありがとう』と感謝すれば どれだけとってもいい」みたいな理屈が生まれるのではないか。



私を食べてください
私で実験してください
私で土を肥やしてください
私を使ってください

のように、自らを差し出すなら
人間も循環の仲間になり
奪う・奪われる、虐げる・虐げられる
のような関係から解放されるのではあるまいか

私たちは、自らを差し出すことで救われるところが 少なからずあるのではないか
ということを思いついた。




正しいかは分からない。
まだ考え漏らしもあるだろう。

魂的、精神世界的には、もっと違うことも言えるだろう。生贄の意味の観点などから。


しかし今日は、精神世界の理屈や知識は抜きで 私が自分で考えられる 地球物質世界の視野の範囲でどこまでいけるか考えたかった。

私の知識の頭でっかちのところは、私の心の血の巡りがちょっとよくない。
そういう知識には、あんまり私が入っていない感じがするからな。

私が、「私の考えです」と言えるところで考えて話をしたかった。




今日の私が考えられたのはここまで。

数年後には また違うことを言うだろうが、
「人間も自らを差し出すなら…」という考え方は ちょっと気に入った。

みんなにオススメしたいわけではない。



たまにでも真面目にこういうことを考えないと、
自分が逃げてばっかりのようで
心苦しくなってたまらなくなるのだ。

そういう、ガス抜きのようなものだ。






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私はボンドルドの実験に自らを差し出したくはない。
だから、代わりにと言ってはなんだが、ゆるやかに違うものを差し出しているつもりだ。
きっと、差し出し続けるんだろう。