「今のお気持ちはいかがですか」
とある記者から聞かれたサッチャーさんは
「どうして気持じゃなくてわたしの考えは」
と聞かないのかとその記者をたしなめた。
考えは言葉になり、言葉は行動になり、行動は習慣になり、
多くの運命を運ぶやうになる。
気分や感情が飛び交っている。
気分や感情が消費され、課金され、
その間にも何か大事なものが生み出されるということもなく時間は飛びし去る。
ツイッターは140文字という。
フェイスブックは「いいね !」
さっぱりどういいのか、これもさっぱり分からない。
ロゴスは遠ざけられ、時代のパトスは不安の中に揺れ動いている。
理性的であること、
論理的であること、が難しい時代になった。
歌謡をはじめ物事にストーリーが無くなって来たのだ。
世間があり、世俗がある。
パンとサーカスが欲しいと云い張る。
世間は世間体であり、世俗は色、恋、慾、見栄・・・要するに自分である。
自由論から問いただせば、世間は世俗に負ける。
ところで今の首長の声から聞こえてくるのはどれもが世間である。
世間とは「空気」であるかもしれない。
世間とは時に時代のethosであるか。
そのやうにして日本は太平洋戦争に突っ込んでいったし、
なぜ、と聞かれれば、「あれはあの時代の空気が・・・」と
かなりの偉い人でもそう答えるばかり、回覧板や、隣組、村八分も確かにあった。
それにそれをメディアも手伝ったと云ふ。
終戦直後からは“左”のエートスがあった。
少なくとも60年代の終わりまでは革新でなければ正義じゃない、
あるいは左翼でなければ教養人ではない、というやうなところもあった。
原爆反対、沖縄復帰、安保反対、三井三池もみんなこの路線上にあった。
資本主義米帝国主義は諸悪の根源である。
ベトナム戦争反対。
まだまだ冷戦の中で暮らし、
西側の経済の中で活計を養ってゐる大人たちはおおいに困惑した。
ところがオリンピックが過ぎ、大阪万博が大盛況のうちに過ぎ去る頃には、
大団地が日本のあちこちに建ち、消費がくまなく人々の間にしみこみ始め、
集団就職で上京して来たみなさんも30代に、
同じように全共闘のみなさんも30代に、
一億総中流を実感し始めるころにはイデオロギーはとっくにとうにとろけ去ってしまっていた。
このなかにも時代のエートスがあった。
論理的であると思っていたが実はさっぱり論理的ではなかった、
なんてことは左翼の教養人の皆さまのことだった。
安保はパトスとパトスがぶつかり合い、角棒はロゴスを砕いた。
だが、おかげで多くのカウンターカルチャーが生まれたことも事実だ。
理屈じゃないのよ・・・
でもなるほど、世間智ばかりが長けても困るじゃないか。
正義、ばかりを云ふやうになる。
「福島の検証なしに再稼働はない」(泉田裕彦新潟県知事)
空気はどうなっている。
空気ばかりを読み過ぎてはいないか。
一方、李明博さんは
「資源がない我が国では原発は選択ではなく、必須だ」
と、一刀両断。
明確である。迷いがない。
「3.11」の直後、何億円かかけて全原発を再チェックを即実行したと聞く。
北朝鮮をすぐ隣に抱えたこの国では、原発も安全保障も同じ比重で、
逡巡すべきどころではない、ということだらうか。
泉田さんも、橋下さんも、嘉田滋賀県知事さんも、
電気やさんや政府ばかりにものを申すばかりではなく、
文明の首長の一角を占める者として、では
「自分の検証としてはこうなる」
こうであるならば前へ進むこともできると述べるべきである。
「解」を云わないで正義ばかりを掲げる人は卑怯で、
それでは責任を伴わない一般人の謂いと変わりはない。
この、李明博さんとの圧倒的緊張感の差はなんだらう。
「わたしが担ってゐる」、というほとばしるほどの明確な責任感の差だ。
何度も繰り返すが、
円も、ピタゴラスの定理も、
元素も原子核も中性子も、燃料棒も制御棒も、物理的な定義は一切揺るぎがない。
まるで穏やかで、美しく、神が決めたかのやうに厳然としている。
関越道でバスが事故を起こした。
人と資本(マネー)と法律の問題である。
H2Aがアリランを運んで宇宙空間に飛び立った。
資本主義が根底の基礎をなしてゐる。
北朝鮮の宇宙衛星は1分と持たずに空中で爆発した。
この国は資本主義国家ではない。
イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故(08,2/19)があった。
もうすでに忘れ去られゃうとしているが、
メカニズムの最先端の塊のようなイージスにだゾ。
原発は単純な仕組みである。
冷し続けること、
そして電源を消失しないこと。
猪瀬直樹が云ふ。
東電は腐ってゐる。
それは9電力全部のことかもしれないし、今の政府のことかもしれないが、
結局は原子、元素が間違っているわけではなく、
それに関わるあらゆる段階の組織のガバナンスの問題に端を発していると喝破したのだ。
独占は東電ばかりか北朝鮮政府もである。
企業のガバナンスは株主および株主総会、
或いは市場の競争から生まれてくる。
政府のガバナンスは本来選挙からではあるが、この選挙が年寄りばかりになってゐる。
世襲、独占からは腐敗しか生まれてこない。
即応とは何であるか。
お隣の韓国では即応とは(原発と北朝鮮)である。
ならば、原発の組織をこの下に置くことを考えるべきだ。
この下とは国家の安全保障を担う自衛隊の組織下、ということである。
非常に厳しい事故(テロ)ないしは災害(地震、津波)が発生した時、
水と電源、あるいは今回はベントの問題も関わるが、
誰が冷静に命がけで“猫の首に”鈴を掛けに行くか、である。
原発内で国家と民間のガバナンスを競わせるシステムを構築する。
問責決議の防衛大臣のことはさておいて、
日本の現場力というのは大したもので、
それは震災津波のあとで福島、三陸の諸処で見かけられた光景である。
検証は極端に云って水と電源と活断層の3点に過ぎないのである。
・水と電源確保に関しては120%の安全率で
・活断層の上に関しては早急に廃炉の方向で
・使用済み核燃料に関しては安全な場所に
(免震棟、堤防以前の問題)
因みに付け加えれば、
検証や組織図についてはおおかた「起きる前ないしは最中」のことであるが、
起きてしまった後のことでいえば、
事業主の無限責任はかえって非効率をもたらすと考える。
免責は当然あり得ないが、賠償責任は国にすべきである。
あとは今回も復興の妨げになっていた立ち入り禁止区域の個人の財産権の問題である。
どのようにして国家が買い上げ、どのように支払うか。
フクシマでも国家が買い上げることが出来ていたならば、
全部更地の後に太陽パネルでも敷き詰めることが可能だったのではないか。
そうすればその周縁に今頃は少しでも雇用が発生していたかもしれない。
線引きをいまの内に明確に出しておく必要がありそうだ。
また、災害ゴミや瓦礫を各県自治体で分かち合う方法も国家が法律で決めておく。
倉石智證
また内向きに