象の夢を見たことはない -304ページ目

ニュースの魅力

なんらかのハードなコンテキストをもった新聞記事とか社説とかは、残念ながら生まれてこのかた、日本の新聞ではみたことがない。それは、もはや日本社会からは発信できないのかもしれない。


いろんな英会話学校に長い間行っているといろんな先生と会う。

ときにわざと彼らの国からドロップアウトしたような先生を見かけることがある。

大学出の彼らは、ふだんはたわいない話をしているのだが、たまに日本の政治や宗教などについて一般の日本人も知らないことを知っていたりする。

国体と創価学会について、衆議院と参議院の関係について、自民党と民社党の確執と裏のつながりについて、などなど。


残念ながら、女の教師でそういう話ができる人はいなかった。

おそらく、興味の範囲が男と異なるのはどこの国へ行っても変わらないのだろう。

日本語を解さない彼らが、そもそもいったいそのような知識をどこで得るのだろうかと考える。

やはり、そういうコンテキストをもった内容を語れる彼らの国の人間が、日本国内から、彼らの国に向かって発信しているのだろう。

日本で発行されている英字新聞を読まないのでわからないのだが、もしかしてそれらの内容はすでに、日本の新聞などと次元が異なっているのかもしれない。


いま、残念ながら、英会話学校には行っていないし、なかなかそういう骨のある教師と出会うことは少ない。

もし会えたのなら彼らのニュースソースというものがどこから来たのかということを聞きたいのだが。。


JMM、今回の冷泉彰彦氏のUSAレポートは、オバマ対マケインの見所だった。

内政ついてはそれぞれの支持母体の民意の枠組みから自由になれないということで、そうそうおもしろい展開が期待できるわけもない。


では、ということで、冷泉さん、軍事外交の話をレポートの中心に持って来ていた。

これが、非常におもしろい。

イラクに関しては、反戦を叫ぶ民主党とブッシュ路線の継続を望む共和党という構図は、マケイン氏相手だとなりたたない。さらに、実は、逆に、アフガンに対する対応で、民主党のほうがテロに対する戦争から足を引き抜けない構図になっているという話なのである。


『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』『アイアンマン』という映画を絡めながら、巧みにそのあたりの裏事情の話をされているのだけれど、落合信彦氏のハードボイルド的な複数の思惑の絡み合いの様相が書かれていて、落合さんの小説が好きだった自分にとっては、読み物としても非常におもしろかった。


ニュースの魅力というのは、ニュースキャスターによって付け足される感情やら感想やらではなく、やっぱりある特定のコンテキストによって語られるコンテンツの魅力だと思う。


日本語で発信されないこと。おそらく、まだ外国語がダメダメな日本人にとって、なんらかの日本のおもしろいものが見たり聞けたりするのは、いまや外国語で語られる媒体だけだったりするのかもしれない。


明日、丸善書店にでも行って英文雑誌、探してみよう。

はい、ご察しのとおり、ただ、英語を読む気を自分の中で掻き立てるための弁明ですが、なにか。

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神ブロマイド

Swades、届いた。


swades


お、カッコええ。レジメンタルストライプでブルーのシャツ。できるってカンジじゃない?


早速、ちょっと見た。

しょっぱなのインディアン・エアで思い出した。

そう、インド、そんなに甘くはないのである。


インディアンエア、あり得ん!

インド、たぶん関わった人は愛憎が交錯する国なのだが、私はしょっぱなは、シンガポールでインディアンエア乗り換えだった。

今考えれば、時刻どおりだったことが奇跡である。

いや、あれはもう遠い昔。。時刻どおりだったこともさだかではない。


インドの洗礼は、空港で始まる。いや、あれはすでに飛行機の中で始まっていたのか。


バンガロール国際空港に降り立つ。

国際空港?国際空港なのかこれが?

床のタイルは薄汚れ、天井はパイプむき出し。

蛍光灯はついているが、ついている分だけ薄暗くかんじる、殺風景なロビー。

ターンテーブルをまわってくるスーツケース。

白いチョークでバッテンが書かれている、黒いファブリック地のスーツケース。


「えっ?」


自分の荷物ではないのだが、目を疑う。

おいおい、チョークで書くか、普通。しかも布に、じか書きである。

両替所では、客を押しのけて、我先にとばかりのインディアンエアのおばちゃん。

そう、デスのおばちゃんたちである。


日本からは、シンガポールエアラインだった。

あの原沙知絵似のスッチーは、はるか幻。。

そう、それこそが洗礼の始まりだったのだ。。


空港を出たら出たで、駐車場、鼻ぢを出しながら殴りあうインド人が。。

あとは推して知るべしである。


だめなやつは絶対だめ~。

あかん、拒否るぅ~~~~~~~~!!帰るぅ~~~~~~~!!

とき、既に遅し。サイは投げられた。


でも、実はいつまでも、そういうインドであって欲しかったりするのだ。

ドリフの国インド。

落ちはあるが、フォローなどはない。まったくない。。

いや、でも結構そーでもない。。暑い、くさい。。でも、それでもオモロイ。


そういうインドを思い出してしまった。

そして、このDVDに同封されていたのは、コレ!

ブロマイド


インド人、泣くコもだまる神ブロマイドである。

ええーい、ひかえぃ、ひかえぃ、ひかえおろー。


楽天でDVD注文したのだが、ティラキタさんに注文が行ったようで、DVDと一緒に入っていた。

あ~、もしもし。。マニアックすぎである。。飾っておこう。


私が、バンガロールで最初に入ったアパート、台所には、バラジさまの神ブロマイドが。。なんじゃこりゃ。

インド人の神ブロマイド好きは、ビックリマンチョコシールなんて目じゃないのである。

大人も集める神ブロマイド。

南インドの一番人気はバラジさま。ゴービンダ♪ゴービンダ♪

はあ。ときどき、ついていけません、インディア。

男の結論、女の結論

なんて書くと、ステレオタイプの見本みたくなるのだが、スキーマ的に言うとそうなってしまう。


私たちがモノや事象をみる場合、意識下でそれをカテゴリー化する。

ただカテゴリー化するだけでなく、物理的な形状や状況、時間的な配列を一般化し、それをもカテゴリー化する。いろいろな経験を重ねるごとに、そのメタカテゴリーは平均化されてひとつの抽象的な記憶の枠組みとなる。

これが意味記憶の形成過程で、この枠組みを認知科学的にはスキーマと呼ぶ。


このカテゴリー化は、社会システムや文化、世間などのトップダウン的(概念的)なものと、その人がもつ知覚的、遺伝的特長に起因するボトムアップ的なものとの動的な関係で形成される。


『なるほどの対話』(新潮文庫)を読んでいた。

なるほどの対話 (新潮文庫)/河合 隼雄
¥500
Amazon.co.jp

河合隼雄さんと吉本ばななさんの対話なのだが、どうもつまらない。


実は、河合さん自身の本も教科書と対話集以外はあまりおもしろいとおもったことはない。
河合さん、日本人の中空構造とか言われているのだが、なんだかそれ自身、河合さんにあてはまるようで、コアなもの、たとえばユング心理学について書くとかいうようなものがない場合は、中身が中空なのである。
対話集は、対話者がコアになる。対話者にひっぱられて、コアができる。


でも、それも相手による。ひっぱられ具合で、内容がのびのび、要領を得ない女の人の話を聞いているような感じになったりもする。一人の対話者を決めての本だと、どうもそうなるようで、たぶんカウンセリングもそのようなものなのだろう。


そんな本なのだけれど、この本の中で、吉本さんがこんなことを言っていた。


吉本:私も、そういう、ちょっと調子の悪い人とお話する機会がありますが、「うまくいった」と思うと絶対だめですよね。私は素人ですから、何かの相談にのっているわけではないのですが、「ちょっと調子が悪い」という人と電話でお話をすることが多い人生だったので。でも、いつも、それは、思う。素人でも思う。「こっちも感動して、相手も感動して、よかったー」というときは、絶対だめ。ぜんぜんだめ。「どうでもいいよ」という感じで、だらーっといったとき、あとでヘンにお互いに癒されていたりする。


向田邦子さんのエッセイと短編集をよんでいると、やはりそういう癒され方をする。

話はあっちへとびこっちへとび、あらためて考えてみれば、なんだかどうでもいいような日常のたわいもない話だったりする。結論とかコアなんてない。

『あ、うん』も読んだけれどなんか、だらーっと話は続いていくのである。ただ、向田さんの本は、中身が面白いので、ずーっと続けて読んでしまうのだけれど。


もとへ戻ろう。


男の結論と書いたけれど、男の場合、生理的にもそうなのかもしれないが、はやく結論を出したかったりするようで、だらだら話をするのが嫌い。筋道が立たない話は嫌。

逆に女の人の場合は、話をすること自体に目的があって、結論はどーでもよかったりする。

人によるのだけれど、そういう傾向はあるようだ。


と自分自身のことを考えてみても、こんな感じで男の方はスキーマで話を片付けようとする傾向がどうしても強かったりするのかも知れない。現実的な、というかすぐに結論を求められる場合には、そういう処理能力はどうしても必要なのだけれど、結論が出ないような問題のほうが、それこそ実は現実には多い。
インテグレーションポイントなどない、なんかかんかあるけどうまくやっていけてる、あるいはうまくやっていけてない、方法論なんてないような問題。そういう問題の対処というのは、女の人のほうがうまいんじゃないかとときどき思う。


村上龍のエッセイやRVRも見てても、彼は独特の切り口をもっているのだけど、決して彼が出している結論は実情にあっているわけではない。
結論の出ないようなものをわざわざ問題にしているし、それは彼の本質が小説家だからなのだろうけれど、それはとりあえずおいて置いたとしても、言ってることに飛躍もあるし、ものを一面的にしか考えていないところがある。けれど、それも含めて言いたいことと言ってる事がわかりやすい。
ばっさり切捨てて、小林秀雄もそうなのだけど、その切り捨て方があまりに見事で、たぶん言ってる本人も感動してるのだろうけど、こっちも感動して、「よかったー」っていう感じが好きで読んでいるのだが、そういうのは実はうそくさかったりするのを、アンチの人は見破っているのだろう。


村上春樹が好きで村上龍がきらいという人は多分そんな感じだと思う。

「そんなに世の中単純じゃない。キミからはみだしたり、こぼれたりしてるものは多いよ。ばっかじゃない?」と。
逆もまたそうで、村上春樹が嫌いで村上龍が好きっていう人は、

「うだうだしてたって、前には進めない。ぶった切って進む。それで問題が起これば、またぶった切ればいいだけじゃん。結論出さずにいてなにが面白いのよ?」と。


『なるほどの対話』。「どうでもいいよ」という感じで、だらーっといって終わっていて、だから結論はなんだよ。とも思うのだけれど、あとでなんだか癒されてたりする。
河合さんは、この本の中でご自分のカウンセリングについてこう言っていた。


河合:その人がいちばん聞きたいこと、いちばん言いたいことに答えねばならないと思っていたら間違いなんです。


どっちもどっちだけど、やっぱりどっちも必要なのだと、欲張りな自分はそう思うのである。

という見解。ど~でもいいですよ♪


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『まいど』と言えば、私が所属してた大学のクラブでは、『まいど、おいど、でんぼー』と挨拶をする習慣がありました。さらにどーでもいい話ですね。はい。

Swades

2004年にインド内外で注目を集めた映画である。

Swades


Swadesとは、現在のインドで『国産の』という意味で使われる言葉である。スワデシ、独立前のインドの国産品奨励運動を意味する

主演はシャールク。この写真で真ん中に座っているのが彼である。


NASAでエンジニアチーフを勤めるモハン(シャールク)。子供の頃の乳母をさがして、かれの故郷に旅する。

電気さえもまともにこないインドの農村で、乳母と再会した彼は、幼馴染のギータとも再会し恋に落ちる。

そんなインドの農村で、彼は自分の技術を生かして、村人に光明を与えようとする。

衝突。インドの農村、慣習や考え方、生活を守りながら生活する村人を通じて、彼は自分探しをすることになる。やがて、村人から認められるようになるモハン。

その彼の旅の目的は、乳母をアメリカに移住させるためだった。

しかし、年老いた乳母は故郷を離れることはない。そしてギータも。モハンは一人でアメリカへ戻るが、村で過ごした日々が頭から離れない。そして…


有能な頭脳を持ったインド人が海外に流出している。

Swades。インドへ戻ろう。この映画は、そういう呼びかけなのである。


らしい。。


らしいというのは、この映画、わたしは見ていないからだ。

2004年12月、インドを去るにあたり、会社の日本語教師の女の子からCDを貰った。

それがこの映画のサントラCDである。


日本でサントラCDというと音楽的にはどうかっていうとこがあるけど、インドの音楽は映画で流行る。

そのため、日本とは逆のイメージで、サントラCDは映画のつけたしではないのである。力がこもっている。

ジャケ写もとても綺麗である。


綺麗といえば、インド人女子のきれいさ。下の写真は、CDジャケットの裏。ギータ役のGayatri Joshi である。

この映画がフィルムデビューとなる。


インド人女子


まじかよ。

そんなコがいるのである。


日本語教師の女のコは結構現地でモテていた。男も男前は多い。

そんな日本語教師のコたち、結構、はたで見てると恋愛中毒っぽく見えてたりもしたのだが。。

インド映画といえば、恋愛である。踊ったりとか、結構あり得ない感じだが、今、この音楽を聴いてこんな写真を見てると、そりゃ恋にも落ちるわなとそんなふうにも思う。


時間の流れを変える。

そういう力は自分ではなかなか生み出せないのだけれど、それを変える国があるのかもしれない。

いや、どこの国でもそうなのかもしれない。

けれど、それは生活しないとわからない。

時間の流れが変わると人も変わる。


自分も、日本語教師のコたちも、そしてこの映画もたぶんそうなのだけれど、かの地では、そういう流れにいやおうなく入る。

拒否してあがくか、受け入れるか。

自分はその両方に足をかけることになったのだけれど、両方に足をかけることでなにかが自分の中のなにかが変わったような気がするのである。


いろいろな葛藤がある。たぶん、これをくれたコもそういうものと日々戦ったり受け入れたりしていたのだろうと思う。それで、この映画に自分を写していたのかもしれない。同じ日本人として、そういうのがあってこのCDをくれたのだろうと思う。とんまな自分はそんなことなど今の今まで知らなかったのである。


帰国の前週にその会社に勤めてた日本人教師と日本人スタッフ全員にメシをおごった。これは、そのお返しだったりしたのだけれど、贈りモノにはそれぞれメッセージが込められている。自分が贈り物をするときもそうなのだけれど。。


受け取ったときには気づかない。

そういう流れというのも人生にはあったりするのだが、怠慢でそれを流してしまうようなことはこれからはしたくないと、今日心に誓ったのである。おっそー泣く

タイ仏教

去年、ペナン島に遊びにいったとき、ワット・チャヤマンカララームへお参りした。

タイ仏教の寺院である。それほど有名なお寺ではない。


ペナン島はマレーシアでももっとも華人の人口が多い。島の人口60万人の約70%を華人が占める。

そのため、中国寺院も多いのだが、このお寺もタイと中国式が入り混じった不思議なつくりのお寺である。


ねじゃか


クアラルンプールで友達が結婚式をして、その後、その友達の家族と何人かの日本からの式の参列者でペナン島へ観光に行ったのである。

ルー大柴的に言うと、新婚旅行にトゥギャザーである。

なお、しばらくしてから、友達夫婦はパタヤへほんとの新婚旅行に行ったので、一行も一安心である。


KLに住む現地華人が友達の旦那で、そのコの発案で皆でお守りを手首に巻いてもらおうということになった。

で、お坊さんの前に一人づつ座って、お布施をしてお辞儀をし、合掌して手首にサイシンを巻いてもらった。

たぶんサイシンで合っているとおもうのだが、糸をよって作ったミサンガのような紐を巻いてもらうのである。


感動したのは、来ていた日本からの参列者は、私より10歳くらい年下のコたちが多かったのだが、みなこういう状況では信心深くなることで、お坊さんに合掌しながら、サイシンを巻いてもらう姿が、妙に幼く子供みたいで、でもなにか尊く見えたことである。


普段は宗教などとは接点をもたないし、葬式とその後の法事くらいしか坊さんとは会わない。

京都や奈良や鎌倉の寺にいっても、観光であって、見仏だったりする。

あまり信仰というものに向き合うことはないのだけれど、なぜそういう姿を尊いと思ったのかと。


タイ仏教は、上座部仏教、南伝仏教で、小乗仏教と呼ばれる。

小乗仏教というと、「自分だけ成仏して他の人など知らん!」というふうに歴史で教えられたが、実際はそうではない。

釈迦の教えと戒律を守り、それを実践することが悟りへ至る道であるとする仏教であって、なにも、他の衆生など知らんと言っているわけではない。


お釈迦さまが信仰の対象であるシンプルな仏教なので、仏像とかも、やれ十一面観音だの、薬師如来だのなんてものはない。

見仏ファンには物足りないのだが、実際にお寺に行って、お坊さんにあうと、本来の信仰のかたちというのはどう考えてもこちらだろうという気持ちになる。


三尊像


三尊像というのも、なのでこんな形となる。みうらじゅん氏の見仏記を読んで、最初は小乗仏教、違和感があったし、教えられてた小乗仏教というのが、そういうものだったので、どうなんだろと思ってたのだけど、現地で実際にお寺にいって、お坊さんたちに触れると、やっぱり、なんかこっちのほうがほんとだよなという気がする。


そういうのがあって、友達が手を合わせる姿を尊いものだとおもったのであろう。

まだ、日本のお寺しか知らない人は、ぜひタイやラオスなどのお寺に詣でると良いのではと思う。

信仰心っていうのは、そんな悪いものではないということにあらためて気づくかも知れない。

どうも、そういうものまで、日本にいると汚れてしまうような気がする。

末法というのは、実はそういう世の中なのだろうとそんなふうにも思えるのである。