象の夢を見たことはない -302ページ目

野性的で冴えてる連中

井筒俊彦さんの『イスラーム思想史』を読んだ。

かなり、はしょって読んでしまったのだが、書かれてあるのはイスラーム思想史だった爆笑ひゃはは、バンバン


イスラム教と新プラトン哲学やらアリストテレス哲学やらが中心で、スーフィズムはあまり出てこない。

思想史はたいしておもしろくもないことがわかった。


哲学はもういい。飽きた。

井筒さんのスーフィーの関連の本のついでに読んだけれど、スーフィズム出てこないし、ユングの錬金術やらオカルト系の本もよんだけれど、神秘主義もなんか学術的な文章にすると肝心なエキスが飛んでしまうのである。


最近の大学のトレンドは、茂木健一郎氏が露出しまくっているのに現れてるように、どうも認知科学らしい。

いままでの人文科学を根本から塗り変える力があると目されているのはちょっと本を読めばわかる。

10~20年前の人文系の学問が、恐ろしい勢いで書き換えられている。そんな感じなのである。

人文科学のいろんなアラが明るみに出てて、人文系の学者に対してドSな自分的にはおもしろい。

というかある種、自分がMなのかも知れない。


デジャヴとかも、エピソード記憶とスキーマ認知間の記憶の干渉効果として実験的にもある程度確かめられたりしている。神秘的なものと考えられていたモノのベールもはがされつつあるようだ。


ちなみに、認知科学は日本にはロクな本がまだない。進んでいるのは、やはりアメリカで、日本人はこういうことを語る文脈はもっていない(村上龍ふう)。


しかし。。


滝田明日香ちゃんの『晴れ、ときどきサバンナ』をずっと読んでいる。

もったいないのでちょっとずつ読んでいるから進まないのである。そんな本は、ここのところ出会ってなかった。


今まで読んだ本としては、たかのてるこさんの『ガンジス河でバタフライ』とか『モンキームーンの輝く夜に』みたいなのに似ているといえば似ている。

だが、やってることのベクトルが違うのである。

というか、冒険具合が明日香ちゃんのほうがハードというかむちゃくちゃなのである。


でもどっちにも共通して言えるのは、旅しないと得られない偶然というのがちりばめられていることだったりする。

危機一髪というところで救いの手がどこからか伸ばされるのである。

あるいは動物的な直感が働いたりとか。

もう一回、同じことしろったって無理。自分だけでできるものではない。

そういう出会いとかタイミングのエピソードが目白押しなのだ。


ああいう体験を何度もしてしまうと、論理的に物事を考えるということができなくなるんじゃないだろうか。

よく女のコで、男でもそうだけど、ツキとか運でそういうのを片付けたくなる人がいるが、そういう気持ちはわかるような気がする。

そういうコたちは、だいたい物事に一生懸命なコが多い。動物的に集中力が働くコとか。。


というか、ああいうのは考えてわかるとか納得できるという射程範囲をはるかに超えているので、あれはいったい何だったんだろうと考えてもわからないのである。

しかも重なるときには、特に危機的な局面ではそういうことが何度も重なるので、どれが必然でどれが偶然なのかも考える暇がなかったりする。


そういう偶然のおもしろさというのは、さすがにまだ説明する文脈を認知科学も持たない。これからも持たないだろうというそんな予感がする。


どこまでがわかって、どこからか以上はわからん。その限界を知るために研究しているんだとカオス理論の実験をしている大学の先生が語っているのをNHKで見たのだけれど、たぶん、彼らが実験しているときにも、上で書いた明日香ちゃんみたいな経験をしているからだろうとそんなふうにも思う。

仕事してるときでも、必死なときにはそういうことが訪れることは、やはり誰にでも何度かは必ずあるだろうと思うからだ。


そういう経験をすることがやっぱり人生の醍醐味で、人のそういう経験を本で読んだり、聞いたりすると


おーっし、おれも一丁やったるで~


といつも思うのである。

と今日もまたあいかわらずポジティブぶるのである。


あ、バリであったそういう経験のことを書こうとおもってたのだが、それはまたいずれ。

じゃあ、また(村上龍ふう)

黄昏どうぶつえん

日曜の夕方のジム夕暮れ


シャワールームのどこからか、


「ふぃ~~~~」


「ふぉ~~~~」


熱いお湯の快楽に身をゆだねる、おっさんの雄たけびが。。


なかなか笑える。


ええ感じやー。ごっつええー。


お疲れっすおつかれ

勝負

マスターズの練習会に行ってきた。

ジムで、エアロバイク25分、筋トレ、トレッドミル4kmの後、プールで練習会にでたのだが、最後は、5名づつ2組に分かれてリレーをした。

アンカーだったのだが、タッチの差で


負けた。。泣き

くっそー。悔しい。むかつくー。


なかなか、こういう戦いを生活ですることはない。

悔しかったが、そういう気持ちというのは新鮮だ。


いや、そんなことはどうでもよい。

勝負は勝たなきゃ意味などない。


悔しい。むかつくー。あぁっ?!


あのタッチの差のあとの、哀れむような皆の目というのも、また倍、腹が立つ

この気持ちを真空パックしておきたいのだが、そういうのはない。


あまりに悔しかったので衝動買いしてやった。


ブルーハワイ


シロップかよ!

すぎ!


ビッグサンダーサンダー柄


サンダー杉山

大暴れすぎ!


コーラグミグミ


…


…。


あー腹立つ~怒


あー、なかなかええ感じや。

北大路魯山人

『北大路魯山人』白崎秀雄 中公文庫を読んでいるのだが、聞きしに勝る不逞な輩だったようだ。


春風萬里荘 に昨年行った。

存在も知ってたし、噂も聞いていた。しかし、実際の魯山人その人の作品との出会いは私にとってはそれが始めてだった。


まず最初に、酒井抱一の屏風にビビッた。

もうかすれてしまっているのだけれど、ガラスもなにもなしの状態で居間なのか客間に無造作に置いてあって、あんなにまじかに酒井抱一の作品を見たのは初めてだった。美術館でも、京都や奈良の寺院でもありえない距離だ。

あれは何の葉だったのだろう。筆にためらいもよどみも感じない。自然をあるがままに写した感じだった。

下絵を書いたあとにそれをなぞってかいたらあんな筆の感じは出ないと思う。


琳派というとかきつばた屏風とか光琳の紅白梅図屏風とか、あるいは扇子を散らした襖絵とか繊細なものを思い浮かべるのだけれど、この屏風にはそれを感じない。

魯山人作の器を見たあと、居間に入り、この屏風を見て、それが、魯山人の好みを如実に表しているように感じてそれで立ちすくんでしまったのである。


さらに茶室で、黒柿の床柱の豪放な使い方に圧倒された。

木肌を剥いて、古木を丸ごと使っていた。普通ならこんな使い方をすれば、嫌味なところが出ると思うのだけれど、使っている木の風合いがあまりに自然に出ているので、なんともいい感じなのである。


風呂場も見た。タイル地なのだが、窓を上部に大きくとり天井も高いので開放感がある。

窓枠の木組みとかがやわらかい感じなので、それだけ広くとも寒々しく感じない。一見して温かさがある。風呂は丸い釜でゆったりと浸かれる大きさ。

昔、人が一日の疲れを癒すのにはこんな風呂が理想だったのだろうなと思った。

機能的でありすぎると、風呂に入ってるときまで仕事のことや日常が入り込んできてしまうのだが、それはこの風呂に入っているときはないだろうとそんなふうに感じた。


洋間では、おおきな木がふんだんに使ってある。手斧削りの梁の棚板の豪胆な感じと木レンガを敷き詰めた床の手間の掛け方が対照的で、人間的な暖かさがある。


ただ庭については、所詮模倣だと感じたし、たいしたことはなかったのだが、それにしても、人の人格と、その手になる芸術や目やセンスというものがこんなにかけ離れるものなのかと鼻白むには十分なものだった。

冷たさは微塵も感じない。自然に向き合う人間の温かさ、心くばり、生活の暖かさまで感じるのである。


書は人なりというけれど、魯山人の書はその評価も高い。

書はよくわからないのだけれど、たしかに人の性格が出るように思う。せっかちな人はせっかちに、律儀な人は律儀に、大胆な人は大胆に。

そんなこともあって、いったいこれはなぜなのかと思ってたりもしていたのだけれど。


イメージスキーマ。

繰り返し生じる身体的体験、特に自分自身の体験から一般化された、具体化された認知構造をそう呼ぶ。

イメージスキーマは、知覚的経験と概念をつなぐもので、ここでいうイメージとは視覚的イメージであり、空間的、あるいは運動感覚の構成要素も含むらしい。

イメージは、知覚を抽象化したものであり、これらの抽象化されたイメージは、多くの知覚的経験をもとにして作られるのだが、それらが連結されてスキーマという構造体をなしていると考えられている。


そのイメージスキーマが働いているという認知形式は、視覚的なイメージと抽象的な概念の中間に位置するもので、視覚からはなれて、上方、下方などといういかなる特定の像もともなわない抽象的なものから派生することが多い。

イメージスキーマはある程度抽象的でしかなく、そのため、われわれはイメージスキーマに関連してイメージを形成できるが、そこで形成されるイメージには、厳密には視覚的でない構成要素があると思われる。


さらに、もうひとつの点、イメージスキーマには運動感覚の構成要素があり、特定の経験に対して身体的な感覚が表象されている。それらは、特定の身体的「感覚」を持つことができる。

そしてそれは部分的には潜在的な知識*1であることを示唆している。


イメージスキーマに対するわれわれの理解は、比喩的であることが多い。われわれは、自身の潜在的知識は直接的に表現することはできないが、それはときにメタファーを通してわれわれが持っている顕在的な知識と連結することができる。


メタファーは、なにも言語の使用を伴うものだけではない。自然言語で表現できないメタファーは、非命題メタファーと呼ばれている。それらは、音や、イメージ、香りなどあらゆる経験や記憶と結合する。


これまでずっと考えてブログで書いてきたことと 、認知科学の箇所がつながった。

本を読んでるときに、手に汗握ったのはほんとうに久しくなかったことで、しかもこういう経験は初めてである。

小躍りしながら読んでしまった。

音楽と記憶、高い本、たまには買ってみるものである。

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結局、見える化にしろ、暗黙知にしろ、あるいはイメージしたものを形にすることにしろ、なにかを習得する上で、

言語化しにくい、あるいは視覚化しにくいものというのが、このイメージスキーマであって、これがすべてのキーだったのである。*2


このイメージスキーマの発現のさせ方、あるいはイメージスキーマの深さと重層な構造は、その人の知覚と経験値、また本来の人がもつ本能的な認識と運動神経や訓練に依存するのだろうけれど、それはその人のもつ道徳の資質などとは関係などない。おそらく、そういうことだろうと思う。


書は人であって、人ではない。

なかなか、そのあたりの区別がわからないのは、「知」と「信」を混同しやすいのと同じなのだろう。


魯山人は、自然をメタファーする力というものが尋常でなかったのだろうと、要は知覚の問題なのだろうと、一旦そう思った。

だけれど、風呂場や応接間、家全体の佇まいを思い出してブログを書き直しているうちに、なにかやはりそれだけではないものを感じる。人間的な暖かさを感じるのである。


親を捨て、いじましく上を目指して算段をし、手段を選ばず人に取り入り、それも自分にとって一旦不要となれば即座に切り捨てる。人の手柄も自分のものとして横取り、かわりにその人を陥れる。

きれいな女といえば手を出して、飽きれば子供とともに捨てる。


人間というものは、やはり頭でわかろうとしてもわかるものではないのかもしれない。


*1 潜在的な知識

身体的な感覚というのは潜在記憶と強く関連している。潜在記憶は、多くの意識的な形式の記憶が発達する前から人間が有して持っていた、より古いシステムの記憶とされる。潜在記憶の内容は、意識的に調べたり、言語で表現できない場合が多い。

潜在記憶の一つが身体的な感覚と結びついた運動記憶で、ピアノの弾き方とか、すっきりしたのびやかな線を描くとか。こういうのはどうすればいいかを人に説明しにくいのだが、こういう記憶を処理するニューロン群は、ことばを処理するニューロン群と繋がりが無いらしい。よく学習された身体的技能の記憶は実際に神経系のより下位のその技能を使う筋肉により近いところに貯蔵されているとされる。


*2 これがすべてのキー

運動記憶、つまり実際に手を動かしてあるいは身体を動かしてという部分は、潜在記憶による。したがって、なにかを表現するという複合的な動作においては、イメージスキーマと潜在記憶の複合的な作用が必要なように思う。

知と信

アル・ガザーリー(1058-1111)は、「知」と「信」の領域を分けて考えた。

「知」は悟性の領域であるのに対し、「信」は信仰の領域である。知は厳密な証明によって何人にとっても同様に現れるものではならない。
ガザーリに在っては、知の領域は、5+2=7、「同一の物体は同時に二つの場所を占めることはできない」というような数学的な、論理学的な異議のない命題しか含まない。
そうでないもの、人々の間に異論のあるようなものは全く「知」の世界から排除されて悉く「信」の世界に入れられてしまう。だから、思弁的神学や形而上学は悟性的であるようで、実は信の世界に属するのである。
「もし形而上学が数学や論理学の如く、完全な論理的証明にもとづくものであるならば、形而上学者の間に意見の衝突は起こらなかったであろう」。幾多の仮説、異論、憶測を含む神学や形而上学は知の世界に入ることはできない。これらは信の世界に入らねばならぬ。
信の世界は雑然たる世界である。この信の世界の特質がどこから来るのか。それは信仰が個人の心の問題であるからである。個人はその体験の深浅により、また実践の大小により、それぞれ自分の信仰を獲得するのである。


ガザーリは言う。この二つは本質的に違ったものである。両者を混同することは許されない。知の世界は飽くまで知の世界であり、信の世界はどこまでも信の世界である。ところが世の思弁学者や哲学者は明らかに二つを混同している。そこに彼らの救い難い欠陥が存するのである。


長い引用を避けるためにはしょってしまった。

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